story1
不意に空を仰げば、灰色の空から粉砂糖のように柔らかい雪がちらちらと降っている。
鳴瀬 当摩はため息混じりに白い息を吐きながら、その赤くなった手を口元に持っていく。
いつもと何ら変わりない、同じ空だ。
大学のキャンパスの、人気から少し離れた場所にあるベンチに座っていた彼は傍らに置いていたショルダーバッグを徐ろに肩に掛けると歩き始める。
薄く雪が積もった地面にいくつもの足跡があるのを意味もなく眺めながら自販機に向かう。
当摩は大学の中でも人目を引いた。 身長は177㎝。まだ19歳だが、どこか大人びた雰囲気を纏う彼の身体は均整が取れていながらも少しばかり細身に見える。
肩に触れるくらいに伸びた茶色みを帯びた黒髪は無造作にされていながらも、清潔感はある。
必然的に、滅多に焼ける事のないその白い顔にはガーネットのような暗さをもつ三白眼が並んでいる。
その秀麗な顔立ちもそうだが、彼が人目を引くのにはもう一つ理由があった。
それは、彼が見事に着こなしている黒いパーカーにある。
深めに被っているフードの頭からはまるで兎を思わせるような2枚の細長い布が垂れ下がっており、彼のフードの右側にはデカデカと『Alice』とロゴが入った赤い缶バッチがついている。
彼は、言ってしまえば異端であった。
そのせいか秀麗な顔立ちに見合わず言い寄る女性は少ない。
自販機の前に立った彼はパーカーのポケットからがま口財布を取り出し、小銭を入れるとその白く長い指でボタンを押す。
ガコン、と落ちてきた暖かい缶を手で包み込む。
「また蜂蜜レモンか」
突然隣から聞こえてきた声に目を向けると当摩の友人、薗咲 反偽が彼の手から蜂蜜レモンを取る。
右側を長く、左側を短くしてある反偽の灰色のアシメ頭には軽く雪が積もっている。
「悪いか」
当摩は反偽の手から蜂蜜レモンを奪うように取ると缶の口を開けて甘酸っぱく温かい液体を喉に流し込む。
腹からその暖かさが伝わり、当摩は深く呼吸する。
「よし、俺も何か買おうかな……」
「温かいのはもう無いぞ」
「何──っ!!」
うー寒い、と両手をすり合わせながら言う反偽に皮肉めいた笑みを浮かべながら当摩が言えば、彼は叫びながら自販機を凝視する
「くそったれ──……」
恨めしそうに自販機を睨む反偽を脇目に当摩は蜂蜜レモンを一気に飲み込むとゴミ箱に投げ入れた。
彼もまた劣る事もなく美形の類に入り、身長は170㎝と少し小柄だが体格は当摩よりも勝る。
寧ろ、黙っていれば当摩よりもモテるだろう。
「だがしかし、口を開きすぎるせいもあり人気の伸びは亀ペースと……」
「待って。何でお前が語り始めるんだよ」
どこか遠くを見ながら言う当摩に反偽が食いかかる。
二人はこんなやり取りを毎日の如く続けている。
「……そういえば、この後合コンあるんだけど当摩来ないか?」
反偽はその中性的な茶色の目を柔らかく細めながら当摩に向ける。
「いきなり話飛んだな……。俺は行かないって言うか行けない」
「バイトか?」
眉を少し下げながら反偽は黒が基調のスマホを取り出す。
「あぁ。今日は3時からだ」
当摩は面倒臭そうに顔を顰めながら頷く。
決して仕事が嫌だとかそういう理由ではない。
彼が顰めっ面をするのは、職場の人間に関係があった。
「じゃあ……そろそろ出た方がいいんじゃないか?確かダウンタウンの少し外れた所だよな」
反偽にそう言われ、当摩は自分のケータイを取り出して液晶画面を見る。
無機質な灰色のチェック柄の待ち受けに表示されている時間は2時27分。ここから最寄りの路面電車に向かうのにちょうどいい時間だ。
「そうだな……じゃあそろそろ行く」
路面電車がダウンタウンに着いて、職場に少し早歩きで向かえば何とか間に合うだろう。
当摩はケータイをポケットにねじ込むと反偽に背を向けて歩き出す。
