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『「君との約束は忘れていた」と笑った婚約者へ。私は最後の一曲だけ踊りたかったのです』

掲載日:2026/11/04

「君との約束は忘れていた」と笑った婚約者へ。私は最後の一曲だけ踊りたかったのです


雨の降る前には、決まって左の足首が疼く。


十歳の冬、凍りついた石段から滑り落ちて以来、私の足には消えることのない傷が残った。


普段の生活に大きな支障はない。けれど、長く歩けば足を引きずり、無理に身体をひねれば鋭い痛みが走る。


ましてや、貴族の夜会で踊るような華麗な舞踏など、私には縁のないものだと思っていた。


――あの人が、約束してくれるまでは。


「大丈夫よ、ロザリン。きっと踊れるわ」


姿見の前で、私は自分に言い聞かせた。


薄紅色のドレスは、今日のために仕立てたものだった。裾には小さな薔薇の刺繍が施され、動くたびに柔らかな光を返す。


左足首には、いつものように薄い布を巻いている。


今夜は、私とギルバート・アシュフォード様の婚約を正式に披露する夜会だ。


子爵家の娘である私と、由緒ある伯爵家の嫡男であるギルバート様。


家格の違いを理由に、陰口を叩かれたことも一度や二度ではなかった。


それでも、私は幸せだった。


彼はかつて、私の足のことを知っても、優しく微笑んでくれたから。


二年前の春。


庭園を散歩していた私の足が痛み、途中で立ち止まってしまったことがあった。


申し訳なくて俯く私に、彼はこう言った。


「どうして謝るんだい、ロザリン。僕が君の歩幅に合わせればいいだけだろう?」


そう言って、私が歩き出すまで待っていてくれた。


あの日のことを、私は今でも覚えている。


春の風に揺れる若葉も、彼の手の温かさも、蜂蜜色の瞳に浮かんだ優しい笑みも。


だから、信じたのだ。


その数か月後、庭の東屋で彼が囁いてくれた約束を。


「君の足のことは知っている。無理に夜会で踊る必要なんてないよ。でも、結婚する前に一度だけ、二人で踊ってみないか?」


「私が、ですか?」


「そう。君と僕だけで、ゆっくりした曲を一曲。きっと素敵だと思うんだ」


私は嬉しくて、何度も頷いた。


その日から、私には小さな夢ができた。


たった一曲。


彼の手を取って、最後まで踊りきること。


それだけでよかった。


*


一年間、私は踊り続けた。


朝露の残る庭で。


夕暮れの差し込む小さな部屋で。


足首が熱を持ち、立っていることさえ辛くなる日にも。


もちろん、最初から上手くいったわけではない。


一歩踏み出すたびに身体が傾き、回転しようとすれば足がもつれた。


何度も転び、何度も泣いた。


「お嬢様、今日はもうお休みになっては」


そう声をかけてくれたのは、子爵家に長く仕える老楽師のエドガーだった。


白髪の混じった髪に、深い皺の刻まれた顔。


若い頃は王都の楽団に所属していたという彼は、今では古びたヴィオラを抱え、私の練習に付き合ってくれていた。


「もう少しだけ、お願いできる?」


「ですが、お足が」


「あと一度だけ。今度こそ、上手く回れる気がするの」


エドガーは困ったように笑い、それでも弓を構えてくれた。


ある日、私はとうとう尋ねた。


「ねえ、エドガー。私の踊りは、やっぱり変かしら」


彼はしばらく考えてから、静かに答えた。


「ほかの方と同じようには踊れないかもしれません」


胸が小さく痛んだ。


けれど、彼は続けた。


「ですが、お嬢様。音楽は、すべての人に同じ歩幅を求めるものではございません」


「同じ歩幅では、なくても?」


「ええ。大切なのは、ご自分の足で音を感じることです」


その意味を、当時の私はまだよく理解していなかった。


ただ、ギルバート様と踊りたかった。


彼の隣に立っても、恥ずかしくない自分になりたかった。


だから、練習を続けた。


やがて私は、ゆっくりとした三拍子なら、どうにか最後まで踊れるようになった。


