『リ・バース』第一部 第22話 Kur Nu Gi A⑦
⑥ ライガ・アンバース
「もうそろそろ、ソレイユとの国境だ」
谷間の道に入ると、ライガはそう呟いた。
ソレイユが帝連に復帰してから、未だにジフト公国──旧ランペルール領との国境の検問所は機能していなかった。いつ戦況が変化するか分からないので、検問を再開したところでジフト軍が来ればすぐに破られてしまうだろう、というのがその理由だった。その代わり、国境を越えて間もない辺りではソレイユ軍が怠る事なく警戒を行っている。
北部の街で石造建築の建材として利用される飛白岩を産出する底盤が、灰色のステージの如く横たわっていた。自分たちの歩いている谷間には渓流が潺々と流れ、国境を跨いでいる。この流れは南の方角へと向かい、やがてブール湖に注ぎ込む川の一本となる。つまり、流れに沿って下って行けば、湖畔にあるモルガンへと辿り着く事は容易かった。
「おじさんが、モルガンに居る軍とは話をつけている。そこまで行ければ、あとはユークリッドに報告書を届ける兵士たちが、お前が城に戻るまでの間護衛してくれるだろう」
「悪いね、ライガ。何から何まで……」
「お礼なら、戻って来た時におじさんに言ってくれ。俺はただ、おじさんに伝えただけだ。色々と手配してくれたのは、彼だから」
リクトのユークリッドへの帰還については、既にアルフォンスに話して許可を取っていた。その際ライガは、リクトの感応復活の為にシアリーズがそれを差し出さねばならないという事について彼に話すべきか少々躊躇ったが、彼女からは同意を得ている上、いずれは話さねばならない事なので包み隠さずに語った。
アルフォンスは、その事について驚きを見せはしたものの、反対の意を表する事はなかった。ただ、一切を理解したように肯き、余計な事は何も尋ねず「分かった」と言った。
皆には、たとえ「皇女を私物化しすぎている」などという非難がなされる事になったとしても事実を告げる、と彼は言った。これは皇家や家臣、未来の皇太子や婚約者などといった政治的な立場を超越した、ライガたち三人の絆の問題なのだと。皆に対しては、「リクトの極めて高い能力の復活はこの先の戦略上重要な事だ」と説明すると言っていた。
その上で彼は、ライガに言った。
「リクトが国境を越えるまで、君が彼の事を守るんだ。それが、君が最後まで果たすべき彼への献身の責任なのだから」
かくして自分は今、リクトと二人でベッセルを出、国境に向かっている。とはいえあくまでこれはイレギュラーな戦線離脱であり、ライガが部隊を離れられる時間はそう長くは取れない。ソレイユに入ってからは、リクトはモルガンまでの二日間の旅路を一人で歩まねばならず、その間は敵に「帝連軍の騎士が一人で行動している」と見られて攻撃を受けないよう旅人に変装していた。
「ジフト軍も、民間人や冒険者を無差別に攻撃するような真似はしないはずだ。くれぐれも、正体を悟られないようにしろよ」
「分かっている。今の僕は、戦う術を持っていないからね」
リクトは肯くと、トレードマークの金髪を隠すフードを目深に被り直した。
「でも、何というか……命辛々逃げ延びた敗残兵みたいだな。リィズに会うのが、ちょっと恥ずかしく感じるよ」
「そこは諦めろ。大丈夫、お前は元がいいから、少し形が見窄らしくなったところで問題はないさ」
「そういう問題じゃ」
彼が少々むっとするので、ライガは「ははは」と笑った。
「でも、そういう格好をすると思い出すな。小さい頃、リィズを連れ出して街で遊ぶ為に三人で庶民に変装した」
「リィズはそれでも、お嬢様丸出しって感じだったけどね」
「そのせいで、今でも変なところで砕けるようになっちまった」
顔を見合わせ、同時に笑い出す。前日の雪が融け残る谷間の澄んだ大気の中に、その声が微かに谺した。
ライガはふと思い出し、「リクト」と彼の名を呼んだ。
「リィズが感応を失くしたら、その分お前が絶対に彼女の事を傍で守るんだぞ」
「ああ」彼は肯く。「それが僕の──彼女からもう一度戦う力を貰う僕の、果たすべき責任って事なんだろう」
──セレニテ・パッショネルが効力を発揮する条件は、感応を移植される者の魂から真に求められる事。リクトがシアリーズから術を使って貰えたのなら、それは彼が本当の意味で、彼女を愛している事の証左だ。
