3. 翡翠のプレゼント
いい店だった。
この一言に尽きる、とアカメはベッドで眠るユエの頭を撫でながらそう思った。
動物が一緒というだけでいい顔をしない人も多いが、そこの店の店主はむしろ歓迎の様子だった。
しかし、他の客の手前、店内に動物を入れることはできないので、代わりにと料理を一品サービスしてくれた。鶏肉を甘辛いタレで照り焼きにしたもので、店の自慢の一品だと言う。そう言う通り、とてもおいしかったし、ルーパスも気に入っていたようだった。
食事を済ませ、宿に戻って来たアカメたちは部屋で休憩をし、アカメはルーパスとユエを部屋に備え付けられたシャワールームに押し込んだ。はしゃぐ声がドアの向こうから聞こえる中、アカメはベッドの上の荷物をソファに移し、バックパックの中から小型の麻袋を取り出すと、バックパックの影に隠すように置いた。ソファの空いたスペースに座って天井を仰ぐ。
そうしている内に、さっさとシャワーを浴び終えたユエが着替えて出てきた。その後に、毛が濡れてまるで萎んだようになっているルーパスが続く。アカメはユエにタオルを渡してルーパスの体を拭かせ、ユエの頭をアカメがタオルで拭いた。
シャワーを済ませた後もしばらくはしゃいでいたユエだったが、疲れもあったのかしばらくするとぐっすりと眠ってしまった。
「主、行くか?」
ユエを起こさないように声を落として言うルーパスに、アカメは無言のまま頷いて立ち上がった。ソファのバックパックの影に隠しておいた麻袋を持って、音を立てないように部屋を出る。
「露店の場所はわかるのか?」
「おそらく行けばわかる」
宿を出て通りへ行ってみると、昼間の賑わいが嘘のような静けさに満ちていた。
人も疎らで、ぽつぽつと小さな露店が点在し、通りの両端に不規則に並んだランタンがぼんやりと照らしている。商品を並べている者もいれば、何も並べずただ座っている者もいる。中には、人を商品として売っている商人もいた。
アカメは老人が店主をしている店で足を止めて、老人の前にしゃがんだ。
その店には商品が何も並んでいなかったので、何を売っている店なのかはわからない。老人はあぐらを組んで座り、傍らにランタンが二つ置かれていた。
「失礼ですが、お尋ねしてもよろしいですか?」
「なにかな?」
しわがれた声が返ってきた。
「買い取りをしている店の場所を知りたいんですが」
「いくつかあるよ。ここもその一つだ」
「そうですか。ここで毛皮の買い取りはしていますか?」
「しているよ。この老いぼれの目でよければ選定するが、どうするね?」
アカメは持っていた麻袋を老人の前に置いた。老人はゆっくりとした動作で麻袋の中身を取り出す。
「ほほぉ」
ランタンの明かりに照らし出して、老人は感心した声を上げる。
麻袋の中身は兎と狐の毛皮だった。全てアカメが旅の途中で手に入れた物だ。食用として捕まえた動物の毛皮を保存し、こうして旅先の商人に買い取ってもらうことで、アカメは金銭を得ている。
「兎の方は五枚、狐は四枚あるはずです」
「兎は一つ三〇〇、狐は一つ五〇〇といったところだね。どうだい?」
毛皮を眺めていた老人が提示した額に、アカメは少し驚いて傍らのルーパスを見た。
「そんなに出してもらえるんですか?」
「儂はこれくらい出してもいいと思ったんじゃが、前はいくらで買い取ってもらったね?」
「以前は兎とミンクでしたが、どちらもその半分ほどでした」
「そいつぁ、随分だな」
老人がくつくつと笑う。
「これを見る限り、あんたは処理もうまいし、軽くだが防腐の処理もしているだろう? それでは安すぎる」
言いながら、老人は毛皮を麻袋に戻し、
「で、どうするね?」
「じゃあ、その値段でお願いします」
アカメが言うと、老人は麻袋を引き寄せ、代わりに懐から巾着袋を取り出した。
「これが代金だよ」
巾着から硬貨を取り出した老人の皺だらけの手がアカメの目の前に差し出された。アカメはそれを受け取ってすばやく財布に硬貨を入れた。
