神々のことわり
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ぼろくそ書かれても泣きませんっ!(多分)
「お気をつけなされませ」
「ありがとう、それでは行ってまいります」
祭壇の下で深々と頭を下げる下人にやさしく声をかけ、豊は静かに祭壇を登り始めた。豊が身に着けているのは、薄い麻の着物のみ。クニの神々の御心を聴くための聖なる儀式。高い祭壇から見えるのは豊かな野山、今が盛りと萌え出る緑が目にしみる。暖かい風が豊の肌をなでて通り過ぎていく。
祭壇の中央には鏡、そして周りには呪術のための装飾品や猪、穀物、野草などが供えられている。その前に跪き呼吸を整える。
静かに目を閉じる。神々の言葉を聞き逃さぬように心を静める。やがて両の手が自然に目の前で合わされた。
豊は目を閉じたまま、小さく神々を言祝ぐ言葉を紡いでいく。
「わがクニを守り導く神々よ、我らを教え導きたまえ......」
言祝ぐ言葉が尽き、無言の祈りが続く。肌を刺す光と時折舞う温かい風、神々の言葉は、豊のからだを通して語りかけてくる。この季節としては暖かすぎもせず、寒すぎもしない。豊はからだで感じる季節に豊作の予感を見出す。
「日照りも寒い夏も無ければいいのだけれど」
見落とした不作の予兆はないか全身の感覚を集中する。一心に祈る豊の心には暗い予兆は感じない。禊を済ませ、清められた乙女の肌に語りかけてくる感覚からは、穏やかな収穫が垣間見える。
「クニの神々よ、感謝いたします」
神々に感謝をささげてから、戦に出ている叔父のことを思った。
版図を広げる我がクニの王は、従うクニの小競り合いを鎮圧するため戦に出ている。戦に強い叔父は、王としての義務を果たさなければならない。
「何事もなくご帰還がかないますように」
豊は戦の無事を祈る。戦のたびに男たちがクニからいなくなっていく。屈強な父も兄もすでにいない。
何よりもクニに大きい影響を与えたのが、先年のクナとの戦。この戦は今までにない大きな戦であった。この戦で父も兄も御隠れになってしまった。戦に負け、クニが滅んでしまえばおしまいだということはわかる。しかし、戦のたびに男たちがいなくなってしまえば、田や畑を耕すものがいなくなり、クニは力を失っていくのである。
幼いときに日巫女様に拝謁を許されたことがある。日巫女様とは同じ王族として遠い親戚関係にある。豊がこの地の巫女を任されるときに、父が特にお願いして巫女としての心得を授けていただくことになったのである。
このときは、歳の離れた兄と10人ほどの兵が、豊を送り届けてくれた。まだ幼かった豊は山道で歩けなくなるたびに、兄や兵の背に載せられた記憶がある。日が沈み、兄たちが火を囲むとき、男たちは戦場で歌うというクニの歌を歌った。豊は名前も良く覚えていない兵のひざの間に納まり、干し肉や蒸し米を口にしていたものだ。一日の疲れから、誰かのひざの間で船を漕ぎはじめると、無骨で大きな手から手へ渡され、兄の傍らまで運ばれるのが一日の終わりの儀式だった。
兄の傍らで、夢の国へ旅立つ間際に、兵が語りかけた言葉が心に残っている。
「豊さま、クニを守る良い巫女になってくだせえ。われらは豊さまを守るでなあ」
合わされた手がかすかに震えた。
父や兄、そして御隠れになった多くの兵たちの御霊を慰めるのは、豊の役目である。御隠れになった御霊はクニのあちこちに佇み、クニの行く末を見届けるという。豊は薄く目を開け、どこかにいるであろうクニの御霊に声をかけた。
「クニの御霊よ、心安らかに見守りたまえ。豊はクニのため、御霊のため、一心にお祈りしております」
突然、森を渡る風が木々を揺らした。ほんの一瞬だけ、豊の着物をはためかせ通り過ぎていく。
風の後、豊は顔を上げた。そのまま静かに両の手を解き、立ち上がる。日は穏やかに、風は遊ぶように舞っている。大地の緑はその中で力強く成長している。
「くすっ」
初めて、豊に笑顔が浮かんだ。こんなにも神々は恵みを与えてくれている。クニの神々、御霊、そして父、母、兄、多くのモノに支えられ、いまこのクニは生きている。
笑顔の中、一粒の涙が着物の上を転がり落ちた。
「ありがとう」
小さくつぶやき、もう一度だけ神々に頭を下げる。そして豊は静かに祭壇を後にする。
凱旋の兵が豊の居る社に集まってきた。付き人の娘が何度も出入りして様子を豊に報告する。
「わが王は山のふもとにお着きになったようです。帰ってきた人たちも元気そう」
「元気そうですか。それは良かった。倒れた兵が少ないことを祈りましょう」
豊は、静かに立ち上がり、見尾を呼ぶ。
「すみませんが、衣服を代えます。寿ぎの衣服を用意してください」
「はい」
苦しい戦を乗り越えてきた兵たちには、これに応えるだけの祝福を与えなければならない。村では凱旋した男たちのために精一杯の歓迎の準備がなされているであろう。豊は神々の代理として兵たちを祝福し、倒れたものへの鎮魂を行う重要な仕事がある。
目の覚めるような白い絹に、朱を彩った寿ぎの衣装、これに袖を通し、鮮やかな帯と珠を着け、髪を梳く。
「王がお着きになります」
下人が戸板の外から叔父の到着を報告する。
「わかりました、始めましょう」
間もなく鼓の音が社の中に広がっていく。鼓の音と共に、兵が静かになるのを見て取ると、豊は一歩一歩、踏みしめるように舞台に出る。
塀の前で叔父が跪いている。まず兵に向かい、清めの儀式を行う。御幣をささげ鈴の音が響き渡ったとき、兵たちのざわめきは無くなり痛いほどの静けさが広がる。
清めの祝詞を紡ぐ。
「この社におられる神々にお願い申し上げる、われらに罪と穢れがあるのなら、その罪、穢れ、祓い清めたまえ。」
御幣を振り、罪、穢れを追い払う。その儀式が済むと、神殿に向かい、兵の帰還を報告する。
「わが国の神々よ、恐れながら申し上げます。王と兵たちはただいまこのクニへお帰りになりました。このクニを守った者たちです。彼らにこのクニに入ることを許し、祝福を与えてくださいませ。重ね重ね申し上げます」
体を起こし一呼吸すると、もう一度深々と頭を下げる。
「クニのために戦い、御隠れになった御霊たちよ。われらは感謝をささげます。その恨みを忘れ、故郷にお帰りください。クニのため末永く見守ってくださいませ」
深々と一礼し、玉串を奉納する。しんとした中、しばらく無言で手を合わせた後、兵たちに向き直る。
「みなさん、ご無事でよくお帰りになりました。神々もお喜びになっていると思います。このクニにおられる神々と、それと何より皆さんの働きによってこの国は守られています。このクニの神の代理として、そして豊の言葉として、皆さんに感謝します。ありがとう。お疲れ様でした」
