第4話 貴族の恋心
扉の突然の開閉音に驚いて指3本分の高さだけ体が跳ねたエヴァは、着地と同時に、不機嫌と不快感と強い警戒とを混ぜ合わせたような表情のルシアンと目が合った。
「……誰かと思えばエヴァ=リタか。なんでここに? ああ、クラウディアは欠席か?」
「ルシアンは相変わらず扉ひとつ静かに開けられないのですね」
「そうやって小言ばかり言うからいつまでも結婚相手が見つからないんだ。行こう、プリメラ」
婚約者の体調の心配もせず足早に立ち去るルシアンの後ろを、プラチナブロンドがペコリと頭を下げて追いかけて行った。
エヴァとルシアンは遠縁にあたる。マテュール侯爵家から分家してノヴェッリ子爵家が生まれ、それから数代にわたって近しい付き合いを保っている。
ふたりは、幼い時分にはよく一緒に遊んだものだったが、エヴァがモノの声をよく聞くようになってから、侯爵家側がルシアンを引き離した。
モノと話ができると主張するのだから、妄想癖または精神疾患があるかもしれないと判断し、跡継ぎに悪影響を及ぼさぬようにしたのか。
それとも、エヴァの話の中に息子のルシアンに聞かせたくない内容があったか。真実は闇の中だが、今もこうして良好とは言えない関係が続いているのだけは確かだ。
「昔は、エヴァをお嫁さんにするんだって言ってたのに」
苦笑交じりに呟いた言葉は、開け放たれた音楽準備室の中に吸い込まれて消えた。
マテュール侯爵家は、この国の中で最も広い国境を領地に持ち、接する国は3つにのぼる。
それぞれと条約を結んだり、ピリリとした緊張を維持したりと、マテュール侯爵家の功績は甚大であり、王家も口出しできないほどの発言力を有していた。
つまりエヴァに能力があろうとなかろうとふたりが結婚する未来は訪れないし、今も昔もエヴァがそれを望むことはない。
ただ、幼いルシアンの純粋な言葉と表情は宝物だ。人生で最初の友人から人生で初めてプロポーズをされた、汚れの無い思い出が大事でないわけがないのだから。
宝物を胸の奥へ仕舞い直すためにプルルと首を振って、大きく一歩足を踏み出した。
さすがにそろそろ戻らないと、侍女長に叱られてしまう。
彼女はまるで雷属性の魔力でも持っているみたいに、誰かに雷を落とすのが上手なのだ。
火や雷のように、攻撃力の高い魔法を使えたなら、きっと王国の騎士に志願したのに、と溜め息を吐く。
北に大きな瘴気沼が発生して、大量の魔物が現れたのは先月のことだっただろうか。突然、所かまわず生まれる瘴気沼は黒々として、たくさんの魔物を生み出すのだ。
魔物から得られる素材は人間の生活に利用されることもある。中にはグリフォンのように殺さず使役される幻獣が生まれることもあった。
そのため、発生する場所や規模によっては、厳重に管理しながら浄化せずに置いておくのだが、先般生まれたものは場所もサイズも放っておけるものではなかった。
騎士団は今もまだその掃討作戦に手間取っているらしく、城の中はてんやわんやだと聞く。
攻撃系の魔法じゃなくてもいい。何か人の役に立つ能力があったなら――。
「おや、貴女はエヴァ……エヴァ=リタ嬢だね。おはようございます」
風のない澄んだ湖の水面を思い出させるような、涼やかな声にエヴァが振り返ると、砂糖菓子のように甘いマスクがにっこりと笑っていた。
キャラメルに砂糖をまぶしたような甘く整った顔を、明るいブロンドの髪が額縁のように飾っている。
その横に仏頂面で立つ背の高い男も、人間離れした端正さの顔を持っている。それは目つきの悪さも相まって、魔物が人間に化けたのではと噂されるほどだ。
「ポールクレル殿下、アルベール様。おはようございます」
東側でマテュール侯爵家の領地と触れる異国のひとつ、メリリア国の王子ポールクレル・アボンディオと、その護衛であるアルベール・ラッツァリーニ。
ポールクレルは去年の春からこのガエテル高等学校へ留学していて、アルベールは王子に常に付き従っている。
魔物がヒトに化けたとは思わないが、しかしエヴァもまた、アルベールだけは何度会っても慣れることができずにいる。
