『「君との約束は忘れていた」と笑った婚約者へ。私は最後の一曲だけ踊りたかったのです』
「君との約束は忘れていた」と笑った婚約者へ。私は最後の一曲だけ踊りたかったのです
雨の降る前には、決まって左の足首が疼く。
十歳の冬、凍りついた石段から滑り落ちて以来、私の足には消えることのない傷が残った。
普段の生活に大きな支障はない。けれど、長く歩けば足を引きずり、無理に身体をひねれば鋭い痛みが走る。
ましてや、貴族の夜会で踊るような華麗な舞踏など、私には縁のないものだと思っていた。
――あの人が、約束してくれるまでは。
「大丈夫よ、ロザリン。きっと踊れるわ」
姿見の前で、私は自分に言い聞かせた。
薄紅色のドレスは、今日のために仕立てたものだった。裾には小さな薔薇の刺繍が施され、動くたびに柔らかな光を返す。
左足首には、いつものように薄い布を巻いている。
今夜は、私とギルバート・アシュフォード様の婚約を正式に披露する夜会だ。
子爵家の娘である私と、由緒ある伯爵家の嫡男であるギルバート様。
家格の違いを理由に、陰口を叩かれたことも一度や二度ではなかった。
それでも、私は幸せだった。
彼はかつて、私の足のことを知っても、優しく微笑んでくれたから。
二年前の春。
庭園を散歩していた私の足が痛み、途中で立ち止まってしまったことがあった。
申し訳なくて俯く私に、彼はこう言った。
「どうして謝るんだい、ロザリン。僕が君の歩幅に合わせればいいだけだろう?」
そう言って、私が歩き出すまで待っていてくれた。
あの日のことを、私は今でも覚えている。
春の風に揺れる若葉も、彼の手の温かさも、蜂蜜色の瞳に浮かんだ優しい笑みも。
だから、信じたのだ。
その数か月後、庭の東屋で彼が囁いてくれた約束を。
「君の足のことは知っている。無理に夜会で踊る必要なんてないよ。でも、結婚する前に一度だけ、二人で踊ってみないか?」
「私が、ですか?」
「そう。君と僕だけで、ゆっくりした曲を一曲。きっと素敵だと思うんだ」
私は嬉しくて、何度も頷いた。
その日から、私には小さな夢ができた。
たった一曲。
彼の手を取って、最後まで踊りきること。
それだけでよかった。
*
一年間、私は踊り続けた。
朝露の残る庭で。
夕暮れの差し込む小さな部屋で。
足首が熱を持ち、立っていることさえ辛くなる日にも。
もちろん、最初から上手くいったわけではない。
一歩踏み出すたびに身体が傾き、回転しようとすれば足がもつれた。
何度も転び、何度も泣いた。
「お嬢様、今日はもうお休みになっては」
そう声をかけてくれたのは、子爵家に長く仕える老楽師のエドガーだった。
白髪の混じった髪に、深い皺の刻まれた顔。
若い頃は王都の楽団に所属していたという彼は、今では古びたヴィオラを抱え、私の練習に付き合ってくれていた。
「もう少しだけ、お願いできる?」
「ですが、お足が」
「あと一度だけ。今度こそ、上手く回れる気がするの」
エドガーは困ったように笑い、それでも弓を構えてくれた。
ある日、私はとうとう尋ねた。
「ねえ、エドガー。私の踊りは、やっぱり変かしら」
彼はしばらく考えてから、静かに答えた。
「ほかの方と同じようには踊れないかもしれません」
胸が小さく痛んだ。
けれど、彼は続けた。
「ですが、お嬢様。音楽は、すべての人に同じ歩幅を求めるものではございません」
「同じ歩幅では、なくても?」
「ええ。大切なのは、ご自分の足で音を感じることです」
その意味を、当時の私はまだよく理解していなかった。
ただ、ギルバート様と踊りたかった。
彼の隣に立っても、恥ずかしくない自分になりたかった。
だから、練習を続けた。