完璧ではない。


左足を引くときには、ほんの少し身体が揺れる。


回転も、ほかの令嬢たちほど軽やかではない。


それでも、私は嬉しかった。


ようやく、あの人との約束を叶えられる。


そう信じていた。


*


夜会の大広間は、百本もの蝋燭と薔薇の香りに包まれていた。


高い天井には巨大なシャンデリアが輝き、磨き上げられた大理石の床には、色鮮やかなドレスの裾が映り込んでいる。


私は柱の陰に立ち、ギルバート様の姿を探していた。


今夜、楽団にはあらかじめお願いしてある。


最後の舞踏曲には、あの日、彼が口ずさんでくれた緩やかな三拍子の曲を演奏してほしい、と。


ギルバート様には、まだ伝えていない。


きっと驚いてくださるだろう。


そして、笑って手を差し伸べてくださるだろう。


そんな光景を思い浮かべるだけで、胸がいっぱいになった。


けれど。


「まあ、ギルバート様! 昔と少しもお変わりになりませんのね!」


華やかな笑い声が聞こえた。


大広間の中央。


人々の視線を集めながら、ギルバート様が一人の令嬢と踊っていた。


鮮やかなカナリア色のドレス。


艶やかな金髪。


彼の幼馴染である、セリア・ランバート様だった。


二人は見事なほど息が合っていた。


彼が手を差し伸べれば、セリア様は軽やかに回る。


彼女が笑えば、彼も笑う。


その蜂蜜色の瞳には、私がずっと恋い焦がれていた輝きがあった。


私は思わず、自分の左足を見下ろした。


どれほど練習しても、あんなふうには踊れない。


そんなことは、最初から分かっていた。


それでも。


今夜の最後の一曲だけは、私のものだと思っていた。


曲が終わり、盛大な拍手が起こる。


ギルバート様はセリア様の腰に手を添えたまま、私のいる壁際へと歩いてきた。


「やあ、ロザリン。そこにいたのかい」


「ギルバート様……」


「見てくれたかい? セリアの踊りを。昔から僕たちは息がぴったりでね」


彼は心底楽しそうだった。


セリア様も扇の陰で微笑む。


「ごめんなさいね、ロザリン様。懐かしくなって、私からおねだりしてしまいましたの」


「いいえ……」


私は小さく首を振った。


彼がほかの令嬢と踊ること自体を、責めたいわけではなかった。


貴族の夜会では、珍しいことではない。


ただ、私にも一曲だけ。


約束してくれた、あの一曲だけでいい。


「ギルバート様」


私は勇気を振り絞った。


「次の曲を、私と踊っていただけませんか」


彼は目を瞬かせた。


「君と?」


「はい。以前、約束してくださいましたでしょう? 結婚する前に、一度だけ、二人で踊ろうと」


ほんの一瞬、彼の表情が止まった。


それから、可笑しそうに笑った。


「ああ、そんな約束をしたっけね」


私は息を呑んだ。


「すっかり忘れていたよ」


その言葉は、驚くほど軽かった。


悪意など、少しもなかった。


ただ、本当に忘れていたのだ。


私が一年間、大切に抱きしめてきた約束を。


雨の日も、雪の日も。


足が痛くて眠れなかった夜も。


何度も思い出しては、明日も頑張ろうと自分を励ましてきた、あの約束を。


彼は、忘れていた。


「でも、ロザリン。君は足が悪いだろう?」


ギルバート様は困ったように眉を下げた。


「無理をして転んだらどうするんだい。僕まで恥をかいてしまうじゃないか」


「……恥、ですか」


「そうだよ。今夜は僕たちの婚約披露なんだ。余計な騒ぎは起こしたくない」


私は彼の顔を見つめた。


ふと、二年前の春を思い出した。


私が足を痛めたとき、彼は言ってくれた。


『僕が君の歩幅に合わせればいいだけだろう?』


あの言葉は、嘘だったのだろうか。


それとも。


あの頃は、本当にそう思ってくれていたのだろうか。


分からなかった。


ただ、今、目の前にいる彼は、私の歩幅に合わせようとはしてくれない。


「練習、したのです」


