2-3 夜に歌う鳥の名は 3
ああ。
一体全体、何を。
何をどうしたら。
――激昂した竜に追いかけられる事態になるんだろう。
◇ ◇ ◇
(こんなことになるとはなあ)
初めてのおつかいならぬ初遠征に置いて行かれたナハティガル。
ヴァイスリヒトが向かった南地方には砂漠地帯があり、それを超えれば砂の国がある。
かつては枯れた土地。だが今はそれなりに緑のある地方に、ヴァイスリヒトは馬に乗って行ってしまった。四騎士の双子も同行させたようだから、何かしらの重要任務が発生したのかもしれない。
だが「下級層」のナハティガルには関係のない事。
遠征を渋り、眉根を寄せて無表情に佇み――氷の気配に揺らめく怒りの炎を纏わせて――沈黙していたヴァイスリヒトを、どうにか宥めすかして遠征書類の判を押させた。少し印章が滲んでしまったが気にはすまい。
これも従卒の仕事。当のヴァイスリヒトに沈痛な表情をさせてしまったが……ナハティガルは見なかったことにした。
なにせ今でも、一部の騎士たちには従卒の地位は良からぬ手段で得たものだと思われているのだ。ここでヴァイスリヒトの世話を甲斐甲斐しくして、やはり媚びを売っているのだとでも思われたら厄介だ。
なので、面倒を見るのは最低限にして送り出した。
全ては一週間前の話。
――そんな隙を、『兄』騎士たちは突いてきたのだ。好機とでもみなしたのか。待ってましたとばかりに小鳥に飛びついて羽を毟り、折りにきたというわけだ。
今の騎士団にはまだ膿があり、出し切らねばならない。これもその欠片。
騎士団に入れて子に箔を付けたいという親バカ貴族のせいで、筆頭殿の検品作業が毎回無駄になるのは少し哀れだな、とナハティガルは思う。
頑張れ、筆頭様!
と、しがな一従卒は応援するだけ。外部から適当に。
所詮は貴族内の見栄の張り合いであり、下級層の自分にとっては他人事。
――後に、その油断が己の危機を招く羽目になろうとは。
◇ ◇ ◇
岩を避け、草を踏み。
息せき切って、小石を蹴りつけて。
入り組んだ木々の間を抜けながら、ナハティガルは背後から聞こえる凄まじい唸り声と足音から全速力で逃げていた。
目の先には、先達たる年上の騎士が数人。
日頃むやみやたらに兄貴風を吹かせてナハティガルに雑用を押し付けている『兄』騎士たち(勿論、血の繋がりはないし情もない)が、互いに言い争いながら走っている。
よたよた、ばたばた。
そんな姿勢でよくも転ばないものだ、とナハティガルは感心する。
(不格好な走り方をしている割には意外と速いんだよなあ、あの人たち……)
そこは腐っても騎士か。
お前が、そっちが、いやお前が、と。
似たような言葉で雑言を飛ばしあいながら、ばたばた、ざかざかと獣道を走っている。竜に対抗する作戦会議でもしながら逃げているのかと思えば、そうではなく。
痴話喧嘩か、責任転嫁か。
下らぬ口論なら後にしてくれ、と叫んでやりたいが背後の地響きから逃れなければそれも難しい。
乱れそうになる呼吸をどうにか整えつつ、ナハティガルはただ走る――ひたすら走った。
後ろからはバキバキと、恐らく木が薙ぎ倒されているだろう凄まじい音が聞こえてくる。
逃走する際にちらっと見ただけではあるが、聡明そうな竜だった。兄騎士たちは余程のことをしでかしたらしい。竜のねぐらに忍び込んで宝の一つでも盗もうとしたか。
ああ、考えるだけで嫌になる。
責任が取れない行動は慎むべきだ、と言ったところで糠に釘。とっくに手遅れ。(そら、背後の地響きがその証拠だ)
それにしても、自ら率先して逃げる『兄』たちの速いこと。勝手に同行させた年下の従卒のことなど忘れているかのようだ。
(何のために連れて来たんだか。まあ、何か企んではいたんだろうけど……ん?)
ふと、前方が静かになっていることに気づく。
彼らに意識を戻せば、なにやらお互いに意味深な目配せをしている様子。
(何だ? 今度こそ本当に作戦会議でもしていたか?)
