悪役令嬢は始まりません。
「いるか!こんなもの!!」
バシンッと音を立ててドアにぶつかった薄い文庫本が、悪友の高笑いと共に玄関の冷たいモルタルの上に落ちる。
『ラブ♡フォーリン・アイズ〜君の瞳を愛してる』
喪女を拗らせた悪友が、宅飲みの場所提供の礼にと押し付けで行ったアホなタイトルのライトノベルだ。
せめてその懐に入れた飲みかけのワインかブランデー置いてけ。
………読むけど。
忌々しく歯をギリギリさせながら文庫本を拾う。
類友が勧めるライトノベルならクソみたいなタイトルでも好みに合うやつなんだろうし。
何々?
あー、この前面に出てるキラッキラの金髪がメインヒーローだろうな。
で、このピンクで頭花咲いてそうな間抜け面の女がヒロインかな?
赤毛の気の強そうな美女はきっと悪役令嬢…こっちのが好みなんだけど。
《わぁ!ここが帝国で一番すごいっていう学園なのね!》
クソみたいな説明口調で始まりやがったその物語は…。
少女はスラムに近い下町で母親と二人で慎ましく暮らしていた。
しかし、母親が流行病でこの世をさり、天涯孤独になったと嘆く少女の元に父親だと名乗る男爵が現れて引き取ってくれた。
まさかワタシがお貴族様のお嬢様だなんて!
慣れない貴族生活に悪戦苦闘する少女。
父や兄は慰めてくれるし、通う学園でできた友人達も慰めてくれたり息抜きに連れて行ってくれたりしてくれるから頑張れる。
それなのに、継母や友人達の自称婚約者という女達はひどく少女に冷たくあたってくる。
平民出身だからって虐めるなんてひどい!
イジメに屈しないで頑張る少女を、一番カッコよくて優しくて権力のある皇子様が慰めてくれた。
ドキドキ!きゃあ!こんなにステキな男性とお近付きになれるなんて!
少女に嫌がらせをしていた主犯の悪役令嬢が捕まった。
悪役令嬢は皇子様の婚約者だったが、お堅い悪役令嬢は婚約破棄されてこれまでの嫌がらせの罪を被り投獄された。
直ぐに毒を飲まされるなんてカワイソウ!
罪を認めてもらって、悔い改めてもらって、みんなに慰めてもらったらそれでいいのに!
嗚呼、なんてワタシは慈悲深いのかしら!
ーーー不覚にも、泣いた。
全私が泣いた。
ヒロインはどうでもいい。
むしろ氏ね。下衆女が。
成り上がる為に、嘘や身体使って婚約者持ちの男や姉の婚約者のみならず実の父兄までも籠絡するようなクソ女は死んでいい。
むしろ処されるべきでは?
よくこんなクソビッチをヒロインに起用したよ。
文章的にはラブロマンスにありがちなキラキラした描写が繊細に描かれていて古式ゆかしい少女漫画読んだ気になれるが、考察すればするほど内容がヤバイ。
だって、コレ…絶対このクソ女、婚約者に近づくなと正論吐いただけの悪役令嬢の顔焼いて拷問して輪姦させた上でありとあらゆる罪着せて処刑してやがる。
作者の精神状態が恐ろしい。
最近の少女漫画は内容エグいの結構あるが、字面は「手が触れてキャッ!」みたいな描写でこれはない。その攻めの姿勢はあまりに前衛的過ぎる。
メインヒーローの婚約者…悪役令嬢の女の子があまりに可愛そう過ぎる。
ネットとかで流行りの転生小説のように私がこの小説の世界に転生したら、絶対に悪役令嬢の女の子を救ってみせる!!
ふんす、と、酒臭い鼻息荒く決意した数ヶ月後。
そんな酔った勢いの決意などとっくの昔にすっかり忘れていた彼女は、小説の世界に見事モブ転生をかました。
この時読んだライトノベル形式で未来を垣間見ることのできる、予見者として。
◆◆◆
よく言えば、利発で大人びている天才児。
ざっくばらんに言うと、こまっしゃくれたクソガキ。
黄金姫とも呼ばれるわたくし、グレース・ソフィア・テルツァ・ドーター・アルバニアを知る人からの評価はこんなところだろうか。
それなのに目の前の、この男の口から出たわたくしを指す言葉は…。
「さすが稀代の悪役令嬢!グレース・ソフィア・アルバニア様!」
気狂いの類いなのかも知れない。
悪女でも性悪令嬢でもなく、悪役令嬢。
ふぅん?
