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その昔豚娘と呼ばれたアンジェリカ嬢は偽婚約者だった幼馴染みに愛される

作者: 三吉

タイトル通りの話です。

深く考えずに気軽な感じでお読みください。

「あらセディったら、また泣いているの?」


「ふぇ……」



 草原の片隅にちょこんと蹲る、銀髪のか細い少年が一人。美少女ともとれるような愛らしい容顔をくしゃくしゃに歪め、涙で顔を汚していた。

そこに駆け寄るのはふくよかな少女だ。むちむちとした体をドレスの中に無理矢理に詰め、周りの令嬢からはハムのようだと嘲笑されているが、彼女はちっとも悲しい顔をしていなかった。

自分よりも二回り以上に華奢な少年のそばにどてんっと腰を下ろすと、抱えていた包みを広げて少年に向かって差し出した。



「ハンカチは自分で持っているでしょう?早く涙を拭いなさい。そうしたら、このクッキーをセディにあげるわ」


「クッキー……?」


「そう、クッキー!それもただのクッキーじゃないのよ。セディが好きな紅茶の味のクッキーなの」



 丸い頬を綻ばせ、少女がむっちりとした掌に乗せたものはたしかにクッキーだ。少年はいつの間にか涙を止め、少女の言う通りにハンカチを取り出して顔を拭う。



「これ、アンジーが作ったの?」


「えぇ、内緒にしていてね。貴族令嬢が厨房に立つなんてはしたない、って怒られちゃうから」



 悪戯っぽく無邪気に笑う少女につられ、少年は泣いたせいで赤くなっている目元を細め、一緒になって少しだけ微笑んだ。



「ねぇセディ。今日はどうして泣いていたの?」


「あぅ……」



 大好きなベルガモットの香りがするクッキーはほんのりと甘く、少年のとても好きな味だった。だが、クッキーを含んで表情から力を抜いたのはほんの一瞬。少女の質問ですぐにまたくしゃりと顔を歪めてしまう。



「剣の稽古で、兄さんに全然勝てなくて、痛いのが嫌で逃げ回ってたら……そんなに腑抜けた臆病者は弟じゃないって、言われて、ぐすっ……それで……んぐっ!」



 先程あった嫌なことを思い出し、また泣きそうになっている少年に向かって、少女は声を上げる前に口を塞ぐかのように2枚目のクッキーを押し込んだ。



「それで稽古を抜け出してこんなところで泣いていたの。なんだ、怪我して泣いてるんじゃなくてよかった」


「ふぇ……?」


「別に腑抜けていたっていいのにね。同い年だけど、セディみたいな弟がいたら私は嬉しいわよ。セディのお兄様も本当はそうなんじゃないかしら」


「でも、僕のことずっと怒ってくるんだよ?」


「うーん、そうね。怒るってことは、それだけセディに期待してるのかもしれないわ。きっとセディが強くなる素質を見抜いていて、それなのに全然自分を追いかけようとしないで逃げしまうから、じれったいのよ」



 少女は柔らかな少年の銀髪を撫でながら、肉の詰まった柔らかな顔で優しく笑いかける。



「私はセディのこと、ちっとも臆病だなんて思ったことないわよ。セディは慎重だから、自分を究める時期を見計らっているだけ。

セディのお兄様は実戦を積み重ねて己を磨く人だから、セディの考えに少しだけ合わないの。

だけどいつかきっと、お互いに分かり合える時がくるわ。だって二人は兄弟なんですもの」


「兄さんと、分かり合える……僕が弱くても、兄さんと仲良くなれる……?」


「えぇ、そうよ。それにセディはそもそも弱くなんてない。強さの種類がお兄様とは違うだけ。もしかすると、お兄様を越える男になるかもしれないわよ」


「そ、そんなことあるわけ」


「私はあなたの強さを信じてる」



 否定をしようとした少年の手を包み、少女はやはり優しく微笑んでいた。



「逃げることも強さの一つよ。痛みを正しく知ることができている証拠。逃げない強さを知る人はたしかに立派かもしれない。

だけどセディの強さは、傷つくことを恐れる人の気持ちを慮ることの出来る、優しい強さよ。

優しさは甘え、なんて言う人がいるかもしれないけど、強くなれる優しさもあるのよ」


「アンジー……」



 泣き虫の自分に、どこまでも寄り添ってくれる彼女に少年の心はすっかりと傾いていた。彼の目にはハムの塊ではなく、アンジェリカという一人の少女として彼女が映っている。はじめはアンジェリカが婚約者なせいで酷い揶揄いを受け、それこそ社交界に出るのが嫌だと泣きじゃくることもあったのだが、今は違う。彼女が婚約者でなければ嫌だとすら思う。