「ありがとうございます」
礼を言って懐から写真を取り出した。
「ついでで申し訳ないのですが、この女性を見たことはありますか?」
老人に写真を渡すと、老人はランタンの明かりにかざして目を細めた。
「ふむ。この女なら見た覚えがあるぞ」
「本当ですか?」
「あぁ。二週間ほど前だったか、この街で見かけたな。別の店で何かを換金していたようじゃが」
「彼女がどこに向かったか、わかりますか?」
「さてのぅ……その女が立ち寄った店に行ってみたらどうじゃ?」
「それは、どこの店ですか?」
老人は右手の路地を指差して、
「そこを入ったところの店じゃ。一つしかないはずじゃからすぐわかる」
「そうですか、ありがとうございます。行こう、ルーパス」
礼を言ってアカメは立ち上がり、路地へ入ろうとした時、
「若いの、気をつけることじゃ」
老人が呟いた言葉に、アカメは無言で頷いて路地に入った。
ランタンの明かりにぼんやり照らされた路地を進んでいくと、一つの店を見つけた。どうやら人を売っているらしいその露店には、首に鉄製の輪をはめられた子どもが生気のない目で座っている。
アカメはなるべく子どもたちに目を向けないようにして、店主の前で足を止めた。
「失礼、ちょっとお尋ねしてもいいですか?」
「何か?」
素っ気ない返事が返って来た。声を聞く限り男のようだった。
「この女性を見た覚えはありますか?」
写真を店主に渡すと、店主はしばし眺めて、アカメに写真を返した。
「その女なら二週間くらい前にここに来たな。装飾品の換金をしていったよ」
「彼女がどこへ行ったかわかりますか?」
「東の方に街はあるかって聞かれたな。ここから東南に行くと大きな街があるって教えておいたから、たぶんそこじゃないかと思うが」
「そうですか、ありがとうございます」
そう言って立ち上がったアカメに、店主が声をかける。
「あんた、昼間にガキ連れてたよな?」
アカメの動きが止まる。
「あのガキは連れか? それとも商品として売りに来たのか?」
「……」
「あのガキはいい商品になるぜ。金に困ってるんだったら、俺が高く買い取――」
店主はその先を言えなかった。
アカメが抜いた大振りのナイフが、喉元に突きつけられていたからだ。足元では、ルーパスが牙をむいて店主を睨んでいる。
「連れに手を出すな」
低い声でそれだけ言うと、アカメは素早くナイフをしまって踵を返した。店主は力なく笑って脱力し、額に滲んだ汗を拭う。そんな店主を横目で一瞥してルーパスはアカメの後を追った。
暗い部屋で目を開けると、人の気配が感じられなかった。
ユエは目を擦りながら起き上がって部屋の中を見回すが、アカメの姿もルーパスの姿もない。
「アカメ……?」
呼びかけても返事はない。
「ルーパス……?」
やはり返事はない。
「どこ行っちゃったの?」
暗く静かな部屋で独り、という状況を理解し、ユエの心に不安が広がっていく。
堪らずベッドから下りて部屋を飛び出した。暗い廊下に足が竦んだが、思い切って階段を駆け下り、宿の扉を開いて外へ出る。
冷たい風がユエの体を容赦なく冷やした。ワンピース一枚では、風から身を守ってもらうにはあまりにも弱く、ユエは体を抱くように腕を回して縮こまる。
「アカメぇ……」
泣きだしそうになりながらも、ユエは暗がりに向かってアカメの名を呼んだ。
しかし、返事はない。
探しに駆け出したい気持ちと、暗闇への恐怖がせめぎ合い、ユエはその場から動けずにいた。
そこでユエは、夕方アカメが、夜に露店が出ると言っていたことを思い出す。服を買ってもらった店の店主も、夜に店が出るというようなことを言っていた記憶がある。
露店があったところに行けば、アカメとルーパスがいるかもしれない。
ユエはそう考え、恐怖を振り切って駆け出した。
昼間には賑やかだった通りは、ランタンの明かりが点在するだけの薄暗い場所に変わっていて、ユエはきょろきょろと辺りを見回す。露店や通りに人の姿は疎らで、アカメとルーパスらしい姿は見当たらない。