ナハティガルが不思議に思っていたところ、今度は肩越しにちらちらと視線を投げてきた。彼らが見ているのはしかし、竜ではなくナハティガル。
嫌な予感がした。
むしろ嫌な予感しかしない。
果たしてそれは的中する。
「――お前が囮になって食い止めろ、小鳥!」
返事をする間もなかった。
先を走っていたうちの一人が急に足を止めたかと思うと、今まさに追いつこうとしていたナハティガルを突き飛ばしたのだ。
――竜へ向かって。
「えっ」
反射的に片手を伸ばすも間に合わず。
(道連れにし損ねたか)――ナハティガルは背中から後方へ倒れ込む。
咄嗟に使用した魔術にて受け身をとったものの、それなりの衝撃を受けて動けない。
ただ兄騎士たちの気配が、悲鳴が、遠ざかっていくのを天を見上げながら聞いていた。
突き飛ばされたナハティガルを顧みる者は、誰ひとりなく。
下級層でありながら、騎士団の最高位にいる筆頭騎士の従卒に取り立てられた少年に嫉妬し、羨み、憎むものは多くいる。
これがその証拠。
彼らもその一味だ。なんとなく透けて見えていた結末なので、驚きには値しないけれど。
むしろ、予想通りのことをしでかしてくれたので感心するやら呆れるやら。
なんともはや。
自身が知る『兄』とは全く違う兄たちだ。
意識を上に戻せば、木々の向こうに広がる実に素晴らしい蒼天を見る。
切り取られた空の天窓。
これは良いものを見つけた、と笑うナハティガル。
その頭上に――ぬうっと大きな影が差す。
足を止めた竜が少年を見つめていた。
威風堂々と、哀れでちっぽけな存在を見下ろしている。
◇
(……あの検品、手伝っていれば良かったかなあ)
勤しむヴァイスリヒトを他人事に見ていたナハティガルは、目の前の光景が夢ではないことを確認する。今度、書類の整理くらいは手伝ってやろうと思う。
そんなナハティガルの頭上には竜がいる。
深い青を纏った青竜。
すぐに飛びかかってこない時点で明らかな上位種だ。
食欲ではなく観察の視線。
重苦しい威圧感。
けれど自分が恐ろしいのはただ一つ。一つきり。
故にこれは――竜などは脅威にもならない。
『置いて行かれたか、小さきものよ』
竜が嘲るように――憐れむように唸った。
肺腑に響くような、荘厳なる鐘の音にそれは似ていた。
小さきものたる小鳥は、苦笑して言う。
『見ての通り。見事に捨て置かれた』
返された竜言語に、竜が目を見開いた。
それもそのはず、竜言語は消失言語のひとつであり、幾つかの言語を記された書物は二、三冊ほどしか存在していない。これは普及していないというわけではなく、言葉を載せるにも解読出来ていないのが原因だ。
聞き取れたものは数語。理解出来た者は片手以下の数人のみ。
竜の知識を得ようと、今日も今日とて世界のどこかで竜学者が頑張っている――らしい。
頑張れ、竜学者!
そんな希少かつ貴重な言語を、仲間に捨てられた小さな人間が口にしたのだから竜が驚いたのも無理からぬこと。
『その年で我らが言語を解し操るか』
『理を解いて“理解”に至る。己を研鑽していけばいつかは辿り着ける道だ。驚くに値しない』
竜が更に瞠目する。ナハティガルの不遜な物言いに対してだろう。赤みの混じる金色の瞳には、知性と理性が窺えた。
目の前の小鳥を喰らおうともせず、じっと見下ろしているその様は紳士的にすら見え、だからこそ兄騎士たちのしでかした所業にナハティガルは頭痛を覚える。
『お訊きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか』
おもむろに従卒の口調で言えば、竜が目を細める。苦笑されたような気がした。
『今更に取り繕うか、小さきもの。先ずは身を起こせ。そして名乗れば許そう』
『ちっぽけな存在の名をわざわざ訊くのか?』
『同席にて対話するには名乗るべきであろうよ。我が名はヴァイユーヴ。そら、起きて名乗れ』
『……ナハティガル』
よいしょと体を起こしながら、答えるナハティガル。
『ハハハ。成程、成程。だから小鳥か』
兄騎士たちの放った蔑称を聞きとっていた竜――ヴァイユーヴが、カラカラと笑う。
『彼らは貴公に何を――』