気づけば、そう口にしていた。


「一年間、ずっと。ご迷惑をおかけしないように、何度も……」


「ロザリン」


「ゆっくりした曲なら、踊れるようになりました。ですから、一曲だけでいいのです」


私は手を差し出した。


薄紅色の手袋に包まれた指先が、小さく震えていた。


「どうか、最後まで……」


ギルバート様の顔から笑みが消えた。


「いい加減にしてくれないか」


低い声だった。


「君の足を気遣っているのに、どうしてそんなに我儘を言うんだい?」


「我儘……」


「それに、そんな泣きそうな顔をするなよ。みっともない」


隣でセリア様が、気まずそうに扇を持ち直した。


けれど、何も言わなかった。


ギルバート様はため息をつく。


「セリアと踊って疲れたんだ。少し休ませてくれ」


そう言うと、彼は私に背を向けた。


「行こう、セリア」


「ええ、ギルバート様」


二人は並んで、華やかな人波の中へ消えていった。


私は差し出した手を、ゆっくりと下ろした。


誰にも握られなかった手だった。


*


不思議なことに、涙は出なかった。


怒りも湧かなかった。


ただ、胸の奥に大きな穴が開いたようだった。


一年間。


三百六十五日。


毎日、少しずつ練習した。


痛みに耐えながら、一歩ずつ足を運んだ。


あの人が笑って手を差し伸べてくれる瞬間を、何度も想像した。


けれど、彼にとっては。


忘れてしまうほど、ささやかな約束だったのだ。


私は壁に手をついた。


左足首が、ずきりと疼いた。


雨が近いのかもしれない。


いつの間にか、楽団が最後の曲を奏で始めていた。


あの三拍子だった。


私は顔を上げた。


広間の中央では、別の男女が楽しそうに踊っている。


ギルバート様の姿は、もう見えなかった。


私はそっと目を閉じた。


ああ。


この曲を聴くために、私は一年間頑張ってきたのに。


それなのに。


どうして、こんなにも寂しいのだろう。


やがて曲が終わり、招待客たちは晩餐のために隣の広間へと移っていった。


笑い声も、足音も、少しずつ遠ざかっていく。


気づけば、大広間には私一人が残されていた。


「……お嬢様」


背後から、懐かしい声がした。


振り向くと、エドガーが立っていた。


くたびれた礼服を着て、年季の入ったヴィオラを抱えている。


「エドガー……」


「皆様、晩餐へ向かわれましたよ」


「そうね」


私は笑おうとした。


けれど、上手くいかなかった。


「ねえ、エドガー」


「はい」


「私の踊りは、そんなに恥ずかしいものなのかしら」


老人の眉が、悲しそうに寄った。


「私は、上手に踊りたかっただけなの」


言葉が溢れた。


「誰よりも美しくなくていい。セリア様みたいに軽やかでなくてもいい。ただ、あの人と一曲だけ……」


そこで、声が途切れた。


「一曲だけ、踊りたかったの」


とうとう涙が落ちた。


エドガーは何も言わなかった。


ただ、私が泣き止むまで、静かに待っていてくれた。


やがて彼は、ゆっくりとヴィオラを持ち上げた。


「ロザリン様」


「……なあに?」


「今夜、私はまだ、お嬢様のために一曲も演奏しておりません」


私は目を瞬かせた。


「ですが、もう舞踏は終わりました」


「いいえ」


老人は静かに首を横に振った。


「お嬢様の舞踏は、まだ終わっておりません」


彼は弓を構えた。


「最後の一曲を、私に演奏させていただけませんか」


「でも……踊る相手がいないわ」


「本当に、そうでしょうか」


エドガーは穏やかに微笑んだ。


「お嬢様は、一年間、誰の足で練習してこられましたか?」


私は俯いた。


自分の足だった。


痛くて、重くて、思うように動かない。


それでも、何度も立ち上がってきた、この足だった。


「誰かに手を引かれなければ、踊ってはいけないのでしょうか」


「……そんなことは」


「では、どうぞ」


エドガーの弓が、ゆっくりと弦に触れた。