ライガが思っていた形とは程遠い、未完成もいいところの降霊術。しかしそれが課した条件は、図らずもリクトの覚悟を試すものとなった。
これも、プログラムの導きなのだろうか。
そのような、スピリチュアルな考え方が脳裏に萌した時だった。
「弓弦に爆ぜしは揺蕩の泡沫……マリンアロー!」
「リクト、避けろ!」
背後から、詩文の詠唱と共に水属性術の矢が飛来した。
ライガは真っ先に、リクトを突き飛ばすようにその軌道から離脱させた。狙いを外した矢は、渓流の水面に落ちて爆ぜ、霧の如き白い飛沫が大量に立ち込める。その行動による一瞬の遅延が、命取りとなった。
アルターエゴを抜こうと腰に手を伸ばした時、ライガは右の肩甲骨の辺りを背後から貫かれた。小さく噴き出した血飛沫の中から覗いたのは、ここ最近見なくなっていた瑠璃色の刀身。
「化さしめよ、我が名誉の為でなく……ディスガイズ!」
その剣が、自らの肉の中を通ったまま斬り下ろされる前に、ライガは変身術を発動した。子供の姿──一昨年の今頃出会ったビギンズの幼君リュシアンの姿に化け、剣に貫かれたまま身長を縮める。剣を突き出していた襲撃者は、その位置が急に低くなった為、おっという動揺の声と共に引っ張られるようによろめき、剣がずるりと体から抜けた。
その隙に、術を解除して元の姿に戻る。そこで初めて痛みが実感されるようになったが、まだ悠長にそれを味わっている余裕はなかった。
「……っ!」
今度こそ抜剣し、後方を振り返る勢いを載せて横薙ぎを放つ。相手は一瞬の動揺から立ち直り、左手に持った剣で二撃目を繰り出そうとしていたが、こちらの反撃を見切るやすぐに構えを防御に切り替えた。
金属音が響く。刀身同士の衝突点から火花が爆ぜ、両者はそれから逃れるように後方に跳び退る。
ライガは、襲撃者の顔を見つめた。
「またお前たちか!」
「明けましておめでとう、ライガ・アンバース」
ジフト第一皇女ジェムシリカは、例によって嗤笑を湛えながら言った。
ライガは彼女の肩越しに、奇襲を掛けて来た者たちの人数を確認する。一般兵士が十数人──それに、やはりスクリュー・バウカーが同行している。彼は早くも、左腕に薄赤い霊力を纏わせていた。
「いよいよ敵前逃亡か? ようやく、私に目をつけられている事の恐ろしさが分かったようだな」
「吐かしてろ。リクトは今──」
言いかけた台詞を、ライガは途中で呑み込んだ。リクトがこれから帝国に向かうのだという事を明かせば、きっと彼女は追手を放つだろう。
ジェムシリカは「まあいい」と呟き、右手の剣をさっと振った。
「何か目的があっての事なのだろう。だが、我々はこのような機会を昨年からずっと待っていた。貴様たちが、莞根士の傍を離れる瞬間をな。だが、まさかここまで遠ざかるとは思いもよらなかった。焦らず、こうして国境付近まで追跡して来た甲斐があったというものだ」
「そこまでして恥を雪ぎたいのか!」
「無論それもあるが、もう一つ目的が出来た。きっと、ルシウス兄もお喜びになるはずだ。なあ、死霊化者ライガ・アンバース」
「そんな風に呼ぶな!」
ライガはいきり立った。「俺は、死霊化者なんかじゃねえ!」
「だが、そうなるのだ。私が、貴様をそう定義した」
ジェムシリカは酷薄に嗤うと、剣先を空中で滑らせ、ライガより少し先に居るリクトにその切っ先を向けた。
「リクト・レボルンスは──もう必要ない」
「リクト!」
ライガは、振り返らずに彼に向かって叫んだ。
「行け! こいつらは俺が足止めする!」
「君一人で──」
リクトは言いかけ、すぐに口を噤む。戦う事の出来ない状態に在る自分が、今出来る事はないという事を悟ったらしい。ライガは、彼からは死角となって見えないにも拘わらず意図して笑みを浮かべた。
「大丈夫だ。俺は一人で戦う訳じゃない。……魔物招喚術」
空中に魔方陣が五つ展開され、その中からアパデマクたちが出現する。アン、デュー、トロワ、サンク、シス、自分が契約している使役獣の全てだ。
オリジナル降霊術に死霊化術、変身術、そしてこの魔物招喚術。自分が修得している高位の魔術は、全て晒した。アパデマクたちは昨年ジェムシリカが夜襲を掛けて来た時に披露しているので、今度は最初から出す。