「自信をもって、セディ。今はダメでも大きくなったあなたはとっても素敵な人になってるはずよ。そうしたら没落伯爵家の令嬢なんかじゃなく、もっとあなたの身分に合った素敵な御令嬢をお嫁さんにできるわ」


「ありがとう……でもね、アンジー。僕は君がお嫁さんじゃなきゃ嫌だな。

いつかカッコいい男になって、そうしたら泣き虫セディじゃなく、婚約者のセドリックとして君を守るから。

だ、だから、ひっく、そんなこと言わないで……っ」


「あらあら。また泣いちゃった。もう、ドレスが濡れちゃうわ」


「やだぁ!アンジーと結婚するんだもん!アンジーが僕のお嫁さんになるまで離さないもん!」


「もう、セディったら」



 ふくよかなお腹は、それはそれは傷だらけの少年の身も心も全て包み込んでくれるような柔らかさだった。ますます夢中になってしがみつけば、振り払うのではなく撫でてくれる少女の優しさにまた、埋まりたくなってくる。

アンジェリカは僕のものだ。

僕のお嫁さんなんだ。

そう言って泣きじゃくる彼に少女の方が折れて約束をするまで、二人はずっと草原の片隅でくっついて離れなかった。












「あの泣き虫セディが、今じゃすっかり逞しくなりやがって」


「その呼び方はやめて下さい、兄さん」



 身なりを整えてホールにやってきたセドリックは、兄のダニエルに向かって苦い顔を向けた。オールバックに流した揃いのシルバーの髪は、二人が血を分けた兄弟であることを物語っている。ダニエルはセドリックよりも筋肉質ではあるが、セドリックは幼い少年だった頃とは違ってもう華奢で少女のような様相とは程遠い。

細身の体躯ではあるが、引き締まった筋肉を備えた長身の青年だ。美しさはさらに磨きがかかっており、彼が歩けばほとんどの女性は振り返るだろう。ダニエルも好青年には違いないが、セドリックの方はまごうことなき美青年だ。顔立ちが父に似た逞しいダニエルも決して人気がないわけではないが、母に似た中性さを併せ持つセドリックに向けられる黄色い悲鳴の方が大きいのは致し方ないだろう。

加えてセドリックの剣技は国から認められる程のものなのだ。もちろんダニエルも負けてはいない。だが、戴冠式を将来に控える王太子直属の騎士団に任命されたセドリックは、今や貴族界の注目の的であった。



「それにしても今日は非番だってのに、随分身綺麗にしてるんだな。まさかまだあの豚娘のとこに通ってんのか?」


「豚娘?誰のことですか。僕はただ愛しい婚約者のアンジェリカに会いに行くだけですよ」


「はぁ、あのなセドリック。父さんから何度も話があったと思うが、それは昔、立派になりたくないって反発するお前を鼓舞するためについた嘘だったろ。このまま逃げ続けるなら彼女と結婚させるぞって、うちより爵位の低い家を言いなりにさせてさ」


「アンジェリカは僕の妻になることを彼女自身の意思で納得してくれていました。僕は彼女以外と結婚するつもりはありませんよ」


「それだってお前を泣き止ませるために頷いただけって、その子自身が言ってたじゃないか」


「だからと言ってあの時の約束がなくなるなんてことはない。僕はもう決めているんです。誰に何と言われようと、アンジェリカと結婚する。だから僕は改めて彼女に頷いてもらうまで通わなければならないんです」