誰に、何の為にそんな役割を割り当てられたのか。
それらを知っていなければこんな文言が出てくるはずがない。
いや、まぁ…悪役になる気は無いのだが。
……まだ、今のところは。
ふむ。
すぅ、とグレースの二つ名を現した黄金に輝く瞳が眇められた。
さて、どうしてくれよう?この男。
ーーーソレを知る事は罪か否か?
罪だ。
大公の姫たるわたくしの秘事をこのような爵位も持たぬ男が知る事すら、不敬である。
ーーー罪人は罰するべきか否か?
罰するべきだ。
秘事を知った罪では裁けない。秘事がある事すら誰にも悟られてはならないから。
ならば、無礼な口を聞いた罪で。
ーーーどのような罰を?
法と慣例に鑑みるなら処刑が相当であるはずだ。
だが、簡単に処分してはいけない者だからこそ、わたくしの前に引きずり出されたのではないか?
そう言えば、予見者の疑いのある男を捉えたという報告が先日あった気がする。
冴えない風体のこの男がそうなのだろうか?
…知りすぎている者を生かしておくのは不安だ。
だが、使えるか否かを試験する前に処分してはもったいない。
悩ましいな。
取り敢えず、話を聞いてみよう。
そんな気になったのは、きっとその男の事情聴取や身辺調査が済んでいたからだろう。
それより何より、暇だったのだ。
五つも年上で成人も間近の癖に義務から逃れる事ばかり考えるとんだ怠け者の婚約者が逃げ出したせいで、また婚約者同士のお茶会が流れたから。
我が大公国と宗主たる帝国とでは少々距離がある為、顔合わせも一度でも不意にして仕舞えば簡単に年単位で時が開くというのに。
いつになればあの腑抜けの婚約者は覚悟をきめるのか。
まったく。
このままでは、本当にわたくしが悪役として振る舞ってでも、性根を据えてやらなければならない。
それもまた、面倒な事だ。
この、気狂いの類の男が言うには、わたくしの腑抜けた婚約者様は庶民出身の男爵令嬢にコロッと騙されてわたくしとの婚約を破棄するそうだ。
チラリと執事を見ても何も言わないところを鑑みれば、この男の言は妄言の類いではなく傾聴に値する言葉のようだ。
…やはり予見者ということか?
そういった異能の持ち主がいると言う噂は聞いた事があったが、与太話ではなかったのか。
執事の様子からこの異能に関しても確証を得るだけ調べた後なのだろう。
ならば、信じてみてもいいか。
話半分くらいは。
まぁ、黄金姫とか恥ずかしい二つ名をいただいているわたくしが信じないのも、ね。
創世神話に於ける幸運をもたらす姫神にあやかって、金の瞳を生まれ持つ女児は幸運の証だとかいう迷信により帝国の皇太子に目される第一皇子の婚約者にされたのだから。
詳しく聞くと、殿下が通う身分差なく学べる学園において件の男爵令嬢と出会い、“真実の愛”に目覚めた婚約者様は悪役令嬢たるわたくしを卒業パーティーで断罪し、男爵令嬢と結ばれるのだそうな。
身分差なく学べる学園…?は?馬鹿じゃないのか?
封建制度の恩恵を受けている王侯貴族がそんなもの許すわけがないだろう?
殿下の通う学園はガッツリ身分によって受けられる教育カリキュラムが違うぞ?
だいたい、民は愚かな方が統治しやすいに決まっているのに。
平民などをそうして優遇するから付け上がるのだ。
「…で、側近候補の令息たちも次々と彼女を気に入って、焦った殿下は自身の卒業パーティーでお姫様に婚約破棄を申し渡すんです」
しかも、婚約者のいる高位貴族の令息や皇子に言い寄り婚約破棄騒動まで引き起こす?
ハッ!真実の愛だと?
