1-19 加護の鳥、檻の虎2
三十六回目の人生において――もう何日目か曖昧になりかけているが――レクスミゼル家の四兄弟が所有する別邸に来て、恐らくは七日目。
災禍の魔女たる幼女ミゼラティは、与えられた個室のベッドにいた。
仰向けになった格好から見つめるのは、天井に大きく描かれている奇跡の花模様。
ここ数日の間、火熱でぼんやりしていたので鑑賞するだけに留めていたが、今は少し余裕が生まれているので一考するのに丁度いい。
失伝魔法の一種である『睡蓮療花』。
核となる『花』自体には定型がない為、形や大きさなどは自由。思うままのものを咲かせることが出来るという、一見すると簡単で何とも大雑把な魔法だ。
但し、構築と術式を確かに成形出来るならば。
失伝系統の大概は、その構築の複雑さと術式の難解さ、加えて、高度な錬成力が必要となるものだから、資料や写し絵などがあってもなかなかに成功しない。
例えば、練度の低い者がこの天井にある『花』をそのまま真似て描いたとて、その『花』が真に咲くことはない。中身が出来ていないからだ。
故に、こうした最高難易度の術は大抵、隠されてはいない。
模写など無意味な行為でしかないのだから。
さて――その最高難易度にて描かれただろう奇跡の花が、今こうしてミゼラティの目の前にあるわけだが……作成者は一体?
(式の感じを見る限り、長兄殿のものじゃあないんだよなあ……)
ここのところ凡庸な失態を犯しているミゼラティだが、その本質は確かな魔女。術式の解析などは朝飯前。天井に向かって伸ばした片手を右へ左へと動かして、大まかに探る。
(思った以上に古いものだな……他の兄弟のでもないし、誰なんだろう)
療花である割にはその色彩は様々な赤と紫で描かれており、線が、色が、花が、それぞれ重なり合っていて絶妙な美が展開されている。
息を飲む程に艶やかで豪奢な大輪の花は最早、芸術的で一枚の絵のようだ。
清浄な部屋においては非常に不釣り合いなもの――だというのに、それを見つめていると感嘆の息が零れ、感動にも似た喜びが溢れてくる。
これは美術品だ。
それも一等級の。
(この「画家」に是非とも会ってみたいが……いや、そもそも古さからして存命かどうか――)
コツ、コツ。
ドアを叩く音が聞こえたので、ミゼラティは空想を中断した。
ヘッドボードにある置き時計を見上げ、それからドアの方に視線を向け――ああ、もうそんな時間か、という表情になる。ドアを開けずに狸寝入り、または無視を決め込むという選択肢もあるが――。
「起きているな、ミゼラティ。食事を持って来た。さあ、一緒に食べよう」
……選べない選択肢は選択肢ではない。
しかもわざわざ「追尾」系の魔法を使い、室内の気配を確かめてまで退路を断たなくても良いではないか。
ミゼラティは苦薬を口にしたように顔を歪めつつも、抵抗は溜め息と共に吐き出して諦め、応える。
一択しかない答えを。
「どうぞ、長兄殿」
投げやりにそう言えば静かにドアが開き、優しい微笑を浮かべた四騎士筆頭の青年が姿を見せた。
◇ ◇ ◇
そもそもの発端は、『家族』の輪の中に取り込まれそうだったので、兄弟水入らずを邪魔するのは申し訳ないだのなんだのと言い訳をして同席を辞退し、ミゼラティだけが部屋食を選択したのが始まりだった。
ここまでは良かった。良かったのだが――相手のほうが上手だった。
何をどう曲解したのか、兄弟たちが当番を決めて「仲良くお食事会」なるものをしてくれることになった。いつの間にか、そのような予定が立てられていた。しかも場所はミゼラティの部屋で。
――いや本当に、どうしてそうなった!?
