招待状
姉が階段から転落してから三日目が経過していた。
翌日には意識も戻り、大した怪我ではなかったという話が伝わってきた。屋敷中が安堵の空気で包まれたものの、なぜか、母エディスの指示により、姉は今も部屋で引きこもっている。
そして、生活の場から彼女の存在による圧が消えた時、僕はどんなに彼女の存在を脅威に感じていたかをあらためて実感した。
姉マリア・ブラッドフォードは暴君だった。
もちろん彼女にも僕をいじめる正当な理由が(彼女にとっては)あった。
それは、僕がこの家の当主であるエドワード・ブラッドフォードの隠し子ではないかという疑惑のためである。
疑惑の根拠として次の三つが挙げられていた。
1 この家のメイドを辞めた時、母はすでに妊娠していた。
2 単なる庶民の子供を養子にする貴族は普通いない(特に我が家は公爵家という高い家柄だった)。
3 僕の母が死んでから、あまりにもタイミング良く養子に迎え入れている。
まあ、事情を知らない人が話を聞けば誰でもそう思うに違いない(僕だってそう考えることが度々ある)。
行くあてもない僕にとっては他に選択肢はなく、どうしようもないことだったけれど、ブラッドフォード母娘側にとっては、嫌がらせに等しいできごとだったのだろう。
母エディスは僕の存在自体を無視することで平静を保っていた。いつも憎しみのこもった冷ややかな目でこちらを見るだけで、直接的にひどい目にあわされたことはない(精神的にはダメージが大きいけれど)。
しかし姉のマリアはそのような背景にある僕を生理的に受け付けなかったようだ。
父エドワードはみんなの仲をうまく取り持とうと、陽気に振る舞っていたが、全ての努力が不発に終わったので、最終的に見て見ないふりをするようになってしまった。
つまり、最初の数ヶ月を除くと、この2年間は屋敷の中に味方はだれ一人いないという絶望的な状況だったのだ。
そして、最後の一押しとして、僕の追放話があった。もう、これ以上この家にはいられないと思っていた。
だから、三日前に姉が倒れたという話を聞いて、僕がついほっとした気持ちになってしまったとしても、それは責められないのではないだろうか(いや、お願いだから責めないでください)。
そういったわけで、この二日間、別棟にあてがわれた暗く寒い自分の小部屋で、ウキウキとした気持ちになって読書にいそしんでいた。
しかし、突然鳴り響いたノックの音が僕の心の平静をあっという間に打ちこわしてしまった。
ドアから入ってきたのはノノアさんだった。彼女はいつものように表情を変えずに一通の手紙を差し出してきた。
「マリア様からの手紙でございます。お返事は後で伺いにきますので、内容をご確認ください」
彼女は事務的にそういうと、その封筒を僕に渡した。
「姉の様子はどうなんですか?」
なぜ姉から手紙がくるのか皆目検討もつかなかった。せめてヒントだけでも掴みたい。
「今はだいぶ落ち着いてきて、普段通りの様子になりました。お怪我の方も大ごとではなかった様です。自分の部屋から出る日も近いでしょう。ただ……」
「ただ、なんですか?」
何か引っかかりを感じた僕はすぐさま質問した。いつもはっきりとしたクールな物言いをする彼女が口ごもるようなことは珍しかったからだ。
彼女は困った顔をしていたが、少し声をひそめてこう言った(ここは本館から遠いので、誰も聞いてはいないと思うけど)。
「頭をぶつけてしばらく意識がなかったのですが、目覚めた後、大変な騒ぎがあったようです。奥様もたいそう心配なされて。お医者様にも診てもらったのですが、一時的な記憶の混乱と言うことで様子を見ることになったようです」
「そうなんですか」
「色々と、訳のわからないことを言ったり、とっぴな行動しようとしたり大変だったようです。今は落ち着いていますから、心配いりませんよ」
姉のことなど全く心配はしてはいなかったが、とりあえず深刻そうな顔をしてうなずいた。なるほど、この手紙もその錯乱状態から書いたものかもしれない。
「わかりました」
「お返事をいただきに後で参ります。マリア様からはかなりしつこく念を押されていましたので、できるだけ前向きな方向で検討していただけると助かります」
前向き?
