1-10 座して死を待つよりは
誰も彼もが寝静まっただろう深夜の邸内。
長い廊下を音もなく歩く子供が一人。
ボロのように見える黒の外套で身を包み、上質な敷物が続く廊下を黙々と進んでいた。
もう少しだけ惰眠を貪ればよかっただろうか?
そんな事を考えつつ瞼を擦り、絨毯に点々と散るバラ模様の痕をなぞるように歩く。
節約か、はたまた侵入者対策か。人気のない廊下は無灯だが、窓から差し込む月明かりのお陰で手探りにならずに済んでいる。
子供は軽く安堵していた。暗視への自己対策はあるが、それでも感知されて問題が起きては困る。出来るなら使わずに済ませたいし、魔力も節約しておきたいところなのだから。
廊下に影を、絨毯に足音を落としながら進んでいたその歩みは、ふと一つの窓の前で止まる。
(ここまで月光が入る作りも珍しいな。……特に、この窓の細工)
両開きの大きな窓。防犯的に小さい方がいいと思うのだが――と、何気なく近づき、それに触れてみたところで答えは明かされる。
(ああ、成程……『月光攻殻』か)
ほうと感嘆の溜め息を零し、ガラスの表面を軽く撫でる。
月光を吸収して防御力を高めていくという、特殊な防衛術。これにはとても世話になったなあ、と子供は懐かしい目をしながらその模様に視線を流していく。
魔力の構成と術式が複雑だが、手間を掛ける価値は充分にあるこの術式は、月光を魔力に変換して稼働するという性質を持つ。
月が出ている限り対象を覆う防御殻の硬度が上がり続けるのに加えて、術者は消費無しで行使できるという優れもの。
ちなみに他の魔法にも当てはまることだが、そうしたものには対抗・対応可能な術があるので、過信してはいけない。体験者が言うのだから真実だ。
慢心の果てに致命的な一撃を食らった、何度目かの過去がある者からの忠告。
(しかし……凄いな。式層がキレイに構築されているし、術式模様も欠けてない)
上等な絵画のような緻密さと、上質な敷物のような滑らかさを持った術についぞ見惚れ、視覚と触覚でもってしみじみと堪能していた――その時だった。
すうっ――と。
冷たい何かが背筋をなぞった。
悪寒それとも予感か。
だが、察知したことを「それ」に勘付かれたくはない。反射的に窓枠を掴んで振り向く動作をどうにか堪え、そのまま何でもないふうを装って窓の外を眺める動作に切り替えれば、気配を感じた方向から失笑が聞こえた。
「夜更しをしてまで月見か、少年」
(……あああ。普通に話しかけて来た)
結局は相手をしなければいけないのか。
観念して向かう予定だった廊下の先に渋々ながらも視線を投げれば、こちらに向かって歩いてくる人影を見ることになる。
もっとも、目で確認せずともその気配で、その声で、正体は既に確定していたのだけれども。
はあ、と心の中でのみ溜め息を吐いて、子供は相手が近づいてくるのを待つ。廊下の影から姿を見せた人影はそうして子供の前に立つと、穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。
「目が冴えて眠れなくなったのか、それとも部屋に帰る道が分からなくなったか?」
話しながらヴァイスリヒトが片膝をついて、目線を合わせる。完全に子供扱いだ。
しかし、気にしたのは扱いのほうではない。
この妙な構い方――いや執着か?――は何だろう。
かつての宿敵。かつての義兄弟。
繋がることの無かった絆、得られることも無かった愛情。
我が身に繰り返される死と苦の終わり、絶たれた未来の果て。何度目かの運命にてようやく、自分にはそうしたもの――絆、愛情、全ての陽光――は授けられないのだと悟った。
だからこそ早々に諦観し、切り替えて生きようと決めたのに、どうして今になってちらつかせてくるのだろう。
目の前の人参に飛びつけば、待ち構えているのは幸いではない。災いだ。
いつもそうだ。
ああ、いつも酷なことばかりだった。この存在は世界の敵となるが故に。
「君は……、……貴方は、どうしてそうも私に構うんですか」
無言でいるのも気まずかったので、思ったままの言葉をぶつけてみれば相手は片膝ついた姿勢のままで答える。
「君が気になるからだ、というのは理由にはならないか?」
「……小児愛の趣味が?」
恭しい態度とは裏腹にともすれば怪しい発言だったものだから、わざとらしく顔を顰めてやるも相手は柔らかな笑みを崩すことなく穏やかに返す。
「ここに、君を傷つけるものは何もない。だが、君が気にしている者が私ならば改めよう」
「…………答えになっていない」
子供らしさを繕うのは諦め、本来の姿勢で問い重ねれば騎士は子供を見て柔らかに目を細める。
「先程にも伝えたが、君が気になるからだ。……幼き少女である君が、真夜中に一人で出歩くのは推奨しない」
「ご忠告、痛み入る。だが、人目を避けて行くから大丈……夫――」
そこで言葉が止まる。
少女である君が、と彼の人は言った。
と、いうことはつまり。
「……私が少女だと判っていたのに、少年呼ばわりしていたのはどういうつもりだ騎士殿」
「あの醜悪な場で、君は皇女様の間違いを訂正しなかっただろう。……そうする理由があったのを理解しているので、君に合わせたまで」
「アリスの間違いって――」
金色の可愛い子猫は言った。
――『お兄様』。
「……あれは単に面倒臭かっただけだ。それに、訂正して興味を持たれても困る」
「そうだな。あそこにはまだ胡乱な連中が多くいた。だから私は、君が警戒と自衛も兼ねて偽っていたのだろうと考え、合わせたまでだ」
「……こんなボロを着た貧相な子供に、食指が動くとは思えないが」
あの綺麗な子猫――皇女様ならともかく、薄汚い子供など彼らの眼中にはなかっただろう。
(いや、「中身」は価値があるから……一応は私も需要範囲か?)
