2-1 夜に歌う鳥の名は 1
城下町の外れ。
木々に囲まれた小さな空地の一角で、少年が剣を振っていた。
年の頃は十二くらい。簡素な布の服を身に着け、肩まである髪は無造作に後ろで一つに束ねられている。足は何の素材なのか分からない靴を履いていたが、柔らかながらもしっかりした造りで上等そうだ。
そんな少年が振っているのは、ただの木剣。
鍛錬には丁度いいが、何度も振っているとさすがに疲れてくる重さがある。
事実、少年は何度目かの素振りの後に疲れたらしかった。
動作を止めると、ふうと息をつき、額の汗を手の甲で拭うついでに乱れた前髪をちょいちょいと手櫛で直していれば――「ここにいたか」と、どこかから声。
「よお。今日も精が出るな」
ざかざかと地面に生えた草を踏みしめて近づいてきたのは、一人の青年。少年に向かって片手を上げると、明るく言葉を掛ける。
「お前、飯は食ったか?」
少年が首を横に振ると「だろうと思った」と笑いながら、側にあった切り株にどっかと腰を下ろした。
膝の上で手にしていた包みを解いた青年が取り出したのは、手のひらサイズのパン。混じり物が多いのか、少し硬そうに見える。が、焼き立てだったらしく青年がパンの両端を掴んで二つに割った途端に良い匂いがした。
「ほら」半分にしたパンを少年に差し出す。「温かいうちに食え。うまいぞ」
少年は青年とパンに交互に視線を向けて躊躇う様子を見せていたが、やがては丁寧に受け取ると静かな声で言った。「ありがとうございます」
変声期前なのか、少年の声はどことなく少女のようにも聞こえる。そのせいもあってか、青年は妙にこの少年の世話を焼いてしまいがちなのだった。
青年は、冷めないうちに食べろと促して自分のパンにがぶりと齧りつく。
少年も草地の上に腰を下ろすと、一口サイズに毟って口に入れた。
ゆっくりと咀嚼しながら、空を見上げる。焼き立てだが、かなりの噛み応えがある生地。
けれども、城下ではこうしたものが普通なのだった。柔らかで甘い白パンは、中級層以上の食べ物。
だがこのパンも意外に味は悪くない。それはひとえに中級以下の人々が味に妥協しなかったからだ。
努力に努力を重ねた結果、何事も為せば成るという一例。少年もそれを知っているが故に、しっかり噛み、噛み締めて、その結晶を丁寧に味わって食べる。
青い空。白い雲。
いつもどおりの変わらない景色がそこにあった。
「この後はまた向こうに戻るのか?」
先に食べ終えた青年が、パンくずを辺りに払い落としながら訊ねてきた。
その顔にはどこか気遣わしげなものが浮かんでおり、少年が何も答えないでいれば、ポツリと続けた。
「もし、何か嫌な目に遭わされたりしてるんだったら言えよ。抗議して、連れ出してやるから」
それを聞いた少年はしかし不思議そうな顔をし――それから、苦笑を浮かべて青年に答えた。
「大丈夫です。筆頭騎士様が他の方々を纏めていらっしゃるので」
「あー……。あの、四騎士の一番偉いやつ、だっけ? 銀の獅子だか退魔のしろがねだか、ご大層な通り名のある」
青年の顔には嫌悪の色が滲んでいて、それを見てとった少年は不思議そうに首を傾げる。
「筆頭様に何かされたんですか?」
「……別に。ただ、なんつーか……なんとなく虫が好かねぇ」
青年は胸の前で両腕を組むと、不機嫌さを露わにしながら唸るように語った。