やがて私は、ゆっくりとした三拍子なら、どうにか最後まで踊れるようになった。
完璧ではない。
左足を引くときには、ほんの少し身体が揺れる。
回転も、ほかの令嬢たちほど軽やかではない。
それでも、私は嬉しかった。
ようやく、あの人との約束を叶えられる。
そう信じていた。
*
夜会の大広間は、百本もの蝋燭と薔薇の香りに包まれていた。
高い天井には巨大なシャンデリアが輝き、磨き上げられた大理石の床には、色鮮やかなドレスの裾が映り込んでいる。
私は柱の陰に立ち、ギルバート様の姿を探していた。
今夜、楽団にはあらかじめお願いしてある。
最後の舞踏曲には、あの日、彼が口ずさんでくれた緩やかな三拍子の曲を演奏してほしい、と。
ギルバート様には、まだ伝えていない。
きっと驚いてくださるだろう。
そして、笑って手を差し伸べてくださるだろう。
そんな光景を思い浮かべるだけで、胸がいっぱいになった。
けれど。
「まあ、ギルバート様! 昔と少しもお変わりになりませんのね!」
華やかな笑い声が聞こえた。
大広間の中央。
人々の視線を集めながら、ギルバート様が一人の令嬢と踊っていた。
鮮やかなカナリア色のドレス。
艶やかな金髪。
彼の幼馴染である、セリア・ランバート様だった。
二人は見事なほど息が合っていた。
彼が手を差し伸べれば、セリア様は軽やかに回る。
彼女が笑えば、彼も笑う。
その蜂蜜色の瞳には、私がずっと恋い焦がれていた輝きがあった。
私は思わず、自分の左足を見下ろした。
どれほど練習しても、あんなふうには踊れない。
そんなことは、最初から分かっていた。
それでも。
今夜の最後の一曲だけは、私のものだと思っていた。
曲が終わり、盛大な拍手が起こる。
ギルバート様はセリア様の腰に手を添えたまま、私のいる壁際へと歩いてきた。
「やあ、ロザリン。そこにいたのかい」
「ギルバート様……」
「見てくれたかい? セリアの踊りを。昔から僕たちは息がぴったりでね」
彼は心底楽しそうだった。
セリア様も扇の陰で微笑む。
「ごめんなさいね、ロザリン様。懐かしくなって、私からおねだりしてしまいましたの」
「いいえ……」
私は小さく首を振った。
彼がほかの令嬢と踊ること自体を、責めたいわけではなかった。
貴族の夜会では、珍しいことではない。
ただ、私にも一曲だけ。
約束してくれた、あの一曲だけでいい。
「ギルバート様」
私は勇気を振り絞った。
「次の曲を、私と踊っていただけませんか」
彼は目を瞬かせた。
「君と?」
「はい。以前、約束してくださいましたでしょう? 結婚する前に、一度だけ、二人で踊ろうと」
ほんの一瞬、彼の表情が止まった。
それから、可笑しそうに笑った。
「ああ、そんな約束をしたっけね」
私は息を呑んだ。
「すっかり忘れていたよ」
その言葉は、驚くほど軽かった。
悪意など、少しもなかった。
ただ、本当に忘れていたのだ。
私が一年間、大切に抱きしめてきた約束を。
雨の日も、雪の日も。
足が痛くて眠れなかった夜も。
何度も思い出しては、明日も頑張ろうと自分を励ましてきた、あの約束を。
彼は、忘れていた。
「でも、ロザリン。君は足が悪いだろう?」
ギルバート様は困ったように眉を下げた。
「無理をして転んだらどうするんだい。僕まで恥をかいてしまうじゃないか」
「……恥、ですか」
「そうだよ。今夜は僕たちの婚約披露なんだ。余計な騒ぎは起こしたくない」
私は彼の顔を見つめた。
ふと、二年前の春を思い出した。
私が足を痛めたとき、彼は言ってくれた。
『僕が君の歩幅に合わせればいいだけだろう?』
あの言葉は、嘘だったのだろうか。
それとも。
あの頃は、本当にそう思ってくれていたのだろうか。
分からなかった。
