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時間外労働

作者: 雲崎朝成

インチキ法律を勝手に作りだしましたが、ホワイトカラーエグゼンプションといった、労働時間の問題はもう一度、蒸し返されると見こし、法律云々よりも、もっと深い所に問題の所在があると考えましてこの小説を書きました。あまりかたっ苦しいことは書いていないので、物足りないと感じる方もいらっしゃるかもしれませんが。

 林は、パソコン右下の時計表示を見て、一瞬、諦めた気になり、キーボードを打つ手が鈍った。しかし、「この時計は会社の時計よりも三十秒は進んでいるのだ!」ということを思い出し、「俺の本気を見せてやる!」と、昔見たアニメのセリフで自分を鼓舞しながら、最後の追い込みにかかった。

 林の隣では、同期の花田がいつものように、帰り仕度を始めている。椅子の背もたれに体重をかけているせいで、ギィギィという耳障りな音が妙に響く。いつかのように、口笛まで吹きかねないような勢いであった。同じような真似をいつかしてやろうとの野望を林は抱いているが、当分はその野望も果たせそうにない。花田の仕事といえば、大学生のレポートと変わりがないような、つまりは誰でもできるような仕事ばかりなのだ。これは、花田の仕事があまりに杜撰すぎるのであるが、解雇が著しく制限された(長い闘争と苦難の果てに!)現・日本社会を、そして、労働者の勝利を象徴したものであるから、とやかく言うまいと諦めてもいた。

 林は振り返って、会社の壁掛け時計を見る。

 後、十秒!

 パソコンの内蔵時計が何かの拍子でいかれてしまったのではという希望はもはや絶たれた。神は死んだ。デジャブなんてステキな響きの言葉とは裏腹の、昨日と全く同じの絶望を感じながら、試験監督さながらに部下のデスクの間を巡回する課長の靴音が近づいてくるのが聞こえてきた。

「はいっ、じゃあ、今日はっ、ここまで。みなっさん、お疲れ様ですっ!」

終業ベルとともに、課長の甲高い、時折殺意を覚える声が部屋中に響いた。「おっつかれしゃーっす」と花田の声。ベルが鳴り終わるまでが就業時間だと心の中で言い訳をしたのであるが、課長が自分の肩に手を置いたのを機に、手を止めた。

「林クン、今日はもうお終い。さ、お帰りなさい。それと、何っ度も、言っていますが、帰り支度は就業時間内に終わらせなさいねっ!帰り支度も労働時間に含まれるのですから、その辺りもちゃあんとっ、してもらわないとっ、会社も困るのですよっ」

 課長―松本という男―は、林がいつも終業ベルとともに帰らない、いや、帰ることができないことを知っていて、ベルの鳴る時間が近づいてくると、林のデスクまでやってくるのだ。確かに、就業時間を過ぎても部下が帰宅しないようなことがあれば上司としての責任問題、それだけでなく、労基法上の罰則の適用があるのだから(この罰則は時間外労働をした本人にも適用される。つまり林自身も!)、やむを得ないのかもしれないが、そもそも、就業時間中に終わらないような分量の仕事を命じているのはこの松本であり、そんな分量の仕事を任せられるのは花田のせいであった。

 最大の問題は花田であり、松本に関しては時間が経てば慣れるかもしれないということが分かっていても、同じことが毎日続いたため、ストレスは臨界点近くまで到達してしまっており、会社を辞める時は花田と一緒に松本もぶん殴っておこうと林は考えていた。

松本と二人きりになったオフィスで、帰り支度をしながら、今日は息子の誕生日で、プレゼントを買わなければならないことを思い出した。これで貴重な時間が削られる…オフィスの窓から差し込む西日に向かって、林はため息をついた。居残りをくらった小学生が味わうような惨めな気分、こんな目に合うのも、訳の分からない法律を作った大バカ野郎のせいだ!そう思い込むことで、周りの人間を恨まないようにするのも、もはや限界だった。

 




 駅前にある大型の玩具店は思った以上に混雑していた。親子連れの姿もある。林は、朝、出がけにポケットにつっ込んでクシャクシャになったメモを見ながら、記載通りの物を店内を探し歩く。メモには、「サイレンジャー変身セット・スーパーファイナルフュージョン・3980円」と書かれている。「サイレンジャー」が一体何で、「スーパーファイナルフュージョン」がどういったものなのか、妻によく聞いておけばよかったと今更ながら林は後悔したが、おそらく「レンジャー」という名のつくものなら、「ゴレンジャー」的な戦隊ものであり、「サイ」というからには、角が付いているかもしれないから、大体見当はつくだろうと、どうでもいいような思索にふけり、できるだけ仕事のことは考えないようにした。