 そう言ってセドリックは自らの着込んでいるシャツの襟首を改めて正した。背筋を伸ばし、きらびやかな顔立ちを真っ直ぐに向け、愛しいアンジェリカを想いながら柔らかな笑みを浮かべる。もう彼の目にダニエルは映っていない。ダニエルは呆れと心配の入り混じった目で彼の背を見送ることしかできなかった。



「久しくあの豚娘って呼ばれていたご令嬢を見てはいないが、豚と呼ぶ者はいなくなってるって噂は本当かもな。あいつに追い回されて痩せたんだろう。かわいそうに……それにしても」



 一人残されたダニエルは首を傾げながら腕を組む。



「身分も収入も申し分ない上に文武両道のうちの完璧な弟の何が嫌だってんだ?言っちゃ悪いが王太子サマよりうんといい理想の相手だと思うんだがな。

そんな我が家の王子様を夢中にさせて止まないお姫様ねぇ。セディで嫌だってんならどんな贅沢な理想を抱いてるんだか」








「っくしゅん!」


「お嬢様、大丈夫ですか?今日の遠乗りはおやめになった方が……」


「いえ、大丈夫よ。きっと花粉か何かが鼻腔をかすめただけ。体調は問題ないわ。それよりサンドイッチを頂戴。きっと朝まで帰らないから、朝食は重くてもお肉料理がいただけると嬉しいわね」


「はい。厨房にそのように伝えておきます」


「ありがとう」



 アンジェリカは愛馬の上からメイドに催促し、バスケットを受け取った。幼い頃はドレスの中にハムが詰まっている、と呼ばれていたアンジェリカだが、今はすらりとした肢体の上に衣服を乗せている。

羽織っているものはドレスではなく男性のようなパンツスタイルではあるが、騎乗をするのに適した服装だ。普段はふわりと肩に流している髪は今は頭の上で一つに束ね、風に遊ばせている。早朝から遠乗りを言い出したアンジェリカは、それこそ何かから逃げるように焦りをちらつかせていた。



「今日私に来客があっても誰にも私の行き先を告げてはだめよ。あなたを信頼して、あなたにしか話していないの。たとえセドリックが来たとしても絶対に教えちゃダメ。こんなことを言いたくはないけど、もし私の居場所を口にしたりなんてした日には……あなたのおやつを抜きにするから!それじゃあね!」

「え、あ、い、行ってらっしゃいませ!!」



 恐ろしい形相をしてメイドを睨み付けたものの、性根の優しさは消すことは出来なかったようだ。脅したつもりなのだろうが、メイドのかんばせには困ったような笑みが浮かんでいる。



「お嬢様は成長されてもずっと変わりませんね。間食を抜かれることが何よりのお仕置きだなんて、本当にお可愛らしい」


「そうだね。アンジーは世界で一番可愛いよ。昔も今も、きっとこれからも」


「その通りでございま……っ、あ、せ、セドリック様!?」


「おはよう。突然だけど馬を一頭借りさせてもらうよ。それとアンジーは夜には連れて戻るから、僕の分のディナーもお願い。ここに書いてあるアンジーの好物を揃えてくれるかい?費用は僕が持つ。伯爵たちには話を通してあるから、あとは頼んだよ」


「お、お気をつけて行ってらっしゃいませ!」



 メイドは颯爽と横を走りすぎていく美青年と馬の姿に頭を下げた。アンジェリカは彼から逃げるために今朝の遠乗りを決行したようだが、どうやら彼の方が一枚上手だったらしい。


 没落寸前だった家を建て直すためにアンジェリカは幼い頃少しの期間、奉公に出ていた。その奉公先で命じられたのは、とある伯爵家の次男の婚約者の振りをすること。彼の名前はセドリックといった。泣き虫で弱虫の彼を鼓舞するために、努力をしなければアンジェリカが嫁になるぞと脅しの意味で使われていたのだ。家のために、またセドリックが良き成長を遂げられるようにと励んでいたアンジェリカに、いつしかセドリックはすっかり惚れ込んでしまったようだ。

その見目こそ豚だと揶揄されるアンジェリカだったが、両親のみならず屋敷の者のほとんど全てから愛情をたっぷり受けて育った彼女は、心だけは誰よりも美しく、また優しかった。