「別に、貴族嫌いだからってんじゃねーぞ。そりゃあ、二十なりたてのくせに四騎士の、しかも筆頭になるとか、妙に綺麗な顔して女にもてる癖に袖にしまくってるとか、やたらすました顔をして何事にも動じないとか! 他にもあいつは何というか、その……とにかくいけ好かないんだよ!」
唐突に意味の分からない(八つ当たりともいうだろう)告白をされた少年はというと、年若い自分が何を言っても役には立たないだろうと思ったのか、それとも単に面倒くさいと思ったのか。
特に同意も否定もせず、苦笑いで青年の愚痴を受け流しながらパンを食べ続けた。
黙々と。もくもくと。
やがてそれをすっかり胃の腑へ納めてしまうと、立ちあがって青年に頭を下げた。
「ご馳走様でした。休憩もそろそろ終わる頃なので、私は戻ります」
「……もうちょっとゆっくりしても――いや、何でもない。今日も頑張れよ」
どこか名残惜し気な口調で、それでも片手を振って見送りの言葉を吐いた青年に、少年は一礼を返すと背を向けてその場から立ち去った。
後に残された青年は、少年が消えた方向に視線を留めたままひとり嘆息つく。
「ほんとに大丈夫かねえ」
そんなことを呟きながら、腰に下げた鉄製の長剣をそろりと撫でる青年は少年が帰っていった場所――王城の門番であった。
青年は城外を警備する役目を持った騎士であり、名はジェイバン・フェンリス。
本日の担当時刻は夜の為、まだ王城方面に用はない。
そんな中、いつもの場所でいつもの少年を見つけたので声を掛けに来たのだった。
初めは、下級層の子供が何かしているなあという好奇心から窺い見ていただけ。それが、ほぼ毎日のように同じ場所で見かけ、一人きりで剣の鍛錬をしているようだったので、ついつい気になって近づいたのが始まり。
少年は当初、ジェイバンを警戒していて言葉少なに接していた。
その理由は分からなくもない。少年にとってジェイバンは馴れ馴れしく近づいていた見知らぬ他人。詐欺だか誘拐だかを仕掛けてくるのではないかと不審に思い、距離を置くのは当然のこと。
だがジェイバンが根気よく通い、ちょっとしたことでも話しかけ続け、やがて少年が昼時にも一人でいたので昼食を差し入れるようになってから、ようやく態度を軟化させることに成功する。
少年の名は――これもまたかなりの時間を掛けて、やっと聞き出せたが――ナハティガル、と言った。
髪をぞんざいに結わえ、身なりも質素。
けれど顔立ちは下級層の子供にしては綺麗なほうで……いや、少し綺麗すぎた。
(まあ、あんな顔してたら警戒心も強くなるわな)
ここグランヴィレスは聖王国下の城下町だが、清潔で安全な大通りは城外の上級から中級層のある第二層まで。そこから先は『きちんとした』不平等な世界がある。
ジェイバンは中級層だが、警固の為の巡回にて幾つもの不衛生を見かけている。
そうした場所が清掃されていないのは、国の均衡を保つため。下層があるから上層が輝くのだという掲示でもあるのか、一向に改善されない。
下層はスパイス。上層がぬるま湯の日常に飽き飽きしない為の。
だから、非合法なことが行われている下層は、ずっとそのまま。
たまに城内から騎士たちが出動して見回りに来るが、内通者がいるのかその時には疚しいものはみな物陰に隠れ、押し込まれ、監視の目を擦り抜けるのが常。零れ落ちる悲鳴は掬われず、大きな事件が起こらない限りはずっとそのまま捨て置かれる階層となっていた。
ただ、ここ数年は王家の姫君が何やらちょっとした政策をしてくれているらしい。その期待値は……ここはお手並み拝見、とでもいうべきか。
