第31話 ふたりの分かれ道
「待たせたか」
「いえ、先ほど着替えを終えたところです」
学校の隣のアジト。エヴァは闇夜に紛れる黒の上下に身を包んで、髪を頭の上でくるくると丸めている。
濃紺の髪は布で覆わなくても十分に闇に溶けるだろう。その代わり、大切なスミレの髪飾りは置いていくことにした。
この仕事について、スパイのようだとクラウディアは言ったが、エヴァは今回初めて本来的な意味で潜入するのだ。
どうしても緊張が身体を強張らせる。
「先に今回依頼したい内容から。……まぁ、単純な話だ。地下への入り口が見当たらなかった」
「え……」
「アンタの話を疑ってるわけではねぇんだ。見張りの連中からは、王都滞在中のジャエルが高頻度かつ長時間、温室に籠っているという報告も受けてる」
同じく黒いシャツに黒のスラックスを着込んだアルベールが、窓の外を眺めながら説明する。
つられるようにエヴァも窓の向こうへ瞳を向けて、暗闇に飲まれた街の中に王城の明かりを見つけた。
「探す時間が勿体ねぇんだ。地下室への入り口がどこにあるのか、教えてもらいたい」
「わかりました」
頷いたアルベールが、雑多に乱れたテーブルの上からマテュールのタウンハウスの見取り図を広げる。
侵入予定地点。脱出後に向かうべき、逃走経路。それらの説明を受けるたびに、エヴァはのどの渇きを感じた。
いざという時には必ず、アルベールを置いて逃げるようにという言葉に躊躇いながら頷いて、ふたりは屋敷を出た。
美しく整えられた庭は、やはり薔薇はほとんど咲いていなくて、少しノンビリした遅咲きのダリアや、ビオラ、パンジーとともに寄せ植えされたスイートアリッサムが今を盛りと咲いている。
温室そのものに鍵は掛かっていなかった。
「どうだ」
「えと……」
夏場には使用していない温室も、ずいぶんと寒くなった今の季節には活用し始めているようだった。
温かい室内には、どこからともなく薔薇の香りが漂っている。
温室自体はそう古いものではないが、鉢や、園芸用品にはいくつか古いものがありそうだと当たりをつけ、モノへコンタクトを図る。
『奥だよ、奥に階段がある。でも――』
『手前の扉がねぇ、錠前がやっかいだろうねぇ』
『本棚あんだろ、奥によぉ、あれの下にさ、レバーがあるわけ』
『ドアも金属だよ!鍵がないと開かないよ!』
思いのほか、意識を持ったモノたちは多くあるようだった。侯爵夫人のミレーナが物を大切にする人物だからだろうか。
「奥にある本棚にカラクリがあるようです。ただ、地下室へ通じる扉は金属製で、錠が取り付けられています」
瞳を閉じて、モノたちの声をまとめながらアルベールへ伝える。
いっぺんに話しかけてくる彼らの声を聞き分けるには、そこそこの集中力を要するのだ。
「鍵はジャエルが持ち歩いてるかもな」
「そうですね」
頷き合って、室内を屋敷の明かりとアルベールが指先に点した小さな火をたよりに、奥へと進む。
最奥の本棚は、たくさんの植物図鑑に混じって小説などの娯楽書が並んでいた。
また、ティーセットなども準備されているため、恐らくミレーナはこの温室の中でお茶をしながら寛いだりもしているのだろう。
「これか」
最も死角になる位置に、確かにレバーがあった。
アルベールがゆっくりとそれを引けば、どこかでカチャリと何かが外れるような音がして、本棚の一部が動いた。
どうやら、下段の真ん中の棚は移動させることができるらしい。
可動式になっている棚を手前に引くと、奥に人ひとり分の隙間と、床に扉が埋め込まれているのが見える。
「あった……」
「これが錠前か」
床と扉それぞれに取り付けられた金具に、U字型の掛け金がかかって錠前機構に繋がっている。
鍵がないのなら壊すしかないのだが、果たして。
アルベールが錠前に手を翳したとき、エヴァの耳にまたモノの声が飛び込んできた。
『エヴァ、鍵、鍵、ある』
「アル、待って。……本棚の、一番上の左の小さな鉢。そう、それに」
インテリア用と思われる、手のひらサイズの鉢にアルベールの手が伸びる。
エヴァは教えてくれた古い装丁の本にお礼を言って、鍵穴に鍵を差し込むアルベールの手元を見つめた。
一秒がとてつもなく長く感じる。
アルベールの手首がくるりと回ると同時に、カチ、と小さな音が鳴った。
「エヴァ、こっから先は俺が行く。【火花】をもしアンタが見たら大変なことになるからな」