止めは、一対一である。
「相手が一人のほうが、君もそう緊張しなくて良いだろう?」――とは、兄弟まとめる年長者からのお言葉。
表も裏もない、ただただ純粋な厚意。
ああ、どこまでも至れり尽くせりで涙が出る。……泣けてくる。いや泣きたい。泣いてもいいだろうか。
とかく、そんなこんなでここ連日、兄弟当番による「お食事会」が絶賛開催中である。
一度、こんなことを言ってみた。――そろそろ本邸に戻って、父親と家族水入らずの食事会をしたほうが良いんじゃないか。向こうも子供たちと会えなくて寂しがっている頃だろう、と。
すると、微笑やら苦笑、冷笑、果ては嘲笑手前と、兄弟それぞれが別々でありながらも根源は同じものを返してきた。
曰く。
「父様は母様たちと仲良くしている方がいいんですよ。どうせ愚にもつかない話しかしませんし。姉さまが気をかける必要なんて、これっっっぽっちもないですから。でも、僕たちのこと、気に掛けてくれてありがとうございます」とは、末弟アズラシェル。
相も変わらず可愛い顔から毒を吐く。そのくせ、ミゼラティには小花のような愛らしい笑顔を見せてくれたのだから分からない。
「親父殿と卓を共にすると、女性の口説き方がどうとかばかりで、面白くないんでな。でも、気遣ってくれてありがとな、お嬢ちゃん」
頭を掻きながら苦笑したのは、次男双子のシュヴァルツェ。成程、確かにそんな話題が中心の食卓は御免被りたい。
「父さんねえ……悪い人じゃないんだけど、子供の相手が壊滅的に下手なんだよねえ……だから、子猫ちゃんが心配することはないよ。ありがとね」
そう言ってウインクと共に笑って答えたのは、双子次男片割れのロゼウス。内容はぼかしていたが、恐らくはシュヴァルツェが語ったのと同じ内容だろうことはその表情から予想がついた。ご愁傷さまというべきか。
「父上は……まあ、……私たちが居なくとも、一人で食事を摂れるいい年をした大人だ。懸念することは全くない。……君は優しい子だな。ありがとう」
ヴァイスリヒトに至っては、相手が幼女であるのを慮ってかあまり多くを語りはしなかった。情操教育に悪いとでも考えたのだろう。
その口調には父親に対する幾許かの冷淡さが含まれていたが、幼女に視線が戻された時にはもうすっかり消えていた。なにはともあれ、お疲れ様ですとつい言いたくなった。
家族水入らずという名の排除を目論んだ結果、得たものは彼ら兄弟の父親に対する冷めた情――それでも根底には愛情が窺えた――それと、彼ら兄弟に好印象を与えてしまったが故の、望まぬ好感度。
何でこうなるんだ!とばかりに頭を抱えたのはいうまでもない。
◇ ◇ ◇
「ミゼラティ。……ミゼラティ、大丈夫か?」
対話から逃れる為に黙々と食事をしていたら、いつの間にか考えごとに没頭していたらしい。
名を重ね呼ばれてハッとすれば、対面に座る美貌の青年に気づかわしげな眼差しを向けられていた。
「食事の手が止まったから、何度か声を掛けたんだが……どうした?」
「ああ、いや、何でもない」
ミゼラティは端的に返し、食事を再開する。
とっとと片付けて、さっさとご退去して頂こう。今回もそんな事を考えながらスープを飲み干し、ふうと息を吐いたところで目の前に何かを差し出された。
「――っ」
ミゼラティが息を飲み、目が、意識が、『それ』に釘付けになる。
「ロゼから、君はこういうものを好むのだと聞いた。口に合えば良いのだが」
置かれた皿の向こうで、美丈夫たるヴァイスリヒトが目を細めて穏やかに語る。
しかしミゼラティは『それ』から視線を外さない。そろそろと皿の縁に手を伸ばし、ひどくゆっくりとした動作で引き寄せると感嘆の息を零した。
それはまるで壊れ物の美術品を扱う商人に似ていて、ヴァイスリヒトが苦笑を浮かべる。
「随分と大仰な反応だな。君は既に例の洋菓子店で見ただろう。同じものなのに、まだ珍しいのか」