 特撮戦隊もののオモチャが置いてある棚の角まで来ると、姿はまだ見えないのだが、子供の泣き声が聞こえてきた。それを、両親がなんとか泣きやませようとしているらしい。 

棚の上方に、「サイレンジャーコーナー!」と書かれている。野次馬と見られるのは嫌だったが、かといって、いつ終わるともしれない親子のやり取りをいつまでも聞いていられないので、申し訳ないという態度を全面に表現しながら、コソコソと棚を探し始めた。

 俺の子供の頃は…なんて、いつの時代の親も抱く感想を心の中で述べながら、棚の商品を一つ一つ探していったのだが、探していくにつれて、林の疑念は強くなる一方だった。そして、親子がいる前の棚を飛ばした先まで探してみて、疑念は確信に―あの親子のいる棚に目的の物はある―変わった。

 間から何とか覗き見るようにして、なおかつ、「あなた方に興味はないのですよ」という風に視線を上から下へと移していった。

 オレンジ・ピンク・バイオレット・ブルー・レッド…その先に、何も置かれていない棚があり、その次に「ジャシンコウテイ」の変身セットがある。この棚で間違いはないはず、あれ、おかしいなとばかりにもう一度上から確認してみる。何も置かれていない棚には、できれば見たくなかったビラが貼られているのだが、もしかすると奥の方に隠されているのではないかという淡い期待を込めて探してみた。そのビラには、「スーパーファイナルフュージョン変身セット売り切れ・次回入荷待ち」と書かれている。「ファイナルフージョン、フージョン!」子供の声が聞こえてくる。「無いものは仕方がないでしょ!他のにするの?それとも待つ?」というのは母親の声。

 林は親子の間に割り込むようにぐっと手を伸ばして、サイレンジャー・レッドの変身セットを掴むとレジへと向かい、さっさと会計を済ませた。レッドを購入したのは、いい訳がし易いように、だった。「スーパーファイナル」というからには、これまでとは違った超絶的な力を持った者だということだろうし、そのような力はリーダーたるレッドが手に入れるのだろうという、戦隊ヒーローの在り方に準ずるものであった。

 




 多少の罪悪感がないわけでもなかったが、忙しいのだという大人の理由を携えて帰宅したときには、日が沈んでいた。チャイムを鳴らし、出来るだけ明るい声が出せるようにと一度咳払いをする。

 案の上、ドタドタという音ともに、息子の壮太が玄関から飛び出してきた。林の帰りが待ち遠しかったというより、プレゼントが気になって仕方がないようで、おかえり!の挨拶もそこそこに、視線は、ラッピングされた箱の方へと注がれている。

「ほら、誕生日、おめでとう!さ、早く開けちゃいな!」

 林がこのように急かしたのは、あくまで妻対策であった。妻の前で、頼まれてきたものを買ってこられなかったと知れるよりも、いずれバレるにしても、今、開けてもらった方がダメージが少ない、そんな打算的な考えによるものだった。

 バリバリという包装紙を破る音を聞きながら、ゆっくりと靴を脱いだ。そして、その音が止むと同時に、「えー」という非難の声が聞こえてきた。

「パパぁ、これ、ちがうよぉ、これ、レッドだもん。フージョンじゃないもん」

 「えっ!」と、今初めて気づいたようにして林は振り返った。

 「これ、レッドだもん。フージョンじゃないもん…」息子は今にも泣き出しそうだった。

「そうなの?ソウ君。ごめんね、パパ、よく分からなくて…これ、レッドなの?」右手で涙を抑えながら、壮太は同じことばを繰り返し、頷く。

「どうしたの、あなた?」異変を察したのか、奥のリビングから、妻の恵子がやって来た。

 「いや、ね、プレゼント、買ってきたんだけど、メモのやつと違ったらしくて。違うやつ、買ってきちゃったみたいなんだ。フュージョンじゃなくて、レッド、買ってきちゃったみたいで」