頭を下げると、兵たちの歓声が上がった。兵たちは一斉に立ち上がり無事な帰還を喜び合う。
豊は兵たちの挨拶を受けながら、王の元へ向かった。
「わが君、無事のご帰還おめでとうございます」
王は赤黒く日焼けした顔をほころばせる。
「豊どの、クニの守りご苦労だった。このたびの戦は、小競り合いが何度かあったが、結局、またわれらの元へ従うこととなったのでな、大きな戦は無かった。幸いだったよ」
「それはようございました。わが君の慈悲と威光の賜物でございましょう」
「叛いた頭だけは首を斬ったが、それ以外はそのまま放してやった。後を継ぐものは従順なようだ。暫くは叛かぬだろう」
「それは何よりです。わが君、こちらへ登られませ、一献差し上げましょう」
豊は王とその腹心を社に招いた。しかし、王は腹心に何かを指図する。
「ひとついただきたいのだが、その前にこのものを見てくれぬか」
「なんでございましょうか」
腹心の兵が4人の子供を連れてくる。衣服も顔も汚れ、目に光が宿っていない。引かれるままに豊の前につれてこられ、力なく豊を見つめている。疲れ果てているのか、一人がぺたんと座り込むと他の3人も同じように座り込む。
「この子達は?」
王は嘆息して頭を振る。
「よくわからんのだ、戦の前にわが陣に突然迷い込んできた。斬ろうとする兵も居たがこんな年端も行かぬ子供じゃ。とりあえず、後陣の兵に預けていたのだが、どうしたものかわからぬでな。戦の贄ででもあるのかのう」
豊は年長らしき一人の男の子の前でひざを曲げ、目をじっと見つめた。男の子はおどおどとした態度で目をそらそうとする。
「あなたたちはどうしたの?」
「......」
「どこからきたの?」
「......」
「なにかあったの?」
「......」
「わからないの?」
最後の問いに、小さくうなずく。
「大丈夫です。なにもしませんよ」
豊は表情を和らげて、そっと男の子をなでた。他の子の姿も見回し、目が会うと静かに笑いかける。その中でも、子供たちの観察は欠かさない。
「見尾」
「はい」
お付の娘を呼んだ。豊は子供たちを驚かせないように静かに立ち上がると、見尾に食事の支度を頼んだ。
「子供たちに食事の支度をしてやってくだされ。それと夜具の準備も」
「わかりました。ですが、子供たちを社に上げてよろしいのですか」
「よい、神々は子供を喜ぶもの。社の神もお喜びであろう」
「はい」
見尾は食事のため、厨房に入る。下人は夜具を取りに蔵に向かった。
「わが君、お話があります」
「うむ」
子供たちから離れ、王と腹心を声の聞こえぬところまで、連れて行く。近くに人が少なくなったのを見越して、声を潜める。
「子供たちの体を見ましたか?」
「ああ、何か塗りこめられておる。文様か字のようなものも入っているようだが」
「そうです。」
「敵の戦勝祈願の贄でもあったのかと思ったが」
豊は頭を振った。
「子供たちが何人いるかわかりますか」
「4人であろう...なるほど、そういうことか」
「お分かりになられましたか。子供たちの数は4、つまり 「シ」 です。贄ではありません。あれは呪です。」
「それでは、このクニに入れてはならないのではないですか」
腹心が、動揺する。
「呪をこのクニに入れてはなりません。そのとおりです。しかし...」
豊は強い眼差しで神殿に向かう。それから腹心、そして王に向き直る。
「この子たちの呪は、豊が引き受けて祓いたいと思います。わが君よ、そのお許しをいただきたいのでございます」
「ふーむ」
王は考え込んだ。王はこのクニと民を守らなくてはならぬ。そのためには、心を鬼にしてもやらなければならないこともある。
「祓えるのか?...いや、呪のことは豊どのにお任せするしかあるまい」
「それでは...」
豊の顔が紅潮する。
「良いようにするがよい。このクニとこの子らのために良い方法をな」
「ありがとうございます」
王は豊に笑いかける。
「年端も行かぬ子供を追放などできぬからな。むごいことをしなくて良ければ、それに越したことはない」
「そのとおりでございます。ありがとうございます」
豊は何度も王に頭を下げる。その姿に照れくさくなったのか、王は声を張り上げた。
「今宵は宴じゃ、皆のもの、戦の無事を噛み締めようぞ」
「おーっ」
周りからそれに応える歓声が響いた。戻ってきた見尾が、王に大杯を渡す。豊がお神酒を注いだ。
「さあ、一献空けてくだされ」
「うむ」
王は杯の酒を一息に飲み干した。
「あ、女房衆もみえられましたな」
手に手に馳走を抱えて、女子供が無事な兵を迎えに来た。クニの中心では、民が集まり歓迎の準備を始めている。
祭殿の前に王を通し一礼する。それが終わるのを待って、王の5人の女房たちがいっせいに馳走を並べた。
王の5人の女房と子供が王の帰りを祝う。
「わが君」
「ん」
「わが頼み、お聞き入れくださいましてありがとうございます。豊は、子供たちを見てまいります」
「うむ、いたわってやれ」
王の周りでは、すでに宴は始まっていた。護衛の部下と女房が、王の周りと取り囲む。それを見渡すと豊は、もう一度深々と頭を下げた。
社の支度部屋では、見尾が子供たちに食事を与えているはずであった。しかし、子供は部屋の隅に集まり、見尾の食事に手を出そうとしない。今まで手荒い扱いを受けていたであろう子供たちが、すぐに打ち解けることはありえないのは分かっていた。豊は粽をいくつか取ると、子供たちへ向かう。子供たちの前で、ひざをつき、粽をそっと差し出した。
「どうぞ、腹はすいていませんか?」
男の子の一人が手元の粽を見つめ、そして豊の顔を覗き込む。その視線にあわせて豊が粽を差し出した。
「どうぞ」
「ぱしっ」
頬の鋭い痛みと共に、豊の手が払われる。口の中に血の味を感じながら、豊はにこりと笑った。
「大丈夫、何もしませんよ」
手を払った男の子が、目を見開いておびえている。4人の子供は体を寄せ合って、豊から離れようとする。そのなかの最も幼い少女が力尽きたように倒れこんだ。
「どうしたの?大丈夫?」
男の子はあわてて少女を両手で抱きしめると、豊をにらみつける。少女は蒼白でぐったりとしている。その手先は時々ぴくりと震えていた。豊は静かに近づいていく。
「くるな」
男の子が悲壮な声で叫んだ。一瞬豊もびくりとするが、その動きを止めることは無い。
「大丈夫、もうあなたたちに危害を加える人はいません、落ち着いて、お願い」
男の子はしっかりと少女を抱きしめたまま放さない。その視線を受けながら豊はそっと少女の手を触る。
(冷たい)
生きていることを感じないほどに冷たい手先。力尽きている者に特有の症状でもある。力つきながらこのクニにたどり着いた旅人が死ぬ寸前のとき、このような症状になったものである。そのまま息を引き取った旅人の姿が思い出され、豊は背筋が冷たくなる。