セドリックが泣き虫でも決して責め立てることはせず、手作りのお菓子を持って励まし、良いお嫁さんをもらえるようにと言葉をかけてきた。

昔は厳しい教育から逃げ回るセドリックを追い掛けていたのはアンジェリカだったのに、今や逃げ出すアンジェリカをセドリックが追い回している。

セドリックは自身の妻になれるのはアンジェリカしかいない、と。そのおかげですっかり引き締まったアンジェリカだが、彼女が素早くなればなるほどセドリックの動きも格段に良くなっていく。彼の昇進は、アンジェリカの働きあってこそのものだった。そのせいで余計にアンジェリカに陶酔しているセドリックを止められる者はどこにもいない。

セドリックの両親はすっかり諦めているし、アンジェリカの両親は嫌だと言ってきかないアンジェリカの意思を一応は尊重しているものの、いつかセドリックの強い押しに負けると見越した見守りを行なっている。

メイドも同じような心境だった。黙っていたってセドリックはアンジェリカを見付けてしまうのだ。



「お嬢様も意地を張っていないで、プロポーズを受け取れば良いのに」










「お断りします。何度も申し上げた通り、セドリック様に相応しい女性は私ではありません」


「僕だって何度でも言うよ。僕の妻になるのはアンジー、君しかいない。だからその他人行儀な言葉遣いをやめてくれないかな。とても、傷付くよ……アンジーならセディって呼んでくれてもいいから、お願い」



 声変わりも果たしてすっかり男になったセドリックを前に、アンジェリカは泉のほとりで身構えていた。愛馬に給水と休憩を促している折に、何故か隣に来ていたセドリックから生身で逃げることは敵わなかったのだ。

アンジェリカがセドリックの泣き姿に弱いことを知って、わざとしょんぼりと眉を下げている。これがただの泣き真似だということはアンジェリカの目にも明らかだが、簡単に突き放すことは出来なかった。潤んだ瞳で見つめてくるセドリックに、やがてアンジェリカは溜め息を吐いて首を横に振る。



「わかった、わかったわよ。だからもうその目で見てくるのはやめて、セディ」


「アンジー!僕のお願いを聞いてくれたと言うことは、僕との結婚を──」


「それとこれとは別。いい加減、夢から覚めなさい。セディ、私の知ってるあなたはもっと賢いはずよ」


「僕はずっと変わってないよ。アンジーが僕を分かってないだけさ」


「変わってないというのなら、私を婚約者として社交会に同伴するのは嫌だと泣きじゃくっていた頃に戻ってもらいたいわ」


「そんな昔のことを持ち出すなんてずるい!それにあの頃だってアンジーが嫌だったわけじゃなくて、周りにとやかく言われるのが嫌だっただけ。ね、アンジー。君も僕のことは嫌いじゃないだろう。どうしてそう頑なに拒むんだい?」



 今度は演技ではなく切なげに表情を歪めたセドリックから、アンジェリカは気まずそうに視線を逸らす。どうしてと言われても、自分ではセドリックと身分が合わないのだ。

だけどこれは何度も論破をされてきた。爵位は違えど同じ貴族なのだ。確かにセドリックと同じ身分の貴族は、長男でさえなければ一つ下の爵位の娘を嫁に娶ることは珍しくない。

セドリックも長男でなく次男坊であり、自身より身分の低い令嬢を妻に迎えても誰も意を唱えることはしないだろう。

それにアンジェリカの家は、一度没落寸前にまで陥ったとはいえ今は持ち直している。貧乏子爵という箔を押されていたが今は昔の話。現在はセドリックの家とほとんど対等に話が出来る程に貴族一家としての尊厳を取り戻していた。

本来であれば伯爵子息であるセドリックの一存で、身分が下の子爵令嬢であるアンジェリカを娶ることは可能なのだが、セドリックはプロポーズにこだわった。しかしアンジェリカが素直になるその日まで根気強く求愛を続けると宣言をしているそれが、半ば婚姻を強していることに変わりがないことは目に入っていないらしい。


 昔はハムだの豚だのと呼ばれていたアンジェリカだが、今はすっかり痩せてしまったからそれを理由に断ることも出来ない。それにもし仮にアンジェリカが太ったままであってもセドリックは諦めることはなかっただろう。アンジェリカのふくよかな少女時代に、いっとう激しい求婚をやめなかったのだから。今は年齢を重ねてやや落ち着きをみせてはいるものの、熱量は変わらないのだが。


