第15話:揺れる心
ディアナを別れて馬車に乗り込むと、アイリスはようやく大きく息をついた。
「疲れたか?」
「ええ……」
広大で荘厳な城にいるだけで緊張するのに、今日は王と姫とまで顔を合わせたのだ。
ずっと屋敷の中で下働きをしていたアイリスには、別世界の出来事のようでまだ足元がふわふわしている。
過ぎ去っていく王城を見つめ、アイリスはすべてが夢だったのではないかとそんな風にさえ思った。
「これでわかっただろ? 俺は浮気なんかしていない!」
「え? ええ」
唐突なヒューゴの言葉に、アイリスは曖昧にうなずいた。
(浮気……? ディアナ姫のことかしら……)
だが、問い返す勇気もなく、アイリスはぼうっと馬車に揺られていた。
気力を使い果たしたのだ。
*
翌日、穏やかな城での日々が始まった。
モニカに身支度を整えてもらい、朝食をヒューゴと共に取る。
だが、アイリスの中で何かが変わっていた。
それは、ディアナとの出会いのせいだった。
彼女の凜とした姿や、自分の意見を忌憚なく述べる姿勢に感銘を受けたのだ。
(同い年なのに、なんて私と違うの……)
(私ももっと胸を張れるようになりたい。せめて自分だけにでも)
アイリスの心は大きく波打っていた。
父が亡くなってから心を殺し、貴族の令嬢らしからぬ下働きをしていた。
挙げ句、闇オークションに売り飛ばされた。
そしてヒューゴに買われ、なぜか婚約者としてここにいる。
運命に翻弄され、流されるままだ。
何も誇れるものがない。おどおどしている自分が歯がゆい。
「あの、私に何かできることはあるかしら? お手伝いとか……」
朝食を終える頃、アイリスは思いきってヒューゴに声をかけた。
ヒューゴが驚いたように目を見張る。
「おまえは俺の婚約者だ。そばにいるだけでいい」
「……」
そうは言っても、ヒューゴは城主だ。
慌ただしく城中どころか領内を駆け回っている。
(忙しそう……)
ただそばにいても邪魔になるだけなので、自然とアイリスは一人でいることになる。
どこにも腰を落ち着けられず、ただおろおろとするアイリスを気の毒に思ったのか、ジャレッドが声をかけてきた。
「アイリス様には、いずれ女主人として家政を担当してもらうことになりますが、まだ来たばかりでお疲れでしょう。ゆっくりと慣れていってください」
「……」
要は何もできることがないということだ。
しょんぼりするアイリスを見かねたモニカが散歩に誘ってくれた。
「休めといっても、部屋の中にこもりっきりじゃあ、滅入りますよね。城内を見回りますか」
「ええ」
モニカに連れられて城内を歩くと、自分以外の人全員が忙しそうに働いているのを目にした。
(こんなに暇なのは私だけ……)
それぞれに役割を持った人たちを見て、どんどん気分が落ち込んでくる。
厨房の近くを通ったとき、モニカが足を止めた。
「あ、古巣に差し入れをしたいんですが、いいですか?」
「え、ええ」
「私はもともと針仕事をやっていた、って言いましたよね。仕事場に顔を出したくて。ねえ、焼き菓子を分けてもらえない?」
厨房に声をかけ、モニカは焼き菓子を入れたバスケットをもらう。
「さあ、行きましょう」
アイリスたちは中庭を通り、陽当たりのいい一室へと向かった。
「久しぶり! 元気にしてた?」
布や針を手にした女性たちが十人ほどおり、一斉に顔を上げる。
ゆったりした部屋には機織り機もある。
(わあ……お針子部屋だわ)
アイリスも下働きをしていた時に、少し習ったことがある。
といっても、繕い物くらいしかできない。
「こちらがヒューゴ様の婚約者のアイリス様だよ」
モニカが紹介すると、お針子たちの目が輝いた。
「本当に綺麗なご令嬢だね!」
「ヒューゴ様が夢中になるのもわかるよ!」
お針子たちが口々に誉めてくれるが、金で買われた身としては作り笑顔を浮かべるのが精一杯だ。
モニカが差し入れの焼き菓子を差し出すと、お針子たちは手を止めて休憩に入る。
アイリスはお針子たちの成果物を見せてもらった。
精緻な刺繍がされた服や小物はどれも美しく、アイリスはうっとりと見つめた。
「綺麗ね、刺繍……」
「アイリス様もやってみますか?」
「いいの?」
モニカがにっこり笑う。
「もちろん。ヒューゴ様に何か贈り物をしたらどうでしょう?」
「そうね。いい考えだわ」
自分の拙い腕前ではたいしたものは作れないだろうが、何か感謝の気持ちを伝えたかった。
「きっと喜ばれますよ。騎士にとって愛する女性からの贈り物は、護身のおまじないになりますからね」
他のお針子たちも次々と賛同の意を示してくれる。
「名前と紋章を刺繍するといいですよ、これがヒューゴ様の騎士団の紋章です」
凜々しい真っ白な狼の背後に、鮮やかな青と黄色の背景の紋章が目に眩しい。
「素敵ね……」
「では、高級な布を取り寄せますね」
モニカの笑顔に少しやる気が出てきた。
「……ここでやらせてもらってもいいかしら」
一人で黙々と自室で作業するより、気分が上を向くだろう。
アイリスはおずおずと尋ねてみた。
モニカたちは目を丸くしてアイリスを見つめている。
「もちろんですよ!」
「何でも聞いてください」
モニカをはじめとしたお針子さんたちが笑顔で賛同してくれたので、アイリスはホッとした。
「んん? あれ? ヒューゴ様!?」
お針子の一人が上げた声に、アイリスはハッと振り向いた。
戸口のところにヒューゴが立っている。




