第36話 お別れの時
抜けるような青空の下、王城の広場には多くの人が集まっていた。
クラウディアはこれを「つうきん時間帯のシンジュク」と表現したが、エヴァには皆目見当がつかないため聞き流した。
地下室からエヴァが助け出されて三日が経過している。
ポールクレルによって根回しされていたらしいロシュタル国家並びに騎士団は、大きな混乱もなくジャエルの後始末を済ませた。
メリリアとロシュタルの間でどのような取り引きが行われたかを知る人物は少ないが、ポールクレルらが瘴気沼の遠征に参加できたことも含め、大小様々な取り決めがあるだろう、とはクラウディアの見立てだ。
この日、メリリアの王子が帰国する。
翌月の頭にはポールクレルが誕生日を迎えることもあり、その準備等も含めて卒業を待たずに帰国することになっていたのだ。
卒業パーティーには戻ってくる予定にはなっているが、それも情勢次第であることは誰もが理解していた。
「あれはヒッポグリフね、初めて見るわ」
何頭か並ぶグリフォンキャリッジの中に、一頭だけヒッポグリフが混じっている。
鷲とライオンの体を持つグリフォンと違い、ヒッポグリフは後半身が馬に似た造形をしていて、グリフォンよりもずっと誇り高い生き物だ。
どれだけヒトに慣らせようとも、高貴な香りを嗅ぎ分けるのか王族しか乗せようとしない。
ヒッポグリフキャリッジは相当な訓練を施されたヒッポグリフと、相当のスキルを持つ御者によってようやく成立する、最も権威ある乗り物であった。
ポールクレルについてロシュタルへやって来た多くの侍従は、すでにグリフォンキャリッジへ乗り込み、あとは主役の登場を待つばかりだ。
「この状況で暴れないんですから、お利口ですね」
エヴァはむせかえるような香水の香りと、甲高い女たちの声に辟易していた。
ポールクレルの出発に際して、見送りのために城内に入ることが許されたのはごく一部の貴族家だけだったはずだ。
しかしどこでどのような魔法を使ったのか、見送り用の広場は一部のお偉方を除けば若い女で埋め尽くされている。
クラウディアとエヴァは、ポールクレルの計らいでヒッポグリフキャリッジに最も近い場所に設けられた貴賓席へ招待されていた。
しかしクラウディアはともかくとして、平民同様の生活を送る人生設計を描いたエヴァにとって、この特別扱いは居心地が悪すぎる。
周囲の女たちから睨まれているような、いや、実際に睨まれている。
「なんで私まで……」
「エヴァだってお別れはしたいでしょう?」
「それは、……まぁ」
どうせまた卒業パーティーで会えるのでは、と言いかけて、会えない可能性のほうが高いではないかと思い直す。
ポールクレルが多忙で来られないかもしれない。なんらかの事情でエヴァが会場への入場を許されないかもしれない。
それに、アルベールがまた付き従うとは限らない――。
マテュールの屋敷で起きた事件から三日、アルベールからは「報酬の支払いは帰国してから」という旨の簡単な手紙が届いただけだ。
お互いの立場に大きな隔たりがあることも、アルベールがエヴァに特別な感情を抱かないことも、最初からわかっていた。
わかっていても、湧き上がる切なさを止めることはできないと知った。
たまに距離が近くなるような気がするのも、地下室でスカーフをとったときに見えた必死な表情も、クラウディアの語る切羽詰まったアルベールの様子も、何も特別なことではない。
メリリアの事情に巻き込んだからだ。巻き込んだ上で怪我を負わせたのだから、根が真面目なアルベールが慌てるのも無理はない。
その優しさや誠実さを勘違いすれば、馬鹿を見るのはエヴァ自身だと理解している。
「ほら、いらっしゃったわ!」
実家のエヴァの私室が四つくらいすっぽり入ってしまいそうな、王城の大きな扉が開かれた。
赤くてふわふわの絨毯を、たくさんの護衛や侍従に囲まれて歩いて来たのはポールクレルだ。
耳が隠れないくらいの長さに整えられたブロンドの髪が、日を浴びてキラキラと輝く。深い茶色の瞳が動くたびに、いろんなところで黄色い歓声が巻き起こった。
「――っ」
だが、エヴァの視線はそんな全ての存在から祝福を受ける王子様の、さらに後ろに控える影のようなダークブラウンに吸い込まれる。
ポールクレルよりも拳一つ分くらい大きなアルベールは、ダークブラウンの髪を自然におろして、風に遊ばれるがままにしていた。