「この子は力が尽きかけています。すぐに癒さなければおしまいです」
少女を抱きしめた男の子をじっと見つめた。
「この子を助けたい、お願いだから」
「......」
男の子の返事は無かった。しかし抱きしめた手が少し緩んだように見えた。
豊は少女の腰と首に手をかける。
「大丈夫、癒すだけ、なにも怖いことはありませんよ」
そっと、手を差し入れ静かに抱きかかえようと力を入れる。
「大丈夫、なにもしませんよ」
何度も何度も大丈夫という言葉を口にしながら、少女をそっと抱きかかえる。手にかかるびっくりするような軽さは、豊の心に絶望を植えつけようとする。
「大丈夫、助かりますとも」
自分に向けての呪文かもしれない。大丈夫という言葉をつむぎながら、そっと夜具へ寝かせる。
「見尾」
「はい」
「急いで粥を煮てください。飯は喉を通らぬかも知れぬ」
「はい、いま粥を煮ております。もうじき出来ますので、出来たらすぐにここに運びます」
「ありがとう、お願いします」
後の3人の子供は夜具の向こうで少女を心配そうに見ている。
「あなたたちも食を取ってください。この子は私が見ています」
そういい置いて汁だけでもと、匙で少女の口に与えるが、飲み下す力もほとんど残っておらず、そのまま流れ出てしまう。少女をひざに乗せ、左の腕で抱きかかえるように頭を起こす。力なく曲がる首を支えながら、汁をそっと口に流し込む。
「う、うむっ」
かすかにのどが動き、汁を飲み込んだ。浅い呼吸を気にしながら、さらに匙を舌に載せる。
「豊さま、よろしいですか」
下人が豊の行為を止めた。下人は小さな桶を差し出す。
「このようなときには、こちらのほうがよろしいかと存じます」
「それは?」
「甘酒でございます。戦場ではこれの世話になったものもよくいたものでございますゆえ」
「ありがとう、じい、ではそれを与えてみましょう」
豊は、下人から差し出された甘酒をすくった。そして、下人にすまなさそうにお願いする。
「じい、済まぬが、この子達にもわけてやってくれぬか」
「承知しました」
器に甘酒を分けて回る下人。この下人は先代の王に従っていた兵の一人であった。戦で怪我をして、従えなくなってから、豊のいる社の守を任せられていたのである。生涯の多くを戦で生きてきた歴戦のつわものの一人である。
幸いにも今宵は宴である。そこらで振舞われている甘酒を頂戴してきたのであろうか。
「ゆっくりすするがええ、急ぐと腹を壊すでな」
「どうした、毒など入ってはおらぬよ、じいが毒見をしてやろうか」
「そうじゃ、しばらく飯を食っていなかったのであろう。たんと食うがいい。急ぐでないぞ」
下人は子供たちに甘酒を注ぎ、声をかけた。見掛けはしわに埋もれた老人であるが、その力強さに圧倒されたのか、存外素直に子供たちは食を取り始めている。豊は倒れた少女の口元に甘酒を垂らした。
「ぺちゃ、こくり」
小さく舌が鳴った。
「どう?おいしい?」
少女がうっすらと目を開けた。あうあうと小さく口を開閉させる。その口にさらに匙を差し込んだ。
今度ははっきりと舌を動かし、飲み込む音が聞こえる。こくりと飲み込むと、少女は弱々しいながら始めて笑みを浮かべた。
「大丈夫、安心して体を癒しなさい」
少女を抱きかかえたまま、豊は静かに甘酒を少女の口に運んでいく。いくらかの甘酒で落ち着いたのか、少女が眠りに落ちる。気がつけば、子供たちが豊の周りに集まり、少女を見つめていた。
「食事はもういいの?」
子供たちはうなずくと、少女を覗き込んだ。
「大丈夫ですよ。今夜は豊がこの子を見ていますゆえに、あなたたちも休みなされ」
しばらくの間、じっと座って少女を見ていた子供たちであったが、年少の子供が小さくあくびをして、そのままころんと転がる。他の子供たちがその後を追うのにはそう長い時間はかからなかった。
見尾を呼び、夜具をかけさせる。外では、凱旋の宴がまだ続いている。今夜は夜通しの宴であろう。豊はずっと子供たちの寝息を聞いていた。
数日の休息で子供たちが力を取り戻したのを見て取ると、豊は子供たちを川辺の祠へ連れていく。朝日の昇る直前で少し明るくはなってきたものの、まだ霧が立ち込める時間である。豊は麻の薄い衣服だけをまとい、子供たちの前に立つ。見尾が少し離れたところで子供たちの新しい衣服を整えている。
「それでは、禊を始めます」
先に豊がまだ冷たい川の流れに足を進める。一歩一歩静かに進み、腰の深さまで進んだところで、静かに帯を解いた。
薄い麻の着物はそのままするりと水面に落ち、豊は一糸まとわぬ姿となる。
祝詞を唱えながら、四肢を清め、胸を清める。長い髪を梳り、体の全てを清め終わると、その姿のまま、年長の男の子であるタケを招いた。
「さあ、おいでなされ」
タケと呼ばれた男の子は豊の姿に目を見張っている。少し緊張しながら自分も帯を解こうと、汚れた結び目を探る。
「そのままでよい、禊は川の中で帯を解くものです」
豊の言葉で帯を解くのをやめ、足を川の流れに入れる。その冷たさにびくりとしながら、そっと豊の元へ足を進ませる。
「よろしい、良い子じゃ」
豊はタケの帯を解き、汚れた着物を脱がせた。やせて骨の浮いた男の子は、豊の手が体に触れるとかすかに震えた。
男の子の衣服を全て解き放ち、下帯まで解く。少年らしく少し日に焼けた体を豊は静かに拭った。
「我がクニの神々に申し上げる。この子らの穢れを清めたまえ。払えぬ呪いあらば豊の身に移し変えたまえ。豊が身を借りて祓い清めたまえ」
ある書物の清めの儀の祝詞を小さくつぶやく。大きな災いをはらうときの言葉であるという。他人の穢れを引き受け、7、7、49日の禊で払う法である。
男の子の背を拭うとき、また膨らみきれていない豊の胸がその背に時々当たる。前を清めるとき、男の子のものが小さいながら元気に立ち上がっているのに気づいた。
「あら」
豊はまだ生娘であるが、それが何を示しているのかを知らないわけではない。子が生まれるときの祈りや生まれた後の祝詞は、豊の重要な仕事のひとつである。穢れを忌むことにより、出産に立ち会うことは無いが、生まれてからの折々の祭祈は子供が無事に育つために重要なものである。
「元気になりましたね」
豊自身もすこし赤くなりながら、そのものをやわらかく清めた。肌に乗せられた墨を静かに流し清めていく。
タケの手が豊の背に回った。顔を豊の胸に押し付け、息を漏らす。そのまま、じっとしている。
「どうしたの?」
「母様」
喉の奥からくぐもった声が漏れた。タケは豊に抱きついたまま動かない。豊はそのままタケを静かに抱きしめる。
「たいへんでしたね」
返事は無い。しばらくの時間が過ぎ、落ち着いたのかタケの手がゆっくりと解かれていく。