暗い顔をした人の刺すような視線が怖くなって、ユエは逃げるように近くの路地に入った。通りよりもランタンが減ってさらに暗い道を、壁伝いに歩いていく。
寒さで小刻みに震え始めた体が、歩みを鈍らせる。
暗がりの中で、両手で肩を抱くようにしてその場にしゃがみこむ。視界に入る自分の爪先がだんだん歪んでいった。遂には涙が溢れ、ぽつぽつと地面に染み込んでいく。
ユエの心を、孤独と恐怖が蝕んでいった。
アカメとルーパスはどこに行ってしまったんだろう。
自分は置いて行かれたのかもしれない、という思いを抱き始めた頃、暗がりから足音が聞こえてきた。ハッとなって顔を上げると、見知らぬ男が目の前に立っていた。
「お嬢ちゃん、一人か?」
「……誰?」
男はそれに答えず、ユエの前にしゃがんだ。
「こんなとこじゃ寒いだろ、俺んちにおいで」
「でも、アカメを探さなきゃ」
「連れか?」
「うん」
ユエが頷くと、男は笑ってユエの肩に手を置いた。
「それなら一緒に探してやろう。だが、まずは俺んちで温かいもん出してやるからおいで」
その男の言葉で、今までの不安で固まっていたユエの心が少し和らぎ、さらに目に涙が滲んだ。
「本当?」
「あぁ、本当だとも!」
男はそう言って、立ち上がるとユエに手を差し出した。ユエも立ち上がると、男の手を取って路地のさらに奥へと歩き出す。
ユエは知る由もなかった。
男が人攫いの商人であることなど。
村以外の場所を知らず、人が商品になるなど思ってもいないユエは、そのことに気づくはずもなかった。
そうして、見知らぬ男と共に路地の奥へと向かおうとした時だった。
二人の進行方向の暗がりから人がやって来た。そしてその足元には一匹の狼の姿。
ユエが目を凝らすと、そこには驚いたように目を見開いているアカメとルーパスの姿があった。
「アカメ! ルーパス!」
「ユエ!? 何してるんだ、こんなところで!」
ユエの姿を見て声を上げたアカメは、ユエに駆け寄った。
ユエもアカメの方に駆け寄ろうとしたが、男に手を引かれてその足が止まる。
わけがわからない様子でユエは男を見上げたが、男は踵を返してユエの手を引いて走り出した。男に引き摺られるように引っ張られ、ユエは叫ぶ。
「やだ! 離して!」
男の手を引き剥がそうとするが、大の大人の力に子どもが敵うはずもなかった。
「ルーパス!」
走り出した男を見て、アカメは叫んだ。
即座に反応したルーパスが男を追いかける。あっという間に追いついたルーパスは、男の足に噛みついた。
「ぃぎぁっ!」
喉が潰れたような悲鳴を上げて男はユエと一緒に地面に転がった。まだ男の手がユエを掴んでいるのを見て、ルーパスはさらに牙を喰い込ませる。
「このっ……離せ!」
男がもう一方の足をルーパスに振り下ろそうとした時、追いついたアカメの足が男の顔を蹴り上げた。
仰け反るようにして倒れた男は意識を失ったらしく、ユエの腕を掴む手から力が抜ける。それを見てルーパスも男の足から牙を抜いた。倒れた男を見て呆然と座り込むユエに、アカメは慌てて駆け寄った。
「ユエ!」
その声に、ユエは顔を上げてアカメを見た。
すると、ユエは何も言わずに抱きついて、困惑するアカメを余所に声を上げて泣き始めた。
「どうした!? どこか怪我したか?」
「っ……アカメぇ……どこ行ってたのぉ?」
「娘、我らを探しに出てきたのか?」
「だ、だって……起きたら、二人……いないから……お、置いて行かれたのかもって……思って……!」
アカメとルーパスは顔を見合わせ、バツが悪そうに視線をユエに移した。
「……悪かったな。勝手にいなくなったりして」
「主、早く戻った方がいい。ここは危険だ。それに娘の体が冷えるぞ」
ルーパスに言われてアカメはユエの体を抱き上げると、足早に宿に戻り、さっさと部屋に入って鍵を閉めた。
ユエがしがみついて離れなかったので、抱いたままベッドに腰掛け、ルーパスはアカメの足元に座ってユエの様子を見やる。