ジェイバンは皮肉めいた笑みを浮かべるも、それでもどこか期待している自分がいるのは否めない。叶うかどうかも分からない希望を抱くのは、この国をそれなりに愛しているからだ。
とかく、この国にはそんな影があるものだから、城下町の外れにある空地の一角に綺麗な顔をした少年を見つけてしまったジェイバンは、つい構うことになったのだった。
良からぬ事態に巻き込まれる前に保護を、と行動に移ったジェイバンだったが、当の少年ナハティガルはどうにも変わった子供でいた。
どうして一人で鍛錬をしているのかと訊いた――「力が欲しいからです」
どうして力が欲しいのかと訊ねてみた――「死にたくないからです」
そんな子供らしからぬことをいうものだから、ジェイバンは既に『良からぬこと』に巻き込まれているのではと危惧したが、ナハティガルは首を振って――「まあ、こちらのことですので気にしないで下さい。気分的なものもあるので」とだけ言って、それ以上の会話を打ち切ったので残ったのは謎だけ。
ならば、こっそり調べてみるか。
そう考えていたところ、表情から読まれたのか少年が苦笑して情報を付け加えた。
「こんな身なりですが、騎士様の小姓として働いていますので大丈夫ですよ」
驚いた。
小姓を付けているのは中級以上、つまり身分の高い騎士しかいないからだ。
給金が良く、中級層以下の子供たちにとっては憧れの『職業』でもある。
但しその条件が雇用側、つまり騎士からの勧誘の為、中級層の子供たちが機会を得ることもなく夢としてだけ見る職業だった。見る分には無料の夢として憧れて。
もう一つの方法は、コネクション。親類縁者に依頼して……というのが表向きだが、実はほとんど他人でも良かったりする。とあるものを出せば、可能性がぐっと広がるという噂が貴族層にあるのだ。
それは密やかに囁かれる一足飛びの手段。支払い方法は、金品以外に人や何やと自由らしい。隠しきれない非人道的な通貨も含まれているようだが、しがない中階級のジェイバンには深く探りきれない。
どちらもナハティガルには縁の遠い手段にしか見えなかったが、それでも、あの顔ならば――もしかすると?
そんな邪推をしたところで、ジェイバンは苦笑いを浮かべる。
どうして実力で得たものだと考えてやらないのだろう、と。
理由は分かっている――嫉妬だ。
結局、自分もあの少年が羨ましいのだ。
あの年で、あの身分で、何の苦労もなく高給取りとなっただろうナハティガルが。
勿論、全てはジェイバンの妄想だ。しかし当の少年がその苦労を語ってくれやしないから、ジェイバンは分からない。分からないから、勝手に妄想してしまうのだ。だから、邪推も仕方ない……だろう?
ナハティガルが距離を取っているように感じるのは、こうした考えを読まれているからだろうか……遂にはそんな被害妄想へ辿りついてしまい、我に返ったジェイバンは意味もなく地面を蹴りつけた。
「あー、クソッ! ……はあ。俺も、訓練所に寄って素振りの一つでもしてくるかな」
言い訳のような独り言を零しながら、ジェイバンもまたその場を後にする。
後に残ったのは、パンくず。
どこからともなく小鳥がやってきて、そのおこぼれを突き始めていた。
◇ ◇ ◇
「おい小鳥、これを書庫に戻しておけ」
ナハティガルの横を通り抜けざま、薄金の髪をした騎士が一方的に数冊の本を押し付けて去っていった。ナハティガルは何も言わず、本を抱えて黙って進む。