笑わせるな。
冗談では済まされない。
婚約は家や国家間での契約だ。
一個人の惚れた腫れたなんぞという下らない一時の熱病に過ぎない感情如きで破棄出来るような契約ではないのに、そんなに大々的に、しかもパーティ会場で発言するとか、馬鹿以外に言いようがない。
まずもって、性に敏感な年頃の子供を大人の目のない場所に集めるからそうなるんだ。
少し考えればわかるだろう。仮面舞踏会や少々質の悪いパーティーなどですら、評判や心身に傷を負わされる女性がいない訳ではないのに。
教育など、家庭教師を雇えば良い。
金銭的事情による教育格差?
あって然るべきだろう?
国政を担う人材を育てるのに、子供の教育費程度用意できない家が、どうして政策を通す為の根廻しや下調べやその他諸々の周辺環境を整えられると?
優秀な人材が漏れる?
教育資金程度が捻出できない家が、国政に関われるだけの周辺環境を整えれるとでも?
金が必要ないわけないだろう。
身なり一つとっても、きちんと整えて置かねば足元を見られ侮られ、揚げ足取られてなんだかんだとイチャモン付ける輩がはいて捨てるほどいると言うのに。
案件ひとつ通すのにも一人でスピーディーに根廻しすら出来ないのでは、使えないにも程がある。
根廻しに金がいらないとでも?
挨拶する際のご機嫌取りの為の手土産は普通に必要だし、政策の有用性を示す為のデータを取る為の実証実験をする際にも元手が必要だし、金で動くような馬鹿には小金を握らせた方がよほど話が早くて労力が少なくて済む。
金だけあっても、貴族社会で相応の権力が無ければそれもまた足枷となるだろう。
国政に関わろうとするのなら、相応の財力と権力は必要なのだ。
平民ごときが、いくら優秀でも国政に首脳陣として関われるわけがない。
要するに、学ぶだけ無駄なのだ。
平民の男児であれば本を読む暇があるなら、畑ひとつ耕す方がよほど有意義である。
ただし、魔力の強い女児ならまた話は変わってくる。
貴族の愛妾という選択肢が生まれるからだ。
魔力の強い女児は魔力の強い子供を産む可能性が高いので、教養を身につけさせて貴族家に養子として迎えられることもある。
そういう意味では、魔力の強い女児は淑女の教養を学び、貴族男性の目に留まる必要があるので学び舎に行く意義はある。
逆に、よく教育された婚約者持ちの令嬢は、そんなリスクを背負ってまで学園に行く必要性がない。
学園に通うという事は、高位貴族の令嬢にとっては婚約者も用意できないほど教育のなっていない事故物件であると主張するようなものだからだ。
学園に行った事のある女性は社交界では、とても社交的で交友関係の広い女性と見做される。
だからこそ、グレースは帝国の学園に通う予定どころか婚約者を訪ねる事すらなかった。
ふむ。
なるほど。
そう考えると、件の男爵令嬢とやらは実に欲望に忠実で優秀なハニートラップの仕掛け人だ。最後の婚約破棄さえなければ、だが。
婚約破棄した段階で皇子の廃嫡から二人まとめて事故死までが決定する。
元平民が国母になんてなれるわけがない。
貴族社会舐めるな。
下級貴族でも無理だ。
伯爵家でギリギリ。それでもやっぱり軋轢と他国に見下されるのは否めない。
王の隣に立つ王妃はせめて侯爵か公爵、他国の王女であって然るべき。
大公の姫であるグレースですら、黄金の瞳さえ持たなければ候補者の一人には数えられたかも知れないが、宗主国たる帝国から是非にと乞われるような身分ではなかった。
本当に…。こんな瞳の色でさえなければ、仮想敵国の人質になりそうな王女あたりに婚約の申し入れをしていただろうに。
きちんと王妃となる淑女として然るべき教育を施されていないのなら、貴族令嬢であっても王のお気に入り止まり。側妃までが出世の限界だ。
まして平民出身なら愛妾になれたら暁光だろう。
真実の愛?笑わせるな。
そんなモノで国は動かない。
