110~噛み締めて、噛み砕く~
心に広がる暗く重い世界を上手く描けない。
ごめんなさい。
走って走って走り続けた。
ゆっくり眠ったお陰か、回復した体力と気力のおかげで体は軽い。
追っていくにつれて見えてくるのは破壊の跡。
崩れた家々の脇や隅に手作りの野営テントが立てられいる。
傷ついた村人たちが身を寄せてひっそりと生きていた。
悲壮を湛えた表情の老人。
起こった悲劇を乗り越えようと気丈に笑みを浮かべる若者。
何が起こったのか理解せず無邪気に笑う幼児と赤子。
その姿を横目に僕は百合子さんを追いかける。
横目で見た百合子さんが起こしたであろう悲劇を見た僕の心は凪いでいた。
同じ人間だというのに、何も感じない僕は何なのだろうか?
冷めて冷え切ったココロは、僕の体全てを凍らせてしまったのだろう。
この先に何があっても、僕の最重要事項は百合子さんだ。
懐から取り出した地図を確認する。
この破壊された名も知らぬ村から目的のパールティアまで、僕の足ならあと少しの距離。
早まる鼓動は疲労からか、百合子さんとの再会への期待か、それとも…。
想像もしたくない負の思考を振り払う為に唇を噛み締め、足を進める。
鈍い痛みと鉄の味が僕を走らせる。
傾く太陽は今日も生きとし生けるモノの為に温かく残酷な光を地表に与えてくれている。
残念ながら僕の心は凍てついたままだが。
それでも、視界の端に移る太陽の日に視線が引きつけられる。
烏滸がましい願いなのかもしれない。
信じてもいない神に縋りたい気持ちに襲われる。
走り続けながらも、右手は左胸の服を握っていた。
「願わくば…。」
沈みゆく傾いた太陽に僕は何を願ったのだろう。
微睡みと現実の狭間を揺れ動いている俺はもう思い出せない。
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水の神に愛されし土地と呼ばれた美しき村があった。
第二の大陸の北北東に位置し、北北西の森から流れくる豊富な水が絶え間なく流れ続け町を潤した。
年中蒸し暑い第二の大陸では避暑地とも名高い観光名所となり、街となった。
潤った町は、隣接する海岸を利用し、交易都市となった。
パールティア。
愛する漁師の男の命が海に消えたことに涙を流した女がいた。涙は一粒の真珠となり、その真珠から滾々と愛しい男への愛が水へと姿を変え湧き出ている。
友を失った者と友を残す者の血と涙が、水となり、川となり、海と交わった。その血と想いを踏みにじりし時があれば、忽ち水は全てを呪う毒の水に変えるだろう。
月が愛する太陽と、未来永劫永遠に想いを交わうことが許されない理に対して涙し、その一滴は人々を潤す川となった。太陽が昇り、日が沈む。その姿を追う様に月が現れ、涙を流す。
様々な逸話が語られ、清き水の流れは湛えられた。
水に浮かぶように建てられた建物は蓮の花のように目立たずしも個々に主張し、小舟に乗る人々を惑わし、絡めとる。
その日もいつもと変わらない日になるはずだった。
それこそ、誰もが振り返っても思い出せない様な些細な日常が行われるはずだったある日のこと。
そんな何でもない日に厄災が降り注いだ。
誰も予期せぬ自分の人生の終わりを、嘲笑い刈り取るように暴風雨が襲い掛かった。
なぎ倒された家々は瓦礫となって、水に沈む。
【許さない】
怒りと憎悪に荒れ狂う暴風雨は、幼子も老いた者も若き者も、全ての命を刈り取る鎌となり振るわれる。
血の様に赤い瞳は【生きる者】を見逃さない。
どんなに血の匂いが充満してもその鼻は【命の匂い】を嗅ぎ洩らさない。
魔に汚染された角は全てを刈り取る為の魔法を紡ぐ。
自分の最愛の番を、心臓を捧げても惜しくない子らを、食らう為ではなく狩った理を犯せし者達を。
【許さない】
半開きとなった口から滴るのは血か、涎か、怨嗟か、嘲笑か。
憎しみに呑まれた魂は、もう誰も愛さない。
慈しむこともない。
鋭い牙も、鋭い爪も、強靭な肉体も、全てを代償に。
全ての人間を憎み尽くす。
本物の。
【魔物】に慣れ果ててやろう。
脳裏に微かに浮かぶ幼児の涙は噛み砕き、荒ぶる足をゆっくりと進める。
人間よ、数百年の平穏は楽しかったか?
周囲に漂う濃厚な死の匂いと荒ぶる負の感情を味わい、僅かに和らぐココロ。
わざと先を急ぐ足を緩め、怨念の地を踏みしめて進む。
薄氷の上での生活を支えたオモイとオモイを知るが良い。
そして、絶望するが良い。
オモイとオモイとオモイの重みに潰される己が罪に。
仄暗い笑みを浮かべ絶望は、風が運ぶ死の匂いを追う。
―覚悟は良いか、人間共よ―
底なし沼に足をとられ、慌てふためき逃れようとすればするほど。
その身は沼に呑まれていく。
死にたくないのなら、慌てず騒がず全ての重りを捨てろ。
余分な重りを捨てたのち、死と平行線を描き泳げばいい。