幸い、怪我は男と一緒に転んだ時に膝を擦りむいた程度で、大したことはなかった。腕には男の手の形に痕が残っていたが、長く残るような痕ではなさそうで、アカメはホッとする。しゃくり上げながら泣き続けるユエの背中を、アカメは黙ってポンポンと叩いてあやした。
「娘、いい加減泣きやめ」
「いいんだ、ルーパス。ユエ、悪かったな。心配かけた」
「……っく、ご、ごめんなさい」
「謝ることはない。黙っていなくなった俺たちが悪かった。怖い思いをさせたな」
震えているユエの体を摩って、アカメはゆっくりと体を小さく揺らす。
「大丈夫だ。俺たちはお前を置いていなくなったりしないから、な?」
「……もう、いなくならない?」
「あぁ、約束だ」
安心させるように、アカメは力強く答えた。
そうしてあやしている内に、ユエは泣き疲れたのか眠ってしまったので、起こさないようにベッドに寝かせてやる。
「大丈夫か、主?」
「あぁ。だが、さすがに少し肝が冷えた」
「よかった、というべきなのだろうな」
「出くわしたことが幸運だった。あのまま連れて行かれてたら、もう二度と見つけられなかったかもしれない」
先程の老人とのやりとりを思い出して、アカメはため息をつく。
「嫌な時代だ……人も商品になるなんてな」
「時代などそれほど変わらんだろう。いつの時代も、同じようなものだ」
「随分達観したようなことを言うんだな」
笑って言うアカメに、ルーパスは不満そうに鼻を鳴らした。
「我を年寄りとでも言うつもりか?」
「そんなつもりはないさ。実際、生きた時間は俺より短いだろ?」
「……そうだな」
アカメは伸びをすると、ベッドから立ち上がってタオルを手に取った。
「シャワーを浴びたら俺も寝るよ。お前は先に休んでな」
「あぁ、そうさせてもらおう」
答えたルーパスは、軽やかにソファに飛び乗ると伏せて目を閉じた。それを確認して、アカメはシャワールームへ入る。さっさとシャワーを済ませたアカメは、濡れた髪を拭くのも程々に、ユエの隣に横になった。
目を赤く腫らして眠っているユエの頭を撫でる。
その寝顔を見て、今夜は間に合ってよかった、と心の底から思った。
人攫いの商人はどこにでもいて、特に夜に子どもが一人で出歩くことは攫ってくれと言っているようなものなのだ。
あのまま連れて行かれていたら、ユエはもうここにいなかったかもしれない。
そう考えると、アカメは背筋が寒くなるのを感じた。これまで感じたことのなかった、失うことの恐怖を身を持って感じた夜だった。
ユエの手をそっと握り、その寝顔を見つめながらアカメも目を閉じて、眠りについた。
朝、目が覚めると目の前にアカメの寝顔があった。
ゆっくり瞬きをしながら、ユエはアカメの手が自分の手を握っているのに気づく。そっと体を起こして部屋を見回すと、ソファには眠っているらしいルーパスの姿もあった。ユエはただそれだけで全身の力が抜けるような気分だった。窓からは、昇ったばかりの朝日が差し込み、昨夜の不気味な薄暗さが嘘のような爽やかな朝だ。
もしかしたら、昨夜のことは夢だったのかもしれない。
しかし、ユエの腕に残った痕と膝を擦りむいた傷がその考えを否定した。
連れて行かれそうになった時のことを思い出して小さく身震いすると、ユエはアカメを起こさないようにそっと元の位置に横になる。アカメの胸に顔を押し付けて、もう一度目を閉じた。
そうしている内にまた眠ってしまったらしく、目を開けた時にはアカメの姿がなくなっていた。慌ててベッドから起きて部屋を見回すと、ソファにルーパスの姿があったので、ユエは安堵のため息をついた。
「起きたか、娘」
「……おはよう。アカメは?」
部屋にアカメの姿はなく、ベッドの上にはアカメのコートとジャケットが放りだされていた。
「主なら朝食を買いに行った。昨夜のこともあるから、朝食は部屋で済ませようということだ」
「……うん」
落ち込んでいる様子のユエを見て、ルーパスはベッドに座っているユエに歩み寄り、その膝に顎を乗せた。