やらかしたんですか、と問えば、竜は悪戯げに目を細めた。
『我がねぐらに侵入して、宝石を幾つか盗んでいった。故に悪童と見て、少々懲らしめる為に追いかけたまで』
ガラス玉のような質の悪い宝石だったので些末なことだ、と言うヴァイユーヴに、ナハティガルは苦笑する。
どうやらこの紳士的たる竜は、別に兄騎士たちを殺すつもりはなかったようだ。
ただ子供(悪童)を叱っただけ。
つまりは追いかけられ損。
ナハティガルは失笑する。
しかし竜の威光は本物だった。自分はそれに気圧されてしまったわけだ。
(騙された。名演技だな)
ともかく、この竜が寛大で助かった。
ナハティガルがそう安堵していたところへ、ヴァイユーヴが呵々と笑う。
『だが良きこともあった。ガラス玉の代わりに輝石が転がって来たのだからな』
『え?』
竜を恐れず対話に持ち込んだ小鳥。
いやこれは恐らく『小鳥』ではない。幼さの残る外見には似つかわしくない、達観した――何かを諦めたその闇色の瞳。叡智が満ちているが、その光は太陽ではなく月。
黒曜石の奥底に、竜でも見抜けぬ神秘がある。
『フハハ、黒水晶を捨てるとは。アレらも見る目がない。――さて、移動するぞナハティガル』
『え。なぜ』
『見晴らしのいい場所にて対話をしようではないか。きっと知見も広がろう』
『い、いや、その辺りは間に合っ』
『そら。我が背に乗せてやる。来い』
『その、私には従卒としての務めが』
『今日の空は良いぞ、空気が美味い!』
『だから、戻らないといけないから………はあ。分かった、付き合うよ』
『ははは、そうだ。道端の石などにかまけるでない。己が時間は有効活用するべきだ』
『……傲岸だなあ』
まあ、そういうのは竜らしいか。
ナハティガルは諦めて竜と共に森を抜ける――その身は軽やかに上空へ。
「う、わ……っ、これは――素晴らしい!」
薄暗い森から、一気に視界は天へ。
抜けるような青空、というのだろう。人の身ではなかなかに見られぬ絶景がナハティガルの視界いっぱいに広がっていた。
『ハッハッハ。いいぞ、もっと喝采せよ!』
盗難騒ぎなどすっかり忘れたように、竜はご機嫌。
いや、この竜にとって先程のことは些事なのか。ガラス玉が一つ二つ盗まれたところで、何の痛痒もない。愚かな人間を追いかけてやっただけ。
(王者の気質というか。流石は竜の高位種だな。精神が安定している)
水流のように滑らかに滑空する竜の上から、ナハティガルは地上を見る。すれば丁度、砂漠の上を通り過ぎるところだった。
――乾いた風が黒髪を舞い上げる。
(懐かしいな)
昔あの地域に立ち寄って「オアシス」を再作成してから、もう六年が経つ。
聖獣ヴァリェタの白角を貰い受けた喜びのままに、飛んでいった砂漠。オアシスの存在の確認と、我が拠点の水脈に対する資料になればと思って。
やがて大きな三日月湖が見えてきた。
(ああ、ちゃんとあるな。良かった、不備はなかったみたいだ)
新しく得た媒介道具、聖獣の角杖の実験結果。側にはアシタバの群生。青と緑の命の色彩が、乾いた砂色の上でしっかり息づいていた。
あの『アシタバの楽園』には、番人がいた。
名も知らぬオッドアイの少年。貴族風の身なりをしていたので精霊かと思ったが、人間だった。
(まだあの場所にいるんだろうか)
創製後は、余計な尋問を避ける為に急いで立ち去った。(もっとも、逃げた先で白銀の騎士に捕獲されたのだが)
アシタバの精霊……もとい、あの少年は元気でやっているだろうか。
そのうち様子を見に行こう、立ち寄ろう、と思っている間に過ぎた歳月は六年。
時の流れは速いもの。
さりとて、再会の約束をしたわけではない。いつ訪れても良いだろう。
(筆頭殿の一団は……いるわけがないか。まあ、見つからずに済んで幸いだ)
自らそうしたわけではないが、これもサボタージュになるのではなかろうかと懸念があったのだ。
いやいやしかし、これくらいの道草は許されるだろうとも思う。
なにせこの小鳥は、仲間の為に『尊い』生贄になったのだし。
『どこか見てみたい場所はあるか、ナハティガル!』
流れる雲を追いかけながら、竜が訊く。
