一、出逢いとお誘い
彼と最初に出逢ったのは、地元京都の大学でした。
欠伸が出そうな入学式の後、騒々しいサークル勧誘から距離を置こうと逃げ込むように入った大学図書館に、彼の姿がありました。
飾り気のない銀縁の眼鏡の奥から鋭い視線で活字を追う彼の横顔を見た瞬間、わたしの心拍数は跳ね上がりました。映画スターのような華々しさこそ無いものの、その知的で聡明そうな佇まいに、わたしは一目惚れしてしまったのです。
それからわたしは、講義の無い時間には決まって図書館へ足を運ぶようになり、本の背表紙を追うフリをしながら、彼の姿がないか探すようになっていました。
彼との距離が少し近付いたのは、それからひと月経った大型連休明けのことでした。初めて声を掛けたのは、彼の方でした。
「隣、いいですか?」
「ええ、構いませんよ」
「それじゃあ、隣、失礼します」
今日は居ないのかしらと諦めて自習コーナーで担当教授が監修した指定教科書を斜め読みしていたところだったので、驚きと共に跳び上がりたいほどの嬉しさでした。
隣に座った彼が、禁帯出の仏和辞典を横に、わたしと同じフランス語のテキストを広げたのを見て、今度は私の方から声を掛けました。
「あなたも、アンドレ先生のクラスなんですね」
「ええ。貴女もですか?」
「そうなんです」
アンドレ先生とは、生まれも育ちもプロヴァンスで、ニースに別荘を持っているという由緒正しい貴婦人なのですが、こと女子学生に対しては行儀作法にも発音にも遅刻にも厳しいので、同じクラスの女子のあいだでは、陰でこっそり「トレメイン夫人」と呼んでいました。
「あの先生、男子にばかり甘いから嫌になっちゃう」
「フフッ、それは知らなかったな。僕のクラスは、女子がいませんから」
「女子が少ない学部なんですか?」
「ええ。八割以上が男子なんじゃないかな」
そのまま話の流れでお互いの自己紹介をして、彼が理学部一年の雪村トオルで、わたしが文学部一年の深町ハルカだという情報を共有しました。
同い年だと分かってからは、会話口調こそ砕けたものの、それからしばらくは、学内で姿を見かける度に挨拶をしたり軽く世間話をしたりする程度の仲でした。彼との距離が更に近付いたのは、前期の定期試験期間最終日の午後でした。
筆記テストもレポート提出も終えたものの、何となく真っ直ぐ正門へ向かう気になれなかったわたしの足は、自然と図書館へと向いていました。
すると、彼の方も帰る気になれなかったようで、二階にあるリフレッシュコーナーで缶コーヒーを飲みながら寛いでいる姿を見つけました。
「試験は終わったの、雪村くん?」
「ああ、なんとかね。深町さんは?」
「わたしも、なんとか。まだ帰りたくないなぁ」
「どうして?」
「だって、家に帰っても、親から試験の手応えを聞かれるのが目に見えてるもの。もう大学生だっていうのに、いつまでも子離れ出来てないんだから。一階で小商いをしてるから、この時間は絶対に家に居るし」
「へ~、深町さんは実家通学なんだ。僕は下宿からだから、ちょっと羨ましいかも」
「いいなぁ、一人暮らし。わたし、自宅から通える範囲であることが大学進学の条件だったのよ。一人娘だからって、家に閉じめるのは良くないと思うわ」
「まぁまぁ、それだけ大事にされてるってことなんじゃないかな。僕は次男坊で、兄は早くに結婚してて、おまけにヤンチャな甥っ子もいるから、ずっと実家に居残る訳にもいかなかっただけさ」
「雪村くんの地元は、どこなの?」
「言ったこと無かったっけ? 和歌山のはずれだよ。ここからだと、列車で片道五時間近くかかるから、始発に乗っても一限に間に合わないくらい距離がある。鄙びた漁村で、目新しいものは何も無いところさ」
「でも、自然は豊富そうね」
「まぁね。海は綺麗だし、魚介類は美味しいよ。そういえば、こっちへ来てからは、ほとんど魚を口にしてないなぁ」
窓越しに隣の校舎の煉瓦と蔦へと視線を向けながら故郷を思い返している彼に対し、わたしが掛ける言葉を探していると、ふとこちらを振り向いた彼の口から、突拍子もない提案が飛び出ました。
「もし、深町さんさえ都合が良ければなんだけど……」
「何かしら? 頼み事?」
「うん、まぁ、そんなところ。毎年、お盆の時期に夏祭りがあって、僕にも手伝いに来るよう言われてるんだけど、若い人が少ないから盛り上がりに欠けるんだよね。それで、旅行気分で良いから、一緒に来てくれると嬉しいなって思ってるんだけど、どうかな? ……はっず」
言い終わった直後、彼は再び顔を窓の方へ向けてしまいました。きっと、慣れない誘い文句を口にした羞恥とバツの悪さがこみ上げてきて、わたしのことを見ていられなくなったのでしょう。
突然のお誘いに戸惑いはあったものの、わたしはこれを彼のことを知る好機と捉え、すぐにオーケーしてしまいました。もしも、ここでお断りしていたら、後々に辛い思いをしなかったかもしれませんが、同時に、深く誰かを愛することを知らずにいたかもしれなかったことでしょう。
なにはともあれ、冷静に状況を鑑みて、図書館のリフレッシュコーナーは込み入ったお話をする場所として適していませんので、この時は赤外線でお互いの連絡先を交換して、その後の段取りはメールで詰めることになりました。