王宮に埋められた宝箱は、ほんの少し世界を平和にした
王宮の古井戸が解体されることになったのは、その年の初秋のことだった。
かれこれ三十年以上、文書管理局の片隅で帳簿と睨み合ってきた文官のリッダムは、その日、珍しく外に出ていた。
理由は単純で、解体工事の立会記録を取るよう上官に命じられたからだ。「おまえは字が丁寧だから」というのが理由だったが、要するに誰もやりたくない仕事を押しつけられただけである。リッダムはそれを承知していたし、いちいち腹も立てなかった。三十年でそういうものだと学んでいた。
井戸は北の中庭にあった。かつては厨房が使っていたらしいが、新しい水道が整備されてからは久しく放置されていた。石組みは苔むし、縁には雑草が根を張っていた。作業員たちは手際よく石を外し、深さを測り、底に溜まった泥をさらい始めた。リッダムは日陰に陣取って、ことが起きるたびに帳簿に書き付けた。
*第十一時。作業順調。底部の堆積物除去を開始。*
変化があったのは昼を過ぎた頃だった。
作業員の一人が声を上げた。泥の中から、何かが出てきたのだ。
引き上げられたそれは、一辺がおよそ一尺ほどの木箱だった。黒ずんではいたが、不思議なほど形が保たれていた。蓋はなめらかな板で閉じられ、縄が幾重にも巻かれ、蝋で封じてある。そして蓋の表面には、焼き印で文字が記されていた。
リッダムは近づいて読んだ。
*この箱を開けるべからず。国が滅ぶときに開けよ。*
作業員たちがざわめいた。リッダムは帳簿に几帳面に書き記した。
*第十三時。泥中より木箱一点発見*
それから少し考えて、上官に報告しに行った。
箱が王宮の中枢に持ち込まれると、話は急速に大きくなった。
宮廷魔術師が呼ばれ、箱を調べた。近年の割と新しい箱だと言った。宗教顧問が呼ばれ、文言を吟味した。呪いの可能性は低いが断言できないと言った。大臣たちが集まり、箱をどう扱うか二時間議論した。結論は出なかった。
最終的に、箱は国王のもとへ届けられた。
リッダムはその経緯を全て記録係として追った。普段は書庫の奥にいる自分が、なぜか玉座の間の端に立っていた。立会記録係という肩書きが、気づけば思わぬところまで自分を引っ張ってきていた。
国王エドラス三世は、箱を受け取ると、じっくりと文字を読んだ。
それから言った。「開けないぞ」
明快だった。
大臣の一人が恐る恐る口を開いた。「しかし陛下、中身を確認しておいた方が――」
「開けない」エドラス三世は繰り返した。「これは神聖な箱だ。きっと百年くらい前の先人が、命を懸けて守ったものだ。国が滅ぶときに開けよ、と書いてある。今この国は安定している。民は平和に暮らし、隣国とも友好を保っている。ならば開ける理由がない」
「しかし――」
「また百年経った後に開ければよい」
大臣たちは顔を見合わせた。リッダムは帳簿に書いた。*陛下、開封を拒否。百年後の保管を命じる。*
問題は、王妃が同席していたことだった。
王妃イゼラは、エドラス三世より二つ年下で、表向きは穏やかな人だったが、リッダムの長い経験では、穏やかに見える人間ほど頑固なことが多かった。
「あなた」と王妃は言った。柔らかい声だった。
「中身を確認しないのですか」
「しない」
「でも気になりませんか」
「ならない」
「……本当に?」
「ならない」
王妃は静かに微笑んだ。その微笑みを見て、リッダムは筆を止めた。何かが始まってしまう予感がした。三十年の勘というやつだ。
その後の数日間は、リッダムがこれまでの宮廷生活で見た中でも、最も奇妙な日々だった。
第一日。王妃が「やはり確認すべきでは」と再び提案し、国王が断った。