『もうこれで充分だけど……そうだな、どこかおススメがあるなら』
『では、この一帯をもう何周かしてやろう――さあ、刮目して見るがよい!』
誇らしげに空を飛び回るヴァイユーヴ。
その姿は何だか飛翔能力を自慢する子供のようで、ナハティガルは苦笑を浮かべながらも空を見上げる。砂漠の上の太陽は眩しくも爽快で、近づいた空の青さと眼下に広がる光景の対比が美しい。
「今日は良い日だ!」
小鳥は笑い、歓喜の歌を歌う。
ゆっくりと日が傾いていくのを悠々と眺めて――従卒の仕事を少しの間忘れて、竜と共に空を往く。
◇
その日の夜は月が出ていた。
けれど、ああけれど。
どうして周囲がこうも暗いのだろう。
呼び出された執務室。横一列に並べられた騎士たちの前に立つ、一人の男。暗さの元凶。
騎士たちをひたりと見据える眼差しは氷。極寒の。その身からは深淵の炎が溢れて、周囲を覆っているようだった。
部屋の四隅、窓にはきらきらとした氷片が張り付きつつある。
一片の赦しのない氷獄が示すは怒り。彼の大切な小鳥を連れ出し、置き去りにしたことに対しての。
見えない氷の剣が騎士たちの喉に、心臓に、室内に立ち込めた殺気がひたりと突きつけられている。
『ナハティガルは竜に襲われ、食われました』
馬鹿な。
突如舞い込んだ南方への遠征命令。
ナハティガルも同行させようとしたが、彼の身分が低いことと実戦経験の少なさを理由に、あえなく上層部に却下された。実績を積ませる為に連れて行くというのに。
あの時に感じていた正体不明の感情を、もっと探っていたなら。
そもそも、非番であるはずのナハティガルに巡回当番が回されてきた時点でもっと疑いを持つべきだった。鍵を掛けるとはいかないまでも、安全な場所に置いておくべきだった。
けれど、過剰な保護はナハティガルの能力を軽んじることになる。
だから、小鳥を置いてきた。
何事もないことを願って。
いや、ああ、小鳥は――ナハティガルは強いから、大丈夫だろう。
そう思っていたかった。
けれど早馬で届いた急報。
それを受けて、ヴァイスリヒトは帰還した。双子の次兄らに後を任せて。
誤報だと思った。思いたかった。
確認の為に関係者を呼び出した筆頭騎士に向けてしかし放たれたのは、騎士たちの『日報』。
ニヤニヤ笑いながら簡単に報告して、その場を立ち去ろうとした彼らは己の目論見が浅はかであったことを知る。
――愚かさを思い知らされる。
筆頭騎士であり死の四騎士であるヴァイスリヒトの凍えるような殺気を叩きつけられて。
ナハティガルを見捨て、あまつさえ『竜に食われた』などと抜け抜けと報告した彼らを、ヴァイスリヒトが見逃すはずもなかったのだ。
瞬時に広げられた殺意の包囲網。
言い逃げは、死からの逃走は最早許されず。
ゆらり、と。
目の前の氷の花が少し揺れたように見えた――次の瞬間、それはあった。
鞘から抜かれた剣が、神剣が、一人の男の喉元スレスレに突きつけられていた。
その男がナハティガルを突き飛ばしたのだと、さて筆頭殿は存じていたのかどうか。
剣を抜く音は聞こえなかった。
動作どころか気配すらなく。
気づけば命に突きつけられていた。死の剣が。
騎士たちはもう声すら出せない。
ガタガタと震えて、硬直するばかり。それこそ、氷柱のごとく。生憎とそこに美しさはないが。
「どこを」
氷の音が訊く。
「どこを斬り飛ばしてほしい」
見えない氷の手が男たちの心臓を撫でる。
ひ、と引き絞られた悲鳴がひとつ。
「すっ、すみ、ま、せ……りゅっ、竜、竜が相手、相手ではっ」
「どこからがいいかと訊いている」
弁解を挟む間もなく畳みかけられる死の宣告。
ヒィ、と更に細い悲鳴が零れる。
彼らの足元には濁った黄色の水溜まり。
無論、氷が溶けたわけではない。
そして目の前の氷も融解することなく――それどころかますます冷え冷えとして。
「弱きものを見捨てた貴様たちに七度の赦しは必要ない」
剣の切先が、男の喉にツキリ。
ひ、ぃい。
家畜が屠殺される間際の声に、それは似ていたかもしれない。
最早どうでもいいことだが。
「貴様たちみな同罪だ。共に大罪を抱いて死――」
「すみません! ナハティガル、ただいま帰還しまし――」
た?
