『リ・バース』第一部 第1話 Happy Unbirthday⑧
──それが起こったのは、一瞬の事だった。
獲物が完全に死んだ事を確かめ、改めて貪ろうと顎を上げたレウクロコタの下に倒れていた女の体が、突如として動き始める。髪を振り乱し、鷲の鉤爪の如く関節を曲げた指を頭上に掲げると、
「アア……アアアアアアア……ッ!」
苦しみ悶えるような声を上げ、肩の関節を通常は駆動しない向きに曲げた。
その指先が、魔物の頭部に突き刺さった。同時に、俯せていた首が梟の如く百八十度後ろに回転する。
魔物はそこで怯えたように首を引いたが、女は止まらなかった。
相手の頭蓋に突き刺した指をそのままに、その頭を思い切り上方に引く。魔物は首を急に引かれ、歯を食い縛った口から潰れたような呻き声を漏らす。牙はとうに女の首から抜け、その弾みに彼女の喉もその状態で真後ろに回転し、断裂直前でぎりぎり皮によって繋ぎ留められている様子だったが、そのような”肉体”の異変など、彼女は全く意に介していないようだった。
そして──魔物の首が、遂に胴から引きちぎられた。女はそれでもう執着などなくなったかのように、切り離されたその頭を横にぽいと投げ出す。
彼女は既に、人ではなくなっていた。
生ける屍──怨霊と化した彼女は今や、ライガの死霊化術で使役される、生者に非ざる駒に過ぎなかった。
頭を捥ぎ取られた首の切断面から噴水の如く血を飛沫かせ、レウクロコタは横倒しに倒れ伏す。生ける屍は頭からそれを浴びつつ、ライガの方へと足を引き摺るように駆け寄り、背を歪曲させて頭を下げた。
「ビョオオオオオッ」
「なるほど……やっぱり、隕命君主の力は健在のようだね」
ライガは微かに口角を上げ、再び魔物たちを見る。
既に、外に駆け出した村人の多くがその爪牙に掛けられていた。既に魂が離れてしまった者、虫の息で今にも事切れてしまいそうな者──ライガには、その判別を瞬時に行う事が出来た。
「あの人たち──いや、あの魂たちには申し訳ないけど」
独りごち、いつもの癖で魔杖を抜こうとして空を掴み、舌打ちした。
(オムグロンデュがないとやりづらいな……仕方ないけどさ)
ライガは致命傷を負った村人たち一人一人に念を送り、死霊化術を発動する。死んだように倒れていた人々は何の前触れもなくむくりと起き上がり、自らを殺傷した魔物たちに次々と反撃を開始した。
餌になったとばかり思っていた亡骸が突如動き出し、魔物たちはぎょっとしたように跳び退き、それらから距離を取ろうとした。だが、既に食う側と食われる側は交替していた。
「よし、そのままだ……そのまま、魔物だけを片づけるんだぞ」
生ける屍たちに言い聞かせ、ライガは自らも行動を開始する。
死霊化術は生きている人間に対して使えば一撃必殺に等しい魔術なので、隕命君主となった後は自ら剣を振るう事はあまりなかった。しかし、魔物を死霊化するのはかなりマズい。これだけの量となると、幾ら自分でも魔杖オムグロンデュなしで制御しきれる自信がなかった。
(アルターエゴが懐かしいぜ、全く)
「神々の遺しし霊威の痕跡……レギンレイヴ!」
火属性魔術を発動し、火球を飛ばして一体のモーショボーを撃ち落とす。その近くに居た別の一体がこちらに狙いを付け、鉤爪の付いた脚を突き出してスライディングするかの如く急降下して来た。
──先程と同様、障壁因子で防御する事は可能だ。しかし、それでは魔術発動から次の動作に移るまでの短い空白──技後硬直──中に別な敵から攻撃を繰り出された場合防げないし、相手の敏捷さを考えて防戦一方になる可能性も高い。
ライガは即座に判断し、回避行動を取る事にした。