 それと、近頃まで社交界での陰口も例に挙げて自らの嫌われっぷりを主張してきたが、今ではアンジェリカを悪く言う者と遭遇することはない。アンジェリカを妬む令嬢は少なからずいるものの、アンジェリカが出席する社交界ではセドリックが牽制と剪定をしてくれており、陰口で私腹を肥やす者のいない場を提供してくれるようになったのだ。


 セドリックを拒む理由どころか、彼に対する恩義ばかりが浮かび、アンジェリカは改めて歯噛みをする。



「あのねセドリック。私は厨房に立つはしたない令嬢よ。馬だって乗り回すし、ドレスを着るよりは作業着をまとって土いじりをする方が好きだわ。

だからセドリックには合わないの。あなたはこれから先今以上の昇進をしていくでしょう。そうなると私のようなみっともない女が妻だと色々と不都合が生じるのよ。ねぇ、お願い分かってセディ。あなたのためを思って言っているのよ」


「そう、分かったよアンジェリカ。君がそう言うのなら……」



 これまで聞きいれてくれたことのなかったセドリックが初めて引きをみせたことで、アンジェリカはぱっと表情を明るくさせて顔を上げる。やっと分かってくれたのね、と言おうと開いた唇だったが、次の瞬間にはひゅっと息を切るだけで閉じてしまった。恍惚とした笑みを浮かべるセドリックが、アンジェリカの手を取り告げたのだ。



「それじゃあ僕は騎士をやめて別の仕事に就くよ。立派な身分を手に入れれば君に喜んでもらえると思ったけど、アンジェリカが嫌なら騎士になんてならない。君が窮屈な思いをしないでのびのびと過ごせる環境をつくるよ。僕の幸せはアンジェリカ、君の幸せだからね」



 穏やかに微笑むセドリックが嘘をついているようには見えず、アンジェリカは静かに震え上がる。それからなるべく動揺を隠しつつセドリックの手を降ろさせた。



「い、今のは冗談よ。王太子様から直々に拝命賜ったものを私情で無下にしてはいけないわ」


「え?だけどアンジーが息苦しく感じるんだったら、そんなものはどうでもいいよ」


「だから冗談だってば。あ、ああ、ほら。私だって貴族の令嬢よ。ドレスや宝石を買い込んで贅沢三昧をしてしまうかも」


「本当かい?よかった、アンジーに遣ってもらうためにたくさんお金を貯めてあるんだ!君はずっと宝石よりキャンディに夢中だっただろう?いつか宝石やドレスのプレゼントをするのが夢だったんだよね!初めてのプレゼントをさせてくれればあとは好きに買い物をしてくれていいよ、だけど必ず僕名義にしてね」


「ひっ、あ、えっと、他に好きな人が……」


「はは、嘘が下手なアンジーも可愛いね。そんな奴いる訳ないだろ。アンジーには僕がいるんだから」



 下にやることのできたセドリックの手だが、振り払うことは出来ていなかった。ぎり、と痛みすら感じる程に強く握られアンジェリカは小さく肩を震わせる。色の失せたようなセドリックの暗い瞳に畏怖を覚えて息をのんだ。



「今ここで僕は君のことを手篭めにして既成事実をつくったって構わないんだけど、それをしないのはどうしてか分かる?君を心から愛しているからだよ」


「セディ……あの、私」


「アンジェリカ」



 震えるアンジェリカの手を持ち上げ、今度は包み込むように優しく握る。先程とは違い、柔らかであたたかな美しい笑みを携えたセドリックは、甘い声でアンジェリカの名前を口にした。



「すぐに結婚というのが嫌なら婚約でもいい。だけど今度の婚約は嘘じゃないよ。本当の婚約さ。大好きで愛しい僕のアンジェリカ。どうかそばにいさせてください」


「……それ、は」


「うん、なぁに。アンジーの不安は全て取り去ってあげるから。何でも話して」



 セドリックの声音は舌の上に乗せれば蕩けるキャンディのようだが、喉に到達すれば過ぎる甘さにひりつくような痛みを伴う過剰な甘さを感じる。

アンジェリカは困っていたが、もうどうすることもできないだろう。野原や森にしか見えないこの場所で誰かに助けることも敵わない。連れてきた愛馬はセドリックが走らせた馬と仲が良く、今は湖畔でのんびりと草を食んでいる。