「にわかには信じがたいですね。そのような横暴がまかり通るのですか?言い方は悪いかも知れませんが、たかが男爵令嬢ごときでしょう?」
「あ、はい。実はこの娘の母親が旧アドルファスト王家の血筋でして…」
聞き逃せない言葉が出てきた。
「アドルファストの遺児ですって?その、傍迷惑極まりない考え無しの恋愛脳が?」
随分とオブラートに包んだ表現にしたが、思わず言葉選びに少々不快感を滲ませてしまった。
こんなに勅裁的に不快感をあらわにしてしまうなんて、わたくしもまだまだ修行が足りないわね。
ああ。でも、帝国に滅ぼされた旧王家の血筋だなんて…困ったわ。
「そう。ソレは今どこで何をしているのかしら?」
何かの拍子に知られて担ぎ出されたらとっても厄介だわ。
「今ですか?えっと…」
少しだけ記憶を辿るように瞑目したあと、男がこたえる。
「お嬢様が七歳でいらっしゃるからあの子は九歳…なら、帝国の下町でまだ母親と一緒に暮らしているはずです」
ああ、今から手を打ってもまだ間に合うのか。
なら、打てる手は打っておきましょう。
「わかったわ。後で暗殺者を向かわせます」
男がギョッと目を向いた。
「え、殺してしまうんですか?仮にも前王の遺児ですよ?バレたらヤバくないですか?」
「ヤバイから子飼のモノを向かわせるのよ。下手に外注して脚がついたらどうするの。完璧に内部処理してしまえるモノを向かわせないと」
男は顔色を変えたが、ふと表情をなくして透徹な目を彷徨わせ口を開く。
「あ、黒髪赤目のノアとか言う奴は駄目ですよ。攻略対象です。暗殺者の癖に仏心出してその娘を助けるので」
なるほど。
彼は本物の予見者なのかも知れない。
もう少しだけ男の情報を信じてみる気になれた。
「ソレなんて粗大ゴミ?暗殺者がハニートラップにかかるような生温い教育するなんて。いいわ。一瞬でも躊躇う様なら二人まとめて始末しなさい」
男の目が戻った。
あわあわと戸惑う様子からは、予見者としての誇りや威厳は微塵も感じられない。
だが、まぁ…本物というのはえてしてこんなものかも知れない。
「まだ犯してない罪で裁くのですか?」
何が言いたいのだろう?この男は。
「将来貴方の言った通りになったらどれだけのものが処分されると思いますか?」
「…エッ?ええっと、お姫様?」
「国家間で定められた婚約を破棄してさらに上層部となるべき高位貴族の子息を手玉に取るような行動を起こして、たった一人の犠牲で済むわけがないでしょう。まずわたくしに何の罪もない一方的な婚約破棄の責を糾弾し、我が大公領が少なくとも反旗を翻し宣戦布告をします。現在帝国を中心に均衡を保っている周辺国の平穏は瓦解。わたくしの婚約もあり我が大公領は今のところ皇帝派ですが、皇族の裏切りに加え派閥の長たる権威まで汚されてなお帝国を称えられると思いますか?独立派が力を持ち帝国は混乱するはずです。皇子の愚かな選択により起こる戦争に、帝国国内のみならず帝国の族領内が荒れないとでも?主たる帝国と大公領の紛争により周辺国がその間隙を突かないとでも?幾つの国が漁夫の利を狙って挙兵すると思いますか?下手をすればいくつかの国がなくなるのですよ。それに比べれば、たかが子供の一人や二人、下町ごと消えても問題ないでしょう。リスク管理の範囲内よ」
今更血の気の失せた顔で、男は唾を飲む。
「…その、俺の予見が外れる可能性だってあるかもしれないのに?」
思いもしない言葉に、目を瞬いて首を傾げてしまった。
「あら。予見者の予見など、外れて当たり前でしょう?言葉のうち一つでも当たれば予見者なのだもの。可能性がほんの僅かでもあるのなら手を打たない理由はないわ。そうでしょう?」
ようやく己の発言の重大さに気付いた愚かな予見者の男は、震えて拳をぎゅうっと握りしめた。
「………なるほど、」
【蛇足】
前述、予見者の予見を先に聞いていた大公閣下が様々な角度から対処済みの案件。
悪役令嬢の発動要件は満たされません。