「ルーパス?」
「いつまでも気を落とすな。己の身が無事だったことを喜べ、娘」
「……私、荷物じゃない? 邪魔じゃない?」
連れて行って欲しいと頼んだのは自分だったが、ユエは何の力にもなれない自分が旅の重荷になっているのではないかという不安をずっと抱えていた。
人一人を養うことは簡単なことではない。それは苦労する母の姿を覚えているユエにはよくわかっていた。
そして昨夜のこともあり、その思いはさらに大きいものになっていた。
自分は、アカメの荷物にしかなっていないのではないかと。
「主が娘を邪魔だと思うのであれば、我がとっくに娘を喰っている」
物騒な言葉に、ユエは何も言えず俯いた。
「だが、主はむしろ娘がいることで穏やかになったように思う。我が勝手に思っているだけだがな」
「本当?」
「信じろ、娘。少なくとも主や我の言葉くらいはそうしても罰は当たるまい」
「……うん、ありがとう」
ユエは微笑んでルーパスの頭を撫でた。しばしされるがままのルーパスだったが、唐突に頭を上げた。
「どうしたの?」
「主が返ってきたようだ。娘、朝食の前に顔を洗って来い」
「うん!」
ユエは頷いて、タオルと一緒にシャワールームへと入っていった。
バスルームへ入ったユエと入れ替わるようにして、アカメが部屋に入って来た。白いシャツに黒のパンツ姿で、その手には細長いパンが突き出た紙袋を持っている。
「ただいま、ユエは?」
「今顔を洗っている」
「そうか」
テーブルの上に紙袋を置いて、中身を広げ始めた。
「主、異常はなかったか?」
「あぁ。さすがに裏の奴らも朝には眠っているらしい。路地の奥に昨日の老人は見かけたが」
「そうか」
「飯を済ませたらすぐに発つから、そのつもりでな」
「承知した」
そこへ、ユエがシャワールームから顔を出した。
「アカメ、おかえり!」
「ただいま。顔は洗ったか? 飯にするぞ」
「うん!」
アカメはポケットから折り畳みナイフを取り出すと、細長いパンを均等な厚さに切っていく。その作業を見ていたユエが口を開いた。
「私も何か手伝う!」
「え? そうだな……じゃあこの切ったパンにこれ塗ってくれるか?」
アカメがユエの前に置いたのは、丸い蓋の付いたアルミ製の小さなケースで、開けるとふんわりとバターのいい香りがした。ユエはスプーンでパンにバターを塗っていく。
パンを切り終えたアカメは、ユエがバターを塗ったパンに地物の野菜と旅の商人から買ったハムを切って乗せ、それをもう一枚のパンで挟んだ。
「ルーパスも同じの食べるの?」
「いや、ルーパスにはハムの残り」
商人から買ったハムは、二人で食べるには多かったので、残りをルーパスにと思って買ってきたのだった。
「我は塩辛いのは苦手だぞ」
「その辺もちゃんと聞いて買ってきたから大丈夫だ。ほら、ルーパスの分」
ハムを乗せた皿をルーパスの前に置き、アカメとユエはソファに座った。
「いただきまーす!」
「いただきます」
手を合わせて食べ始めた二人を横目に、ルーパスは丁寧に切り揃えられたハムに口をつけた。
「少し休んだら出発するから着替えておきな」
「はーい」
朝食と片付けを済ませたアカメは荷物の整理をしながらユエに声をかける。ユエは昨日買ってもらった服を持ってシャワールームへ入っていった。
「着替えくらいで部屋を変える必要がどこにあるのだ?」
疑問を口にするルーパスに、アカメは笑ってジャケットを羽織った。
「そういう年頃なんだよ」
「……ふむ、よくわからんな」
「お前は狼だからな」
「そういうことは人間にしかわからぬことか?」
「そういうものなんじゃないか」
ベルトにクロスボウとポーチを下げて、コートを羽織ったアカメはバックパックを背負った。
「ユエ? 着替えたか?」
シャワールームの方へ声をかけると、ゆっくりとドアが開いてユエが顔を半分だけ出した。
「どうした?」
「……へ、変じゃない?」
アカメは苦笑する。