何かあったら連絡しろよー!、と叫ぶ反偽に当摩は呆れながらひらひらと手を振った。
□ □ □ □
当摩らが暮らす街……シラヌイ。
季節が冬しか存在しない多少の魔法が存在する世界の中で最も発達した街として知られている。
だが、治安は未だに安定はしていなかった。
特にダウンタウンは、昼間はビジネス街のようなある程度の緊張感を持った顔をしているが夜中になれば枷が外れたかの様に本来の姿を現す。
ギャンブルやキャバ蔵、薬などの娯楽や快楽で溢れかえる。
露出した服を着て男性に言い寄る女や堂々と薬を勧めてくる人々に人身売買……夜中は何でもござれであった。
しかし、彼らには最大の娯楽があった。
それは謌だった。
音楽の音をただ口ずさむものではなく、その音楽に魂を吹き込むように与えられた声をある人が謌と名づけたのだ。
その謌は、彼らにとってあまりに衝撃的な魅力を与え──あまりに刺激的すぎた。
それから、シラヌイでは謌が法外な値段で売買され始めた。
特に謌を歌う人……謌手に対しては恐ろしいくらいに執着する者が現れる。
綺麗な声で囀る鳥を自分のモノにしたい衝動と同じなのだろう。
捕まえたら枷に繋げて檻に放り込み喉が潰れるまで歌わせ、決して逃さない者もいれば人身売買にかけ高額な金を手に入れる者もいた。
奴隷のような扱いを受け、理不尽な死を受ける謌手も少なくなかった。
この事態をまずいと思った政府が、数十年前にある連合機関を立ち上げる。
『謌範疇執行連合機関』
通称、執行連。
謌の調査や研究や回収、及び謌手の保護を目的とした機関。
ここでは回収率を上げるためにいくつかのグループが作られており、その内の3つは執行率が最も高く本部から固有の支部を与えられている。
更にその援助品として各チームには魔法を駆使し、それを宿した物を身に付けることで本来人間の持っている能力の一部を高めたりすることが出来るという魔道具が執行連の一人一人に渡される。
そして執行連には他の機関には無い特別な待遇があった。
謌──特に謌手の回収、保護、奪還の際に万が一やらかしても罪には問われない。
言ってしまえば、政府は謌の回収のためならばどんな手段も用いていいという許可を出しているのだ。
それほどまでにこの世界では謌は貴重であり魅力的なのである。
そして当摩は現在バイトという名目でこの執行連で働いていた。
それも支部を与えられている3つの内の一つ、アリス・チームに配属されている。
ダウンタウンより少し外れたところに、下にマンションを併設したビルがある。
それがアリス・チームが本部から与えられた支部だった。
□ □ □ □
路面電車を降り、スーツ姿の集団やこれから遊びに行くのであろう若者の集団の間を縫うように早歩きで抜けていった当摩は電車からも見えていた自分の職場の階段を上っていた。
勿論エレベーターもあるのだが生憎なことに今は点検中となっており、作業員たちが動いていた。
いい迷惑だ、と顔をしかめながら当摩は職場の曇りガラス張りのドアの前に着く。
手に持っていたカードキーをリーダーに通せば、ピッという機械音と共に鍵の外れる音がした。
「ただ今戻りましたー」
ドアを開けながら言えば数人がお疲れー、と言葉を返す。
自分のデスクにショルダーバッグを置くと当摩は半開きになっている応接室のドアの向こうに見える光景を呆れたように見る。
その机の上には書類やファイルなどが散らかっていた。真ん中に置かれているマグカップを見れば、当摩はその持ち主の方を見る。
「伊澄さん、応接室はもう使わないですか?」
当摩が給湯室の方に身体を向ければ、中から長身の男が顔を出す。
「あぁ。何なら片付けてくれてもいいが?」
「そのつもりで訊きました」
煙草の匂いを纏わせた男、蘭 伊澄は一旦中に引っ込んだと思えばすぐに出てきた。
180cmはゆうにある伊澄は37歳ながらも70キロ代を維持しており、肩にかかる程の黒髪をハーフテールにしている。