 自分の本心が見透かされないかと林は内心、ビクビクしていたのであるが、思いの他、妻は寛容で、「仕方ないわね。これ、まだ返品きくんでしょ?ソウタ、今日だけ、我慢して、明日には、ちゃんとパパが持ってきてくれるから。ほら、泣かないで、ご飯冷めちゃうから。大好きな唐揚げもおいしくなくなっちゃうよ」と、壮太の手を引きながら、奥へと引き返して行った。

 林は妻子にばれないように、小さくふうと息をつき、頭の中を残った仕事へと切り替えていった。

 テーブルの上に並んでいるのは壮太の好きな物ばかりであったが、彼は、箸もつけず、じっと俯いていた。その姿をかわいそうだと思わないではなかったが、同情しても、「レッド」を返品して「フュージョン」をすぐに手に入れられるわけではなく、これから壮太の心のケアに専念すれば、残された時間はどんどん減っていき、翌日、自分が可哀想な眼を見るのが明らかだったので、「ごめん、ごめん」と謝りながらも、これからやるべきことを順序立てていた。少なくとも、あと三〇分後には仕事を再開したいと考えていたし、効率的に仕事をするためには、三〇分ほど一人の時間が欲しいとも考えていた。今日は余計なことで神経をすり減らしてしまった。

 「そうね、タカ君には…そうだ!こういうのはどうかな。明日は、タカ君に負けちゃうの。変身してないから負けちゃうの。でね、次の日、スーパーファイナルフュージョンして、ジャシン・タカ君に勝つって言うのは?サイレンジャーだってそうだったでしょ?ジャシンコウテイにサイ・ブレスを壊されちゃって、一度は負けちゃうでしょ?」

 どうやら明日、壮太は、「タカ君」とやらに「スーパーファイナルフュージョン」をお披露目することになっていたのだな、ああ、そういえば、来週のプレゼンの資料も作りなおさなきゃと、仕事に家庭が入り込んできていることに、林は苛立ちを感じていた。そうなると、いつまでもうじうじしている息子の態度が急速に腹立たしくなってくる。

 林は突然立ち上がると、ようやく唐揚げを口にしようとしている息子を怒鳴りつけた。「いつまでもべそかくんじゃない!パパだって謝ってるじゃないか!明日、ちゃんと江漢してくるから、うじうじ泣くんじゃない!」とだけ言うと、自室へと引っ込んでしまった。唖然とする妻子を残して。

 



 いらいらしながら、パソコンの電源をオンにしたのだが、こういうときは起動するまででの時間さえ長く感じた。無性にタバコが吸いたくなり、机の引出しに入れておいたタバコとライター、灰皿を取り出し、火を点ける。室内での喫煙は、妻から厳禁とされていたのであるが、この際、関係ないとばかりに、文字通り、もくもくと吸った。いらいらしたときでも、一日に一本吸えばそれなりに気が落ち着くのであったが、この日ばかりは全くおさまらず、火を点け、まだ大分長いにも関わらず、灰皿でもみ消しては、次から次へと吸っていった。

数本しか吸っていなかったはずなのに箱の中身がもう空になった頃、妻が室内に入ってきた。ドアを開けた瞬間、タバコの匂いに気づいたのだろう。「なに、煙いよ。ここでタバコ吸ってんの?」と呟く声が聞こえてきた。ここは、林の書斎兼夫婦の寝室であるから、妻は、一晩中、ガス室に閉じ込められることになる。もしくは、寝相と鼾のひどい―これは、林夫妻のいずれの癖でもない―壮太と一緒に寝るか、どちらかを選ばなければならない。

「壮太、もう寝ちゃった。泣いて、ちょっと疲れちゃったみたい。そうじゃなくても、今日は友達とずっと遊んでたし、誕生日だったからね。あの子もちゃんと分ってるんだから、明日はちゃんと返品してきてくれないと駄目よ」

林は片手でキーボードを打ちながら、反対の手で、灰皿の中にあるまだ吸えそうなタバコを漁っていた。シケモクに火を点けると、今の気持ちにぴったりな味がした。

「ねえ、ちゃんとこっち向いて、話を聞いてよ!そりゃ、仕事、忙しいの分かるけど、ほんのちょっと、話、聞いてくれるだけでいいんだから」

 林は振り返らず、一本目のシケモクをすぐに吸い終わり、次のものを漁り始めた。

「壮太も、もう、四歳だし、これからのことも真剣に考えなきゃいけないし。私たちのこともね…」

 妻がすぐ後ろに立っていることに気づくとうんざりした。この後、おそらく、彼女は自分に抱きつき、左の頬にキスをするだろうというのが予言できる。これは、結婚前に恵子が林の機嫌をとるためによくした手段だった。

