令嬢の遺言状―首を拾えば桔梗が咲く― 『婚約』
牢の薄暗い独房で、私は震える手で最後の一行を書き終えた。窓から差す細い光が紙の縁を照らし、あの日の庭の陽光や彼の泥にまみれた無邪気な笑顔が胸を突く。婚約の約束は遠く、今はこの紙だけが彼と私をつないでいると、静かに思った。堪えようとしたが胸の奥が熱くなり、私は小さく声を漏らして泣いた。涙は頬を伝い、紙の端に落ちて乾いた。独房の空気は冷たく、庭で感じた紅茶の甘さも、バラの香りもここにはない。私は紙を押さえる指先の震えを確かめ、深く息を吐いた。
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『婚約』
彼―レオンに会ったのは2年前。午後の柔らかな陽射しに庭の芝が金色に光り、私は庭で紅茶を一杯傾けていた。不意に目の前の席に誰かが腰を掛けた。
「私も一杯貰ってもいいかな。」
私は戸惑いながらも冷静に返した。
「ええ、どうぞ。」
(この人、なんなのかしら。)
彼は軽く頷き、礼を述べると紅茶を一口含み、窓越しの庭をしばらく眺めていた。庭の隅で蝶が舞い、白い雲がゆっくり流れていく。彼の視線はそれらを追うでもなく、ただ遠くを見ているようだった。私は自分の好奇心が抑えられず、彼に話しかけた。
「ねえ。貴方はどなたで―」
「...時間だ。そろそろ行かなければ。紅茶はありがとう。礼を述べる。」
彼はそう言うとすぐ何処かへ消えてしまった。
初めて会った時には彼のことを知らず、無礼な方だと思っていた。後に彼が、かの有名な貴族 ヴァルモン家の長男だと知ったのはその日の晩であった。
知った経緯は夕食中、お父様がいつもに増して上機嫌であったため何故かと理由を聞いたことだ。
お父様が言うには、自分の店を建てるための資金を調達する当てがなく困っていたらしい。
その時、彼―ヴァルモン家 が 私―ルヴェール家に資金の援助をするという契約を提示したそうだ。
そして今日その契約と手続きを済ませたらしい。
私は苦笑いをして、その事について喜んだ。だが、同時に複雑な思いが駆け巡る。由緒正しきヴァルモン家が突然契約をするというのは何か裏があるのではないか。しかし、お父様が今までより優れた自身の店を建てることができる。 でも、我が家を支配しようと目論んでいるだけではないか。そうした疑念は、私が幼いころから抱えてきた「血筋」に関する劣等感と結びつき、静かに不安を育てた。
私は『令嬢』ではあるが、『正統な令嬢』ではない。私の一族は亡き祖父が建てた店で商業を営んでいる。私の家は並の貴族には勝る程の財力を持っているし、今では商業管轄の中心的立ち回りを担っている。
しかし、血筋は通ってはいない。
私はその事に劣等感を抱いていた。周りからも冷たい目で見られている。
だが、今はそんなことよりもあの無礼な方がヴァルモン家だったという事実に驚いた。
次の日、またレオンが私の家を訪ねた。
その日はお父様が遠くの街へ出かけ、商品の仕入れをするため家を留守にしていた。
その旨を伝えると、彼はこう答えた。
「今日は君に用があってきたんだ。一緒に私の家に来てくれるか。」
(急なお誘い...何か裏があるのかしら。でも...)
私は少し考えた後、同意した。
「ええ、喜んで。でも少し身支度をしてから伺いますわね。」
「あぁ分かった。少し君の家の庭を眺めているよ。」
私は家の召使にこの事を伝え、家のことを任せた。
「私の護衛もご一緒してよろしいかしら。4人ほどだけど。」
「ああ、好きにしてくれて構わない。」
そう言うと彼は私をエスコートして彼の馬車に乗せてくれた。その振る舞いは凛々しく優雅でヴァルモン家に相応しい。まさに貴族そのものだった。
馬車が進み、少し経った頃だろうか。彼が突然言い出した。
「今日私が君を招いたのはなぜだか分かるだろうか。」
(お父様との契約の事かしら。)
「いえ、なんのことだか存じ上げませんわ。何故かしら。」
「今日は私の家でお茶を飲んでほしいと思ってね。昨日は君の家で急だが、お茶をいただいたからな。そのお返しだ。」
「あら、大丈夫ですのに。でもせっかくだから頂きますわね。」
「ぜひそうしてほしい。」
馬車が止まる。目の前には私の家とは比べものにならないほどの立派な豪邸が立ちそびえていた。
「御帰りなさいませ。レオン様。」
門の前で待っていたメイドの一人が彼にそう話す。
「あぁ。今日は客人がいる。いつもので頼む。あぁルヴェールはなにか苦手なものはないか。」
「特にないですが、どうしてか理由を聞きたいですわ。」
「それはあとだ。では手配してくれ。」
「はい、畏まりました。」
そう言うとメイドは丁寧にお辞儀し、その場を去った。
「では行こうか。こちらに。」
「ええ。分かりましたわ。」
彼に案内されたのはバラが多面に咲く、美しい庭園だった。
「どうだい。私の花園は。私の好みの花を兼ね備えているよ。特に私が好きなのはこの花だ。」
バラが一面に咲く庭の片隅に、控えめな青紫の花が揺れていた。派手さはない。でも、その青紫の花びらには、秋の空よりも深い色が宿っていた。
(この花は...『桔梗』かしら?)