相手にも意思がある。途中で軌道を変えられ、追尾などされたらひとたまりもないので、あと一秒で到達というぎりぎりのところまで引き寄せてから素早く横方向に体を捌いた。
が、子供の体は思ったよりも機敏に動いてはくれなかった。
凶器の如きモーショボーの爪を避ける事は出来たが、翼が思い切り側頭部に叩きつけられる。耳から頭蓋にがんと響くような衝撃を加えられ、倒れ込みそうになったものの、辛うじて卒倒を避けられたのは精神力のなせる業だった。
反撃を繰り出す。
「変幻の権化よ、一筋の刃となりて断ち流せ! ハイドロブレード!」
水属性魔術、斬撃系統最高技。
横一文字に走った水の刃が、怪鳥の喉笛を一撃で掻き切った。ライガはそれを見届ける事なく、頭を押さえて土の上に屈み込む。
文法のうち、八属性の基本技及びその派生形については大抵使用する事の出来る自分だった。無属性の汎用魔術は無論、破壊や殺戮に特化した黒魔術もしっかりと魂の記憶として網羅している。だが、今の状態に於ける戦闘行為の不利は、技術的な事柄ではなかった。
「六歳児の体じゃ、こうも限界があるのか……」
呟き、先程偽騎士たちの居たバング邸の方を見る。
あまり、目立つような事はしたくない。しかし、最早そのような事を言っていられる状況ではなかった。
「背に腹は代えられない──かな」
意を決し、次の詩文を詠唱し始める。
唱えるに連れ、声変わりなど程遠い子供のものだった声が、段々と低音へと変化していった。当然自分で自分の顔を見る事など出来ないが、ライガには自らの姿が変わっていく様をはっきりと知覚する事が出来た。
変身術。無属性汎用魔術のうち、最も高度な部類に属するもの。
ライガの姿は、生前の青年のそれに変わっていた。とはいえ、服装は隕命君主としてのそれでも、帝連軍に居た頃のそれでもない。
プライベートな時に好んで着用していた腰紐付きの灰色の胴衣と、ソックスを兼ねたズボン──ショース──だった。髪は、触れた限りでは細い紐で一本結びにしているらしい。
(俺が思う俺の姿って、やっぱりこうなんだ……)
本来の自分ではない姿で変身術を使い、本来の自分の姿に化けている。
考えると可笑しくなるが、事によっては笑い事ではなくなる。
魔物たちは、突如自分たちに反撃を始めた怨霊たちを生ぜしめた原因がライガだという事に気付いたらしく、怒り──と、気のせいかもしれないが若干の怯え──を湛えた眼差しでこちらを見ていた。
ライガは右手を上げ、敢えて自分に注目させるように叫ぶ。
「来るなら来てみろ、魔物ども! 俺は──隕命君主ライガ・アンバースはここに居るぞ!」
──誰が何の為に自分を復活させたのかは分からない。分からないが、大方そういう事だろうという予想はついている。
──正直なところ、混乱しているし迷惑極まりない話だとも思う。
(けど、こうなったからには仕方ない。今は、せいぜい暴れてやるか)
魔物たちが唸る。こちらの生ける屍の群れとの睨み合いは暫らく続いたが、やがて一頭のレウクロコタの我慢が臨界に達した。
咆哮と共に飛び出したその一体に続き、魔物たちが総進撃を開始する。ライガは高く掲げた手をゆっくりと下ろしざま、
「──やれ」
手駒となった霊魂の残骸たちに命じた。
生ける屍たちは唸りを上げ、やや前傾しながら腕を振り被って迎撃を始める。死して尚、彼らはその魂の入れ物に己が力を、一続きの生涯をかけて自身に刻み込んできた感応を漲らせていた。
衝突が起こった。
生者と死者が。プログラムに従う命の形と、それに背馳した命の末路が。
自身の死から六年。しかし、未だ世界は混沌の最中にある。
眼前の戦場がそれを示唆しているかのように感じられ、ライガはちらりとかつての親友の事を思い出した。
彼は今、どうしているのだろうか──。