ただ、今、目の前にいる彼は、私の歩幅に合わせようとはしてくれない。
「練習、したのです」
気づけば、そう口にしていた。
「一年間、ずっと。ご迷惑をおかけしないように、何度も……」
「ロザリン」
「ゆっくりした曲なら、踊れるようになりました。ですから、一曲だけでいいのです」
私は手を差し出した。
薄紅色の手袋に包まれた指先が、小さく震えていた。
「どうか、最後まで……」
ギルバート様の顔から笑みが消えた。
「いい加減にしてくれないか」
低い声だった。
「君の足を気遣っているのに、どうしてそんなに我儘を言うんだい?」
「我儘……」
「それに、そんな泣きそうな顔をするなよ。みっともない」
隣でセリア様が、気まずそうに扇を持ち直した。
けれど、何も言わなかった。
ギルバート様はため息をつく。
「セリアと踊って疲れたんだ。少し休ませてくれ」
そう言うと、彼は私に背を向けた。
「行こう、セリア」
「ええ、ギルバート様」
二人は並んで、華やかな人波の中へ消えていった。
私は差し出した手を、ゆっくりと下ろした。
誰にも握られなかった手だった。
*
不思議なことに、涙は出なかった。
怒りも湧かなかった。
ただ、胸の奥に大きな穴が開いたようだった。
一年間。
三百六十五日。
毎日、少しずつ練習した。
痛みに耐えながら、一歩ずつ足を運んだ。
あの人が笑って手を差し伸べてくれる瞬間を、何度も想像した。
けれど、彼にとっては。
忘れてしまうほど、ささやかな約束だったのだ。
私は壁に手をついた。
左足首が、ずきりと疼いた。
雨が近いのかもしれない。
いつの間にか、楽団が最後の曲を奏で始めていた。
あの三拍子だった。
私は顔を上げた。
広間の中央では、別の男女が楽しそうに踊っている。
ギルバート様の姿は、もう見えなかった。
私はそっと目を閉じた。
ああ。
この曲を聴くために、私は一年間頑張ってきたのに。
それなのに。
どうして、こんなにも寂しいのだろう。
やがて曲が終わり、招待客たちは晩餐のために隣の広間へと移っていった。
笑い声も、足音も、少しずつ遠ざかっていく。
気づけば、大広間には私一人が残されていた。
「……お嬢様」
背後から、懐かしい声がした。
振り向くと、エドガーが立っていた。
くたびれた礼服を着て、年季の入ったヴィオラを抱えている。
「エドガー……」
「皆様、晩餐へ向かわれましたよ」
「そうね」
私は笑おうとした。
けれど、上手くいかなかった。
「ねえ、エドガー」
「はい」
「私の踊りは、そんなに恥ずかしいものなのかしら」
老人の眉が、悲しそうに寄った。
「私は、上手に踊りたかっただけなの」
言葉が溢れた。
「誰よりも美しくなくていい。セリア様みたいに軽やかでなくてもいい。ただ、あの人と一曲だけ……」
そこで、声が途切れた。
「一曲だけ、踊りたかったの」
とうとう涙が落ちた。
エドガーは何も言わなかった。
ただ、私が泣き止むまで、静かに待っていてくれた。
やがて彼は、ゆっくりとヴィオラを持ち上げた。
「ロザリン様」
「……なあに?」
「今夜、私はまだ、お嬢様のために一曲も演奏しておりません」
私は目を瞬かせた。
「ですが、もう舞踏は終わりました」
「いいえ」
老人は静かに首を横に振った。
「お嬢様の舞踏は、まだ終わっておりません」
彼は弓を構えた。
「最後の一曲を、私に演奏させていただけませんか」
「でも……踊る相手がいないわ」
「本当に、そうでしょうか」
エドガーは穏やかに微笑んだ。
「お嬢様は、一年間、誰の足で練習してこられましたか?」
私は俯いた。
自分の足だった。
痛くて、重くて、思うように動かない。
それでも、何度も立ち上がってきた、この足だった。