彼女はいつものような事務的な表情に戻ると、僕に疑問を残したまま、あっという間に消え去ってしまった。
封筒は薄いピンク色をしていて、とても良い香りが漂っていた。表には”招待状”と書かれていて、裏には”愛する弟ウィリアムへ、あなたの親愛なる姉マリアより”と書かれている。
僕は得体の知れない恐怖を感じ、震える手を抑えることができなくなったので、まずは一旦机の上に招待状を置くことにした。
「招待? 一体姉は何に招待しようとしているのだ」
混乱して頭を抱えたが、何一つ良い考えは浮かばなかった。彼女が招待しようとしているのが地獄であるなら、もはやできることは、一刻も早くこの家から出て行くことだけだった。本当はもう少し後になってからにしたかったが、これ以上この家に付き合うのはごめんだという気持ちにもなってきていた。
幸にして一通り魔法は使えるようになっていた(庶民で使える人はほとんどいないので、やはり、貴族の血が入っているのかもしれない)。2年前に比べ、色々と社会に対して知識は増えている。まだ10歳で、街に出て行ってもまともに職につける保証は全くない。しかし、死ぬ気でやればなんとかなるんじゃないか。そう考えると、少し心が落ち着いてきた。
「姉がどんな企みをしているかわからないけど、相手の行動を見極めた上でどうしようか決めてやろうじゃないか」
そうつぶやくと、僕はありったけの勇気を奮い起こして、封筒の封を開けた。中にはこんな文面が書いてあった。
”前略 肌寒いと感じていた風が、いつの間にか心地よく感じるようになる季節。どのようにお過ごしでしょうか。
私は三日前に頭をしこたま打ちまして、部屋で療養中です。母はもう少し休んでいろと言っていますが、とても退屈で死ぬような思いをしています。
頭はもう大丈夫。大袈裟に包帯を巻いていますが、中身に関しては《《全く問題ありません》》。むしろいつもよりも晴れ渡っているような気分でいます。
ところで、明日、お昼過ぎにでも私の部屋にきていただけませんか?
私たちはゆっくり話し合う必要があると思うのです。互いに理解を深め合うことはとってもいいことだと思います。何しろ、世界でたった二人の姉弟ですからね。
たくさんおいしいお菓子を用意して待っています。
あなたの愛しい姉より、親愛なる弟へ
追伸;絶対に来てくださいね
平静を取り戻したはずの僕の頭に再び混乱が巻き起こった。文章的に支離滅裂でデタラメなのはともかく、彼女の意図を全く読めないことが困りものだった。
表面上友好的であることは分かったが、今までのことを考えると、裏の意味を考えないわけにはいかない。それにいったい何を話し合いたいのだろう。もしかしたら本格的に頭がおかしくなっているだけかもしれないが、それはそれで大変危険なような気がした。
僕はしばらく机の周りをうろうろと歩き回った。
考えてもよくわからないことはやはり直接確認するしかないだろう。この家を出て行く決心はついたので、もう怖いものはない。まさか、毒入りのお菓子でも食べさせるなんてことはないだろう。さすがの彼女もそこまでは(いや、どうかな)。
僕は手早く支度をすると、部屋を出た。ノノアさんがまた催促に訪れるまで待っていたら、こっちの精神が先に参ってしまう。こういうことは先手を取ることが大切だ。相手の準備が整う前にこちらから出向いてやろう。
そう心に決めた。
別棟から渡り廊下を通り、まるで別世界のような本館についた。姉の部屋は本館の2階にあって、とても日当たりが良いところにある。体はひどく重かったが、彼女の部屋に着くまでにはそう時間はかからなかった。
彼女の部屋の立派な扉の前に立つと緊張で足がすくみそうになる。大丈夫、絶対大丈夫だから。そう念じてから、僕は一つ深く息をして、扉をノックした。
「お姉様、ただいま参りました。愚弟ウィリアムです」
少し間があった後、バタバタと扉の向こうで物音がした。それが少しやむと、いきなり扉が勢いよく開かれた。
「もうきちゃったの、ウィリアム」
そこには肩で息をして、頬を薄紅色に上気させている姉マリアの姿があった。
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