 そういえば、壮太も兄弟が欲しいと言っているとか。でも、金はどうする!これから、学校にも通うというのに!時間外労働をしちゃいけないから、その分、各種手当、賃金を減らさなきゃいけない、なるほど、分かりやすい!だから、何だ!俺は、金を稼がなきゃならないし、働かなきゃならない!それなのに、働くのが罪だって!一体そんなの誰が得するんだ!働いちゃいけないのに、俺は今、こうして働いている!課長だって俺が仕事を家に持ち帰っていることぐらい知ってる!それに、花田の野郎、「お前ももっと効率よく働いた方がいい」だって!ああ、そうだよ、俺は、就業時間中に仕事の終わらない、何でもそれなりに馬鹿正直にしなきゃ気が済まないトンマ野郎だよ!だがなあ、学歴だけで、しかも、社長のコネで入社したような脳無しに言われたくないね!

 何が労働者の「家庭生活を営む権利」だ!  

 労働者、万歳!

 怒りで手が震えだし、キーボードを打てなくなっていた。恵子の胸が背中に当たる。林の胸に恵子の手が触れる。

 その瞬間、林はノートパソコンの横に置いてあった置時計を掴むと、妻の顔面を思いっきりぶん殴った。うめき声とともに、崩れ落ちていく妻の後頭部へ、追い討ちをかけるように、何度も、殴りつけた。冷え切った指先が、生暖かい血で染まる。ぬるりとした不快感とともに、置時計は手から落ちた。

 一回蹴飛ばして、妻がもう動かなくなったのを確認すると、林はパソコンの方へ向き直り、思いっきり拳でぶん殴った。液晶はモザイク画のようなものからすぐにまっ黒いものしか映し出さなくなり、殴った箇所が、水たまりに落ちた油のような、奇妙な波紋を広げていた。

「意外に、パソコンの液晶ってのは頑丈なんだな」というのが、冷静になったとき、林の頭に浮かんだことだった。

「さあて、どうするかな」辺りをきょろきょろしながら、シケモクに火を付け、引出しの中の便箋を取り出した。

「遺書なんて書いたことないし、パソコンもぶっ壊れちまったから検索もできないし…まあ、もう俺には関係ないし、なんとかなるか!スピキンワーズオブウィズダムゥ、レッイッビー…」

 ビートルズのレット・イット・ビーを口ずさんでいると、筆が進んだ。大学に入ってから、一度も歌ったことがないのに、空で歌えたことが妙に嬉しかった。

「『そうたへ』、か…『スーパーファイナルフュージョン、ごめんな。パパ、よくわからなかったんだ。おみせにいけばとりかえてもらえるとおもいます。それから、やきゅうがすきなら、もちろんパパはおうえんするけど、べんきょうもそこそこ、がんばりなさい…』ええっと、あとは、そうだな、『たぶん、そうたのことはまえのパパがめんどうみてくれるとおもうので、しんぱいしなくてもだいじょうぶです…』

「あとは、まあ、ええっと、『雅彦さんへ このようなことになってしまい、申し訳ありません。壮太のことよろしくお願いいたします」

 父と母、壮太、そして、恵子の前夫へ書いた便箋を封筒の中に入れると、新しい便箋に○○社に宛てた遺書を書き始めた。

 もちろん、ご迷惑をおかけして…という書き出しで。とりあえずの「義務」を果たすと、あとは今まで思っていたことをぶちまけた。

 「オカマハゲ野郎・松本」と、「ロリコンブタ野郎・花田」に宛てて。

 最後の便箋には、「くそったれな法律を作ってくれたどっかの誰か」宛てに、「労働者、万歳!」とだけ書いた…

 やることはもう、あと一つしか残されていなかった。レット・イット・ビーをもう一巡歌ってからそれをやろうと林は静かに決心した。


時間外労働をした者に罰則が適用される法律なんて、誰が訴えんの…なんてツッコミがあると思いますが、そこは小説ということで…という卑怯な言い訳を。

皆さんがこの問題を考える一助になればと思います。

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