髪も肉も骨も皮も、余すところなく使い切る界隈はある。人の皮によって装丁された魔術書などがいい例だ。それと、錬金材料としても。
これらは理の向こうを覗かなければ知らずに済む世界だが、いつでも近くに横たわっているのもまた事実。魔女であった頃には、それこそ幾つもの埒外たる魔道具を見てきたものだ。
(人皮装丁されたあの書物は今どこにあるんだろうなあ……落ち着いたら探しに行こうか。一冊は私のものだしな)
毒に塗れた前世をほんの少し懐古し、大人びた苦笑を浮かべるは子供らしからぬ子供。ヴァイスリヒトはその表情を見て、僅かに眉を顰める。
「君の素性は知らないが、危険とは常に隣り合わせにあるものだと心に留めておいたほうが良い」
「うん? ああ、ははは。それはそうだな」
言われなくとも知っているし、既に三十六回ほど体験済みだ――と返したいところではあるが、言葉の代わりに出たのは乾いた笑い。
伝達よりも込み上げたのは感情。
ああ、確かにたったいま目の前に「危険」がある。
――そうだろう、我が運命の宿敵殿?
心の中でそう返答し、苦笑を少しばかりの嘲笑に変えて子供は親切な騎士を見る。
凪いだ海を思わせる微笑。姿勢はどこまでも丁寧で、穏やか。……一介の何でもない子供にここまでするか?
それに……彼はいつまで傅いているのだろう。
この優しさの対価に、私は何を支払う? 何を代償とさせられる?
子供の表情から皮肉めいた色が消える。それは少しの戸惑いと多大な警戒に変わり、すっと一歩後ろへ下がる行動をとらせた。
それに気づいた騎士は、また首を傾げて問う。
「今度は、私の何が君を怖がらせた?」
「こっ……怖がって、なんか」
口元を引き結んで眉を顰めるも、しかし子供は一層戸惑った様子でまた一歩後ろへ下がった。
すれば、とんと何かが背中に当り――それが壁だと分かり――子供はますます渋顔になる。
この状況は、もしかすると「追い詰められた」というものではないだろうか。
……いや、違う。ヴァイスリヒトは何もしていない。ただ目線を合わせて会話しているだけだ。
そう、ただ言葉を交わしているだけ。
彼はどこまでも真摯な態度で、紳士的な対応で、ボロを着た子供にただただ問いかけているだけ。
ああ、優しく高潔な騎士殿。その手を取り、あの温かく柔らかな寝具が待つ客室に戻るのが良いのだろう。そうすれば、今宵は清潔な場所で安全な眠りに落ち着ける。
(君が「宿敵殿」でなければ、そうしてもいいのだろうな)
敵対していない彼の騎士の本性を垣間見て、子供は複雑そうに顔を歪める。
穏やかで優しい表情と声で、全くの他人に構う青年。
だが――よく考えて欲しい。
一回り上の男が、一回り下の子供に、執着してくる様を。
(そういう人間ではないのは解っているが、これは、なんというか――)
醜美関係なく、とにかく純粋に、怖い。
真意を掴みかねるが故に――怖い。
壁にぴたりと背中をつけ、誠実な騎士を見つめながら子供は口を開く。
「正直に告白させてもらおう――私は、君が私に向ける正体不明の執着が怖い」
そう言いながら持ち上げた右手を背後の窓にそっと当てて、会話を続ける。
「だから、私は帰ろうと思う――客室ではなく我が家へ」
「ここは二階で、その窓には特殊な魔法が掛けられているから君に開ける手段はない。……叩き割る気か?」
僅かに眉を寄せてヴァイスリヒトが立ち上がり、対応すべく身構える。
しかしそれは子供に何かするというわけではなく、飛散するだろう窓ガラスや窓枠に対する防御魔法を使用して子供のほうを守る為だろう。
ああ、どこまでもお優しい騎士殿。
……だからこそ、その不可解な優しさと執着とが「恐ろしい」。
正体知れぬ何かが潜んでいそうで、殊更に。
「叩き割るなどしない。――少しばかり融通を利かせてもらうだけだ」