「大丈夫?」
タケは下を向いたままこくりとうなずいた。
「豊さま、母様みたいだ」
「そう?」
じっとしているタケの体を再び拭いながら、豊が答えた。タケの顔が涙でぬれている。その顔も川の冷たい水で丁寧に拭い、日に焼けた精悍な男の子の顔が現れる。
「よし、きれいになりました」
ぽんと頭を叩くと、タケの目の前に顔を近づける。豊はタケの目をじっと見つめた。
「大丈夫、これからどうなるのかわからないけれど、豊があなたたちを守ります。ずっと...」
タケはしばらく、考えていたが、やがて静かにうなずいた。
「これであなたの禊は終わりです」
豊はにこりと笑った。そのまま、岸辺の見尾を指差す。
「さ、あちらで衣服を着せてもらいなさい」
「はい」
タケは、ちいさく、しかしはっきりした声で答えた。
「ありがとう」
その声は豊に向けての初めての言葉であった。
山道を10人ほどの人数が歩いていた。緑の濃い山の中。汗を飛ばす風は涼しさを感じさせるが、険しく細い山道はすぐにまた汗を噴出させてしまう。
「はっ、はっ」
豊は守りの兵と共に、ヤマトのクニへ向かっている。豊のクニとヤマトのクニの間には大きく険しい山が立ちはだかっていた。幼い頃同じようにここを通った記憶がある。そのころは父も兄も健在であり、また日巫女様もまだ元気であられた。日巫女様が御隠れになったと聞いてからまだ1年ほどにしかならないが、ヤマトのクニは変わったのだろうか。
しっかりと結んだ麻の足当てに大きく編み上げた草鞋で、山道を踏みしめて歩き続ける。幼い頃は荷物は全て兄が担いでくれたが、今となってはそんな甘えたことをするわけにはいかぬ。豊の華奢な肩には前後に振り分けた荷物が重そうにかかっていた。
「豊様、いけますかな」
兵の長が豊を気遣って声をかける。足の疲れで今にも止まりそうになりながらも、その言葉で気力を振り絞り笑顔で返す。
「大丈夫です。いきましょう」
それほど疲れた顔を見せない兵の長は、豊を見ながら力強くうなずく。
「もうすぐ、下りになります。下りになれば、楽になりますので」
「はい、すみません」
豊の前と後ろを兵が守り、山道を踏みしめていく。やがて道が下りになり物を考える余裕が生まれてくる。
日巫女様が御隠れになってから、ヤマトに従うクニやそれ以外のクニとの争いが絶えない。魏からは高名なる武官と兵を遣わされており、クニの争いを収めようとしているのであるが、その意に反して子競り合いはむしろ増える一方であった。ヤマトばかりかそれ以外のクニグニも疲弊する一方である。考えてみれば、神に仕える身として求められるものは、神々の言葉を伝えること、そしてクニの行く末を見通すことであった。豊の身はそれに応えられているとはいえぬ。しかし日巫女様はクニの行く末のみならず、天下の行く末を見通せるものであったように思える。それでこそ、多くのクニグニのものが、日巫女様の言葉に従ったのである。
「わたしになにかお助けできることがあるのであろうか」
やはり、ヤマトに従うクニは神々に守られている。戦の駆け引きだけではなく、神の言葉を伝えることが出来るものがいなければならない。魏の高名な武官である張政様はこう考えられ、血のつながりのある豊をお召しになったときいている。
豊は幼いときに日巫女様に巫女としての手ほどきを受けている。それは月が満ち欠けするわずかの間のことであった。そのときの日巫女様は凛として強く、そして教え諭すときはやさしい方であった。まだ幼かった豊は、天下を見通し、神々の言葉を聴くときの強い意志に姿勢を正し、物の理をやさしく教え諭すときは好奇心いっぱいにいろいろなことを問うたものである。
「豊さま」
「......」
「豊さま」
「あ、はい」
「お疲れになりましたかな」
兵の長が豊に声をかけた。
「この先にいいところがありますで、そこで今宵は休息したほうがよろしいかと」
「わかりました、長の言葉に従いましょう」
「あすは王都で休めますな」
「はい」
日はすでに山の向こうに消えようとしている。その赤い日は戦を忘れさせるほどに美しく力強い。日巫女様はそのような方であったと足を踏みしめながら考えていた。
環濠と大きな門で造られたヤマトの王都は、山に囲まれた豊のクニとは違い、兵による厳重な守りがなされていた。
大門を兵が忙しく出入りしている。大門を守る兵に大君への拝謁をお願いし、大君からのお召しを待つ間、王都の周りで民の生活を見物する。門からやや離れた広場では市が開かれており、さまざまな食物や道具が広げられている。
兵が担いできた大君への貢物のいくつかを果物やもちに代え、兵と豊で分け合って口にする。
「どこかで戦なのでしょうな」
分けた瓜を一口でかじり、もちをほおばる兵の長は、王都の兵の動きを見ながらつぶやいた。
「そうなのですか」
「ええ、出入りする兵は使者ですな。戦の具合を知らせているのでしょう」
「なるほど、そういう兵なのですね」
ついてからまだそれほど時間がたっていないもちはまだ柔らかい。そのもちを静かに口に運びながら、豊は大門に視線を移す。
「お使いがこられたかもしれません。」
兵の一人が人を探している。その兵が、先ほど大君への拝謁をお願いした兵と気づいて、豊は立ち上がった。
「長も一緒にお願いします」
「うむ」
長は、兵を2人呼び、貢物を運んでくるように命じる。
案内の兵について、豊と長、貢物を運ぶ兵で大門を越えた。やがて、大君の館が見えてくる。さらにしばらく待たされ、貢物を改められ、武器や荷物を置いた後でようやく拝謁が許された。
静かに大君の前へ進む。貢物を大君の前へ上げ、静かに頭を下げて、大君の言葉を待った。
大君は座に着いたまま、じっと豊に視線を向けている。しばらくの間、低く響く息遣いが豊の耳を捉え、大君の気配を告げている。その息遣いが不意に止まる。
「豊どのか?」
「はい、キヤマを超えて参りました。ヒオキの娘、神官の豊でございます」
「そうか、そちのことは聞いている。はるばるご苦労であった」
「もったいないお言葉でございます」
「旅はどうであったかな。」
「良い季節でございました。つつがなくわたることが出来たこと、大君様のご威光の賜物にございます」
「それは、よいことであった」
「わがクニの王から、大君へご献上の品でございます。お納めくださりませ」
「うむ、謹んで受け取らせていただく。ご苦労であった」
豊と兵の長は平伏し、貢物が引き取られていくのを待つ。
「豊どの」
「はい」
「はるばる、この都までおいで願ったことについて、話してみようと思う」
「はい」
「いま、わがクニに従うクニグニがどのようになっているかご存知か」
「はい、戦が絶えぬ苦しい日々と聞いております」