「よお、小鳥! こいつを倉庫へ返しておいてくれ」
廊下の曲がり角で出くわした赤茶髪の騎士は、笑いながらナハティガルの抱える本の上に薄手だがしっかり重い鎖帷子を置いて、廊下の向こうへ歩いていった。少年はやはり何も言わず、黙々と歩き始める。
「……君はまた雑用を押しつけられているのか」
廊下の床が石造りから絨毯へと変じた丁度その時だった。
どこからともなく飛んできた溜め息交じりの声が、ナハティガルの足をピタリと止める。
平然としていたナハティガルの表情が、初めて歪んだ瞬間でもあった。
けれど振り向いた時にはもうその変化は消えており、曖昧な――ともすればぎこちない――笑みらしきものを浮かべて、声の主と対峙する。
「これは……こんにちは、四騎士筆頭様」
ぺこりとお辞儀をするナハティガル。やや俯き加減で、視線は下方へと逸らされている。その場から立ち去りたい様子を見せるも、従卒である以上それは叶わない。
相手の気配が目の前に移動した。
それを受けて、ナハティガルが警戒するように少しだけ視線を上に向ければ――「幾らか受け持とう」
視界の端に写るは差し出された手。
ナハティガルの眉根が寄せられ、怪訝そうな眼差しで問い返す。
「……その手は何でしょうか?」
理解しているのにわざと訊ねる声だった。
ああ、小鳥と嘲られていても彼の少年が聡明であることを、この四騎士筆頭は――ヴァイスリヒトは気づいている。
――見抜いていた。答えを返す代わりに苦笑を浮かべると、ナハティガルの荷物をさっと取り上げる。
「あっ……」
ナハティガルの手に残ったのは、一番軽そうな本が一冊だけ。
敢えて空手にしなかったのは、従卒としての立場を保つためだろう。
とはいえ、一冊しか持たせないというのもどうかと思うが。
「どこへ行けばいい」
重い本数冊と鎖帷子とを片手で抱えながら、ヴァイスリヒトが言う。訊ねる口調ではなく、ほぼ命令の形で。 誤魔化される気が無いという相手の確たる意志を嫌でも理解したナハティガルは、溜め息と共に答えた。
「……書庫と倉庫です」
「分かった。では行こうか」
ひとりで勝手にどうぞ、とつい言いたくなったナハティガルだったが、苦渋と一緒に飲み込んだ。ナハティガルは従卒。上の者には『出来るだけ』従わねばならない。
それでも、往生際悪くその場に立ち尽くしていれば、視線の気配。
顔を上げれば少し前で足を止め、ナハティガルをじっと見つめて待っている騎士とバッチリ目が合う。
視線は「どうした?」と言っていた。
ナハティガルは今度こそ諦観し、仕方なしに歩き始める。
早く退勤時間にならないだろうか、とそればかりを考え、途中で隣を歩く銀色の髪をした騎士を一瞥し――すれば微笑みを向けられかけたので、慌てて顔を逸らし――あとは仏頂面で、黙々と廊下を歩いて行った。
◇
夕暮れ時の執務室に人影がひとつ。
椅子に深く腰かけたヴァイスリヒトは、手にした書類を黙読していた。
紙に書かれているのは一人の少年のこと。
ナハティガル。年は十二。『下級層出身』とある記述の横には誰かの手によって疑問符が一つ付け足されている。
三年前にヴァイスリヒトが自ら従卒へと召し上げた少年で、その初対面は裏路地。
王都の外れにある吹き溜まりに、彼はいた。
といっても、普通に見つけたわけではない。
――月が少し欠けた夜だった。