「誰かに手を引かれなければ、踊ってはいけないのでしょうか」
「……そんなことは」
「では、どうぞ」
エドガーの弓が、ゆっくりと弦に触れた。
低く、柔らかな音が広間に響く。
あの曲だった。
何百回も練習した、緩やかな三拍子。
私はドレスの裾を持ち上げた。
誰も見ていない。
拍手もない。
差し伸べられる手もない。
けれど。
私は右足を、一歩前へ踏み出した。
一、二、三。
一、二、三。
踵から爪先へ、ゆっくりと体重を移す。
左足を引く。
少し痛む。
それでも、私は踊った。
一度、身体がぐらりと傾いた。
思わず足を止めそうになる。
いつもなら、ここで最初からやり直していた。
もっと上手に。
もっと綺麗に。
誰にも笑われないように。
けれど、その夜は違った。
私は小さく息を吐き、次の拍子に合わせて足を踏み出した。
間違えてもいい。
少し不格好でもいい。
だって、今、私を笑う人は誰もいないのだから。
いや。
たとえ誰かが笑ったとしても。
私は、踊っていいのだ。
一、二、三。
一、二、三。
薄紅色の裾が、ふわりと広がる。
蝋燭の光が、涙に濡れた視界の中で星のように揺れた。
足首は痛かった。
左足は、やはり少し重かった。
けれど、その重みが愛おしかった。
十歳の冬、石段から落ちたあの日。
私はもう二度と、普通の令嬢のようには踊れないと思った。
何度も自分の足を恨んだ。
どうして私だけが、と泣いた夜もあった。
でも、この足は。
私をここまで運んでくれた。
転んでも、立ち上がって。
痛くても、一歩ずつ進んで。
今日、この場所まで。
私を連れてきてくれた。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
エドガーに。
これまで支えてくれた人々に。
それとも、ずっと嫌っていた自分の足に。
私は踊り続けた。
ギルバート様のためではない。
伯爵家にふさわしい妻になるためでもない。
誰かに選んでもらうためでもない。
ただ、私が踊りたかったから。
音楽が好きだったから。
この身体で、この世界を感じたかったから。
最後の旋律が、夜の天井へと溶けていく。
私はゆっくりと足を揃え、深く頭を下げた。
完璧な舞踏ではなかった。
途中で一度、足がもつれた。
回転も少し遅れた。
それでも。
私は、最後まで踊った。
エドガーが静かに弓を下ろす。
「見事な舞踏でした、ロザリン様」
「……失敗したわ」
「ええ。少しだけ」
老人は優しく笑った。
「ですが、私は今までで一番美しい踊りを拝見しました」
私は胸に手を当てた。
そこにはまだ、悲しみがあった。
ギルバート様を好きだった気持ちも、簡単には消えなかった。
けれど、それとは別の場所に、小さな温かさが生まれていた。
「エドガー」
「はい」
「私、もう一度踊りたいわ」
老人は目を細めた。
「もちろんですとも」
「今夜ではなくて、明日も。その次の日も」
私は涙を拭った。
「誰かと約束したからではなく、私が踊りたいから」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
私はようやく、自分自身に許しを与えられた気がした。
*
翌朝、私は婚約解消を申し出た。
父は驚いたが、理由を聞くと、静かに頷いてくれた。
ギルバート様からは、すぐに手紙が届いた。
『たった一曲踊れなかったくらいで、大げさではないか』
そう書かれていた。
私は返事を書いた。
『おっしゃるとおり、たった一曲のことです。ですが、あなたにとって取るに足らない約束が、私にとっては何より大切なものでした』
しばらく筆を止めた。
そして、最後に一行だけ書き添えた。
