愛は血よりも恋
「最近のあなたは、とても冷たいですね」
連絡もなくやってきたこの男は、開口一番そうのたまった。
眩しいほどの月明かりが美しい夜、気分良く目覚めた私の気持ちは一気に沈んだ。今日は休日。いつもよりゆっくりした時間に目覚め、いつもよりゆっくり食事を楽しもうと思っていたのに。せっかくの計画が台無しだ。
昨日から寝かせておいた肉も、この男が玄関どころか部屋まで吹き飛ばした際に巻き込まれてただの肉片になり果てた。腹は切なく鳴いているのに、食欲は消し飛び口の中は泥を飲んだ明け方のように苦々しい。
「ぼくの何が不満だと言うのです!?」
表情まで死んだ私の前に跪き、両手を広げたオーバーアクションで声を張るこの男は、心底、不思議そうに続ける。
「ぼくはこんなにもあなたを愛しているのに! あなたはいつからぼくを嫌うようになったのですか!?」
愛してる、なんてこの男にとっては口癖のようなものだ。初めて対面した時から長い年月が過ぎた現在に至るまで、この男はずっと私に言い続けている。聞き飽きた、というのが正直な感想だ。そして私が彼を愛した瞬間などない。一瞬も、存在しない。
「昔のあなたはあんなにも! あんなにも情熱的だったではないですか!」
なぜ、と演説めいた熱意は続いた。
「なぜ? 何があなたを変えてしまったのです!?」
私は変わらない。初対面の時から、それ以前から、私は少しも変わっていない。変わりようがない。
「私は昔から、君のことを心の底から煩わしいと思っているよ」
どこにいても、何をしていても追いかけてくる。
追いかける理由は到底、私の理解できるものではなく。追いかけられている私には、彼を拒む理由しかない。相容れないというのに、どこまでも追ってくる。いつまでも追ってくる。
逃げ回るのもバカらしくなって好きにさせていたら、今度は追い払うまでそばを離れなくなった。終いには弟にまでちょっかいをかけるようになり、しかたなく構ってやっているのが現状だ。
関係性こそ何度か変わったけれど、それ以外で変化したことはない。少なくとも私には、ない。
「粘着質が過ぎるよ、君は」
「すべてはあなたへの愛ですよ」
拒まれていると、いい加減に気づいてもいいだろうに。なぜこうも盲目なのだろうか。
最大限と言わんばかりの笑みを浮かべるこの男は、きっと真実を口にしている。昔から、自分には嘘を吐かない男だった。自分の感情に素直で、自分の欲望に忠実な男だった。だからこそ、心の底から気持ちが悪いと思う。
愛。愛が重い。愛の押しつけが過ぎる。
返事をしない私を見て、彼は肩を落とした。笑顔は途端に様相を変え、垂れ下がった眉はいかにも悲しみをたたえ、伏せられた双眸は今にも涙をこぼしそうだ。
ゆるく波打つ金糸の髪が頬にかかって、透き通るほど白い顔に影を落とす。長い睫毛が青い双眸を濃くし、どこか儚い印象を抱かせるほど悲しげな表情に拍車をかけている。
この男は顔の造形だけは良い。……その良さに興味を惹かれ話を聞いてやったのが私の不運の始まりではあるが、今はとりあえず隅に置く。口を開かず言葉を発さず、微笑を浮かべ大人しくしていれば、何もせずとも生きていけるような男であるのに。実にもったいない男だ。外面と内面、どちらかがどちらかへ少しだけでも歩み寄ってあげていれば、こんな人生歩まず済んだろうに。ついでに私の人生も、この男に害されず済むので快適だったはずなのに。
「……嫌な顔すら、してくださらない」
あふれんばかりの悲痛な声で、吐息のように言葉を吐いた。
「本当に、あなたは変わってしまった……」
血を吐くような言葉だった。けれど私は、そんな姿を見ても溜め息がこぼれるばかりだ。内面を知ってしまえば、この男の外面に騙されることなんてありえない。美しさだけで優しくしてもらえるのは、内面が伴っているか、内面の醜悪さを隠し通せる奴だけだ。この男は、そのどちらにも該当しない。
