現場で育った最強オカン ④
=最強オカン 完成や!=
パパと暮らし始めてしばらくは、失業保険をもらいながらハローワークに通った。
さすが 役所だ。手厚い。
目いっぱい失業保険をもらい、次の仕事を見つけた。
銀行のランチ給食。
40人ほどの事業所の調理人だ。
補助が1人つく。給食会社から派遣される形になる。
仕事自体は楽勝。
40人なんてどうってこともない。
ただ、それまでにない衛生管理を叩き込まれた。
食材の管理方法、 保管期限、 様々な 決まり事。
消毒、 手洗い、食中毒 対策。
うっすらと知っていたことが、はっきり分かってくる。
なるほどな。
また少し、賢くなったぜ。
で、徹底的に整えた。
私の前任者がかなり適当な人だったのだ。
気持ち悪くてたまらない。
伝票一つから整理して、在庫もどんどん見直す。
調理器具も、暇を見つけてはせっせと 磨きあげた。
たまにある 視察も、全く怖くない。
最初は 戸惑ったが、何を見られても平気な状態にした。
視察前には、行員アンケートがある。
だいたいは良好。でも40人もいれば
ーー 2〜3人いるのだ、あらぬ 文句をつけるやつが。
最初は一つ一つ確認されたが、そのうち 視察のおじさんも、苦笑いでスルーするようになった 。
ここまでくれば、大丈夫。
ーーだったのだが、3年半で辞めた。
引っ越しで通えなくなった。
またしばらく失業保険。 こっちはちょっと手薄い。
で、次に見つけたのは、
高齢者デイサービスと障害者施設のランチの調理補助。
衛生面は、問題ない。
だがーー食事の形態に驚いた。
きざみ食、ミキサー食。
ご飯も、お粥や一口サイズのおにぎり。
出来上がった料理を一人一人に合わせて加工する。
間違えば、事故につながる。
最後に名札をつけて確認するが、本当に細かくて面倒な作業 だ 。
それでも、少しずつ覚えて慣れていった。
50代後半、
もうここで最後までーー
そう思っていたのに。
会社が事業から撤退した。
別の給食会社になり、1人残った私に、仕事が集中する。
労働時間は伸び、休みも減り、体調も崩した。
ーー結局 辞めた。
次は、病院の院内保育園の給食。
園児は4人から多い時でも10人。
週に3日の交代勤務。
献立から任された。
子供の笑顔には、本当に癒された。
好き嫌いの多い子には、隣で声をかけ、
一口食べたら大げさに 喜ぶ。
楽しかった。でもーーその病院、閉鎖が決まっていた。
これも、終わり。
次はゴルフ場の調理補助。
………と思ったら、ほぼ全部パートが作る現場だった。
料理は驚くほど簡単。
見た目だけ整えて、ご飯は前日のを、平気で温め直し。美味しいわけがない。
なるほどこれがこのゴルフ場のグレードか。
つまらなかった 。
だから、働きながら次を探した。
そして見つけたのが、学校給食センター。
その時 、私はもう60歳を過ぎていた 。
今度こそ。
ここが最後。
ーーそう思った。
そこは工場だった。
調理師 5〜6人、補助30人。一斉に動く、完全なカオス。
作業は細かくて、担当もコロコロ変わる。時間にも追われる。力仕事も多く、体力もいる。
衛生管理はさらに厳しい。
同時に入った同年代の2人は 、1週間で辞めた。
でも私は残った。
毎日、作業が終わるとメモを取る。
現場には持ち込めないから、必死で覚えて、忘れないうちに書く。
でも60代。記憶力は、正直きつい。
人の名前すら覚えられない。
家でノートにまとめ、復習。
レイアウト把握に半月。流れの理解にひと月。
それでも、足りない。
でもーー
ここで諦めたくない 。
私は最高齢の新人。
足手まといにはなりたくない。
若い子たちはとても優しかった。厳しい指導もちゃんと受け止められた 。
昼休みにはノートを確認、 質問、雑談。
そして午後からはまた戦場。
腱鞘炎になっても、自分で テーピングして乗り切った 。
休みたくなかった。
休んだら、戻れなくなりそうで怖かった。
やっと動けるようになった頃。
ーー来た。
コロナだ。
夏休みの1ヶ月ほど前、熱でやすむ。
診断はコロナ。
待機期間が終わっても、体は戻らない。
そのまま復帰できなかった。
そして同時期。パパの後遺症が、リウマチであることが判明した。
私は、職場に戻るのを諦めた。
悔しくて、泣いた。
気がつけばーー
こうして私はあちこち動き回ったが。
調理に関して
ゆりかごから墓場まで全部経験していた。
私。
やっぱり最強やん!
でも、もう外では働かない。
老犬の介護がある。
家でのんびり過ごしていたら、神様の采配か。
今度は、文章を書き出した。
仕事じゃないけど。
まあええか。
人生、何一つ、無駄なんてないさ。
ーーーいや、知らんけど。