飛び込んできたは小鳥。青い鳥。
氷の世界の時間が、静かにひたりと止まった瞬間だった。
ナハティガルはヴァイスリヒトと騎士たちへ視線を走らせ――やがて、小鳥のように小首を傾げる。
「一方的な私刑は掟に背くのでは?」
パキリ、と。
氷が弾けたような音がどこかでした。
「……君、は」
「はい?」
「君は、竜に、食われた、と」
「この通り、五体満足ですが」
「……この者らに、竜の巣に捨てられたの、では」
「いいえ?」
嘘ではない。見捨てられたのは、逃げる途中の獣道。重箱の隅をつつく返答だが、仕方ない。
「とりあえず、剣を収めて下さい。あと、お茶にしませんか。遅い時間に戻ってきたものだから、食事を取り損ねてしまいまして」
「……断罪、を」
「死んだ者はいない。貴方が今から作らない限りは」
「ナハティガル、だが」
「私刑での死など贖罪にはなり得ない。その剣を収めればこの場は丸く収まる」
「……君は、ひとり……独りきりで、竜に」
剣を持つヴァイスリヒトの手が僅かに震えているのをナハティガルは見つける。
激情と歓喜と、後は……何だ?
ともかく面倒くさい。
ナハティガルは足音を潜めた猫のような足取りで、彼らに――ヴァイスリヒトに近づくと、剣を握る手をそっと抑えた。
「……戻るのが遅れて、すみませんでした。罰したいならば、まずはこの従卒めが受けましょう」
「……っ」
息を呑んだのはその場にいる全員。
静かに語りかけるナハティガルは歌う小鳥さながらに、場の空気を砕く。
少なくとも、砕け散った。目の前の冷酷な氷は確実に。
「血を見るよりは厳罰を。……剣を、気持ちを収めて下さい筆頭様」
微笑して、激怒で冷えたヴァイスリヒトの手をひと撫で。
「……ナハティガル……?」
ヴァイスリヒトの中で何かが解けた気がした。
目を瞬かせる騎士に、小鳥は微笑むだけ。
霧散した死の気配。
かくて惨劇の幕は下ろされる。一滴の血も流れぬままに。
黄色い水溜まりだけはどうにもならなかったが。恐怖の残滓。濁った罪。
ふう、と溜め息一つ。
「――そこの者。後は任せた」
戸口にて冷や冷やと様子を見守るしかなかった別の騎士たちが、声を掛けられて飛び上がる。
「はっ! 畏まりました!」
否応もない。
入室してきた彼らと入れ替わるようにして、ヴァイスリヒトとナハティガルはその部屋を後にする。
氷の騎士はもう彼らを顧みない。
隣に小鳥を連れて、廊下を歩いていく。
小鳥も彼らを顧みない。竜の前で彼らはそうしたのだから。
だから彼らがどうなろうとも関係ない。興味があるのはこの空腹を満たす馳走だけ。
「……何か食べたいものはあるか?」
まだ幾らか固い声で、それでも取り戻しつつある柔らかさで包んだ声でヴァイスリヒトが訊ねた。
ナハティガルは相手を見ず、前を向いたまま答える。
「そうですね……時間が時間ですが……アップルパイは、ありませんか」
「……」
「筆頭様?」
「あ、……ああ。いや、うん。大丈夫だ、用意出来る」
「良かった」
「……、……君は本当にアップルパイが好きなのだな」
「今回も遠慮なくご馳走になります」
「ああ。……はは、幾らでも。…………おかえり、ナハティガル」
そこでナハティガルがチラッと一瞥する。
「はい」
ただいま、は言わなかった。先ほど口にしたので。
(一食分浮いた!)と軽やかな足取りで廊下を進む小鳥の背中を、氷の騎士が見つめる。
成長途中とはいえ小さなその背中。
なのに物怖じせず、ナハティガルは部下たちの処罰場へ乱入した。軽やかに。
自身を見捨てた者への断罪を、あろうことか止めた。鮮やかに。
死の剣を止めた小鳥。
ヴァイスリヒトは己の手を撫でる。そこは小さな手が撫でた箇所であり、まだ少し熱を帯びているようだった。
ナハティガルに触れられたあの瞬間、体に、いや精神にさざ波のような何かが広がるのを感じた。
それは鳥の羽のように軽やかに、それでいて強固な圧力でヴァイスリヒトの激情を押さえつけたのだ。
熱のようでいて、氷のようでいて。
正体を掴もうにもすぐに溶けていった、あの不思議な感覚は一体?
内心で首を傾げるも、目の前を歩く小鳥がどんどん自分を置いていくので、ヴァイスリヒトは足早に後を追いかける。
これではどちらが従卒だか分かりやしない。
小鳥は傾城の生まれ変わり