その緑の瞳は真っ直ぐエヴァを見つめて動かない。
鋭く細められた瞳に、視線を引き剥がすことができず、けれども見つめられるたびに速まる鼓動がエヴァの胸を痛いほど叩きつけた。
見送りに来た多くの人々に軽やかに手を振るポールクレルに、アルベールが何事か耳打ちして、絨毯から離れる。
アルベールの動きに合わせて、人々の間にざわめきが広がって行く。
悲喜こもごもの黄色い声を意に介さず、アルベールが足を止めたのはエヴァの前だった。
「まだ、痕が残ってるな」
「ぁっ――! えっと、はい、すぐ治ると思います」
アルベールの手がエヴァの左頬に触れ、広場中から悲鳴が迸った。
この衆目の中で一体何が起きているのかと思考が停止してしまったエヴァは、思考だけでなく身体の動きも完全に止めてアルベールを見つめる。
手も、指先さえも動くことを忘れているのに心臓だけは乱暴に自己主張していて、苦しい。
頭の後ろに回された手に身体がビクリと跳ねる。同時に周囲の圧力が酷くなって、エヴァの動いていなかった脳の一部が、貴賓席を用意してもらえたことに感謝した。
エヴァの背後では、騎士団の面々が悲鳴を上げながら押し寄せる女たちを押し留めているらしい。
うめき声や、制止の声が響く。
髪をいじられた感触に、もしかしたらスミレの髪飾りを返してくれたのかもしれない、とエヴァの胸に温かいものが広がった。
あの髪飾りがあれば、アルベールのいないこれからの人生もどうにか生きて行けるような気がするのだ。
「なによアレ」
「髪飾りをプレゼントなさったの?」
「あの女はどこの誰?」
心無い声がまた響く。
ボソボソと話す言葉も、聞えよがしの声量も、全てエヴァの耳に届いて傷つける。
「ほら、ノヴェッリの」
「ああ、アルベール様に言い寄ってるとかいう」
「愛人の役どころでももらったのかしら」
「これから帰国なさって婚約者にもお会いになるのでしょう?」
「ただのプレイボーイね、つまらない男」
エヴァの顔から血の気が引く。
アルベールが悪く言われることには耐えられる気がしない。
「お美しい婚約者が待ってるのに、あんな――」
「うるせぇ!」
アルベールの吠えた一喝は、歓声に湧く広場を静かにさせた。それはもう、水を打ったように。
こそこそと悪口を並べ立てていた女たちは、またこそこそと騎士団に押し戻されるがまま最前列から引いて行った。
「エヴァ」
「ひゃぃ」
「これから先、いろんな選択がアンタに迫る」
「はぁ」
「自分の意思を大切にしてほしい。大切なことほど、自分の気持ちと意思に従うんだ」
エヴァはその言葉が具体的な何かを指しているのか、それとも人生の教訓のようなものなのか、いまいち真意を正確に読み取ることはできない。
けれども射抜くように真っ直ぐ見つめるアルベールの瞳には、エヴァを頷かせるだけの力があった。
「……はい」
「よし」
アルベールはもう一度だけ、エヴァの少し青くなった頬を撫でてから踵を返す。
クラウディアに握られた右手が温かくて、エヴァもぎゅっと握り返した。
目を細めて、高く飛び去ったヒッポグリフを眺めながらクラウディアが口を開く。
「アルベール様の婚約者の噂、実は学校でも持ち切りなの」
「そうですか。まぁ、お立場のある方ですから――」
「とても美しくて、アルベール様がメロメロになってらしたそうよ」
「お会いになった方がいらっしゃるんでしょうか」
まさかフィアンセの女性はロシュタルにも遊びに来ていたのか。それとも、メリリアでの様子を見た人物がいるのだろうか。
エヴァは、聞きたくないのに、聞かないとほっとできないような複雑な心境で尋ねる。
「一緒にいるところを見たという人がたくさんいるの。仲睦まじいご様子だったそうよ。ポールクレル殿下のような輝くブロンドに、アルベール様と同じダークグリーンの瞳」
「そうですか……」
「たしか、収穫祭の夜って言ってたかしら。あとそれに、クラン・ヴォワールでもデートしてたんだとか」
空に雲以外の何も見えなくなって、ゆっくりとクラウディアへ視線を移す。
スミレ色の瞳には、戸惑いの色が浮かんでいた。
「あの、それ……」
「わたくしは噂で聞いた以上のことは知らないわ! 真実はアルベール様しかご存じないのよ。だから、外野の言葉に惑わされてたらつまらないと思うの」
雲のように柔らかなクラウディアの笑みに、エヴァも穏やかに笑って頷いた。
王子さまたち帰ってしまいましたなぁ……。