「この花の名前は?」
「『竜胆』というそうだ。この花はバラと相性が悪くてね、いつもここら辺に植えるように指示をしている。君の好きな花はなんだい。」
(竜胆でしたか。どちらも青紫色の花であるので、見間違えることもありますわ。)
「そうですね。『桔梗』ですわね。竜胆にもよく見間違えられるのですが、私はあの花をよく好んで見ますわ。ほら、昨日貴方様が庭で見ていたのも『桔梗』ですわ。」
「え。あれは『竜胆』ではなかったのか。申し訳ない。てっきり同じ花を好むのかと。」
「まあ。私もこちらは『桔梗』だと勘違いしてしまいましたわ。」
そう言うと私たちはお互いの顔を見合って照れるように笑った。
「レオン様。お茶会の準備ができました。」
「あぁありがとう。ルヴェール、こちらに来たまえ。」
陽射しが、バラの庭に柔らかな影を落としていた。白いテーブルクロスの上には、銀のティーポットと、淡いピンクのカップ。風が吹くたび、バラの香りがふたりの間をすり抜けていく。
「私は実はお茶が好きでね。特に紅茶を好んで飲むんだ。ぜひ君とご一緒させてもらえないだろうか。」
「ええ。喜んで。」
白いテーブルクロスに並べられたティーセット。カップには、淡い金色の紅茶が注がれている。バラの香りを引き立てるように、紅茶のまろやかで甘い香りが鼻に抜ける。
庭の風景を楽しみながらお茶をしていると彼が突然私に言った。
「改めて名を申そう。ヴァルモン家当主 レオン ヴァルモンである。」
(ここは私も名前を名乗るのが礼儀ね。)
「私は ルヴェール家長女 セリーヌ ルヴェールですわ。」
「私のお願いを聞いてくれないか。」
「ええ、なんでも。」
そういったが内心では呆れが出ていた。やはり彼は私たち一族に何かしようと企んでいるに違いない。
(さあ、遂に口を滑らせるわ。どんな発言が出るのかしら。)
「私と婚約してほしい。」
「嫌です。」
突然彼が結婚の申し込みを私にしてきたのだ。つい咄嗟に拒絶してしまった。まずい。何をされるか分からない。父との契約が取り消されるかもしれないというのに。
「まったく君は冷たくあしらうなぁ。私が見ていた君の印象と変わらない。」
「見ていたってどういうことですの?」
「私は君に惚れたんだ。あの日...いやこの話はやめておこう。だが私の思いは変わらない。もう一度言おう。私と婚約してくれ。」
(...)
「嫌です。お断りさせて頂きます。」
私がもう一度断ると彼はしょんぼりしていた。なんだか納得しない様子だ。ずっとぶつぶつと呟くさまは貴族とは思えないほど惨めで、思わず笑ってしまった。私が笑うと彼はそれに気づいたようで「私は本当に君を愛しているのに。」と恥ずかしそうに言った。その声は小さく、しかし真っ直ぐに届いた。
彼の指先がカップの縁に触れ、乾いた泥の粒が陽にきらりと光った。ぎこちない所作、冗長な言い回しの裏に見えたもの──それは誇張のない誠実さだった。私の手がふと震え、砂糖の小片がテーブルに落ちる。父の契約、周囲の視線、血筋の不安。理屈は山ほどあったが、その無防備な一瞬が、私の中の壁を一枚ずつ剥がしていった。私は言葉を選び、静かに答えた。
「分かりました。私 セリーヌ ルヴェール 貴方と婚約いたします。」
「え...今なんと?」
「だから婚約いたしますと申しました。」
(正直この人には呆れる。でもこの人といるとなんだかこれまでにない心地良さを感じる。)
「本当か?嘘ではないな。」
「嘘ではありません。私 セリーヌ ルヴェール 貴方様と婚約することを今ここに誓います。」
そう言い終えると、庭の空気が一瞬だけ止まった気がした。外から聞こえる子供の声、微かに残る紅茶の香り、遠くで鳴る召使の足音――そうした些細な事象が、私の中で新しい日常の片鱗を告げていた。理屈ではない決断をしたと自覚したとき、胸の奥に小さな静けさが広がった。
私が婚約を受け入れたと分かったとたん彼は子犬のように喜び、走り回った。花の水やりで水を零したのだろうか。彼が踏んだところは水で土が泥に近い状態となっていたのだろうか。運悪くそこを彼が踏み、滑って転んでしまった。
「ちょっと、なにやっているのです。」
「申し訳ない、つい嬉しさに我を忘れてしまった。」
彼の白いコートは泥で汚れた。汚らしい?いいえ。これが彼の性格を表している。無邪気で純粋で素晴らしい方。私はこの婚約に後悔はない。彼をずっと愛すると決めたのだから。
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私は婚約の思い出を牢屋で噛みしめていた。庭で感じた光と香りは今や遠い記憶だ。独房の冷気は、あの午後の温度を奪ってしまった。私は牢屋に入り、彼と会えなくなった事を哀しく思った。堪えきれずにまた小さく泣いた。だが、後悔はしない。愛する彼のためなら私は、竜胆になる。
ーー私は絶対に隠し通すと決めたのだ。あの晩の夕食で彼ーレオンは私の父親を殺しただなんて事は絶対に。




