1-5 長々と連れられて、誘拐(未遂)
冷たい地下牢。強固な鉄格子。
冷え冷えとした空気の中で、一時たりとも気を抜けない壮絶な尋問が始まる――と、思っていたのだが……。
(――なぜ私はこうしているんだろう)
腰を下ろしているのは、ふかふかのソファ。明るい部屋。
目の前に置かれたマホガニーの長テーブルはよく磨かれており、ダマスク調のクロスが敷かれたそこにはティーセットが一式、きちんと並べられている。
白磁のティーポットと、中身が入った揃いのカップ。
そして最後に出された白磁の皿には、上等そうなケーキが一つ。
(こちら油断させるための、幻影……なわけないか。どれもこれも実体があるし、本物だ)
イマイチ状況が飲み込めないで困惑していたが、空腹なのも相まって食い入るようにケーキを見つめていれば、頭上にスッと影が差す。
「砂糖は」
「あ、……要らない、です」
「そうか」
シュガーポットの蓋をそっと締め、実に優雅な手つきでテーブルに置いた長兄殿は短く答えた後に、ごく自然な動作で対面に腰を下ろした。
硬直している子供を前に、片手でケーキを指して言う。
「甘いものが苦手でなければ、食べると良い」
「は、あ……」
ありがとうございます?と疑問符を付けた礼になってしまったが、さもありなん。長兄殿の注視にどうにも戸惑ってしまい、結局は目の前のケーキに逃避したのも仕方のないこと。
ずっと緊張しっぱなしで忘れかけていたが、私は非常に空腹なのだった。ポケットの貨幣を使う機会が消えてしまったので。
金色の毛並みの子猫……もとい、幼女と別れてすぐに背後から声をかけられた、あの後。
「着いて来い」と言われてその通りにしたら、貴族の屋敷――懐かしの我が家でもある――に連れてこられ、そして案内されたのが地下牢ではなく彼の自室であったので「ああ、今回はここで尋問を受けるのか」と、言葉も出なくなった。……砂糖の有無を聞かれるまでは。
室内には他に誰も居ない。そうした中で真正面より見えるは、冷徹な相貌を持つ麗人。テーブルに両肘をついて両手を組み、そこに顎を乗せてこちらをじっと見つめ……いや、見据えている。
年の差は一回りだったから、この時点での彼の年齢は十六。
この聖大国は、十二で元服を済ませた後は能力次第で幾らでも成り上がることが可能になっている、実力優先主義国家。それ故に、彼は既に最高守護者である四騎士の一人になっている筈だったと記憶している。
十六でこの威圧感を出せるのだから、納得しかない。
ああ、本当に優秀な義兄なのだ。四騎士の中で最も強く、この身に封呪を刻み込んでくれる人。
そんな万能たる騎士殿と、二人きり。
深々と続く無言の間。
このような重苦しい雰囲気の中で、さあケーキを食べろと言われても――まあ、当たり前に食べるのだが。
繊細な時期は、とっくに過ぎている。
そんなものは何の足しにも糧にもならないし、役に立ちもしないのだ。
ああ、滑らかな生クリームと柔らかなスポンジが見事に調和していて美味しいこと。
有名店のものと遜色ないこの風味、この味。かつてこの屋敷で「妹」をしていた時に、何度か食べたことがある手製のケーキだ。
料理人は屋敷内の誰だろうか。ついぞ顔を見ることも、礼を言うことも叶わなかった。……「妹」としての存在は、すぐに「災禍の魔女」に成り代わるので。
毒や自白剤を盛られているかもしれない――とは、考えもしなかった。
何故ならばこの長兄殿、敵には一切の容赦がない冷徹たる騎士だが、卑劣な手段は決してとらない高潔な人物であるからだ。
……卑怯な真似は、本当にしなかった。こちらがありとあらゆる騙し討ちを仕掛けようとも、その美しい顔を少し歪めて不快感を示しただけで、いつも正面から迎え撃ってきてくれた我が天敵。
お陰様でこちらは毎回甚大な被害を被り、どうにも手を焼かせてくれた人ではあるが……どこまでも変わらぬその高潔さには羨望を抱いていた。
懐かしい過去。
忌まわしい終焉へ導く最初の人。
敵でありながら、少しばかり憧れていた人。
「どうした。味が気に入らなかったか」