無精髭を生やしているが、そのモデルのような体格と整った顔立ちに相まってその年長者の雰囲気を醸し出していた。
しかしそんな彼の服装もまた、普通ではなかった。
色の薄いブラウンのトレンチコートについている、取り外し可能なフードからは当摩と同様に二枚の細長い布がぶら下がっている。
当摩のそれより少しながら短いものの、やはり兎を思わせるものだった。
ただし、伊澄はフードを被らない人だった。その代わりに黒いヘッドフォンを付けていた。決して音楽を聴いていたりする訳ではない。
実は当摩もそのフードの下では白いヘッドフォンを付けている。
当摩のパーカーに伊澄のトレンチコートは魔道具の一つであり、順に『黒兎』と『三月兎』という名前が与えられている。
名前は違うもののその魔道具の能力は一緒であり、聴力を飛躍的に上げるというものだった。
だが、それだと日常生活に障害が出る上に魔道具は脳の一部を変化させて身体能力を上げるので長時間その能力が跳躍していると副作用が出る可能性も出ている。
そこで二人の場合はヘッドフォンを付けることによって、ある程度その跳躍を抑制させて副作用を起こさないようにしている。
ただし、抑制したとはいえ完全にできるわけではなくある程度耳はいい状態にあり、言うならば常時もの凄い地獄耳程度にはなっているのだ。
さて、当摩は一服終えた伊澄を横目で見ながら応接室に入っていく。
その真正面はダウンタウンを見渡せるガラス張りになっており、今は遮熱カーテンがひかれている。
部屋の中央には白い木材で縁を囲まれているガラステーブルを挟むようにして二人がけのソファーと一人がけのソファーが2つ向かい合っていた。
テーブルの上に重なるファイルを見てため息をつく。おまけに、真ん中にあるマグカップはその斜めに傾いた山の頂点にあるから再びため息が漏れる。
当摩がしかめっ面をする理由がこれである。
自分がこちらに来ると大体どこかしらは散らかったままで放置されている現状が、彼にはどうしても許せなかった。
マグカップを一旦安全地帯に置くと両腕でファイルを抱えあげる。
ヅカヅカと応接室から出て資料室のドアを器用に開けると素早く元の位置に戻していく。
それから書類を置いてあったグリップで纏めればマグカップも一緒に伊澄のデスクに置いた。
これで片付いた、と言えるのだが当摩には通用しない。
給湯室から台拭きを持ってきてテーブルを拭いていくだけに留まらず最終的に柄が伸縮可能なコロコロを自分のデスク下から引っ張り出し、隅から隅までかけていった。
よし、とコロコロを片手に当摩が仁王立ちをして応接室を眺める現在までかかった時間は約10分。
どこぞのお掃除兵士長では無いが、一週間に一回は確実に全ての部屋の掃除を一時間以内で終わらせるだけあり早い。
表情を変えることなくコロコロをデスク下に戻すが、内心ではかなり満足していた。
「いつもありがとう」
声がしたと思えば、横からコーヒーが差し出された。隣を見ると当摩よりやや低い位置にある悪戯っぽい大きなつり目と目が合う。
塚本 庵がパーティションで区切られている当摩のデスクの範囲内にいた。
色の抜けたようなストレートの明るい茶髪は少しの光も透過して彼女が動く度にそれはキラキラと光って見える。
160㎝代の平均身長ではあるがスタイルはよく、豊かな曲線が描かれていた。
淡いピンクのブラウスからは黒いネクタイが緩く締められており、そこには大きく赤いハートが1つ描かれている。
彼女に与えられた魔道具は『女王』という赤い服らしいが、それのもたらす力は強力らしく普段は身に付けずに生活しているが、それでも『女王』の一部である黒いネクタイは付けるようにしているらしい。
「勝手に入っちゃってごめんね」
「いえ……」