「そのとおりである。わがクニの行く末を指し示していただいた日巫女様が御隠れになってから、くにざかいで戦が絶えぬ。クナとの戦で大敗を喫してから、日巫女様自ら責を引き受け御隠れになってしまった。それで、クニを割ることはなくなったが、神々の言葉を伝える方がおられないため、小さなクニでは不安を抱えておる」
「はい」
「豊どの、お方のクニではよい神官といううわさが立っておる。」
「とんでもございません、まだ何も出来ぬ小娘でございます」
「いや、よいうわさがこのクニにまで漏れ伝わってきておるのでな」
「もったいのうございます」
豊の祈祷やまつりごとは、周りのクニからも必要とされていた。日巫女様から直接手ほどきを受けたこともあり、大きな祭りでは豊が呼ばれることも度々のことであった。秋には、いくつかのクニは豊がこなければ祭りが出来ないとさえ言われていた。そのことが伝わっているらしい。
「それで、豊どのにお願いしたいことがあるのじゃ」
大君は嘆息して疲れ果てたように目を閉じる。
「わがクニの乱れは、クナの手によるものである。我がクニグニを平穏にするためには、クナを討たねばならぬ」
「そのような...」
「いや、大変なことじゃよ」
大君は目を閉じたまま、苦い顔をする。
「お願いしたいのは、戦の吉日を占うこと、良い戦をするための祈祷を執り行って欲しいのじゃ」
「......」
豊は返事をすぐに返せなかった。豊にできる事は神々の言葉を聞く事、クニの行く末を見通すことである。神々には神々の営みがある。その神々の御心をほんのわずか聞かせていただき、御心を損ねぬようにわれらの営みを合わせていく。その言葉を伝えるのが豊の役割である。
戦に豊が呼ばれるのは戦勝祈願以外の何者でもない。しかし、戦は人の営みであり神が手を下すものではない。できる事は、神の御心に逆らわぬような戦の時とやり方を見通して伝えることだけである。
「お言葉ながら...」
「うむ」
「豊は何もできぬ小娘ゆえに申し上げます。われにできる事は、神々の言葉を伝えることのみ、戦は人の領分にございます。」
「ああ、そうであったな」
大君は顔を上に向け、大きく息を吐いた。
「日巫女様がおられたときにその言葉を良く聞いた物じゃ。戦をするのは人じゃとな、神々は戦などせぬと」
「はい、そのとおりにございます」
「日巫女様は戦が嫌いなお方であった」
「......」
「さけられぬ戦をするときも、クニが踏み荒らされぬように、兵が討たれぬようにいつも考えておられた」
「それこそが神の御心にかなうものかと」
「しかし、ここに来て、クナを討たねばどうにもならぬようだ」
「......」
「せめて、戦が少しでも神の心にかなうように見通してもらいたい。御心に沿う戦と、沿わぬ戦があるはず」
「できるかどうかわかりませんが」
大君はしばらくの間、じっと考えにふけっていた。やがで小さく口を開ける。
「たのむ」
「...はい」
豊は小さく返事をした。クナとの戦は大きな戦となるだろう。豊の父も兄も以前のクナとの戦で御隠れになってしまった。その戦がまた行われることになれば、それ以上の血が流れるかも知れぬ。しかし、疲労の色の濃い大君の言葉に豊は返事をするしかなかったのであった。
豊は環濠の中に部屋を与えられ、戦を見通す神官として付き従うことになった。どのような戦が、どのような場所で行われるのか。神々の御心を与えていただくためには、戦の兵のこともさることながら、季節、風、水、神々から与えられる多くの言葉を聴かねばならぬ。多くの兵に話を聞き、戦場へ足を運ぶことも必要である。そんな中、魏から派遣されたという張政様からのお召しが伝えられた。
「ただいま参りました、豊でございます」
「大儀である」
「もったいないお言葉にございます」
平伏したまま、豊は張政の言葉に答える。武官らしく、日に焼け赤黒い顔に大きなひげを蓄えている。その口からは兵を威圧するような低いうなり声が響いてくる。
「神に仕える豊、戦場の視察を願い出ているというが、相違ないか」
「は、間違いありませぬ。」
「それはなにゆえじゃ」
「神官の仕事は、神々の言葉をみなに伝えること、そのためには、神々のおわす土地、風を自らの体で見聞きし、感じなければなりませぬ。」
「ここにいては出来ぬのか?」
「神々はクニのあちこちにたたずみ、神の営みを行っております。荒ぶる神、慈悲深い神、多くの神々がおわします。われらは、ほんのわずかの神々の気まぐれから、わずかの予兆を教えていただくのに過ぎませぬ。その神々の心を覗かせていただくためには、神の所へ行き、素直に、どこまでも素直にただ神々の言葉を頂かねばなりませぬ。」
「うーむ」
張政は豊にはよくわからない言葉で兵の一人と話している。やがて話が済むと、床机から立ち上がる。
「よくわかった、われらは近いうちに北の山向こうに視察に行く予定である。その視察に従うことを許す」
「ありがとうございます」
感謝をささげたものの、豊の心の中は別の心配が広がっていた。北の山の向こう側は豊のクニに近い。そのようなところへ視察に行くということは、そのあたりで戦になるということであろうか。
「戦の視察であるから、戦いになることもある。足弱い小娘には苦しい旅となろう。よく覚悟をしておくことである。」
「はい、ご配慮ありがとうございます」
敵の偵察には多大な危険が生じる。足が速く隠れるのがうまい兵を使い、敵の動きを知るのが通常の偵察であるが、張政は魏のやり方として、子競り合いにも対処できるような少数の部隊を率いて、敵のすぐ近くにまで接近する偵察を行っていた。平野の隠れるところが少ない場所では、そのような偵察が有効であった。
しかも、戦いになった際には大群を動かすには時間がかかるが、小部隊であればすばやく撤退することが可能である。しかし、豊のような足弱の娘を連れていた場合、撤退が遅れる場合もありえた。張政はそのような場合はおいていくと覚悟を催したのである。
「よろしいか、近いうちにでるのでよく準備をしておくように」
「わかりました...申し訳ございませんが、ひとつお聞きしてよろしいでしょうか」
「なにか」
「北の山向こうで戦が起こるのでございましょうか」
「うむ、見てきた兵によれば、北の山すそにクナの兵が集結しているという話じゃ。クナがわれらと一戦するようであれば、またとない機会である。」
「わかりました。ありがとうございました」
豊は心の中で嘆息する。大きな戦であれば豊のクニにも大きな被害が及ぶことになるであろう。そうならぬようにするにはどうすればよいか。豊にできる事はほとんど何も無かった。
峠の一角で、張政は兵の歩みを止めた。小高い丘に登り、慎重に周りを見渡す。