ジェムシリカは、昨年の不愉快な記憶が蘇ったのか表情を歪め、双剣を握る両手をぶるぶると震わせた。
「獣どもは全て殺せ! 一匹たりとも生かさず生皮にしろ!」
「リクト、走れ!」
ジェムシリカの声に被せるように、ライガは叫んだ。
リクトが、身を翻した気配があった。ライガ、と声を掛けられる。
「幸運を祈る」
「ああ、リクトも」
彼の足音が駆け去って行くと同時に、ジェムシリカたちが動き出した。彼女がまず真っ先に自分へと向かって来、スクリューと兵士たちはリクトを逃がすまいとするように左右からこちらの横を通過しようとする。それらに対しては、アパデマクたちが相手となった。
「グルルルルルウウウウウッ!!」
彼女らは吠え、爪牙を振るい、ライガを追い越そうとしたジフト兵たちに喰らいついた。敵のある者は喉を噛み破られ、またある者は四肢を食いちぎられて川の中へ倒れ込む。冬期の冷ややかに澄み渡った水が、流入した鮮血で赤黒く染まり、濃厚な血臭が漂った。
可能な限り、彼女らだけで敵の人数を減らして欲しかった。ジェムシリカは昨年の戦闘で、彼女らを警戒している。戦力差が覆され、彼女らがこちらの加勢に入ってくれれば有利なのはライガの方となる。
ライガはジェムシリカと斬り結びながら、剣戟の合間にちらりと横目を使ってアパデマクたちを窺った。敵兵の数が十分に減るまで、こちらは時間を稼いでいればいいのだ。その為には、転写術で返されたら脅威になるような大技は使用せず、相手からの一撃一撃を捌く事に徹するのが最適解だ。
「取能者!」
また一人の敵兵が、トロワの突進を膝裏に受け、翻筋斗打って川の中に転がり込んだ。スクリューは一体に狙いをつけ、腕の形をそのままに巨大化させたような霊力の塊で押さえつけようと試みているようだが、敏捷性に富み、入れ代わり立ち代わり眼前に現れる彼女らをなかなか捕捉出来ずにいる。
このまま行けば、十分に勝機はある。今まで手こずらされた取能者でも、アパデマクたちに標的を引き受けて貰い、その隙に正確に狙いをつけて渾身の一撃を叩き込めば倒せない事はない。
ライガが、そう思った時だった。
「……っ!」
スクリューが、矢庭に右手を持ち上げた。敵を川に叩き込んだトロワが、犬がそうするように皮膚を震わせて水滴を跳ね飛ばしながら岸辺に上がろうとした時、その横腹を目掛けて照射線と思われる光線を射出する。
ライガがあっと叫び、彼女に回避するように指示を出そうとした瞬間、それが彼女の横腹に命中した。
凄まじい出力だった。一瞬、自分の知らない魔術か、と疑った程、その光線は目映く、太かった。それがトロワの胴を貫通して赤黒い大穴を穿ち、刹那の遅れを経てそこから喞筒の如く大量の血液が噴き出した。
彼女が、敵兵たちの血で深緋色に染まった水の中に倒れ込んだ。その体はたちまち流れの中に見えなくなる。
「トロワーっ!」
「余所見をするな、ライガ!」
ジェムシリカが二刀を振り上げ、体重を掛けるように上方からこちらの頭上に叩き込んできた。ライガは慌てて向き直り、防御を行ったものの、崩れた姿勢で重みのある斬撃を防ぐのはかなり困難だった。
こちらの体勢が乱れた事を、ジェムシリカは目敏く見て取った。すかさず右足を前に出し、その軍靴の甲をこちらの脛に叩きつけてくる。激痛が体幹を駆け上がると同時に、最初に突き刺された肩甲骨がゴキリという生々しい音を立て、右肩から下の力が抜けた。
最初の一撃で、骨にひびが入っていたのだろう。その痛みは脳内麻薬の分泌で意識に上る事を阻止され続けていたが、実際にはこちらが動く度に患部には負荷が掛かっていたのだ。そしてそれが、遂に限界に達した。
右肩の骨が砕けた。こちらの力が抜けた事を察するや、ジェムシリカはもう一度剣を叩きつける。ライガは、押されたアルターエゴに掛かった重みに引っ張られるように砂利の上に倒れ伏してしまった。
至近距離からダイレクトに耳へと届く兵士やアパデマクたちの足音の中に、「キャンッ!」という甲高い悲鳴が混ざった。
頭を動かし、視線を向けると、シスがトロワと同じようにスクリューの光属性術を受け、下半身を吹き飛ばされていた。続けざまに二体の仲間が死を迎えた事で、残っているアン、デュー、サンクは露骨に動揺を見せている。
このままでは、皆が殺されてしまう。ライガはそう思い、招喚魔術を解除しようとした。しかしそれよりも早く、追い詰められていたジフト兵たちが再起した。
