第8話 それぞれの秘密
「ねぇぞ」
ぼそりと呟かれた低音は、やはりエヴァの鳩尾のあたりをダイレクトに揺らして、まるで高度なドミノのように次の瞬間には心臓を跳ねさせる。
週に2回だけの勉強会はいつも、ひどい動悸がエヴァを襲うのだ。
学校の図書室は、王都で唯一の高等学校ということもあって、テラスハウスのほうのノヴェッリ邸が二つくらい入ってしまいそうだった。
その中で、いくつか離れたところにある本棚からひょっこり顔を覗かせたアルベールが、指定された書物が見つからないと報告をあげる。
「他のところに紛れてるのかしら。エヴァも探してくれない?」
これも何度目になるかわからないが、クラウディアが眉を下げてエヴァを見上げた。
この表情がエヴァに効果的であると理解っていてあえてそうしているのだ。エヴァはわかりやすく眉根を寄せてから「へぃ」と返事をする。
学生たちがめいめいに利用する図書室では、目的の書物があるべき場所にないことも往々にしてある。
こうやって行方不明の本を探す探偵ごっこももう何度目になるかわからない。
エヴァはアルベールがいるのとは逆側へ移動して、棚の陰に隠れると小声で優秀な司書に問い合わせた。
「えーと、【コルバンの遠征記】どこにある?」
『南側の奥から3番目の棚で、上から3段目、窓側から数えて、じゅう……に、いや13番目。旅行記のあたりだ』
「ありがと」
本棚が教えてくれた奥から3番目は、アルベールがいる場所の近くだ。
何も考えず適当に返却するくらいならもう借りないでほしい、と口の中で呪詛を垂れ流しつつ歩き出す。
こうして学校の図書室へ4人が集まるのは今までに3度、この日は4度目となるが、エヴァは今まで、アルベールの近くをわかりやすく避けてきた。
それをポールクレルが、その悪そうな顔を怖がっているに違いないと笑って茶化すため、問題にはならずに済んでいるが。
怖がっているわけでも照れているわけでもない。ただ見透かされるような不安、自分が自分でなくなるような焦燥感、それらが気持ち悪いのだ。
だから今、彼のそばに行かねばならぬと意識した途端、動きが硬くなった。
「あー、んー、遠征記、だから、えーと、た……旅かーこのへんかなーまさかねー」
一文字一文字を発声するごとに頭を抱えたくなる。こんな大根役者がステージに立ったら、どんなに清楚で教養のあるお淑やかなご婦人だって扇を投げつけて席を立つに違いない。
図書室のどこかからクラウディアが笑いを噛みしめている空気を感じて、エヴァは顔を真っ赤にさせた。
クラウディアはもしかしたら、資料を探させることよりもエヴァがしどろもどろになるところを楽しむつもりなのかもしれない。
アルベールの前を通り過ぎて目的の棚の前へ体を滑り込ませる。彼の視線に気づいてはいけない。
窓側から数えて13番目、上から3段目だ。
「あっ……た……けど……」
図書室の棚は背が高い。天井までしっかり詰まっていて、上から3段目はエヴァが垂直飛びをしても、もしかしたら届かないかもしれない。
クラウディアなら間違いなく、触れることも叶わないだろう。
脚立がどこかにあるはずだと視線をさげたとき、突然視界が暗くなってエヴァを混乱させた。
「どれだ?」
心臓破りの低音がエヴァの頭の真上から響く。逞しい左手がエヴァの顔の横から棚へ真っ直ぐ伸びていて、右手は遥か上の棚に指を引っ掻けるようにしている。
つまり、アルベールはエヴァを後ろから覆うように立っているのだ。逃げ場はない。
「えと、あの、3段目の、右の方」
アルベールは、右手をそのまま上へ伸ばして人差し指で背表紙をひとつひとつなぞっていく。
大きくてゴツゴツと骨ばった手と、長い指に視線が吸い寄せられ、エヴァは目が離せずにいた。
ただ、このうるさいくらいに自己主張する心臓の音が、背後の人物に聞こえてしまわないかと両手で胸をぎゅっと抑えながら。
「ああ、これだな。こんなとこに仕舞うバカがあるかよ」
目的の品を見つけた大きな手がそれを棚の中から引っ張り出す。
エヴァは、傾きを大きくしつつ少しずつ姿を現す【コルバンの遠征記】を見つめながら、この必要以上に密接した不思議な状況に息をひそめた。
物音ひとつでも立てたら、この瞬間が幻のように終わってしまう気がして。
あの本が引き抜かれればどうしたってこの時間は終わりだ。
それを待ち望む思いと惜しむ気持ちとが交錯して、エヴァを不安にさせた。やはり、彼のそばでは自分が自分でなくなってしまう。
一心に本とアルベールの右手を見つめながら、痛いほどに拳を握る。