「豊どの、このあたりをよく見ておいてもらいたい」
「はい、ですがまだクナは遠いように存じますが」
張政の立つ位置は葉の重なりが途切れ、見通しがよくなっている。そこへ二つの山に挟まれた平地が顔をのぞかせている。
「いや、そうではない。ここは二つの山が迫っておる。戦となればこのようなところが戦場となりやすいのだ」
「わかりました」
豊は手近の岩に登り、風を見る。日と水を感じ、神の御心を素直に心に留める。
「このようなところでは、神々はわれらに味方することになりましょう」
張政はくぼんだ目の光を和らげた。
「うむ、おおむねわが意にかのうておる。このようなところは大軍が細くならねば通れぬ。我が兵は西に、敵は東に攻めることになり、敵は日に向こうて戦うことになる。日に向かう戦いは避けるのが理である。また水はこちらが上手じゃ。これもよろしい」
「魏にはそのような戦の理があるのでございますか」
「おぬしらが、神の言葉で聞くものを、われらは書で得ることが出来る。多くの戦で購ったものじゃ」
魏には魏の戦の作法があるらしい。それがどのようなものかは分からないが、理を説く張政の言葉には力があった。
「折に触れて戦の理を教えよう。戦がどのようなものか分からぬことには、見通すことも出来ぬであろう」
「ありがとうございます。なにもわからぬ若輩者にございますゆえよろしくお願いします」
深々と頭を下げる豊に、張政は豪放な笑い声を上げた。
「音を立てるでないぞ」
張政の丸太のような腕が豊を制した。枝の間から見えるクナの軍勢は想像以上に多い。多くの軍勢が平地に陣取り、煮炊きの煙をあげている。
「多いのお」
張政はクナの軍勢を見ながらつぶやいた。まだすぐに攻め込むようには見えないが、ここで軍を整えるつもりであろう。そうであれば、まだ、軍勢が増えるかも知れぬ。
「承はおらぬか」
「は、これに」
張政は魏から連れてきた手練の兵を呼んだ。長くの間張政に従ってきた腹心の一人である。
「大君に伝えよ、クナは大軍で攻める手はずを整えているとな。直ちに兵を集め、戦の準備をせよ」
「はい」
「敵は万を数えるかも知れぬ。多くの兵をかき集めるよう大君に進言せよ」
「分かりました」
承と呼ばれた兵は、今来た道を駆け出した。
「やれやれ」
敵の数が余りにも多く、容易には近づけない。しばらくの間様子を見てから、敵近くまで迫る方法を考えなければならぬ。危険を避けるため、敵の目の届かないところまで戻ろうと兵を集める張政であったが、そのとき豊が立ちすくんだまま震えているのに気づいた。
「どうした、怖いか」
豊の視線が定まっていない。返事も出来ず青ざめている姿を見て、やはり女子供であったかと豊の肩を叩いた。
「あ、申し訳ございません」
「どうした、敵をはじめてみたか」
「はい」
「戦が恐ろしいか」
「は、いえ、戦が恐ろしいのではございません。あの兵を見て、クニの行く末が見えてしまったのでございます」
張政はいぶかしげな顔をする。
「何が見えたのだ」
「あ、あの」
豊はすぐに答えることが出来なかった。あの兵たちとの戦で負けることが見えたのではなかった。その後のクニの荒廃が見え、飢えにさいなまれる民の姿が見えたのであった。
張政は答えることの出来ぬ豊の手を引いて、敵の目の届かぬところまで下がらせる。青ざめた豊は張政に従っておとなしくついていく。
「落ち着いたかの」
「は、はい」
しばらくの間山陰で休息し、ほんのりと血の色が戻った豊を見て張政が話しかけた。
「何が見えたのか話してみよ」
「はい」
ほんのわずかの時間、豊は目を閉じ、静かに話し出す。
「戦の勝ち負けは分かりませぬ。しかしあのような多くの兵が戦を行えば、多くの者が討たれることになりましょう」
張政は返事をしなかった。ただ手でその先を続けるように促す。
「多くの兵が討たれれば、畑を耕すものがいなくなってしまいます。例え勝ったにせよ耕すものが少なくなれば、神がどんなに恵みを与えようとも、その恵みを得ることは出来ませぬ。耕すもののいない女子供だけの村でいくらの食物が得られることでしょうか」
豊は何か別のものを空に見ているようであった。
「もし、我がクニが倒れる兵少なく勝ちを得たとしても、クナの兵が多く討たれることになりましょう。そうなればクナはやせ衰えた女子供の怨霊のクニとなり果ててしまいます。我がクニが負けても同じこと、負けた後のやせ衰えた怨霊は恨みを敵に向け、末代まで呪い続けるでしょう。」
畑を耕す春先と秋の収穫には男手が要る。よい気候であればわずかながら蓄えも出来るが、日照りや寒い夏の時は飢えに耐えなければならぬ。まして男手が少なくなれば、残されたものの働きだけで食を得ることは容易ではない。
「このような戦をすれば、われらもクナも滅びてしまうことになります。この戦を収めることはできぬのでしょうか」
「うーむ、そのような行く末が見えておるのか」
張政は豊の訴えに目を閉じた。大きく蓄えられた髭に手を当て、静かに考え込む。
豊はそのまま張政の言葉を待った。
張政は不意に豊に語りかける。
「豊どの、戦を治めるには我がクニだけではなく、クナも矛を治めるように仕向けねばならぬ」
「はい」
「われらが戦をせぬといったところで、クナが攻めてくればわれらも受けて立つしかない」
「......」
「どのようにすれば、クナの意欲をそぐことが出来るか、容易ではない」
「そのとおりでございます」
「困ったものじゃ、使者を遣わして戦をやめるように説得するくらいしか思いつかぬ」
「やはり...」
張政は苦笑いを豊に向けた。かつては日に百人の敵を屠ったといわれるその太い腕を力なく下げ、ため息をつく。
「たとえ、使者を遣わしても、いまのクナの意気では斬られるだけであろう。おぬしの信じる神にでも頼んでなんとかして欲しい物じゃ」
豊は静かに首を振った。
「人の営みに神が手を出すことはありません。まして神に指図するなどという所業は罪でしかありませぬ」
「人とは罪深いものじゃのう。戦の絶えることなど聞いたことも無いわ」
「罪深い...」
豊は罪という言葉を聴いて、静かに両手を合わせた。
「われらのこの罪、少しでも祓えますように」
目を閉じ一心に祈る。
目を閉じたまま、豊は長い時間動かなかった。ひんやりとした夕暮れの風が吹いているのにもかかわらず、豊の首筋は汗ばんでいた。
しばらくの間、祈りをささげた豊は張政に問うた。
「張政様」
「なにか」
「われらとクナの罪、穢れを祓う時をいただくことは出来ないでしょうか」
「どういうことか」
「戦は人の営みであり、神に戦を治めてもらうようなことは出来ませぬ」
「うむ」
「戦は人の恨み、憎しみ、欲などの罪や穢れが起こすものではないでしょうか」
「そのような見方も出来ないわけではないが」
