第6話 伯爵家の図書室
詰め込まれた本を退かし、棚の上の埃をダチョウの羽根でできたハタキを滑らせて取り除く。さらに固く絞った雑巾で棚全体を磨くように拭きとる。
退かした本は一冊一冊を乾いた布で拭ってから棚へ戻していく。
地味でありながら、脳のリソースをほとんど使わずに作業が進められる、エヴァの大好きな仕事のひとつだ。
さすが王領伯家と言うべきか、この屋敷の蔵書数には目を瞠る。取り掛かると決めたなら数日は確実に潰す覚悟が必要なのが唯一の難点だろうか。
今回この作業をやるのは全くの想定外で、いかに大好きな仕事でもモチベーションは海の底よりも低い。
「うう、面倒くさい……」
「お仕事なんだから、頑張りましょう」
室内の机に教科書を広げたクラウディアがニコリと微笑んで、エヴァはギリリと唇を噛んだ。
暇を持て余したのか、布ぐるみから抜け出たクラウディアがエヴァの後ろをどこまでもついて回るので、侍女長がついにエヴァに図書室の清掃を言い付けたのだ。
このお嬢様が素直に学校に行っていればこんなことにはなっていなかったのに、との言葉を寸でのところで飲み込んで、適当に相槌を打つ。
長い物に巻かれながら生きてきたエヴァにとって、この程度の理不尽は許容範囲である。それにこの単純作業は、進めてみれば思いのほか思考の整理に役立った。
「私、お嬢様はルシアン様のことを慕っていらっしゃるのかと」
「なぜ?」
「ダリアの髪飾りをとても大切にしていらっしゃるように見えたので。ルシアン様からの贈り物でしたね?」
あのダリアはそんなに古いものではない。それでも意思を持って持ち主の元へ帰りたがったのだから、よほど大切にされているのだろうと考えたのだ。
エヴァの言葉に、クラウディアは手にしていたペンを転がして椅子の背に体を預けた。
「エヴァは白いダリアの花言葉をご存知かしら」
「いえ」
「【感謝】よ。ルシアン様は婚約が成った日、わたくしに『貴女の覚悟に感謝します』と言ってあれをくれたの。そのときにやっと、わたくしは覚悟を決めた」
クラウディアの瞳が何を映しているのかわからず、エヴァは曖昧に頷いた。所詮、貴族が義務として負うはずの戦略としての婚約など、無能には遠い世界の話なのだ。
文学のテストで「このとき筆者は何を伝えたかったか答えよ」と言われたって、筆者にしかわからないだろう、と思うのと同じように。
わかったような気になることしかできない。
クラウディアは立ち上がってエヴァに近づくと、濃紺の髪についた埃を摘まみながら「でも」と続けた。
「ある日降り出した【好き】という気持ちは、どんどんと積もっていって、やわな覚悟を簡単に押しつぶしてしまうの」
小さな手から離れた埃は、空中をふわふわと漂ってどこかへ消える。
それはきっと室内の小さな空気の流れにのって一所に集まり、いつかちょっとやそっとの風では飛べないほど大きくなるのだろう。
「それは、ポ――」
開きかけた唇に、クラウディアの指が触れる。ここは屋敷の中とは言え、誰が聞いているかわからないパブリックスペースだから、だろう。
「あ、埃を触った手だったわ」
ふふふと笑いながら差し出されたハンカチで、エヴァは思い切り唇を拭ってやった。どうせ洗うのもエヴァの仕事だ。
クラウディアは睨みつけるエヴァの視線など気にしない様子で、また元いた場所へ戻って優雅に座った。
作業を再開するため、手元の本に視線を落とすと【メリリア国交記】とタイトルが打ってあるのが目を引く。
古い装丁の本で、パラパラとめくってみても内容は全く頭に入って来ない。
「メリリアからの留学というのは、よくあることなのですか?」
「……いいえ。ああ、いえ、ないわけではなかったはずよ。技術留学だとか、思想の勉強だとか。けれど、王族が他国の学校で学ぶのは前代未聞ね」
記憶の引き出しをひとつひとつ開けて確かめるように、クラウディアが宙を見つめながら答える。
サルトリオ家は王領伯の中でも歴史が古く、過去の資料は膨大かつ歴史的価値のあるものも多い。そんな家で暮らすクラウディアもまた、国の歴史には明るいのだ。
「それでは、マテュール家との特別交易条約の影響でしょうか」
「表向きはそういう話になっているわね」
メリリアと国境を接するマテュール家が、長い交渉の末に特定の物品の貿易と平和条約を締結したのは2年ほど前のことだ。
その直後にポールクレルの留学が決定され、去年の2月にガエテル高等学校へ例の2人がやって来た。王族の動向としては準備期間もほとんどない急な話だった。
「表向き、ですか」
「人探しに来たのでは、って噂があるの」
「ああ、それなら私も聞いたことがあります。婚約者でしたか」