『これからは、互いに大切なものを大切にできる人生を歩みましょう』
それが、私から彼に送った最後の言葉になった。
もちろん、すべてが簡単に済んだわけではない。
婚約解消を知った人々は、好き勝手に噂した。
足の悪い子爵令嬢が、せっかくの良縁を逃した。
身の程を知らない。
きっと後悔するだろう。
そんな言葉も耳にした。
実際、私自身、夜になると不安になった。
本当にこれでよかったのだろうか。
もう二度と、誰にも選ばれないのではないだろうか。
けれど、そんな夜には、エドガーのヴィオラを思い出した。
誰もいない大広間。
蝋燭の光。
そして、自分の足で踏み出した、あの一歩を。
私は翌朝になると、また踊った。
少しずつ、踊ることそのものが好きになっていった。
やがて、私の練習を見ていた使用人の娘が、遠慮がちに尋ねてきた。
「お嬢様。私にも、踊りを教えていただけませんか?」
彼女は生まれつき片方の足が少し短く、人前で踊ることを諦めていた。
私は彼女の手を取った。
「もちろんよ。一緒に踊りましょう」
それが、すべての始まりだった。
*
――五年後。
王都の外れにある石造りの洋館からは、今日も朗らかなピアノの音が流れている。
「そう、急がなくていいのよ。自分の足が床に触れる感覚を、ゆっくり確かめて」
私は生徒たちの間を歩きながら、声をかけた。
ここは、私が三年前に開いた小さな舞踏教室だ。
貴族の令嬢だけではない。
町娘も、働く女性も、身体に傷や障害のある人も通っている。
夜会で誰かの目を引くためだけの踊りを教える場所ではない。
自分の身体を知り、自分の歩幅を大切にするための場所だ。
もちろん、最初は苦労も多かった。
「足の悪い女性が舞踏を教えるなんて」
そう笑う人もいた。
けれど、私はもう、誰かの笑い声を恐れて踊ることをやめたりしなかった。
生徒は一人から三人になり、三人から十人になった。
今では遠方から訪れる人もいる。
私の左足首は、相変わらず雨の前になると疼く。
無理をすれば、翌朝には腫れることもある。
だから私は、休むことも覚えた。
痛みに耐えることだけが、強さではないと知ったから。
「先生、お手紙が届いております」
助手が銀盆を差し出した。
そこには、見覚えのある伯爵家の紋章が押された封書があった。
ギルバート様からだった。
彼は婚約解消後、セリア様との交際を続けたものの、派手な浪費と投資の失敗で伯爵家の財産を大きく減らしたという。
今ではかつての友人たちも離れ、夜会に姿を見せることさえ少なくなったらしい。
半年ほど前から、彼は私に復縁を求める手紙を寄越すようになっていた。
最初の手紙には、こう書かれていた。
『今なら、君の気持ちが分かる気がする』
私はその言葉を読んで、少しだけ悲しくなった。
彼が本当に理解したのかどうか、私には分からない。
けれど、たとえ理解してくれたとしても。
もう、戻ることはできなかった。
あの夜の私が欲しかったのは、五年後の謝罪ではない。
ただ、約束を覚えていてくれることだった。
一緒に踊ろうと、手を差し伸べてくれることだった。
それだけだったのだ。
私は新しい封書を開けずに、机の端の籠へ入れた。
憎んではいない。
不幸になってほしいとも思わない。
ただ、私の人生にはもう、彼のために空けておく場所がなかった。
「先生」
小さな声がした。
振り向くと、教室に通い始めたばかりの少女が立っていた。
左右の足の長さが少し違う、十二歳の少女だった。
「どうしたの?」
「私……やっぱり、みんなみたいには踊れません」
少女は俯いていた。
「何度やっても、回るときに身体が傾いてしまうんです」
私は彼女の前にしゃがんだ。
その小さな足を見たとき、昔の自分を思い出した。
