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柔らかな風が頬を撫で、意識を浮上させる。
ゆっくりと重たい瞼を開けると青々と茂る葉の隙間の向こうに綺麗な青空が見える。
上空は風が強いのか雲がやけに早く流れていった。
近くに川が流れているのか水音が聞こえ少しだけ心が落ち着く。
自然のヒーリングミュージックは偉大だ。
「あえ?(あれ?)」
声を出したはずが舌が上手く動かせないことに気づいた。
妙に体も動かしにくい。
何とか見える範囲で視線を動かすと籠のようなものに入っていることに気づく。
やけに重たい腕を持ち上げるとむっちりとした小さな手が見えた。
手を握ったり開いたりと動作確認をしてようやくその手が自分の手だと理解できた。
おかしい。
高校を卒業してからずっと力仕事ばかりしていた為掌はマメが出来、指も節くれだち荒れた手をしていたはずだ。
こんなにむっちりの艶々小さな手ではない。
今の状況に思考がついていけない。
不安が心を覆っていくとともに涙腺が緩くなっていく。
「う……うああぁぁあぁ!あああぁぁぁ!!!!」
とうとう火が付いたように泣き始めてしまった。
冷静に状況判断しようとする大人の自分と不安に怯える赤子の自分が同居し、自分でもよく分からない状態に陥ってしまってる。
止まれ涙!落ち着け自分!と必死に宥めようと中々止まらない。
「己が生んだ我が子すら捨てるとは人間というものは何とも理解できぬ生き物ですね。獣ですら産んだら育てるというのに。ここで会ったのも何かの縁。今ここで私が静かに黄昏の向こうに送ってあげましょう」
どこからか落ち着いた声が聞こえた気がしたが、今は泣き止むのに必死で思考を割く余裕がない。
溢れ出る涙と雄叫びに近い泣き声をあげているとフワッと体が浮遊感に襲われた。
その感覚に驚き涙が止まり、閉じていた瞳を開けると目の前に人の顔があった。
白く透き通った陶器のような艶やかな美しい肌、柔らかな瞳は夜空のように深い紺色、ほんのりと色づいた唇は緩やかな弧を描いている。
無造作に後ろに纏めた銀髪は日の光を受けて月のように輝いていた。
「あばー…」
この世のものとは思えない美しさに思わず意味もなく声をあげてしまう。
本当に美しいものを前にするとそれを表現する言葉も思考も何もかもが失われてしまうのだと初めて知った。
先程まで泣いていたことすらも忘れ、その美貌に見入っていた。
「人の子よ。お前は人の血を受け継ぎながらも私が怖くないのかい?老若男女問わず人という血が流れておれば本能で私という存在を怖がるというのに。」
目尻を少し下げて困ったように笑う美しい人。
その言葉で僕は今までの人生を思い出す。
何もしていないのに勝手に怖がられ遠巻きにされる。
裏では勝手な憶測の噂話と嫌がらせ行為。
悔しくて言い返したくても誰にも聞いてもらえず、やり返したくても大人に上の立場の人に諫められる。
何度拳を握りしめ奥歯を噛み締めただろう。
何度空を見上げ、そして膝に顔を埋め涙を流したことだろう。
こんなに美しくても僕のように怖がられ嫌な思いを何度もしているのだろうかと思うと胸が締め付けられるように痛み、自然とその顔に手を伸ばしてしまった。
目を丸くし驚いた表情をしたかと思うと僕の小さな手に自ら頬を寄せてくれた。
氷のように冷たい頬に今度は僕が驚く番だ。
引っ込めようとした僕の手を慈しむように自らの左手で包み、後の僕の育ての≪母≫は満月の月のような雄大かつ儚げな笑顔でこう言った。
「君は私が育てよう。ゆっくり大きく育っておくれよ、我が愛しき子よ」
僕はどれほどの時が経とうともこの時を忘れないだろう。
そう思うほどにその笑顔は美しかったのだから。