「そんなの、おとぎ話よね。……でも、そうだったらいい、って思う気持ちなら理解はできるわ」
口元に手を当てて、クスクス笑うクラウディアは愛らしく、そして悲しそうに映った。
彼女の願いは、ポールクレルと思いを通わせたい、ではないのだ。最初から、いじめっ子だと思われたくないとしか言っていない。
結ばれることはなくとも、悪い印象を持って欲しくないというささやかな願い。
それを、一介の侍女でしかない自分に何ができるのだろうかと考え、エヴァは目を伏せて作業に戻った。
何かしなければ間に合わないはずなのに、何をすればいいのかわからない。
表向きと言うなら、クラウディアは今もこれからも、ルシアンの婚約者なのだ。相手からそれを破棄されるまで。そして、破棄されてからあがいてももう遅い。
「これ以上の落ち度を作らずにいるしかないかもしれません。ルシアン様と無事ご結婚を……」
最後までそれを口にすることはできなかった。誰も幸せにならない結末を。
「そうね」
「あのクソッタレにお嬢様が嫁ぐほうが悪夢ですけど」
今朝の出来事を思い出して溜め息を吐く。心の中だけに留めて置けない悪態がぽろりとこぼれた。
軽薄で傲慢なルシアンにクラウディアが嫁に行くのも腹が立つというものだ。どうせプリメラを愛人にでもするに違いない。
なんだ、ルシアンだけは幸せになるじゃないか。
余計クソッタレな話だとエヴァが手元の本を乱暴に棚に仕舞うと、本棚から小さく抗議の声が聞こえた。
「そういえばエヴァはルシアン様と仲良しだったわね」
「良くしてくださるのは侯爵夫人だけです」
今度はゆっくり静かに本を棚に並べながら、優しく微笑む侯爵夫人を思い浮かべる。
初めてアルベールに会った日も、夫人は優しく笑んでいた。
エヴァ=リタの故郷、ノヴェッリ領で作られるワインは、ルシアンの父ジャエルの好物で、あの日はたまたま王都へ出向いていたジャエルからワインを1本届けるよう言い付けられたのだ。
ジャエルはエヴァをあまり良く思っていない、というより、力のある貴族ほど無能の人物を軽く扱うきらいがある。
当時、王都にあるノヴェッリ家のテラスハウスには、学校に通うエヴァとその世話をする侍従が数人滞在するだけだった。
ジャエルからの依頼に、エヴァは侍女をひとり連れてマテュール侯爵家のタウンハウスを訪れた。そして、それを困った笑みで迎えてくれたのが侯爵夫人のミレーナだ。
彼女は一度だって、エヴァを無能だからという理由で蔑んだことはなかった。
『エヴァっ! まずいよ、クラウディアが!』
本棚の叫びに我に返ってクラウディアの姿を探すと、ベゴニア色のお団子が本棚の向こう側で揺れているのが隙間から確認できる。
よく見れば、本棚自体も揺れているようだ。
「ちょ、お嬢さ……!」
急いで反対側に回ると、小柄なクラウディアが棚の一番上の段から一冊を抜き取ろうと奮闘しているところだったが、ぎゅうぎゅうに詰まっているのか目的の物が取れないらしい。
「もう少し……」
「いけません……ッ!」
背伸びしてやっと届いた本の背表紙を、力任せに引っ張り抜こうとするクラウディア。
本人は気づいていないようだが、一歩離れて見れば本棚が傾き始めているのがわかる。このまま力を加え続ければ間違いなく倒れてしまうだろう。
まさかこんな時にドジの才能を発揮してくれなくても。
「クラウディア様!」
「キャーっ!」
バサバサと棚の中から本が全て落ちる音。倒れた棚が向かいの棚に当たって辛うじて動きを止める音、そんな一瞬の喧噪の後に、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
エヴァは、クラウディアを守らなければならないという使命感に突き動かされ、倒れかける本棚とクラウディアの間に入ったはずだった。
しかし派手な音がするばかりで、自分の体に何かが落ちたり倒れたりするような感触はない。代わりに、腕の中に柔らかで温かいものがあって、クスクスと笑っている。
「エヴァ、思ったよりずっと運動神経がいいのね」
「少なくとも、クラウディア様よりは良いと言えそうですね」
そっと体を離して、クラウディアの体のどこにも傷がないことを確認すると同時に、落ちて来た本の全てが二人を避けるように散らばっていることに気づく。
クラウディアの持つ白魔法の防御特性が発動したのだと理解するのに、時間はいらなかった。
「言ってくだされば、必要な本は私がお取りしましたのに」
「だってわたくし、エヴァにサプライズしたかったのよ?」
クラウディアが胸元に掲げた本には、【黒魔法目録】と書かれていた。
お嬢様はエヴァの能力に勘付いていたようです





