公爵
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正午をわずかに過ぎたころ、石畳を軋ませる馬車の音が屋敷に近づいてきた。きしむ車輪の音が次第に大きくなり、やがて玄関前で止まるのが、三階の大きな窓から見えた。光沢ある黒い御者台からひとり、またひとりと人影が降り立つ。
「お嬢様、旦那様がお戻りになります」
侍女の声が静かに部屋に響いた。私は一瞬だけ息を止め、そして小さくうなずいた。
「直ぐにお出迎えの準備をはじめてちょうだい」
立ち上がった私の手は、震えていた。
大理石の階段を下り、広い玄関ホールへと足を運ぶたびに、鼓動が強くなっていく。扉の向こうにあの人がいる。ただそれだけで、空気が凍りつくのを感じた。
扉が重たげな音を立てて開かれる。
現れたのは、公爵――リアの父。背筋をこれ以上なく真っ直ぐに伸ばし、無駄のない動きで外套を脱ぎ、手袋を静かに外す。そのひとつひとつが、緊張と威厳に満ちていて、私は無意識のうちに息を呑んだ。
「おかえりなさいませ、お父様」
ようやく絞り出した声。けれど次の瞬間、公爵の眼差しが私に鋭く向けられた。
「リア、殿下が来ていたな。婚約の話はどうした?」
――やっぱり聞いてくるのね。
声そのものに咎めはなかった。だが、その視線に込められた問い詰めるような圧に、思わず一歩、足を引きそうになった。
「お断り申し上げました」
沈黙。静寂のなかで、公爵の眉がわずかに動いた。そのほんの一瞬の動揺を、私は見逃さなかった。
怒られる覚悟だった、叱責され、謹慎もされるだろうと覚悟していた。
けれど、怒鳴りはしなかった。ただ、静かに息を吐き、私を見据えるだけだった。
「断った?」
その言葉は、鋼のように重く胸にのしかかった。
「お前が……そんな判断をするとは思っていなかった」
怒りではない。それどころか安堵の空気も感じる。
「今日は……少し休め。疲れただろう」
そう言い残し、公爵はゆっくりと背を向け、階段の方へと歩いていった。
「え……」
呆気ない終わりに、思わず呆然としてしまった。何も罰することなく、見放すこともなく、父の態度に拍子抜けした気分だった。
(どういうこと?)
公爵の足音が遠ざかっていくなかで、私はしばらくその場を動けずにいた。
(少なくとも理由くらいは問い詰められると思っていたのに)
――けれど、違った。
私は一人、使用人のいない廊下をゆっくりと歩きながら、記憶を手繰った。
咎めるような視線、それが断ったと告げると、確かに一瞬だけ、重苦しい期待から解き放たれたような……そんな安堵の影が見えたのだ。
(まさか……公爵も、あの婚約を望んでいなかった?)
それが事実だとすれば、あの驚きや安堵にも納得がいく。
(派閥争いを避けたかったのかも)
王太子との政略結婚。それは貴族社会における一族の名誉であり、責務だ。普通ならば断るなど言語道断。だが、無論、婚約するということはリスクも伴う。
ゲーム本編でも、ヒロインが派閥争いに巻き込まれ、継承戦に関わるルートもあった。
そんな危険のある状態で、政治的切り札にもなる一人娘を嫁がせることを、公爵が本当に良しとするだろうか。
そもそも長い間、中立を保ってきたアルストレール公爵家だ。王太子派閥に参加するのを是としない考えでもおかしくない。
(まあ、やろうと思えば、その婚約を破棄することも簡単だろうけど……一度でも婚約したという事実が不都合になるはず)
だとすれば、公爵が言った「疲れただろう」という言葉にも納得がいく。
殿下にべた惚れだったリアが、婚約を断ったというわけなんだから。
(私のことを心配して休めなんて言ってくれたのかしら)
私は、ゆっくりと階段を上がりながら、自室へと戻った。
部屋に入ると、侍女がすぐに控えていた。
「お疲れでしょうか、お嬢様。お茶をお持ちいたしましょうか?」
「……お願い」
椅子に腰掛け、ゆっくりと目を閉じる。
*side 公爵*
扉を閉めると、重たいため息が漏れた。
「……まさか、リアが断るとはな」
自室の重厚な椅子に腰を下ろし、顎に手を添えながらつぶやく。その声に応じるように、控えていた執事が一歩、静かに前へと出た。
「お嬢様は、随分と思い切られましたな」
「ああ。あの王太子に心を寄せていたのは知っていた。あの場で婚約を了承すると思っていたくらいだ、急いで来たが間に合わなかったと思っていた」
「では、驚かれたのですか?」
「……ああ」
グラスに注がれた赤いワインが、ほんのりと揺れる。
「思えば、あの子を一つの駒としてしか見ていなかったのかもしれんな」
「……」
「あの目を見たか? 迷いも恐れもあっただろうが、それ以上に覚悟が見えた」
冷たい硝子に触れながら、視線は遠くを見ていた。
「リアがあのまま婚約をしていれば、王位継承の渦に巻き込まれるのは目に見えている。……あの婚約がどれほど危うい橋か、わかっていて断ったのだとすれば――」
「……立派に成長されたのでは?」
「誉めてやらないとな」
言葉の切れ目で、ようやくワインに口をつけた。芳醇な香りが鼻を抜けるが、味はどこか苦く感じた。
「だが、今は少し休ませてやれ」
「承知いたしました、旦那様」
そして、政務へと戻った。
――自分の娘を誇りに思っていることを、誰にも告げずに。