問い掛けに、ハッとする。懐古に浸り過ぎて、手が止まっていたようだった。
ちょっと目を上げれば眉根を寄せた長兄殿がいて、視線が合うなり口を開く。
「別のものに交換するが、どうする」
「いえ。食べ、ます」
空腹とはいえ、流石にケーキを二個も食べるのは無茶が過ぎる。
何の因果か夕食の代わりとなったお菓子を食べているわけだが、贅沢を承知の上で言わせてもらうと、やはりここはパンとスープが欲しいところではあった。空腹は満たされるので問題はないのだが、甘いケーキは食事にはならない……と、思う。
それでも用意された分をしっかりと食べ、二杯目の紅茶に口を付けた頃に再び相手が話しかけてきた。
「さて、少年。これから君に幾つか質問するが、構わないな?」
「あ。え、と……はい」
やはり尋問はされるのか。そしてこちらの意思を問うてはいるが、口調からして強制か。
疚しいことは……ない、だろう、と思う。ポケットの「恵み」は脇へ退けておいてから首肯を返し、尋問に応じることにした。
そうか、と長兄殿が頷いて口火を切る。
「先ずは一つ。――何故、少年が皇女……アリスティアレス様と共に居た?」
「皇女、さま? ……ああ――」
――皇女アリスティアレス。「お家」である城の主、王家であるトリニティア家の第一継承者――それがあの幼女の正体だ。
そういえば名乗り合うことはしなかった。お互いに、そこはどうでもよかったのかもしれない。
危機に晒されたあの場合においては、身分など二の次だった。
むしろ、あの状況下で「無礼者!」と怒鳴りつけたところで何になる。よくて嘲笑、悪くて……「傷モノ」か。それでも、命があるだけマシ……ではないか。その辺りは人それぞれだ。
とかく、あの幼女、いや子猫――……、もとい、アリスが無事で良かった。
いつの世界線でも特に関わることのなかった姫君だが、そういえば彼女はどうしていたのだったか。
その疑問の解決はしかし、後にした。
私は長兄殿に、彼女との同行理由を語ることにする。
悲鳴が聞こえたので、裏路地に駆け付けたこと。
そこで彼女を見つけたこと、また、見つけた彼女を攫おうとした男たちがいたこと。
麻袋に云々、の箇所で長兄殿が眉を顰める。
「アリスティアレス様を、……誘拐? その者たちはどうした」
声に微かな怒気。室内の気温が二、三度下がった感じがしたのは気のせいではないだろう。
寒い。こんな巻き添えを食うのは理不尽だ。
外套を手繰り寄せて冷気から身を守りつつ、続きを話す。
「彼らなら、裏路地に」
「裏路地に?」
「捨て――、縛って、そこへ置いています。生憎と、担いでどうこう出来る体躯ではないので」
「分かった。……少し、待ってくれ」
言うなり腰を上げた長兄殿は、事務机のある窓際へ近づくと、そこで魔道具を手に取り何ごとかを呟き始めた。
伝令転送か――私は、彼が城に常駐しているだろう部下に指示を出しているのをぼんやり眺める。
カーテンを開けたままの窓際に立つ、長身痩躯の美丈夫。その姿は差し込む月の光を受けて、高尚な絵画と化していた。
一顧だにされなかった肉親の一人だが、第三者視線では実に良い目の保養となる。こんな馬鹿げたことを考えて楽しめるのは、今が鬼気迫った最悪の状態でないからだ。
敵対しなければ、こんな時間もあったのか。
私はそうして長兄殿の用事が済むまで、三杯目の紅茶を注ぎながら綺麗な光景を堪能させてもらうのだった。
……それにしても。
夜の城門前。その大通りから、こちらの手を掴んで――繋ぐ、というには少し乱雑だった――、自らの屋敷へ子供を連れ込んだ貴族の男。
それは一見すると、歪んだ道楽貴族がする歪な享楽行為だ。
事情を知らぬ人間が現場を見ていたら、彼も子供を攫う貴族なのかと誤解されるのではないだろうか。
いや、まあ、既に騎士団の一人で地位が高そうだから、大丈夫……なのだろう……な?
そうであって欲しい、いやそうであってくれ。
彼の経歴に傷をつけて、余計な業を背負いたくないのだから。
美味しいもの、恐ろしいもの。美しいもの。