雑草の歩く道 ②
=のに咲く たんぽぽ=
高校で陸上部を選んだのにはわけがある。一人でできるスポーツだからだ。
中学時代、ソフトボールは楽しかったが、チームスポーツは合わないと思った。
人とやるのがしんどいのだ。好きにできなくて。
その点 陸上はいい。結果が良くても悪くても自己責任。
なんて潔い。私向きだ。
実際は、そう単純ではないけれど、高校に入ってもまだ成長期だった私にはぴったりだと思った。
最初は、基礎トレーニングばかり。正しいフォームを身につけるためのトレーニングは、とても地味だけれど大切だ。初心者ばかり集まって、グラウンドの片隅で、毎日のように歩く。手を振り。足を振り。
そのうち、顧問の先生に、私だけあだ名をつけられた。
「チョンギース 」
って、何それ?
どうやらバッタのことらしい。 納得できなかったが、練習後ビデオを見て、なるほどと思った。
体が細く、とても足が長い私は、他の子たちと比べると、異様にビュンビュン動く足。
あー 、これか。仕方ない、受け入れよう。
そして私は3年間、チョンギースと呼ばれ続けた。
チョンギースのフォームは、いわゆるストライド走法。今時のピッチ走法とは対極。だがその頃は、ストライドを伸ばす方が主流だった。
そしてそのストライドを買われて、専門種目は100m ハードルになった。
基礎練習にハードリングも加わる。またぐように越す。足は長いが引っかかる。痛い。
それでも毎日やると、きれいにまたげるようになる。
正規の間隔でハードルを置いて走る。
ハッと飛んで、2台目......届かん。 ハードル間は3歩、これが難しい。まだ十分なスピードが出ていないからできないのだ。なので最初の頃は5歩。もう長い足は絡まりそうで、みっともない。
1年かかってやっと半分ぐらいまで飛べるようになり、2年の夏のシーズンには、最後までいけるようになった。
陸上競技はスパイクを履いて走る。短距離は、長いピンがついている。
1年の秋、引退する先輩が、使っていたスパイクをくださった。
中学から陸上をやっていた子たちは、みんな替えピン式のいいスパイクを持っていたが、私はまだ母に言えずにいたので、本当にありがたかった。
ピンはもう半分くらいになっていたが、それを履いて走った。
母に買ってもらったのは、試合に出れるようになってから。競技場が全天候に変わって、替えピン式じゃないと走れなくなったのだ。
2年の終わりには、県の上位に入れるようになっていた。
3年のインターハイは、近畿予選で7位 。0.1秒も差はなかったが、 逃した。
ぴょんぴょん走るチョンギース は、顧問の先生のおもちゃでもある。
新年会では、大勢の先輩の前で、ピンクレディーを踊らされた。
私はちゃんと、クラブにもクラスにもペアがいた。もちろん完コピだ。歌って踊れ、ハモリもバッチリ。
多分、今でも踊れる。
……まあ誰も見てはくれないが。
その頃の母は、全く私のクラブのことなど興味なかったようで、もちろん、試合結果など知るよしもない。
またどこで聞いたのか、私の履いていた靴がいい靴だったと人に言われて、喜んでいる。
はいはい。お金、出したのはあなたですよー。
……選んだのは私だけどな。
相変わらず、ずれている。
進学せず就職を選んだのは、母に恩に着せられるのが嫌だったからだ。
きっと母は、女手一つで この子を大学まで行かせたー。と、人にいい顔をするに違いない。
面倒だ。後々、とても面倒だ。
ちょうど地元企業の陸上競技部が声をかけてくれたので、そこに行ってクラブを続けることにした。
何より走りたかった。
もっと記録が伸びると信じていたから。
就職が決まると、母はまた誇らしげだった。
地元の 大手◯◯重工業。
その肩書きが良かったらしい。
いや、私の実力やし、陸上で行くねん。何も関係ないじゃん。
とは思っても、口には出さない。
母の扱いは、もう分かっていた。