そんな言葉を掛ければ、皿の上のものに視線を止めたままでミゼラティが首を振った。
「これが同じものだと? 馬鹿を言うな。――君は馬鹿か!」
そこで顔を上げるなり、ヴァイスリヒトに険しい顔を向ける。怒ったような――または興奮したような?――声で語るのはその皿の上、黄金色のアップルパイについて。
「中の輝き、焼き加減、深みのある香ばしい匂い。この至上にして至高の作品が、彼の洋菓子店と同じものだと!? 違う、全く違うぞ長兄殿!」
「ミ、ミゼラティ、分かった。分かったから、少し落ち着きたまえ――」
「いいや、解っていない。見ろ、この見た目からして既に完成させられているだろう至玉を、黄金の宝石を! これは味も格別、いや特別……とにかく、非常に美味たる結果が既に見えている! ……実に素晴らしい!」
「……うん、君の賛美は理解した。だが、高説はそこまでにしておいて、食べないか。焼き立てだぞ」
人が変わったふうにすら見える幼女の勢いに、ヴァイスリヒトは穏やかな苦笑で受け止めつつアップルパイに手を付けるようフォークを差し出した。
「焼き立て……ああ、そうか。そうだな」
さり気なくも見事に誘導されたミゼラティは、そこで我に返る。差し出されたフォークを受け取ると、六分の一にカットされたその一片に――ザクリ。
そして、その黄金の欠片を――パクリ。
ミゼラティの目が一瞬丸くなり、次に大きく潤んだ。
更には緩々と糸を解くように表情が緩み、溶け、蕩けて――やがて、その唇から深々とした吐息が一つ。
「……なんという甘露……ああ、正しく天上の美酒たる味わい……一等級の絶品……贅沢すらも超える……」
声に喜悦を滲ませて――どころか盛大に溢れさせながら、ミゼラティは噛みしめる。口の中のアップルパイと、咀嚼するたびに零れ広がる美味とを。
「良い……すごくいい……おいしい……これは良いもの……ああ、よきかな」
最後はもう、飾り気の無い本能からの感想を零すだけの子供になっていた。
このような最上の美食を前にして、何を偽れというのか。
災禍だの魔女だの関係無い。ミゼラティは今やただの幼女となって、もくもくとアップルパイを食べている。天敵であるヴァイスリヒトを意識外に置くという蛮行をしているが、今はただ「至高の一品」を堪能しているばかり。
その姿を、どこか面映ゆい表情をしたヴァイスリヒトが見つめていた。意味もなく自らの首筋や頬を撫でては擦るという奇行めいた仕草を繰り返していたが、やがて軽く咳払いをしてから口を開く。
「その……ミゼラティ。君は、甘いものを食べるとそうなるのか? 洋菓子店に同伴したロゼやシュヴァからは、そのような狂乱の報告は無かっ――」
「――当たり前だ。格が違う。いや、彼の店の品を貶めるつもりは毛頭ない。あれも悪くはなかった。なかったが、これはまた格別、ああ、そもそも次元が違うんだ」
そこまで一息に言ってからアップルパイを見、次にヴァイスリヒトを見上げて首を傾げる。
「君はこれを食べていないのか、長兄殿?」
「うん? ああ、いや……君より先に味見は済ませてはいるが、そこまでの感想は――」
「そこまで、どころかこの高みは『至高』だ!」
「……ん、んん。それは……単に、君がそうしたものを食べ慣れていないだけでは?」
「さり気ない色眼鏡をしてくれるな、長兄殿。ボロの身なりをした子供ではあるが、これでもそれなりの味覚を持っている。珍しい菓子を前に、大袈裟になっているわけじゃあない。これは本当に――」
ミゼラティが最後の一片にフォークを突き刺し、尚もアップルパイについての賛美を揮おうとしたその時だった。
冷えた牢の中で頂いたささやかな恵み。
一切れの黄金。残酷で優しい甘さの欠片。
「ほん、とう、に……、……」
「――ミゼラティ!?」