誰かと同じように踊れないことが、悲しくてたまらなかった少女。
人前に立つことを恐れ、誰かに認めてもらうために必死だった少女。
私はそっと手を差し出した。
「ねえ、ひとつ教えてくれる?」
「……はい」
「あなたは、どうして踊りたいと思ったの?」
少女はしばらく考えてから、答えた。
「音楽を聴くと、身体が動きたくなるからです」
「そう」
私は微笑んだ。
「私も同じよ」
少女が顔を上げる。
「でも、先生は綺麗に踊れるでしょう?」
「今でも、時々足をもつれさせるわ」
「えっ?」
「本当よ。雨の日には足が痛くて、上手く回れないことだってあるの」
少女は驚いた顔をした。
私はその手を優しく握った。
「でもね、上手に踊れる日も、そうでない日も、私は踊ることが好きなの」
「……私も、好きです」
「だったら、それで十分よ」
ピアノの前に座っていた若い楽師が、こちらを見て微笑んだ。
その傍らには、古びたヴィオラが大切に置かれている。
エドガーが長年使っていたものだ。
彼は昨年、穏やかにこの世を去った。
最後まで、私の教室を誇りに思ってくれていた。
『お嬢様。音楽は、誰の歩幅も拒みません』
今でも、その声が聞こえる気がする。
私は少女の手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
「さあ、一緒に踊りましょう」
「でも、私……」
「大丈夫。私があなたの歩幅に合わせるわ」
そう言ってから、私はふと笑った。
かつて、同じような言葉を聞いたことがあった。
けれど、今の私には分かる。
本当に誰かの歩幅に合わせるというのは、その人を自分の速さに引き寄せることではない。
その人が安心して、自分の足を踏み出せるようにすることなのだ。
「焦らなくていいのよ」
私は少女に微笑んだ。
「あなたの歩幅が、あなたにとって一番美しいリズムなのだから」
ピアノの音が流れ始めた。
一、二、三。
一、二、三。
少女の足が、少しぎこちなく床を踏む。
途中で身体が傾き、私の手を強く握った。
「先生、失敗しちゃった」
「ええ。でも、次の音が来るわ」
「……次の音?」
「そう。音楽は、まだ続いているでしょう?」
少女は目を丸くした。
そして、笑った。
私も笑った。
二人で、また一歩を踏み出す。
窓の外には、柔らかな秋の日差しが降り注いでいた。
あの夜、ギルバート様が忘れてしまった約束。
私は長い間、それが叶わなかったことを悲しんでいた。
けれど、今なら分かる。
あの約束がなければ、私は踊ろうとしなかったかもしれない。
あの人に背を向けられなければ、自分の足で踊る喜びに気づかなかったかもしれない。
だからといって、傷つけられてよかったとは思わない。
あの夜の悲しみは、確かに悲しみだった。
けれど、その先をどう歩くかは、私が決められる。
私は、私の足でここまで来た。
そして、これからも歩いていく。
誰かに選ばれるためではなく。
誰かに愛される資格を証明するためでもなく。
ただ、私自身が、この世界を愛しているから。
一、二、三。
一、二、三。
軽やかな音楽に合わせて、少女の笑い声が響く。
私はその手を取り、ゆっくりと身体を回した。
左足首が、ほんの少し疼いた。
それでも、私の心は晴れやかだった。
――ギルバート様。
あなたが忘れた約束を、私は今でも覚えています。
けれど、もう悲しくはありません。
あの夜、あなたと踊れなかった最後の一曲は、私の人生を終わらせる曲ではなかったのです。
あれは、私が私自身のために踊り始めた、最初の一曲だったのですから。
そして今日も、私は踊る。
明日も、その次の日も。
私だけの歩幅で、この愛しい世界を。