「見てみないと何とも言えないな。ほら、こっちおいで」
手招きされておずおずとシャワールームを出たユエは、薄い翡翠色のワンピースと鼠色のレッグウォーマーにこげ茶色のブーツ姿でその場に立った。
首からはアカメにもらった笛を下げている。それを見て、アカメは満足げに頷いた。
「うん、やっぱりこの色がよかったな。ユエの髪の色とよく合ってる」
「ほ、本当?」
「あぁ、ルーパスもそう思うだろ?」
促されたルーパスも同意する。
「少なくとも、あの破けた服よりはずっといいだろう」
それを聞いて、ユエは不安げな表情を崩し、恥ずかしそうに微笑んだ。
「えへへ……ありがとう」
「じゃあ、もう一つこれもな」
アカメはユエの首にマフラーを巻いてやった。アカメが身につけているものと同じ飴色のマフラーだった。
「これ、どうしたの?」
「飯を買いに行った時にたまたま見つけてな。俺と同じような服はさすがにどうかと思ったが、これならいいだろうと思って」
「いいの? いっぱい買ってもらっちゃって……」
「いいんだ。子どもは素直に甘えておけ」
笑って頭を撫でるアカメに、ユエは一瞬申し訳なさそうに俯いたが、すぐに笑顔になってアカメに抱きついた。
「アカメありがとう!」
「喜んでもらえたなら、俺も嬉しいよ」
笑い合う二人をやれやれといった様子で眺めながらルーパスは密かにため息をついた。
「あぁ、そうだ」
アカメは思い出したようにバックパックを下ろして、中から黒い箱を取り出した。
「それ何?」
「カメラっていうんだ」
アカメはカメラを掲げて、
「せっかくだから写真を撮っておこう。ほら、そこに立って」
窓からよく光が当たる場所を指差した。
そこに緊張しているのか、硬い表情でユエが立つ。
そんなユエに苦笑しながら、アカメはレンズを覗いてシャッターを押した。カシャッと音がしてレンズの下の隙間から紙が吐き出され、それを手に取る。
自動現像型のカメラなので、吐き出される際に撮った写真が専用のフィルムに現像される仕組みだ。その仕組みがわからないユエには、何が起こっているのかわからないようで、頭の上に疑問符を浮かべてアカメを見ている。
「うん。ちょっとぎこちないが、良く撮れた」
満足げに頷いてユエに写真を渡す。
それを恐る恐る両手で丁寧に受け取ったユエは、写真に映った自分の姿を見て、おぉと声を上げた。
「これ、私?」
「あぁ」
「私、こんななんだー」
「鏡とか見たことなかったか?」
「うん。家には鏡なかったから」
嬉しそうに自分の写真を眺めるユエに、アカメは微笑んでカメラをバックパックにしまった。
「私のこの髪の色、お母さんと一緒だ」
「そうなのか」
「でも、目の色は違う」
「目は父親譲りなのか?」
ユエはうーん、と唸って首を傾げた。
「お父さんのこと、覚えてないの」
「そうなのか」
「でも、この目アカメとお揃いだね!」
笑って言うユエに、アカメは複雑な表情をしたが、すぐに微笑んで立ち上がり、バックパックを背負った。
「もう行く?」
ユエは写真をワンピースのポケットに大事そうに入れた。
「あぁ、忘れ物は無いだろ?」
「うん」
「じゃあ、行こう」
アカメに促されてユエとルーパスは部屋を出て、アカメも続いて部屋を出た。
宿の主に鍵を返し、礼を言って宿を出る。
露店が並ぶ通りは、昨日と同じ活気を見せていた。商人たちの客寄せの掛け声が聞こえてくる。
「今日はどこに行くの?」
「この街から東南の方向に行けば、大きな街があるそうだ。そこに行く」
「遠いの?」
「地図を見る限り、長くなりそうだ」
「そっかー」
「小さな村も点在してるみたいだし、歩き通しにはならないと思うが。疲れたら言えよ?」
「うん」
「主」
ルーパスが低い声でアカメを呼ぶ。
「早く行った方がよさそうだ」
「あぁ、わかってる」
アカメはユエの手を取ると、足早にその場を後にした。
路地の奥から目を光らせている暗い顔の商人たちを警戒しながら、アカメたちはカウフの街を出て、東南へと向かった。