「私ね……実は、ずっとあなたに黙っていたことがあるの……」


「黙っていたこと?」



 もう逃げられない。

やがてアンジェリカは深呼吸をし、決意を固めたような張り詰めた表情を持ち上げ、セドリックを見つめた。



「ごめんなさい、セドリック。あなたを狂わせてしまったのは私のせい。全て私が仕組んだことなのよ」


「え……?」



 俯くアンジェリカにセドリックの瞳が揺れる。



「あなたの偽の婚約者にされた時、腹が立っていたの。

私は貴族じゃなくなっても良かった。両親も爵位を返納するつもりだった。そこにあなたの家の人がやってきて、私は奉公に出ることになったの。

結果的に家が助かって今があるから感謝はしているけど、偽の婚約者は喜んで引き受けたものではなくて、断る立場になかったから仕方なくだったのよ。

それに理由も酷いものでしょう。自分の体型や醜さは自覚していたつもりだったけど、あの頃は何度も夜に泣いていたわ」


「アンジー……」


「だけど、セディと関わっていくうちに少しずつ元気が出てきたの。

あなたは私の体型をからかったりしなかったし、お菓子づくりを咎めることもなかった。

何より美味しいって言って頬張ってくれる姿が嬉しくて、応援をすればするだけ応えてもくれる努力家で、セディといる時だけは子豚令嬢ではなくただのアンジェリカでいられた。


そうしてそのうちに私もセディの本当の婚約者になりたいと思ってしまって……呪術を、試みてしまったの」


「……呪術?」


「えぇ。当時本で読んだ、強力な恋のまじないよ。

リボンの裏にセディの名前を書いていつも身に付けていた。そうすればセディの気持ちが私にも結ばれるからって。

紅茶やお菓子にも、特別な砂糖を混ぜたわ。

薔薇の形に固めた粉砂糖には愛の力が宿るって書いてあったの。

他にも恋のまじないに効く花が使われた香水を振ってみたり、セディに渡すお菓子の包みにはいつも赤を使っていたのだってそうよ。そうしてたくさんの呪いをあなたにかけてきた。

だからセディ、あなたの思いは私が呪術をつかって無理矢理引き出したものなの!ごめんなさい、おまじないがバレると良くないって書いてあったから、ずっと言い出せなくて……でもセディを私に縛り付けたままにするのはもうやめる、だから、もう私のことはどうか構わないで……」



 ほろほろと言葉を吐露したアンジェリカは、涙を堪えるようにして唇を噛み締めた。まるで大罪の告解をするかのように深刻な様子のアンジェリカに、セドリックはしばらくの間言葉を失った。震えるアンジェリカの手を握り、深く息を吐いてからゆっくりと口を開く。



「あのね、アンジー。今から僕が話すことを、落ち着いて聞いて欲しい」


「何でも聞くわ。それが贖罪になるのなら」


「んん、いや、えぇっと……とても言いにくいんだけど、アンジーは気休めという言葉とその意味は知っている?」


「そうね、私の謝罪はただの気休めにしかならないわよね……」


「そうじゃなくて!あのねアンジー。君のしてきたおまじないとやらは、全部何の効力も発揮しない気休めのこども騙しなんだ」


「え?」



 セドリックの言葉を受け、俯いていたアンジェリカはきょとりと目を丸くさせながら顔を上げた。



「リボンの裏に名前を書く、薔薇の形の角砂糖、それがどうやって人の心を動かすっていうんだい?