「変わったのは、君の方だろう」
まったく、呆れ果てる。
◇
ヴァンパイアハンター。
それが、この男の生業だった。かつて、この男は数多の吸血鬼を殺しまくり、殺し尽くそうとし、殺し終わることなく死んだ。私という一匹の吸血鬼に、殺された。
「迂闊でした」
ぽつり、とこぼれるように呟かれた言葉に、もう先程までの悲しみはない。口角は吊り上がり、光を失っていたはずの双眸は恍惚とした色で私を映して逃さない。
「あなたの手の内は全て掌握した、などと……。とんだ自惚れでした」
不意を突き、裏を掻き、策を弄し、奇策を講じ、ありとあらゆる手段をもって、私という一匹の化け物を殺そうとした男はしかし、あっさり私に殺された。
言葉通り、文字通り、肉を切らせて骨を断った。
「強さの先がまだあったなんて、予想もしていませんでした」
「体が真っ二つになれば、筋肉が腐ったゾンビだって俊敏に動いてみせるさ」
しれっと言ってみせるが、何のことはない。あの時は、びっくりしただけだ。びっくりして、反射的に襲いかかり、勢いのまま首筋に噛みついて血を吸った。
「まさか眷属にされるなんて、思ってもみないことでしたがね」
吸っている途中で冷静になった。この男の血を吸うことは決してないと思っていただけに、一度冷静になってしまったら続けるのは不可能だった。
不味かった。とんでもなく不味かった。泥水の方がまだ美味だ。とにかく味がしつこいし、臭いも濃い。鼻を突く生臭さで眩暈がした。飲み込んでもいつまでも舌にえぐみが残るし、喉に引っかかる粘度が煩わしい。まさしくこの男の血だった。吐き出さなかった私を褒めてあげたい。誰か私を褒めてくれ。
あの時、意地でも吸い終えていたら、今の私の生活はもっと気楽だったに違いない。
「あなたがぼくを愛しているのだと身をもって実感しました! まさかぼくの死を惜しんでくださるなんて!」
中途半端に吸ったのがいけなかった。散々、浴びた私の血のせいで、中途半端な吸血行為のせいで、この男は吸血鬼として、私の眷属として、第二の人生を歩み始めてしまった。私の人生、最大の汚点を自ら生み出してしまったことは、私の生涯ただ一度の後悔だ。今後、決して拭い去れない、永遠に続く後悔だ。
「ヴァンパイアハンターであるぼくをヴァンパイアに変えてしまうなんて! さすが意地の悪いことを考える!」
吸血鬼の主従関係は絶対だ。眷属は主人には勝てない。
一目惚れ。死そのもののような美しさに心底惚れ込んだ、と。初対面の私に言い放ったこの男は、ヴァンパイアに魅了された狂人だった。人間である自身を誇りとしつつ、人ならざるヴァンパイアを愛し、自らの手で愛する者を討伐することこそ自分が表現できる最上級の愛情だと言って譲らなかった。長い長い時間、愛を伝えるためだけに私を追い回した。愛を証明するためだけに私を殺し回した。
「あなたはぼくから愛を奪った。けれど代わりに、ぼくはあなたに永遠の愛を与えられるようになったのです」
支離滅裂。意味不明。出遭った頃から変わらないこの男の変態性は、不死となった今、不治のものとなった。後悔ばかりが募る。
「君の愛は胃がもたれる」
「ぼくたちの関係は血よりも濃いのです、我が主」
血は我々の生命線。命と同義。ならば、吸血鬼の主従関係は、血をもって成り立つこの関係は、なるほど確かに血よりも重い繋がりかもしれない。
けれど、と逆説をつけてしまうのは、もはや癖と言っていいだろう。
「君が言うと、やはり気持ち悪い」
「まあまあ、そうおっしゃらずに」
立ち上がり、私の手を取る。
触れられた場所から広がるように肌が粟立つ。この感覚にも、すっかり慣れてしまった。鈍らない嫌悪感はやはり薄れる気配もないというのに、嫌悪を表すことには飽いてしまった。拒絶するのも、もう面倒くさい。
