3
温かな匂いと、包丁の軽快なリズム。
幸せな、夕方の匂い。
子供の頃の様だ。
あぁ、今日はようちゃんがいないから……。
「……」
……喉が。
……苦しい。
『違和感』
ここは……。
ゆっくりと、白いプロペラがまわっていた。
剥き出しの、コンクリートの天井。
部屋にしては、落ち着きすぎた照明……。
壁に掛けられた、黒板。
……アクアパッツァ、手長エビのグリル。
『……店??』
体をゆっくり起こす。どうやら椅子の上で寝ていたらしい。
テーブルに手を掛け、なんとか起き上がる。
……背中が痛い。
「大丈夫??」
「……」
後ろから、声を掛けられた。
短い髪。
もみ上げから続くひげは、軽く染められているのか薄い色をしていた。
白いコックスーツ。
袖は折り曲げられ、筋肉質な腕が見えた。
年は30代くらいだろうか、がっしりとした体つきをしている。
「よかったらお水。どうぞ」
心地良い、低めの声。
あぁ、そうだ。私はひどく喉が渇いていたんだった。
男は、水の入ったグラスを私にくれた。
受け取った手のひらが、ひんやりと冷たくて気持ちよかった。
一気に飲み干す。
微かに、レモンが香る。
「ところで、もう大丈夫なの?」
男はテーブルの向かいに腰掛け、空になったグラスに2杯目を注いでいた。
ゴツゴツとした手。
指先は水仕事のせいか、ほんのり赤みがかっている。
短い、爪。
「貧血かな?きみ。公園で倒れていたんだよ」
貧血?そうだ、今日は朝からほとんど何も食べていなかった。
佐藤くんと別れる前に、アイスティーを少し飲んだ。
それくらい。後はずっと歩き回っていた。
「あの……。ありがとうございます。助けて頂いて。でも、もう大丈夫です」
軽く頭を下げて、精一杯明るくふるまった。
「よかったら少し食べていかない?これから休憩なんだ。まかないだけど、結構おいしいよ。」
「……でも。」
「予定が無いなら食べて行ってよ。そうじゃなきゃ、僕はずっと心配だ。きみはとても細いし、顔色も悪い」
男は席を立った。
「実は、もう作り始めていたんだ。リゾットなら食べれるでしょ」
「は、はい。」
「野菜でなるべくあっさり仕上げようね。ちょっと待ってて」
男は湯気の立つキッチンへ向かった。
手際よく調理を始めると、ブイヨンの温かい香りが漂った。
「ところできみさぁ。名前は?僕は小西祐介。この店の2代目。っていっても親父が早くに死んじゃったから、しょうがなくね。実は、腕もまだまだってトコ」
小西さんは手馴れた動きで、リゾットを仕上げていく。
その無駄のない動きに、つい見とれてしまう。
「……私は田村希美です。駅の向こうの大学に通ってます。」
「のぞみちゃんか〜。もしかしてのんちゃんとか言われてる?」
「え、なんで知って……」
「そんな感じがしたからさ」
できあがったリゾットは、あっさりとしていて美味しかった。
私は小西さんにお礼を告げ、また来る事を約束して店を出た。
佐藤くんは、さすがにもういないだろう。
夕方。
混雑した駅。
私は誰に手を振る事もない。
ひとりで電車に乗り、ひとりぼっちの家に帰った。