ヴァイスリヒトが執務室で書類のチェックをしていたところに、不意打ちめいた一報が入る。
なんでも、騎士たち数人が一人の娼婦を捕まえて乱暴しようとしているとのこと。主犯の特徴を聞いたヴァイスリヒトは、ウンザリした溜め息をつく羽目になった。
事件を起こした者の一人は――というか大体は首謀者だが――上級貴族の親族を持つ、道楽息子。
ストレスか、単なるおふざけか……いいや、また例の『職業病』というのだろう。彼らはよくこのような言い訳を口にする。「怪しい者が不審な動きをしていたので、尋問したまでです」というお決まりの嘘を、ニヤニヤ笑いながら言いのけるのだ。
本当に厄介な荷物を押し付けられたものだ、とヴァイスリヒトは思う。
ともあれ、そんな彼らはそこそこの権力持ちであるので、諫める役は騎士の中で最も地位と階級のあるヴァイスリヒトのみ。他にも上級貴族縁故の者がいるが、大体は降りかかる火の粉を嫌がり対応を辞退する。
実力主義を謳う当王国。貴族の揉み消しすら打ち消せるのは四騎士だという皮肉な特権を、ヴァイスリヒトはこの時ほど疎んだことはない。本来は王家に対する反乱、反逆を防止するための盾なのだが。
(しかし、この面倒も今回までだな)
ヴァイスリヒトの口元に、苦笑めいた笑みが浮かぶ。
いつも細々とした面倒を起こしている貴族騎士たちだった。
彼ら貴族騎士は知らない。道楽が『許される』回数が尽きたことを。
ここまでが慈悲であったことを。
――それは秘密の約束だった。
問題を『七回』起こした時は彼らの権限全てを剥奪、判断をヴァイスリヒトへ譲渡するというのが、たらい回しにされてきた彼らを受け入れる絶対の条件だったのを。七つの美徳、七つの大罪。
上級貴族たちは当然ながら渋り、酷く抗議したものの、権力を跳ね除け抗える四騎士ヴァイスリヒトには何の痛痒もない。
嫌なら修道院の門戸を叩けば宜しい、とだけ告げて貴族らが応えるのを待ったのみ。
結果、密約は交わされた。
親たちは、なんとしても我が子に騎士という肩書きを付けたかったのだ。(僧よりも騎士のほうが箔が付くとでも思ったのか。その親心は、別の方向で適切に発揮して欲しかったけれど。)
もしかすると、性根が改善されるかもしれない。
そんな、親としての一握の希望もあったのかもしれなかったが……。
――悲しいかな、結末はご覧の通り。
外の歪曲は叩き直せたが、中はリンゴのように腐ってしまっていたようだ。騎士の掟の影で淫猥たる遊びを七回起こして破滅した。ようやく自滅してくれた。
(これで幾らか軽くなる。抜けた穴は……すぐに塞がる、問題ない。あれらは大した役目にもついていなかった)
戻ったら早々に処理させてもらおう――そんな考えを巡らせながら、ヴァイスリヒトは現場に駆け付けたのだが……。
路地の暗がりに、ぽつんと小さな影があった。
夜目の効くヴァイスリヒトが目を凝らせばそれはどうも少年でいて、短剣を手に立っているようだった。
こちらに背を向けた状態でいるので、顔は分からない。
簡素な服装。一般的な庶民の(いや下級層の)格好。暗殺者の類でもないようだ。
少年の足元には、騎士が三人。みな地面の上で伸びており、別の一人は壁際に追い詰められてへたり込んでいた。地面に水溜りのような染みが見えたが今は気にすまい。残りの一人は、何をしたのか足から逆さまに吊られて目を回していた。
脛かじりの貴族騎士とはいえ、彼らは一応それなりの能力を持っていた筈だが……この有様は一体?