「豊はわれらとクナの兵の罪と穢れを祓いたいと思います。そうすれば戦を治めることはできないかと」
「われらだけではなく、クナのものも祓うというのか」
「はい、もしできることならばクナの陣へ入り、兵の一人一人を祓って差し上げたいと思います」
「うーむ、斬られるだけであろうな」
張政は考え込んだ。クナの軍勢が整う前であれば、使者の交渉する余地もあるかもしれない。今のところわれらの軍制が整うまでにも時間がかかる。豊がそのような名目で時間を稼いでくれれば、いくらかは有利になるかもしれなかった。
また、豊がもし斬られたとすれば、それを口実に攻め寄せればよい。そうなれば大義名分はわれらにあることになり、われらの士気がいくらかあがるかも知れぬ。しかし、それは鬼の考えであった。目の前の小娘が、心のそこから案じているのに、自分は外道の考えをもてあそんでいる。
戦となれば、どのような手を使っても勝ちを得なければならぬ。しかし、小娘を使うような外道を進める気にはなれなかった。
「張政様」
「ん」
「張政様、豊は斬られてもようございます。われらの役目は、神の言葉を伝えること。罪と穢れをはらい、神々の御心を伝えることが出来れば、きっと戦は収まることでしょう」
張政は心の中を見透かすような豊の言葉に驚く。豊の表情は穏やかであった。
「斬られる覚悟でクナの陣に入ると申すか」
「はい、できれば豊が斬られたのち、戦をやめられるように取り計らっていただければこれに勝る喜びはありません」
「うーむ」
張政は手を着き、疲れたようなしぐさで立ち上がった。
「われらも老いたものよ、若いものにはわれらには無い意気がある」
「どうかお願いでございます」
「よしわかった、大君に伝えておくとしよう。だが、覚悟をするがよい、簡単な道ではないぞ」
「ありがとうございます。」
豊の肩に豊の胴ほどもある太い腕を乗せ、空を見上げる。一歩、二歩足を進め、目を閉じた。長い黙祷であった。
豊は目の覚めるような朱の衣服をまとい、クナの陣に立っていた。数十人ごとに集まる集落ごとに祓いを執り行う。その姿を見つめるクナの兵の目は鋭い。当然ながら、謀ではないかと言う疑いは消えるものではない。疑いの視線を受けながら、豊はそれでも真摯に祓いの儀式を進めていく。沐浴潔斎し、新しい衣服をまとった豊の首筋には光る汗がにじんでいた。
ひとつの祓いが終わり、無言でにらみつける兵に、豊は静かに頭を下げる。その首筋に突然冷たいものが当たる。
「こいつは、われらの勝てぬような祈祷をしておる。みなのもの、こいつを血祭りに上げて、戦の贄とするのじゃ」
四、五人の兵が豊を取り囲んでいる。鋭い青銅の矛を構え、豊に向ける。首筋に当てられたのは珍しい鉄の剣であろうか。頭を動かせば豊の細首はたちまちのうちに落ちてしまうだろう。豊は動かなかった。その代わりに、豊に迫る兵たちへ微笑を浮かべる。
いくつかの矛の先が豊の体に当たった。豊の衣服にはほんのわずかの穴が開き、血がにじむ。
「......」
豊の微笑は変わらない。体に押し当てられた矛はかすかに震えている。表情を全く変えず、微笑を浮かべ敵意の無い姿に、兵は突くのをためらった。
「豊は罪で穢れております。豊に当てると道具が穢れます」
豊は微笑を浮かべたまま、小さく諭した。やがて矛が外される。
気がついてみれば、首筋の剣もはなされている。兵の一人はそれを見て悪態をついた。
「なんということだ、神に仕える身なれば、神に守られておる、いくがよい」
それっきり、兵は背を向け言葉を発しなかった。豊は静かに頭を下げると、しっかりした足取りで次の集落に向かっていった。。
豊のクニからもそれほど離れていない、小高い山に祭壇が立てられていた。多くの兵の間を廻り、罪と穢れを豊の身に引き受ける。その罪と穢れを三日三晩の祭忌で潔斎するための祭壇であった。もし戦が人の罪と穢れによるものであれば、それを祓う事で戦を治めることが出来るかもしれなかった。
「豊さま、お気をつけて」
村から駆けつけた見尾が豊の衣服を整えた。豊のクニの王は祭壇の周りを守っている。それからやや離れクナの軍勢とヤマトの軍勢が集まっている。食を断ち、少し青白い顔色の豊は、見尾の後ろに四人の子供たちが立っていることに気づいた。
「きてくれましたか。ここまで大変だったでしょう」
幼い少女がとことこと近づいて豊に抱きついた。
「豊さま、帰ってきてくださいね」
豊は大きくうなずく。
「大丈夫です。戦が無くなれば、またみなと暮らしましょう」
ぎゅっと抱きしめた後、他の子供のもとへ返す。年長のタケが幼い少女を抱いた。
にこりと笑顔を向け、祭壇を登り始める。一歩一歩、踏みしめるように登る。
祭壇ではすでに神にささげる供物が並べられている。先に進み、多くのクニグニの神々に礼をささげる。しばらくの間目を閉じ、やがて御幣をささげた。
「この地の神々に申し上げる。わが国を守り導く神々よ、われらを教え導きたまえ。われらの罪、穢れあらば、その罪、穢れ、祓い清めたまえ」
いつもの小さい声ではなかった。凛とした声は見渡す限りの兵に届いた。
「われらは戦に恐れおののいております。戦となる罪を犯したものあらば、われが罪を換わりに受けましょう。わがクニの神々よ、行く末永くお守りくださいませ」
祈るたびに、飾りが鳴り、鏡が揺れる。その光は多くの兵の目に届いた。
声をあげ祝詞をささげる。その後跪き呼吸を整える。静かな間も、シャン、シャンという鳴り物の音が途切れることは無い。夜が更け、日が昇る。その間も祈りは途切れることなく続いた。
絶え間なく続けられる祈りに兵の一人が回りの兵に語りかける。
「この祝詞を聞くと、日巫女様のことを思い出すのう」
「おまえもそうおもうか、あの頃は戦などめったに無かったからの」
「このまま、クナが兵を引いてくれればよいのだが」
「しかし、この機に叩いておかなくてはまた攻めてくるぞ」
休み無く祈り続ける時間は三日目に入った。飯を炊く支度をしていた兵は、広がる暗雲にため息をつく。
「やれやれ、雨が降ってくれば飯は炊けまい。今宵は干し物をかじるしかないか」
それぞれの集落の長が兵を集め、場所を移動する。大雨で水浸しの場所を避け、すごしやすいところへ移動するのである。
豊はひたすら祈りをささげていた。食を断ち、水を断った豊は、跪いたまま力なく御幣を振り、祝詞を紡ぐ。
「わがクニの神々よ、わがクニの民を守りたまえ。せめて子がやせ衰えることの無いように導きたまえ」
ぱらぱらっと大粒の雨が祭壇を叩いた。その雨は次第に強くなり、水しぶきを立てて流れ落ちる。その雨は豊の衣服を濡らし、体温を奪っていく。