低く、柔らかな音が広間に響く。


あの曲だった。


何百回も練習した、緩やかな三拍子。


私はドレスの裾を持ち上げた。


誰も見ていない。


拍手もない。


差し伸べられる手もない。


けれど。


私は右足を、一歩前へ踏み出した。


一、二、三。


一、二、三。


踵から爪先へ、ゆっくりと体重を移す。


左足を引く。


少し痛む。


それでも、私は踊った。


一度、身体がぐらりと傾いた。


思わず足を止めそうになる。


いつもなら、ここで最初からやり直していた。


もっと上手に。


もっと綺麗に。


誰にも笑われないように。


けれど、その夜は違った。


私は小さく息を吐き、次の拍子に合わせて足を踏み出した。


間違えてもいい。


少し不格好でもいい。


だって、今、私を笑う人は誰もいないのだから。


いや。


たとえ誰かが笑ったとしても。


私は、踊っていいのだ。


一、二、三。


一、二、三。


薄紅色の裾が、ふわりと広がる。


蝋燭の光が、涙に濡れた視界の中で星のように揺れた。


足首は痛かった。


左足は、やはり少し重かった。


けれど、その重みが愛おしかった。


十歳の冬、石段から落ちたあの日。


私はもう二度と、普通の令嬢のようには踊れないと思った。


何度も自分の足を恨んだ。


どうして私だけが、と泣いた夜もあった。


でも、この足は。


私をここまで運んでくれた。


転んでも、立ち上がって。


痛くても、一歩ずつ進んで。


今日、この場所まで。


私を連れてきてくれた。


「……ありがとう」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


エドガーに。


これまで支えてくれた人々に。


それとも、ずっと嫌っていた自分の足に。


私は踊り続けた。


ギルバート様のためではない。


伯爵家にふさわしい妻になるためでもない。


誰かに選んでもらうためでもない。


ただ、私が踊りたかったから。


音楽が好きだったから。


この身体で、この世界を感じたかったから。


最後の旋律が、夜の天井へと溶けていく。


私はゆっくりと足を揃え、深く頭を下げた。


完璧な舞踏ではなかった。


途中で一度、足がもつれた。


回転も少し遅れた。


それでも。


私は、最後まで踊った。


エドガーが静かに弓を下ろす。


「見事な舞踏でした、ロザリン様」


「……失敗したわ」


「ええ。少しだけ」


老人は優しく笑った。


「ですが、私は今までで一番美しい踊りを拝見しました」


私は胸に手を当てた。


そこにはまだ、悲しみがあった。


ギルバート様を好きだった気持ちも、簡単には消えなかった。


けれど、それとは別の場所に、小さな温かさが生まれていた。


「エドガー」


「はい」


「私、もう一度踊りたいわ」


老人は目を細めた。


「もちろんですとも」


「今夜ではなくて、明日も。その次の日も」


私は涙を拭った。


「誰かと約束したからではなく、私が踊りたいから」


その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。


私はようやく、自分自身に許しを与えられた気がした。


*


翌朝、私は婚約解消を申し出た。


父は驚いたが、理由を聞くと、静かに頷いてくれた。


ギルバート様からは、すぐに手紙が届いた。


『たった一曲踊れなかったくらいで、大げさではないか』


そう書かれていた。


私は返事を書いた。


『おっしゃるとおり、たった一曲のことです。ですが、あなたにとって取るに足らない約束が、私にとっては何より大切なものでした』


しばらく筆を止めた。


そして、最後に一行だけ書き添えた。


『これからは、互いに大切なものを大切にできる人生を歩みましょう』


それが、私から彼に送った最後の言葉になった。