花の香りだってただの気休めさ。いい香りに緊張がほぐれて一緒の空間にいる相手に良い印象を与えることもあるだろう。だから応接間には花の飾りが設えてある。だけどそれがあるというだけで相手を確実に好きになるなんてことはないよね」


「だ、だけど読んでいた本には強力な呪術だって」


「本に書かれているからといってそれが全て真実な訳じゃない。アンジェリカもよく本を読むのだから知っているはずだ。

君が読んでいたのは幼い少女が好むように書かれた遊戯本なんだよ。嘘だと思うならもう一度その本を読み返してごらん。いかにこども向けに書かれているかがよく分かるから」


「そ、そんな、それじゃあ、どうしてセディは私のことを好きになったの?どうしてずっと私のことを愛してくれているの?」



 困惑しているといった感情を露わにしたアンジェリカが唇を震わせる。今すぐその柔らかな紅にかぶりつき、愛らしい肢体を抱き締めたい衝動を必死に堪えながらセドリックはアンジェリカに微笑みかけた。



「いつでも優しく寄り添ってくれた君のことを大好きになったあの日から、気持ちが変わるどころかますます強くなっているからだよ。純粋であたたかな心をもつ君のことを誰よりも愛しています。どうか僕と結婚してください」


「っ、ぁ……」



 アンジェリカの指にキスを落とすセドリックに、アンジェリカは耳まで顔色を紅潮させていく。もう返事は聞かずともわかっているのだが、彼女の口から聞きたいセドリックは待つことを決めた。もう何年も辛抱してきたのだ。この先の数秒くらい、なんてことはない。



「わ、私でよければ……セドリックのお嫁さんにしてくださ──!」



 なんてことはない、なんてことはちっともなかった。アンジェリカの返答が終わるまで待てなかったセドリックは彼女の頬を包み、念願の唇を奪った。

息をも止める程の強い抱擁にアンジェリカの声はくぐもったが、そこに痛みや苦痛を訴える色は含んではいない。ただ恥ずかしそうに、けれど幸色の浮かぶ涙が眦に浮かんではいた。



「今夜のディナーはアンジーの好きなものをたくさん並べてもらおう!僕らの婚姻のお祝いは改めてするけど、今日も特別な夜にしたって構わないだろう?」


「ふふ、セディったら。今から急いで帰ればほんの少しは豪勢な献立にしてもらえるかもしれないけど、あまりワガママは言えないわ。

それよりも二人でゆっくり話しながら戻らない?私、セディと昔みたいにお喋りがしたいの。これからたくさん機会はあるかもしれないけど、その、せっかくだし……」


「うん、うん、もちろんだよ!ああ、愛してる!僕は世界一の幸せ者だ」


「私もよ、セドリック」



 セドリックは満面の笑みでアンジェリカに抱き着いた。幼い頃はアンジェリカの方が大きかったのに、今ではセドリックの腕の中にすっぽりとおさまっている。けれど体躯は立派になっても甘えたな性格はちっとも変わっていないようだった。それを男らしくない、と非難することなくアンジェリカは笑顔で受け入れる。その行為がセドリックの愛の重みをどこまでも増やしていることには気付かないで。



 その後、セドリックの言葉通りアンジェリカの好物ばかりが並んだ食卓で両親に婚姻の報告。数日と経たずに婚姻の話は速やかに進み、まるで仕組まれていたかのように半年後に盛大な挙式を開いたアンジェリカだが、純粋過ぎる彼女はやはり気がつかない。

豚娘と呼ばれた過去を持ちながら、美麗で優秀なセドリックのお嫁さんになれたことを祝福され、幼い頃から一途に想い続けたセドリックと仲睦まじい夫婦として生涯を送るのだ。



 セドリックに惚れられた時点で逃げ道はなかったこと。セドリック以外の異性との交流は家族以外極力減らされていたこと。

痩せて綺麗になったアンジェリカに好意を寄せ始めた男性が幾人か貴族界から姿を消したこと。またそれにセドリックが関わっていること。


全てを知らないアンジェリカは今日もセドリックに愛されて、幸せそうに無垢な笑みを浮かべるのであった。

お読みくださり、ありがとうございました。

拙文ではありますが少しでもお楽しみいただけたなら幸いです。

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― 新着の感想 ―
[一言] 面白かった! 綺麗に終わるかと思ったら、最後に怖い貴族のドロドロがほのかに見え隠れ。 まあ、そういうことをしちゃうくらい溺愛されているということなんだろうな。
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