当摩はコーヒーを受け取るとその独特の芳香を軽く楽しんでから一口飲み込む。
ここの室長は異様にコーヒーを好いていて、コーヒーメーカーや様々な種類のそれらを経費で買っている。
本部からも度々注意のメールが来ているようだが、それでもやめる様子がない。
まぁ、それでも全員がほぼ毎日この美味いコーヒーを飲んでいる訳で当摩が時折咎めるのを除けばもはや黙認されているのだ。
「あ、室長が呼んでたからそれ飲んだら行ってね」
「え……」
マグカップを指さして言う庵を見て、当摩は何かやらかしたかと考えたが思い当たる節は無い。
庵に礼を言うと彼女は微笑み、デスクに戻っていっ
た。
そして当摩はコーヒーを飲み込むと1つ息を吐いてから室長のデスクに向かう。
ノートパソコンと睨み合いをしている女性は当摩の存在には気付かずしきりにマウスを動かしている。
「室長」
当摩が声をかければ、ようやくピンクゴールドの髪を揺らして顔を上げた。
伊澄よりも少し年は下であろう彼女が室長……王 苺鈴である。
長袖の少し色あせたような薄い水色ワンピースに白いエプロンという格好だが、苺鈴もまたそれを着こなしている。
これでソバージュの髪を三つ編みにでもすれば、どこかの図書館の司書にいそうな……そんな感じになるだろう。
彼女の着ているそれも例の如く魔道具であり、『アリス』という名前がついていた。
その魔道具の能力については当摩だけでなくアリス・チームのほぼ全員が知らされていない。
「あぁ、ごめんね」
苺鈴は言うとノートパソコンを脇に退ける。
「何か資料でも読んでいましたか?」
当摩が訊けばううん、と手をひらひらとさせる。
「ソリティアやってた」
「……それでいいんですか、上司が」
笑いながらあっさりと返した苺鈴に当摩はあえて上司と言う。
だが苺鈴はそれを軽く笑い流すとノートパソコンを片手で閉じた。
「で……用件は」
この人は元々こういう性格だったな、と軽く頭を抱え当摩は呆れた目を苺鈴に送る。
「そうそう、当摩君がいない間に皆に1つづつ配ったんだけど……」
言いながら苺鈴はデスクの引き出しを開けるとグリップで止められた厚みのあるA4の書類を当摩に渡した。
「本部からの仕事、この中に謌手に繋がってる人がいないか探してほしいの。いつも通り皆違うやつだから重なって調べちゃうなんて事は無いわよ」
苺鈴の言葉を訊きながら当摩は書類を受け取りめくっていく。
調査対象と書かれたそれには、ずらりと人の名前が並んでいる。
月に1、2回行われる定期調査と呼ばれるものだ。
謌の情報は、そう簡単には手に入らない。
表面に漂う大量の情報をすくい上げてその中から僅かな謌の情報を見つけ出し、更にその中から確かなものだけを探し出す。
かなり地味な作業であり、忍耐力も必要である。
そんな中、アリス・チームが支部を与えられたのは情報の処理の早さに加え、現在室長の苺鈴がスカウトしてきた人材も良かったのか執行率もかなり高かったのだ。
それでも情報が無い時は無い。
なのでこうした定期調査が行われるのだ。
「今回はいつまでに」
「今月中に提出してくれれば大丈夫よ」
分かりました、と言って当摩はぺこりと頭を下げ自分のデスクに戻った。
どっかりと椅子に座り書類をノートパソコンの上に置きながら、デスクの端に置いてある卓上カレンダーを見る。
今月は残り2週間と3日。
明日は丁度午前中の講義は選択していないので、多少夜更かししたところで問題は無いだろう。
当摩は荷物をショルダーバッグに詰めると立ち上がる。
「ちょっと外出ます。今日は戻らないと思うんで」
声を張らせて言えばハイハイ、と苺鈴の返答が聞こえたので当摩はオフィスを出た。
オフィスには1時間もいなかったであろうが、点検中となっていたエレベーターは使えるようになっていた。
当摩はすかさずボタンを押すとすぐについたエレベーターに1人乗った。