「なぁ」
覆うような体勢はそのままに、取り出した本をエヴァの眼前に掲げたアルベールが、背を丸めてエヴァの耳元へ顔を近づける。さらりとこぼれたダークブラウンが、エヴァの頬をくすぐった。
常から大きな声で話す人物ではないが、ほとんど吐息とも言えるような声量で問いかける。
「アンタ、なんで本の場所がわかる?」
「……」
「エヴァ? 見つかった?」
なんと答えるべきかわからずに逡巡していると、様子を伺うクラウディアの声が聞こえて来て、エヴァは目の前の本をひっつかんで転がるようにその場を離れた。
◇ ◇ ◇
豪奢な4頭立ての馬車に乗って教師たちが帰路に着くのを見送った二人の男は、続いて目の前に流れてきたさらに派手な馬車へ乗り込んだ。
校舎を挟んで東西に男女の寮があり、王都にタウンハウスやテラスハウスを持たない貴族の子女、並びに魔力が発現した平民の子女が利用しているが、隣国の王族は受け入れなかった。
王都に住まいを持てない者のための宿舎は、王族を受け入れるにはセキュリティ面でも清潔さでも、大規模な改築が必要になるからだ。
結局、ポールクレルとアルベールはロシュタルの城から通学することになっていた。
通学は面倒だったが、タイミングさえ合えばロシュタルの王族や有力な貴族とコミュニケーションがとれ、ポールクレルは概ね満足している。
いずれはメリリアの王となる身。
学校での勉学も王侯貴族たちとの社交も、本来の目的とは異なるが、今下地を作っておくのは将来的に大きな意味を持つはずだ。
「何かわかったのかい?」
「……いや、疑いが強まっただけだ」
「なんの?」
「わからねぇが、何かある」
ポールクレルは返事をせず、窓から外を眺めて民の表情をぼんやりと観察した。
白に金で装飾が施され、前方にはロシュタルの国旗を掲揚しているこの馬車は、誰が見ても王家のものだとわかる。
馬車に向けられた視線こそが、王家と民との心の距離のはずだが。
「悪くない、か」
「あ?」
「いや、なんでもないよ」
「クラウディア?」
「ああ、彼女は可愛らしいね。それに――賢い」
学校内では、ポールクレルの留学を婚約者探しではないかと噂する者が少なくない。
あまりにも愉快な思考ではあるが、そう思ってもらえるのであれば、ポールクレルもアルベールも動きやすくなるため、特段訂正するつもりもなかった。
もうすぐ22歳になるアルベールが独身だとか、ましてや婚約者もいないと考える人物はさすがにいないらしく、この留学でお相手探しを演じるのは専らポールクレルの役だ。
実際それは正しい。
ポールクレルはこの留学中に――可能性は著しく低いものの――心を動かされる出会いがあれば、前向きに検討してもいいと考えている。
メリリア国内の貴族たちの肚の探り合いには飽き飽きしているのだから。
一方でアルベールは、他国のご令嬢にうつつを抜かす余裕はないだろう。
多くの釣書を抱える父親に「勝手に決めておけ」と吐き捨てて国を出て来たのだ。メリリアに戻れば名前も顔も知らない婚約者が待っている。
しかしポールクレルの反応は、アルベールには少々意外に感じられてついつい口元を緩める。
「おいおい、彼女には婚約者がいるだろ。ルシアン・マテュールだ」
「わかっているさ。だから近づいたんだってことも、忘れていないよ」
窓の外に目を向けたまま答えるポールクレルの口元は弧を描いている。
王族の考えていることはわからないものだが、この王子の場合は一段とわからない、というのがアルベールの評価であり、最も気に入っている点でもあった。
「アル、君はどうして彼女に固執するんだ? 外見は確かにまぁ美しいが、あれくらいなら他にも探せるだろう?」
ようやく窓から目を離したポールクレルは、微笑ましい、あるいはからかうような表情でアルベールを覗き込んだ。
それに対して、逃げるように顔を背けた強面の護衛騎士は、しばらく無言の抵抗を試みるも、ついに吐き出すようにして回答した。
「あいつは何か隠してる、から、気になる。それだけだ」
ふーん、と言ったきり口を閉じたポールクレルに、アルベールもまた顔を背けたまま黙った。
静かな車内に、馬の蹄や車輪といった走行音が淡々と響く。
「なぁ」
「ん」
「王都かな、領地かな」
「さぁな。ジャエルのいるところだろうが、とにかくとっかかりが見つからない」
馬車が城門をくぐり、二人はまた口を噤んだ。
次回は5/22更新予定です。
いつもお読みいただきありがとうございます( ゜∀゜)