「時間は永遠にあるのです。そのうち、ぼくの愛も伝わりますよ」
それはつまり、これからも永遠に、私の命を奪い取るその時まで。永い永い時間、私を追い続けるということ。
「勘弁してほしい……」
手の甲に落とされたキスを、黙って見つめる。殺すこと以外の愛情表現を覚えたのはいつだったか。愛が重過ぎて胸焼けするからせめて小出しにしろ、と言ったら存外、素直に頷いて。示すようになったのは、人間がするような愛情だった。
頬へのキスだとか、抱擁だとか、言葉だとか。半分は私が避けて失敗するが、抱擁などは成功したためしがないが、それでもこの男はめげずに挑んでくる。じゃれているつもりなのだろうか。だとしたら、私の後悔が一つ増える。
「君、わざとやってるのか?」
「ぼくはいつだって本気ですよ。ぼくはあなたを愛している。だからいつか、ぼくがあなたを殺します」
嘘偽りのない、真実の言葉。誠意すら感じさせる、愛の告白。無邪気な子どものような笑顔とセットでこんなことばっかり言うから、私はうっかり毒気を抜かれる。
一蹴して、見下して、知らん顔して、時には怒って。腕をもいで背中にくっつけてみたり、頭を千切って体を切り刻む様を見せてやったり、体を裂いて皮を裏返してみたり、創意工夫を凝らして散々やった嫌がらせはこの男を喜ばせるばかり。やってる私の方が吐きそうになったというのに、この男はケロッとして、むしろ顔は愉悦に歪んでいた。本当に気持ち悪い。
最終的には呆れて、その果てに私は諦める。この男の執念が、私から牙をもいでいく。
「眷属が、主人である私に勝とうと言うのか?」
せめて主人らしく、鷹揚な態度で偉そうに振る舞ってみる。けれど歪みきったこの男には通じない。どんな罵詈雑言も、どんな悪態も、どんな殺意も、どんな拒絶も、この男に通じたことはない。
「子どもは、親を超えるものですよ」
大きく、深く溜め息を吐き出す。
戯れはここまで。今日はもう十分に構ってやっただろう、というのは建前だ。疲れた。目が覚めてからの数十分で、今夜分の体力を使い切ったように思う。この男と話をするといつもそうだ。もう、今すぐ棺桶に戻って眠りたい。
「……親子の情まで加えようとするな」
混ぜ物が多過ぎて吐いてしまう。
「帰れ」
本心は決して悟らせない。これ以上この男と会話を続けると、うっかり余計なことを言ってしまいかねない。この関係に慣れてきていること。心底気持ち悪い、と思う反面、どこかやれやれと流せそうになる瞬間があること。そんな、この男が喜んでしまうようなことは、うっかりでも絶対に、絶対に言ってやらない。言ってなるものか。もし口が滑ったらその時は、太陽の下で昼寝して死んでやる。……私の回復力だと完全に焼失するまでにまる一日はかかりそうだけれど。下手をすると焼けているうちに日が沈んで助かってしまうかもしれないけれど。それでも、日の出と共に外に飛び出して、ダイナミック焼身自殺を図ってやる。決意は固いぞ。
「はい、今日は帰ります。たくさんお話していただけたので、今日は満足です。殺すつもりで気合を入れて玄関を吹き飛ばしたというのに、あなたはかすり傷一つ負ってはくださいませんでしたので、また新たな殺害方法を模索せねばなりませんし」
そんな模索はせんでいい。死んでもするな。死んでからもするな。
「わかったから、早く帰れ」
「はい。では我が主、また」
もう一度、今度は頬にキスを落として、大仰なお辞儀をしてみせてから、私の眷属はようやく我が家から出て行ってくれた。
「本当に、勘弁してほしい……」
もう二度と来てほしくない。でも必ず来る。
「引っ越そう……」
ささやかな抵抗、しばしの逃走。無駄になる努力ではあるが、私は休日の計画をすべてなかったことにして、引っ越し先を探すために部屋の隅に積んである不動産情報誌を手に取った。