「獣どもめ……さっきはよくも!」
兵士の一人が、火属性術を放った。サンクの足元に火が点き、彼女はぎょっとしたように跳び退ろうとする。そこに、別の兵士三人が剣を突き出しながら一斉に飛び掛かった。
サンクは、空中で三方向から体を串刺しにされた。また一斉に剣が抜かれ、その体は血に染まった雑巾のように力なく落下する。
デューが仇討ちとばかりに飛び出し、その中の一人に背後から組み付き、頭部を齧ろうと牙を突き立てる。喰らいつかれた兵士は怒号を上げ、体を振るって彼女を振り払おうとするが、アパデマクの体重は通常のライオンと同程度なので百キロ以上もある。兵士はたちまち膝を突き、地面に四つ這いになった。
だが、残り二人が黙ってはいなかった。
「ブラキオプネウマ!」
二人は同時に叫び、腕状霊魂でデューの首根っこと後ろ脚を掴んだ。何をするつもりだ、と思っていると、彼らは徐ろにその体を放り出す。先程、サンクが跳び退いて隙を生み出した火の池へと。
「やめろーっ!」
ライガは叫びながら立ち上がろうとしたが、その時ジェムシリカが右手の剣を突き出し、腰の辺りを突き刺した。ライガは再び地面に倒れ込んでしまい、今度こそ起き上がれなくなる。
出血で、力が抜けるのを感じた。骨折の為、右腕に力が入らないので、地面を押す事も不可能だった。
デューの投げ込まれた火の池が、ぱっと燃え上がった。毛皮や肉の蛋白質が焼ける悪臭が、痛い程に鼻を刺す。直視に堪えず視線を逸らすと、その先ではアンが取能者と戦っていた。
彼女はやはり、ひらりひらりとスクリューの左手を避け、反撃の機会を窺っているようだった。しかし、先程彼を翻弄したように、仲間と交替するという選択肢はもう採れない。スクリューはターゲットを乱される事なく、彼女の避ける先を予測して動くようになっていた。
アンは、最早回避する事に意味はないと判断したのか、牙を剝き出して前方に跳躍し、自身に向かって来るスクリューへと爪を突き立てようとした。しかし、狙われた彼は冷静に障壁因子を展開し、アンはそれに衝突してか細い悲鳴と共にその場に滑り落ちた。
取能者の霊力の腕は、彼女の頭部を圧し潰すように掴み、腕状霊魂よりも強い力でその体を持ち上げ、投げ飛ばした。彼女のぐったりとした体は川を越えて対岸の断崖に叩きつけられ、飛白岩の地層に擦りつけたような赤い血の跡を引き摺って砂利の上に落下した。
「ああ……ああっ! お前たち……!」
涙で視界が霞んだ。セプトやカトルが戦死した時、もうこのような悲劇は起こすまいと思ったにも拘わらず、繰り返してしまった。いや、これはもっと悲惨だ。魔物との戦いでではなく、人間によって悪意を持って殺されたのだから。
「害獣駆除は、恙なく完了だな」
ジェムシリカの嘲るような声が、頭上から降って来た。ライガはありったけの憎悪を込め、無理矢理首を動かして彼女を睨もうとする。
彼女の脚が、その視線から逃れるようにひらりと後方に下がった。視界に、生き残った兵士たちとスクリューの軍靴がどしどしと入って来る。
「無駄な抵抗はよせ。貴様は、もう戦えない」
ジェムシリカの声が、聞けば聞く程に神経を逆撫でした。
「だったら殺せ!」
ライガは怒声を叩きつける。
「アンたちを殺したように! おじさんたちが──ベッセルに居る彼らが、きっとお前たちを許しはしない! リクトもだ!」
「リクト?」ジェムシリカは鼻を鳴らす。「彼が許さなくて、何だというのだ? 最早彼は、私たちと戦う事すら出来なくなってしまったではないか」
殺しはしない、と、彼女は呟いた。
「もう一つ目的が出来た、と最初に言っただろう? 貴様には、我々の為にやって貰わねばならない事があるのだ。ライガ・アンバース……傷が癒えるまで、暫し眠っていろ」
視界に、再び彼女の脚が近づいて来る。やがて彼女は屈み込み、こちらに手を翳しながら降霊術を発動した。
「シンコープ」
失神術を施されたライガの意識は、睡眠魔術を掛けられた時のような微睡みを経る事なく途絶する。
死とも区別のつかない一瞬の訪れる直前、リクトは逃げ延びられただろうか、という事をちらりと考えた。願わくば、自分の作り出したこの時間が、彼を再び騎士に戻してくれる事を、と祈った。