容姿の美しさで言えば、ルシアンやポールクレルと同じか、人によっては一段劣るという者もあろう。
だからその美貌に狼狽えているわけではないはずだが、このさわさわと胸が落ち着かない理由はわからないままであった。
「今朝はクラウディア嬢はご一緒では?」
「お嬢様は少し体調を崩されたので、大事を取って本日はお休みを」
「おや、それは心配だ。それではお大事にとお伝えください。あとでワインでも届けさせましょう」
エヴァが膝を折って淑女の礼をとると、ポールクレルは片手を上げて背を向けた。
と同時に、エヴァのそばでキュッと音がする。靴底と床とが擦れた音だ。
「なぁ」
「ひゃぃ」
「……いや、いい」
何事か言いかけたアルベールは、目を細めてしばらくエヴァを眺め回してから、しなやかに踵を返して自らの主人を追う。
呼吸しなければならないことを思い出して深く息を吐いたときには、二人の姿はもう見えなくなっていた。
彼らの美貌のせいで、学内の女子生徒の恋心は完全に3つに分けられていた。
軽薄で軟派なルシアン派、名実ともに王子然としたポールクレル派、孤高の護衛騎士アルベール派と。
普通の女子だったならば、彼ら3人に遭遇するこの朝を喜んだのかもしれない。
しかしエヴァは頭を抱えながら足を速めた。婚約者のルシアンではなく、ポールクレルからお見舞いのワインが届くことについて、クラウディアに説明せねばならないのだから。
◇ ◇ ◇
「エヴァ、わたくし思い出したの」
「何をです?」
屋敷に戻ると、クラウディアはソファーで毛布やストールやあらゆる暖かそうな布にくるまりながら、チクチクと刺繍の練習をしていた。
この状態は本人に確認するまでもない、とエヴァは心の中で苦笑する。
十中八九、遊びに出かけようとしたところを侍女長に見つかって、体調不良なら大人しくしているようにと叱られたに違いないのだ。
「貴女に信じて貰うために証明になるような出来事を、よ。あのね、もうすぐマテュール領で瘴気沼が発生するわ。そしたら信じてくれる?」
「いやいや瘴気沼って」
「だから、ね。ルシアン様との婚約は破棄されてもされなくても構わないの。最悪の場合には修道院に行ってもいい。でも、いじめっ子だと思われるのだけはイヤ。お願い、エヴァ。助けて」
子猫のように真ん丸で少し釣りあがった琥珀色の瞳を潤ませるクラウディアの目の前に、温かな紅茶を差し出す。
この頼りなげな表情でお願いするのは、エヴァにはもっとも効果的で、うっかりクラウディアの話を8割くらい信じてしまいそうだ。
「その、婚約破棄……断罪……ですか? それはいつ発生するんでしょう?」
「わたくしたちの卒業パーティーよ。衆目の中で『婚約を破棄するー!』って言われるの」
セリフに合わせてビシっとエヴァに向けて差し出した小さな人差し指を、専属侍女は両手で握ってゆっくりともこもこの布ぐるみの中に包み込む。
未完成の刺繍が施された白いハンカチを取り上げて、左手も同じように布ぐるみの中へ導くと、クラウディアの喉が「うぅ」と鳴った。
布ぐるみをクラウディアの全身に巻き付けながら、エヴァは漠然とこれからどうするべきかを考える。
もうすぐとはいつだろう。卒業パーティーのある12月まで半年あるが、瘴気沼が発生するのを確認してから慌てて対策を練っても、間に合わないかもしれない。
さきほどのルシアンとプリメラの仲睦まじい姿を思い出すと、婚約破棄もあながち妄想と言い切れない。
もう一方の当事者も、婚約破棄の回避は特に望んでいないのだから、それはいいとして。
そうだ、クラウディアが望んでいるのは。
「ポールクレル様に誤解されたくない……でしたっけ」
小さく呟いたエヴァの言葉に、クラウディアが大きく頷いた。
微笑む姿は春の陽光のように美しいが、雲がかかればあっという間に陰ってしまう儚い願いだ。
クラウディアやポールクレルよりも一学年上のエヴァは、卒業後にふたりがどのように交流を深めたかほとんど知らない。
けれども最初の出会いから、もしかしたら特別な何かを感じていたのかもしれないと、半年前の煌びやかな会場を思い出した。