もちろん、すべてが簡単に済んだわけではない。


婚約解消を知った人々は、好き勝手に噂した。


足の悪い子爵令嬢が、せっかくの良縁を逃した。


身の程を知らない。


きっと後悔するだろう。


そんな言葉も耳にした。


実際、私自身、夜になると不安になった。


本当にこれでよかったのだろうか。


もう二度と、誰にも選ばれないのではないだろうか。


けれど、そんな夜には、エドガーのヴィオラを思い出した。


誰もいない大広間。


蝋燭の光。


そして、自分の足で踏み出した、あの一歩を。


私は翌朝になると、また踊った。


少しずつ、踊ることそのものが好きになっていった。


やがて、私の練習を見ていた使用人の娘が、遠慮がちに尋ねてきた。


「お嬢様。私にも、踊りを教えていただけませんか?」


彼女は生まれつき片方の足が少し短く、人前で踊ることを諦めていた。


私は彼女の手を取った。


「もちろんよ。一緒に踊りましょう」


それが、すべての始まりだった。


*


――五年後。


王都の外れにある石造りの洋館からは、今日も朗らかなピアノの音が流れている。


「そう、急がなくていいのよ。自分の足が床に触れる感覚を、ゆっくり確かめて」


私は生徒たちの間を歩きながら、声をかけた。


ここは、私が三年前に開いた小さな舞踏教室だ。


貴族の令嬢だけではない。


町娘も、働く女性も、身体に傷や障害のある人も通っている。


夜会で誰かの目を引くためだけの踊りを教える場所ではない。


自分の身体を知り、自分の歩幅を大切にするための場所だ。


もちろん、最初は苦労も多かった。


「足の悪い女性が舞踏を教えるなんて」


そう笑う人もいた。


けれど、私はもう、誰かの笑い声を恐れて踊ることをやめたりしなかった。


生徒は一人から三人になり、三人から十人になった。


今では遠方から訪れる人もいる。


私の左足首は、相変わらず雨の前になると疼く。


無理をすれば、翌朝には腫れることもある。


だから私は、休むことも覚えた。


痛みに耐えることだけが、強さではないと知ったから。


「先生、お手紙が届いております」


助手が銀盆を差し出した。


そこには、見覚えのある伯爵家の紋章が押された封書があった。


ギルバート様からだった。


彼は婚約解消後、セリア様との交際を続けたものの、派手な浪費と投資の失敗で伯爵家の財産を大きく減らしたという。


今ではかつての友人たちも離れ、夜会に姿を見せることさえ少なくなったらしい。


半年ほど前から、彼は私に復縁を求める手紙を寄越すようになっていた。


最初の手紙には、こう書かれていた。


『今なら、君の気持ちが分かる気がする』


私はその言葉を読んで、少しだけ悲しくなった。


彼が本当に理解したのかどうか、私には分からない。


けれど、たとえ理解してくれたとしても。


もう、戻ることはできなかった。


あの夜の私が欲しかったのは、五年後の謝罪ではない。


ただ、約束を覚えていてくれることだった。


一緒に踊ろうと、手を差し伸べてくれることだった。


それだけだったのだ。


私は新しい封書を開けずに、机の端の籠へ入れた。


憎んではいない。


不幸になってほしいとも思わない。


ただ、私の人生にはもう、彼のために空けておく場所がなかった。


「先生」


小さな声がした。


振り向くと、教室に通い始めたばかりの少女が立っていた。


左右の足の長さが少し違う、十二歳の少女だった。


「どうしたの?」


「私……やっぱり、みんなみたいには踊れません」


少女は俯いていた。


「何度やっても、回るときに身体が傾いてしまうんです」


私は彼女の前にしゃがんだ。


その小さな足を見たとき、昔の自分を思い出した。


誰かと同じように踊れないことが、悲しくてたまらなかった少女。


人前に立つことを恐れ、誰かに認めてもらうために必死だった少女。


私はそっと手を差し出した。


「ねえ、ひとつ教えてくれる?」


「……はい」