ひたすら、祈りを続ける豊の心には雨の様子は届かなかった。一心に祈り、もはや朦朧としている意識の中、祈っているのか気を失っているのかよくわからなくなっていた。
雨が降り続いたまま日が沈む。風が冷え、小粒の冷たい雨へと変わる。
冷たい雨に風が吹きつけ、豊の体は氷のように冷たい。体に力が入らなくなり、跪くことすら出来なくなっていく。
力が抜けるとき、御隠れになられた、家族の顔が豊の心に浮かんだ。
「母様、父様、兄様」
豊はその顔に手を伸ばした。その顔は豊の一番好きな笑顔であった。
「豊はクニのため一身にお祈りしております」
その声に応えるように兄様が大きくうなずいた。
「見ていただいているのですか、兄様」
豊の顔に満面の笑顔が浮かんだ。
「ありがとうございます。豊は幸せにございます」
豊が神に仕えるようになったときには、もう父も兄も御隠れになっていた。自分の仕事を家族が見ていてくれることこそ、豊が最も望んでいたことであった。
豊は最後の力を振り絞って声を上げる。
「わがクニの神々よ、行く末永くわが国をお守りくださいませ」
その祈りのあと、豊はもう、動かなくなっていた。
豊の体は、じいと見尾、そして四人の子供たちによって引き取られた。近くに適当な建物も無く、荒れた家のひとつを借り受けて安置された。ヤマトもクナの兵ももう余り意気が上がる様子は無い。クニの王の間で、交渉が行われようとしていた。豊のクニの王は豊を引き取り、クニへ戻ることを主張している。
じいと見尾は豊の体をクニへ運ぶべく、道具を探しに廻っている。四人の子供たちは豊の体を守るため、荒れた家の周りで所在無くたたずんでいる。
年長のタケはふと、幼い少女の千代がいないのに気づいた。
「千代を知らないか」
後の二人も首をひねる。
「おーい、千代」
余り知らない土地で、迷えばどんなことになるのか分からない。手分けして探し回ったあげく、とんでもないところで見つかった。
千代は、一糸まとわぬ姿で豊にしがみついている。
「何をやってるんだ」
タケは千代の姿をいぶかしむ。
「抱っこ」
それだけ言って、千代は動かぬ豊にさらにしがみつく。
「あのなあ、豊さまはもう動かないんだよ、クニへ戻って土に埋めるんだ」
タケはそういって千代を放そうとするが、後の二人も何を考えたのか着物の帯を解いた。
「僕も抱っこしたい」
「わたしも」
着物を脱ぎ捨てた二人も豊の体にしがみつく。ゆがんだ顔でその様子を見ていたタケは、
「一度だけ」
といって豊をぎゅっと抱きしめた。そのとき、豊が小さく息をしたことは、子供たちには気がつくはずも無い。
ある古墳の発掘現場。考古学者でこの発掘のリーダーである吉田は、汗を拭いながら発掘ボランティアの呼び出しに駆けつけた。
「ここです」
発掘ボランティアが指差す出土物、まだほんのわずか顔を出しただけのその石のかけらは、磨かれたような滑らかな表面をしている。
「うんうん」
うなずきながら、指先で壊さないようにそっと土を取り除いていく。一センチ程度土を払っていくと、石のかけらの姿がほんのわずかだけ見えてくる。
「珍しい出土品です。これは壁ですね。」
壁は主に古代中国の王や高位のものが身につけたという装飾品である。
「このあたりが埋葬場所かもしれません。しばらくこのあたりを集中的に掘ってみましょうか」
吉田は人を呼び集め、このあたりを掘ることを指示する。壁はベテランの発掘作業員に周りの土質を考慮して掘り進めるようにお願いした。
「さてと」
吉田は立ち上がり、周りを見渡した。四方に小さな陸がこの古墳を守るように置かれている。聖獣でも意味しているのだろうか、青龍、玄武、白虎、朱雀。壁が出土するということは、中国とのつながりが深いことを意味する。この国の王は中国に朝貢していたのであろうか。それとも交易品として、何らかの手段で手に入れたのか。
「吉田先生」
「ああ、お疲れ様です」
地元の大学の考古学者が資料を手に現れる。工学部の協力を得て作成された、精密測量図である。
「なかなか興味深い結果が出ました」
高橋はプリントアウトされたばかりの精密測量図を吉田に見せた。
「ほう」
「2重の盛り土になっているようですね。その外側はこの四方の陸を守るように続いていますね」
「なるほど、この置き方は陪塚かも知れませんね」
「しかし、これでわからなくなったものもあります」
「なんですか」
「これで、明らかに東西南北の方向には合わなくなりました。この傾きにはどんな意味があるのか」
「つまりこの陪塚は、神獣ではないと...」
「そうですね、神獣であれば東西南北を意味する象徴ですから」
「なるほど、ちょっと貸してください」
吉田は精密測量図を広げ、それぞれの方向を陪塚にあわせる。古墳の本体は風化して余り形が残っていない。それでも、陪塚のおかげで、大体の示す方向がわかってくる。
「あれでしょうか...」
吉田の指し示す方向には、小高い山がある。
「いわゆる山岳信仰なのでしょうかね」
山を見ながら、吉田はつぶやいた。
「被葬者にとって大事な意味があるのでしょう」
「そうですね。それにこのあたりに住んでいる人々にも重要な山だったのでしょうね」
いまは緑の萌え出る季節である。肌を刺す光に温かな風が、少し汗ばんだ首筋をなでていく。
「いいところですね」
「ええ、このあたりでは穏やかな気候のところだと思いますよ」
「先生」
発掘ボランティアの女学生が高橋を呼んだ。高橋は自分の考古学教室の学生を何人か連れてきている。
「木片が出ました」
「それは大変なものです。すぐに行きますから余り手をつけないように言ってください」
「わかりました」
木材のような有機物は空気に触れると酸化して変質してしまう恐れがある。そのような出土物の場合は慎重に変質しないような手はずを整えて発掘しなければならない。
その女学生は、長い髪をふわりとたなびかせて立ち去る。吉田の目には、その後姿がこのクニにいたであろう人々の姿と重なった。
「それでは、われわれも」
「はい」
さすがに若い女学生は跳ぶように翔けていく。二人の考古学者は静かに女学生の後を追った。山登りはさすがにきついが、暖かすぎもせず寒すぎもしない風はそれほどの疲れを感じさせない。古代の若者たちもこのように翔けていたのであろうか。そしてその後を我々のような年寄りがついていったのかもしれない。その営みを包むように森は今でも温かく、そして静かにこの周りを守っていた。
発掘された、木材は棺のものであった。その中に埋葬されていたのは40歳前後の女性と分析された。
中国の文献に残っている記録では、台与は魏に使者を送り、張政にも書を送ったと伝えられている。
2chで冒頭を批評していただいたものを、最後まで書き進めて見ました。批評していただいたかたがたに深くお礼申し上げます。