雑草の歩く道 ③
=つゆくさのころ=
社会人になった。
仕事はともかく ……
定時になると、グラウンドへダッシュする。
グラウンドと言っても、100m 四方のただの運動場だ。コースもない。かろうじて1本、スタート練習するために、少し手入れしてある。そして私のための、真新しいハードルがやけに眩しく光って見えた。
スパイクのピンが曲がるほど、石ころだらけ。
それでも毎日欠かさず走る。ハードルも跳ぶ。
時々車で30分ほどの公園の補助競技場に連れて行ってもらい、コーナーを走って流す。
石を気にせずダッシュする。
コーチはいない。
十分とは言えない練習だったが、それでも高校時代の記録は維持できていた。
大丈夫、来年はもっと行ける。
シーズンが終わると夕暮れが早くなり、ライトをつけて練習する。
でも寒くなると、スピード練習はしにくくなってきて、少しずつ練習量が減っていく。
少し焦った。もっと走りたい。
私は、昼休みに走り出した。
工場内は1周 3キロ。たくさんの従業員がランニングに精を出す。
はじめはほぐしながら、ゆっくりとスタートし、徐々に上げる。
おじさんたちが並んできて、競い始める。
競われると負けられないのがサガなのだ。気持ちよくぶっちぎってやる。
私は、長距離も案外得意で、実は高校時代は長距離専門の子より早かったのだ。
3キロって、ちょうどいい距離で 気持ちいい。
その後ゆっくりクールダウンして、だいたい40分ぐらい。
着替えて昼食をかき込んだら、始業だ。
しかし、それは長くは続かなかった。
春になる頃、腰に来た。
飛ぶようなストライド走法。それは、アスファルトには向かないのだ。
シーズン当初はそれでも走れた。
走りながら整形外科に通ってみるが、良くなる兆しがない。
次第に痛みがきつくなり、力いっぱい走ることができなくなっていく。
針治療を紹介してもらい通い出す。でも、その頃はもう、身動き取れないほど痛むこともあった。
それでも、グランドには通った。
着替えて、ハードルをゆっくり またぐ。 軽いジョギングをする。
どうしても止められなかった。
神様が助けてくれると信じたかった。
秋の最終戦は、国立競技場だった。
ハードルは、もうスタートの姿勢が取れないので諦め、リレーにだけエントリーした。
メンバーがいなかったのだ。いや、私が走りたかっただけかもしれない。
結果は散々だった。
競技場の陰で、足を叩きながら泣いた。
でもやっと、私は諦めがついた。
家で母に、会社を辞めるかもしれないと言った。
すると母は、どうやって調べたのか、私の鍼治療の先生から症状を聞き出した。
そして言った。
「女の子のくせに。走ってばっかりおるからそんなことになるんや。」
は?
心配するより先に、そう来るか?
私の腰の悪化は、職場でもみんな気づくほど、体が、くの字に曲がっていた。
でも、母は気づいていなかったのだ。 全く。
最終戦から帰ってすぐに、大きな病院に1人で行った。
即、入院決定。5ヶ月の闘病が始まった。
初めは温存療法で。しかし 3ヶ月後、手術が決まった。
ベッド周りのカーテンを閉じて、布団を頭からかぶって、声を殺して泣き続けた。
私の成人式は、ベッドの上だった。
手術から1年半。
私はコルセットを巻いて、職場復帰した。
あーあ。コルセット巻いた20歳の娘。悲しいなー。
グラウンドには行った。でも降りられなかった。
元気に走る人を見ると、いたたまれなくなって、背を向けた。




