第38話 中庭の再会
『なによ、その煮え切らない顔』
「別に……。プテレアーだいぶ薄くなったね」
『言い方悪いわ。さらに美しくなるための準備期間だし、てかこの姿だって美しいと思わない?』
外の空気を求めてエヴァが足を向けたのは中庭だった。
樹齢を教えてくれないニレの木からはほとんど葉が落ちているが、確かに本人の言う通り葉がなくとも大きく広げた枝に生命力を感じる。
抗議するようにさわさわと風に揺れたプテレアーに、小さく笑って頷いて見せる。
「お嬢様も卒業だって」
『じゃあもうここに来なくなるのねぇ』
「王子様のお嫁さんになるんだもの、この国からもいなくなっちゃう。立太子はまだだけど、殿下は何もなければ次の王様になるはずだし、……お嬢様が王妃かぁ」
『いやなの?』
見上げた空はすでに茜色から紺色までの見事なグラデーションを作っていた。
色が変わるごとに輝く星が増えていき、変化は悪いことではないのだという気分になる。
だからといって、寂しい気持ちがなくなるわけではないのだ。
「これからはお嬢様と侍女という関係ではなくて、同じ目線で世界を見られるようになるんだって思ったけど、国が違ってしまったらなかなかお会いできないから」
クラウディアとエヴァは、同じように叶わない恋に悩んで、二度と会えない人を想って生きていく、仲間でもあった。
ときに慰め、ときに励ましあって、それぞれの幸せを探していくのだと。
『寂しいのね』
「嬉しいけど、本音のどこかに寂しいがあるのは否めないわ」
『でも貴女は、普通の人よりも寂しくないはずよ。アタシもいるし、これからも、いろんな人やモノとお喋りできるんだもの』
プテレアーの言葉は、混じりけのない純粋さで真っ直ぐにエヴァの胸に届いた。
それはプテレアーが人ではないから、かもしれない。
ふわりと緩んだ心の奥から、隠していた本音がぽろりとこぼれてしまった。
「でも、今いちばん話したい人とは話せない……」
『……』
プテレアーが何かを言いかけたようだったが、強く吹いた風がそれを掻き消した。
枝が揺れて、少ない葉の一枚がはらりと落ちる。
風に乗ったその葉を目で追いかけると、エヴァの視界に人影が映り込んだ。
「誰と話したいって?」
手入れを欠かさないヴィンテージのチェロのような、鳩尾に響く渋い低音。
それはエヴァが最も聞きたいと欲していた声だ。
「アル……ベール様」
長い足は、ほんの少し手を伸ばせば触れられるほどの位置へ、あっという間に距離を詰めてしまう。
夜になりきらない薄明かりの中で、ダークブラウンの髪が風に揺れて光った。
「探したぞ」
「なんでここに……。あ、殿下ならホールのほうに――」
「アンタを探してた。俺も話したいんだ、アンタと」
優しくて掴みどころのない笑みがエヴァを見つめる。
幻ではないかと思わず手を伸ばしかけて、虚空で止めた。
「えっと……夢……かな」
プテレアーが見せてくれた幻かもしれない。
エヴァの視界は次第にぼんやりと滲んで、霞んで行くのだから。
「どうかな。ほら、触ってみろよ。俺はここにいる。アンタの意思で、アンタの手で確かめて」
仄かに意地悪な雰囲気の混じったアルベールの言葉は、戸惑うエヴァを笑顔にして、宙ぶらりんのままの手を伸ばす勇気を与えた。
質のいいウールのコートは、しっとりとした手触りでエヴァの指を受け止める。
「あ……」
確かにアルベールがそこにいると認めたその瞬間、ふいにアルベールの手が伸びて、エヴァの身体を引き寄せた。
以前にも、エヴァはこの中庭でアルベールに抱き寄せられたことがある。
あれは、エヴァが秘密を打ち明けるまで解放しないというアルベールの意思表示だった。
清潔な香りも、衣類越しに伝わる逞しい胸もあのときと同じだが、アルベールの胸の鼓動はあの日とは違って、まるで落ち着いていない。
抱き締める腕もあの日より強く、それになにより、離したくないのはエヴァも同じだった。
けれども。
エヴァはあの日と同じように必死にもがいて、どうにか自分の腕の長さの分だけの距離を得る。
「アルベール様、ほんとに、どうしてここへ? フィアンセは?」
「は?」
「メリリアに婚約者を待たせていると」
確かにポールクレルは、アルベールのもとにお父様であるラッツァリーニ卿から釣書が届いたと言っていたのだ。
女生徒たちが過去に噂した「美しい婚約者」が勘違いであったとしても、アルベールが自国に婚約者を待たせていることは変わりない。
そう、思っていた。
「そんなのはいない。よく聞け。今だけはモノの声なんか聞くなよ、俺の声だけ聞くんだ」
躊躇いがちに頷くエヴァの髪を、アルベールの指が愛おしそうに梳く。
「ちっと遅くなったが、迎えに来た。俺はアンタを愛してる」
「――っ。またまたご冗談を。能力も立場も家格もまるで違うのに、からかわないでください」
夢や妄想の中で何度となく聞いた言葉が、温度をもってエヴァの耳に届き、息を詰まらせる。
けれども、貴族の恋愛が簡単じゃないことは、もう十分理解しているのだ。
アルベールの瞳がジョークなどではないと語っていても、貰った言葉を思わず否定してしまう。
「そうだな……大事なことほどよく考えて自分で決めろって言った手前、アンタがこれを冗談だと思うなら、俺は信じてもらう努力をしねぇとな」
「えっ! ちょっ!」
口元に意味深な笑みを浮かべたアルベールは、おもむろに肩を抱き寄せ、エヴァが驚くよりも早く横抱きにした。
早足で歩くアルベールを見送るように、エヴァの視界の隅でプテレアーが揺れる。
「ど、どこに」
「お互いに、後戻りできない場所に」