第二日。第一王子と第二王子が連名で「開封の許可」を陛下に申し出た。国王は却下した。理由は「神聖な箱だから」。
第三日。大臣会議が「国家安全の観点から」という名目で開封を求める決議を出した。国王は一人で否決した。
第四日の朝、リッダムが書庫で作業していると、廊下の向こうが急にざわめきはじめた。
玉座の間に駆けつけると、すでに一家が全員そろっていた。
箱は卓の上にある。国王は椅子に座り、腕を組んでいた。王妃はその隣に立ち、穏やかに微笑んでいた。王子たちと王女は少し離れたところに並んでいた。全員が国王を見ていた。
「わかった」と国王は言った。
部屋が静まった。
「開ける。だが」と国王は続けた。「中身がなんであれ、決して反応してはならない。よいな」
反応するなという命令は、どこか頼みのようだ。リッダムは帳簿の端にそっとそう書いた。
蝋が割られ、縄が解かれた。蓋が持ち上げられた。
中から出てきたのは、一枚の紙だった。
羊皮紙ではなく、普通の紙だった。丁寧に折りたたまれ、端が少し黄ばんでいた。
国王は手を伸ばした。それを取り上げた。広げた。
本当に小さな声で、ボソボソと読んだ。
そして沈黙があった。
その沈黙が、長かった。
リッダムは筆を持ったまま、動けなかった。国王の顔を見ていたのだ。長年、さまざまな表情の人間を見てきた。怒り、悲しみ、安堵、驚き。しかし今目の前にある顔は、そのどれとも違った。国王の耳が、みるみる赤くなっていた。
「……読み上げてください」と王妃が言った。
「読み上げなくてよい」と国王は言った。
「読み上げてください」と王妃は繰り返した。声はあくまで穏やかだった。
第一王子が手を伸ばした。国王はとっさに紙を引いたが、間に合わなかった。
王子は紙を受け取り、広げ、読んだ。それから弟に渡した。弟が読んで、妹に渡した。妹が読んで、顔を上げた。
「お母様」と王女は言った。
「なんでしょう」
「これ、お母様への手紙です」
王妃がゆっくりと紙を受け取った。読んだ。
読み終えて、王妃は顔を上げた。国王を見た。国王は窓の外を見ていた。耳はまだ赤かった。
「あなた」と王妃は言った。
国王は窓の外を見たままだった。
「これを書いたのはいつ頃ですか」
「……覚えていない」
「出会った頃ですね。年号が書いてある」
「……そうかもしれない」
「この頃に、私への手紙を書いたのですか」
沈黙。
「書いた」と国王は言った。「それがどうした」
王妃はもう一度紙を見た。それから静かに言った。耳が赤い。「最後の一文を、読み上げてもよいですか」
「よくない」
「読み上げます」
王妃は読んだ。声に出して、部屋全体に届くように。
*私たちの愛は、世界を救う!*
沈黙が満ちた。
第二王子が最初に崩れた。口を押さえたが、肩が震えていた。王女はうつむいた。第一王子だけは辛うじて表情を保っていたが、それが限界の表情だった。
リッダムは帳簿を見つめた。何を書けばいいか、少し迷った。
それから書いた。
*第四日。開封。内容物:手紙一通。国家への影響:なし。*
筆を置いて、もう一度部屋を見た。
国王は窓の外を見ていた。耳はまだ赤かった。王妃はその隣に立って、紙を胸に抱えていた。穏やかに笑っていた。何年前もの手紙を、まるで昨日届いたものように。
リッダムは帳簿をそっと閉じた。
廊下に出ると、秋の空気が冷たかった。井戸のあった中庭の方から、作業員たちの声が聞こえた。もう別の仕事に移っているのだろう。世界というのは、淡々と進んでいく。
リッダムは歩きながら、最後にもう一行だけ、心の中で付け加えた。
*なお、国は滅んでいない。*