狂乱めいた喜び、至福はいつの間にか消え去り、代わりにミゼラティの身裡に生じたのは正体不明の――『何か』。
それは涙腺を故障させてくれたようで、自らの意思に関係なくぽろぽろと涙を零し始めてくれたものだから、ミゼラティは慌ててフォークを置いて袖口で目元を拭うことになる。
ヴァイスリヒトが立ち上がり、ハンカチを取り出す。
「――っ、すまない、私の言葉が君を傷つけたか。誓って、君の矜持を見下したわけでは」
そう言って悲痛な顔で駆け寄ろうとしたヴァイスリヒトを止めたのは、小さな手。
待て、というようにピシリと片手を突き付けて、もう片方の手で涙を拭いながらミゼラティが俯いたままで言う。
「君は関係ない。――全くに関係ない。これは私の問題だから、構わないでくれ」
「だが――」
「――近づくな、ヴァイスリヒト」
感情の高ぶりの為かミゼラティの声は僅かに震えてはいたが、そこには確かな拒絶があった。
強固たる拒否を以ってヴァイスリヒトの慰めを受け取らず、幼女は黙って己の涙を拭い切る。
なかなかに治まらないのか暫くは嗚咽を堪えて俯いていたが、そのうちにどうにか落ち着いたらしい。深々と溜め息を吐いた後、ゆっくりと顔を上げて目の前で佇む「騎士殿」に視線を向けた。
「……見っとも無い姿を見せてすまなかった。もう大丈夫だ」
「……追及は……しないほうが、いいのだろうな?」
「ああ。したところで、こちらが返す言葉は無い。諦めてくれ」
「そうか。……ならば、慰藉の手は?」
「……生憎だが、そちらも必要ない。けれども、気遣いに対する礼だけは返しておこう。……ありがとう、長兄殿」
「いや、私は構わないが、君が……」
そう言って、ヴァイスリヒトが控えめにミゼラティに手を伸ばしたが――。
「慰撫は不要だ、と言わなかったか?」
やはり片手で壁を作られ、後ろへ身を引かれ、それ以上の踏み込みを拒絶された。
端整な顔に微かな不満を浮かべたヴァイスリヒトが、拒絶された手を自分の顎に当てて幼女を見る。
「君は、他者に甘えることを由としないな。それは信条か?」
「そういうわけでは……ないこともないな。信条というか、意地というか、ああ、自己規律のようなものだ」
三十六回の死と苦の中では、甘えなど何の足しにも役にも立たなかった。
砂糖ですら稀だったのだ。
だから、今回も頼りはしない。頼るつもりはない。
最後の一片を口に放り込み、ミゼラティはゆっくり咀嚼する。
陥穽に至る、このぬかるみ。
足首を掴んでいる何かは、運命を揺らがせる死の凶兆か。
ここままいれば、きっと沈むだろう。沈められるだろう。
溺れる魔女は藁すら掴めない。……いつもなんどきも、掴めなかったじゃないか。誰も彼も――何も。
(私は災禍の魔女で、彼らはその天敵だ)
口の中のものを飲み込み、紅茶に口を付ける。
弱み、恥辱、汚点、過誤。すっかり冷めたそれで零れかけていた汚濁ごと喉奥に流し込み、そのまま肺腑に落とし込んだところで幾らか気分が落ち着いた。
僅かに視線を上げれば、憂いを帯びた眼で述懐を求めている天敵殿が――「話してはくれないのか、お嬢さん?」と――言葉なく見つめていて、こちらが目を逸らす羽目になった。
(本当に、当世の長兄殿はどうしてこうも構おうとしてくるんだか)
ミゼラティは内心で長々と溜め息を吐き、再度誓う。
そろそろ帰ろう。早く抜けだそう。
この温もりは、甘さは、やはりどうにも居心地が悪くて――「もしかすると」と思ってしまうから。
爪隠した虎が潜む伽藍の檻。
優しい欠片をもっと求めて足を踏み出せば、最後――きっと、最期になるだろう。
だから早く帰ろう。
昔からの言葉にあるとおりに。
『よいこはおうちへかえりましょう』
私はまだ「良い子」であるから帰してもらえる筈だろう?
――でなければ強行突破だ。ああ、今度は出し抜いてみせるとも。
繕り飾ろう過ちを