正面に立つ相手から視線は外さずに、窓ガラスに触れさせていた指先をツッ――と滑らせたは一文字。引き結んだ口が如く描かれた直線はゆるりと震え――。
がぱり、と。
正に大きく開かれた『口』の向こうに見えたのは屋敷の外が光景。
壁が、ガラスが、そこには無かった。
「穴が……開いた?」
珍しく呆気にとられた顔をして瞠目する騎士に、子供はどこか「してやったり」という表情をするも、すぐに引き締めて述べるは挨拶。
「こういうことだ。――それでは騎士殿、御機嫌よう」
これまでに相手がそうしたように、その恭しさを真似てお辞儀をした子供はそのまま『口』の方へ身を躍らせる。
「待つんだ、少ね――……せめて、君の名前を残していけ!」
伸ばした手が何も掴めぬと早々に悟ったヴァイスリヒトが『口』から覗く僅かな残影に言葉を投げれば、向こう側で逡巡する気配があった。
空白は、ほんの少し。
数秒ほどの間の後で、小さな声がした。
「……ミゼラティ」
そうか、と届かぬのを承知でヴァイスリヒトが返事を呟き、『口』の側から離れる。
するとそれは、きゅうっと閉じてただの窓と壁に変化した。
いや、元に戻ったというべきか。
触れても窓枠やガラスの質感は変わりなく、また異変の痕跡は微塵も無かった。
「……驚いたな。『幻線管路』か」
術式を編み込んだ魔力で線を引き、透過した空間を出現させる高等魔法。かつて書物で見たことはあるが、実在及び行使するものがいるとは思わなかった。
平凡な無機物でしかなくなった『口』の跡をなぞるように壁を撫でていれば、背後に人の気配。
「……黙々と壁なんか撫でてなにしてんの、兄さん」
「こんな夜更けに清掃か、兄貴?」
振り返ればそこには双子の弟たちがいて、不思議そうな顔で己を見つめていた。
◇ ◇ ◇
「……あの子を、見送っていた」
壁をただ撫でていたという奇異行動を余所にそれだけを告げれば、二人が揃って「えっ!?」と声を上げた。
「帰っちゃったの、あの子!? えー。着替えとか色々用意したのにー」と呟くロゼウスに、双子の片方シュヴァルツェは「俺も、寝心地の良い寝具と普段着を見繕ってやりたかったんだが」と零して残念そうな顔をした。
そんな二人を見て、長兄は首を傾げる。
「あの子は逗留する気がなかったようだが」と告げれば、双子はこれまた揃って「それがどうかした?」という顔をした。
「どこの子か知らないけど、あの魔力と身体能力は貴重だろ。危ない目に遭わない為にも、当家が保護しなきゃいけないんじゃないの?」
にっこりして言うロゼウスに、頷いて同意するはシュヴァルツェ。
「そうだな。魔獣に単身で向かった度胸といい、近衛兵に情報が漏れていた件といい、俺たちが保護してやらねば危ないことに巻き込まれるだろうよ、兄貴」
彼らは、すっかりあの少年――いや、少女を気に入ったらしく、引き取るつもりでいるようだった。
出会って言葉を交わした時間は少し。
特に距離が縮まったわけでも、特別な絆が生まれたわけでもない。
それなのに、既に深い時間を過ごした家族のように親愛に似た感情で彼らは動いている。
「以前に、彼女と何か?」と問えば、二人は「いや、今日が初対面」と答えた。
今この場にはいないが、末弟のアズラシェルも彼女にはすぐ懐いた様子を見せていた。
そしてそれは彼らだけではなく、自分自身も恐らくは。
ヴァイスリヒトは考えるように一時ほど押し黙ったが、やがて溜め息のようにぽつっと言った。
「……そうだな。あの子は危うい」
四つ目の同意をしておいて、彼女が線を引いて逃げだした場所に向き直る。
手で触れてみるも、やはり何も感じない。
手掛かりは無し。
ああ、いや……名前は教えてもらったか。
見知らぬ――けれども妙な庇護欲を掻き立ててくれる――不思議な少女。
「近いうちに、君を迎えられるといいのだがな――ミゼラティ」
囁くように呟いたその口元には緩やかな微笑が浮かび、そして静かに消えた。
三十六計逃げるにしかず!