ヴァイスリヒトの困惑は、けれどそこまで。少年が腰を抜かしている騎士に向かって短剣を振り上げるのが見えたので、制止の声を投げた。
「――そこまでだ」
短剣は滑らかに中空で止まり、少年がゆっくり振り返る。
闇夜に溶けるような肩までの黒髪を揺らし、振り向いた少年の瞳は夜の中でも鋭かったが――唐突に丸くなり、鋭さが消えた。
眉根を寄せて、僅かに後退る。警戒する猫のような眼差しは、ヴァイスリヒトの階級、もしくは強さを感じ取ったのかもしれない。
少なくともヴァイスリヒト自身はそう考えたので、軽く両手を挙げて無抵抗に似た仕草をとると、少年に話しかけた。
「武器を納めて欲しい。私はそこの――」ここで、騎士たちに冷たい視線を向ける。
「どうしようもない彼らを回収しに来ただけだ。君を捕えに来たわけではないし、危害を加えるつもりもない」
少年は少しの間なにも言わずにヴァイスリヒトを見つめていたが、ややあって頷いた。
片手をひらりと振って――短剣は消えていた――歩いてくる。
袋小路の為、抜ける道はヴァイスリヒト側にしかないせいだが、特に警戒した様子はない。
猫を思わせる、静かでどこかリズムのある足取り。そのままヴァイスリヒトの横を擦り抜けて、そうして彼らは別れる筈だった。
「――待ちたまえ」
なのに、反射的に腕を掴んで引き留めていた。
少年がギョッとしたような顔をしてヴァイスリヒトを見るので、彼の四騎士筆頭はついこんなことを言ってしまった。
「君さえ良ければ、私の従卒にならないか。衣食住の保証はしよう」
ヴァイスリヒトは、少年がとても奇妙な表情をするのを見る。
それはどうにも唐突で、実におかしな勧誘の仕方であった。
それでも、その時のヴァイスリヒトはそうしたかったのだ。
たった一人で騎士に立ち向かい、ひどい目に遭わされそうだった娼婦を助けた少年の何かに、知らずと惹かれたのは騎士の性分もあっただろう。
それと、少年の瞳が懐かない猫を思わせ……身内の誰かと重なったせいもあったかもしれない。
愛しい子猫。ちっとも懐いてくれない黒髪の少女と少年はどこか似ていて――。
◇ ◇ ◇
日の傾いた夕暮れ時。
悪ふざけで絡んでくる騎士たちを今日も躱し、いなし、誤魔化して――約一名どうにもならない者がいたが――それでもどうにか無事に過ごした一日の終わり。
帰宅の為に外門のほうへ一人歩いていたナハティガルは、前方に見覚えのある人物がいるのに気づいて驚きの表情を浮かべた。
「……ルスキア――、兄さん」
それはごく小さな呟きであり、二人の間にはまだ距離があったが相手は声を聞きつけたように微笑む。
「迎えに来ましたよ、ナハト」
どうやらナハテガィルの兄らしい。赤みがかった暗い灰色のローブの裾をはためかして歩いてくると、片手を差し出して口を開く。
「さあ、帰りましょう」
けれどナハティガルは複雑な表情を浮かべていて、差し出された手を一瞥して溜め息を吐いた。
「ちょっと過保護がすぎないかな」
「そうでもないでしょう。この辺りの外灯は松明ですから、もう少しすれば真っ暗になります」
ですから、一人で歩くのは危険ですよ。
困った顔をして微笑むルスキアに、それでもナハティガルは差し出されたままの手を取らずに言い返す。
「いや、飛んで帰るから大丈夫――」
「――ではないです。騎士の『目』の範囲内ですので、気取られてしまいます」
兄ではない声と口調で告げた青年に、ナハティガルが言葉を詰まらせて眉間に皺を寄せた。
落ちる沈黙。周囲に警戒の視線を刷きつつ、小声で言った。
「……じゃあ、この会話も危うい?」
すれば青年が黙って微笑む。「そちらは大丈夫です」と頷いてから、こちらもまた声を潜めて答えた。
「王家の目の増幅効果は、音の方には及びません。さすがに領域下で無断に盗聴などしていたら、民が黙っていないでしょう。まあ、私としてはこの国で謀反なり造反なりが起ころうとも気にしませんが」
「……いや、うん。私も、今は一応、君が言う国の民の一人だからな?」
そう答えてようやくナハティガルが歩き出す。やや後ろにルスキアという名の『兄』を連れて。
「さなぎの子はどうしている?」
「容体はすっかり安定しております。じき、動けるようになるでしょう」
「そうか……良かった」
門を通り抜け、王城から離れ、離れて区隔壁の影に沿って歩いていた少年と青年だったが、地面に落ちていた影は次の区画壁へは続かなかった。
何故なら二人の姿は消えていたのだから。痕跡は何もなく。
夜の中、溶けるように静かに途絶えた足取りを知るものはいない。
ふらりと現れ静かに歌う夜啼鳥