「あなたは、どうして踊りたいと思ったの?」


少女はしばらく考えてから、答えた。


「音楽を聴くと、身体が動きたくなるからです」


「そう」


私は微笑んだ。


「私も同じよ」


少女が顔を上げる。


「でも、先生は綺麗に踊れるでしょう?」


「今でも、時々足をもつれさせるわ」


「えっ?」


「本当よ。雨の日には足が痛くて、上手く回れないことだってあるの」


少女は驚いた顔をした。


私はその手を優しく握った。


「でもね、上手に踊れる日も、そうでない日も、私は踊ることが好きなの」


「……私も、好きです」


「だったら、それで十分よ」


ピアノの前に座っていた若い楽師が、こちらを見て微笑んだ。


その傍らには、古びたヴィオラが大切に置かれている。


エドガーが長年使っていたものだ。


彼は昨年、穏やかにこの世を去った。


最後まで、私の教室を誇りに思ってくれていた。


『お嬢様。音楽は、誰の歩幅も拒みません』


今でも、その声が聞こえる気がする。


私は少女の手を取り、ゆっくりと立ち上がった。


「さあ、一緒に踊りましょう」


「でも、私……」


「大丈夫。私があなたの歩幅に合わせるわ」


そう言ってから、私はふと笑った。


かつて、同じような言葉を聞いたことがあった。


けれど、今の私には分かる。


本当に誰かの歩幅に合わせるというのは、その人を自分の速さに引き寄せることではない。


その人が安心して、自分の足を踏み出せるようにすることなのだ。


「焦らなくていいのよ」


私は少女に微笑んだ。


「あなたの歩幅が、あなたにとって一番美しいリズムなのだから」


ピアノの音が流れ始めた。


一、二、三。


一、二、三。


少女の足が、少しぎこちなく床を踏む。


途中で身体が傾き、私の手を強く握った。


「先生、失敗しちゃった」


「ええ。でも、次の音が来るわ」


「……次の音?」


「そう。音楽は、まだ続いているでしょう?」


少女は目を丸くした。


そして、笑った。


私も笑った。


二人で、また一歩を踏み出す。


窓の外には、柔らかな秋の日差しが降り注いでいた。


あの夜、ギルバート様が忘れてしまった約束。


私は長い間、それが叶わなかったことを悲しんでいた。


けれど、今なら分かる。


あの約束がなければ、私は踊ろうとしなかったかもしれない。


あの人に背を向けられなければ、自分の足で踊る喜びに気づかなかったかもしれない。


だからといって、傷つけられてよかったとは思わない。


あの夜の悲しみは、確かに悲しみだった。


けれど、その先をどう歩くかは、私が決められる。


私は、私の足でここまで来た。


そして、これからも歩いていく。


誰かに選ばれるためではなく。


誰かに愛される資格を証明するためでもなく。


ただ、私自身が、この世界を愛しているから。


一、二、三。


一、二、三。


軽やかな音楽に合わせて、少女の笑い声が響く。


私はその手を取り、ゆっくりと身体を回した。


左足首が、ほんの少し疼いた。


それでも、私の心は晴れやかだった。


――ギルバート様。


あなたが忘れた約束を、私は今でも覚えています。


けれど、もう悲しくはありません。


あの夜、あなたと踊れなかった最後の一曲は、私の人生を終わらせる曲ではなかったのです。


あれは、私が私自身のために踊り始めた、最初の一曲だったのですから。


そして今日も、私は踊る。


明日も、その次の日も。


私だけの歩幅で、この愛しい世界を。



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― 新着の感想 ―
音楽って、きっとそういうもの。 ロザリンが、自分の足で示してくれる。
面白い。 泣ける話だなぁ ええ。大切なのは、ご自分の足で音を感じることです カッコいい
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