――アレは人の心を惑わす。
そう言ったのはアルベールだ。
見た者は欲望を増幅させられ、人殺しも厭わないほどに狂わされると。
「はい」
「すぐ戻る。何かあれば叫べ」
エヴァが強く頷くのを確認すると、アルベールは地下へ続く扉の向こうへと飛び込んで行った。
地下室までの階段は、そう長くはないらしい。
アルベールが明かり代わりに点した火が、ぱっくりと口を開いた穴の中でゆらゆらと揺らめいているのが見える。
それは温室の中でエヴァの影を作り出し、まさか見つかりやしないだろうかと酷く不安にさせた。
夜の庭に出てくる人物など、ほとんどいないことはわかっているというのに。
しかし、こういう時に限って普段とは違う行動をとる人物が存在するのだ。
『屋敷がうるさくなった』
そうエヴァに伝えてくれたのは誰だろう。
驚いたエヴァにはそれを確認する余裕はなかった。
目を凝らせば、確かに屋敷の方角で多くの明かりがチラチラと動いているのが見えた。
「アル! 気づかれた!」
仄かな明かりがゆらゆら揺れる穴に向かって、できるだけ声を抑えながら叫ぶ。
返事はないが、アルベールはすぐに出て来た。
「行こう。一旦、温室の裏に回ってから侵入地点を目指す」
穴から出てすぐに周囲の様子を伺ったアルベールが、まだ探索者が屋敷方向にいることを確認して、エヴァの腕をとった。
反対側の手には、黒い布で包まれた何かがある。目的の品の回収はできたらしい。あとは、逃げるだけだ。
思ったよりも、探索者の手は早い。
逃げる先々でまるで先読みでもされているかのように、警戒しながらウロウロする人影があった。
マテュールは代々国境を守って来た家だ。侍従たちもまた、手練れが多いのかもしれない。
「まずいな……」
アルベールが目を細める。
不幸中の幸いと言えるのは、追っ手の数が多くない、ということだろうか。
タウンハウスは基本的に仮の住まいだ。
いまはルシアンの通学の関係で、ミレーナとともにそれなりの侍従がこの屋敷に住み込んでいるが、それでも入り込んだ二匹のネズミを包囲するほどの数はない。
初めて訪れた人物が一人で入り込めば必ず迷子になるマテュールの庭は、それを熟知しているエヴァにとって追っ手から逃れる大切な武器になっていた。
生垣の反対側で話し声がしたとて、実際に捕獲しようとすればかなりの距離がある場合もある。
エヴァは、モノたちから得られる探索者たちの位置情報と、頭の中に叩き込んである庭の整地情報とを照らし合わせながら逃げた。
アルベールもまたそれを理解しているのか、特段何も言わずにエヴァの導く方向へ共に走った。
『エヴァ、覚えてるかい? むかーし使ってた裏の木戸をさー』
歌うような四阿の声に、エヴァはハッとして足を止める。
「エヴァ?」
古い記憶を引っ張り出す。
幼い頃、使用人たちだけが使う小さな木戸があった。エヴァはその扉が特別などこかに通じているのではないかと、わくわくしながら眺めたものだった。
現在地点からもう少し真っ直ぐ進めば、生垣でできた道は三方向へ分かれるはずだ。
それを西へ向かえば、あの木戸に辿り着く。屋敷から最も離れたその木戸は、今やその存在を知っている人物も多くない。
「こっち!」
アルベールとともに真っ直ぐ進み、記憶通りの十字路へとやって来た。
東側から探索者の気配がある。
近くの植物から得た情報によれば、最も近い探索者はエヴァ達と並行に走る通路を歩いている。
その二つの道を繋ぐこの東西に伸びる道を西へ行きたいのだが、走れば足音で気づかれるだろう。見つかればエヴァの足で逃げ切れるほどの距離はない。
とはいえここにいたって、やり過ごすことはできない。彼らがこちらへ歩を進めればもう逃げ場はなくなるのだ。
「アル、声が聞こえますね? すぐ近くに誰かいます。カウントダウンで西へ走ってください。突き当りを南に行けば右手に古い木戸があります」
「わかった」
「タイミングが重要です。振り返らず、全速力で。3、2――」
「え、おい」
「1、――GO!」
エヴァにとっては賭けだった。
アルベールの全速力がどれくらいか、この横道を西へ走って突き当りまでどれだけあるか、あやふやな予測と記憶だけでタイミングを計らねばならなかったからだ。
でも、ほんの少しでも時間を稼げれば、きっと。
カウントダウンと同時に背中を押すと、アルベールはエヴァの言葉通り一気にトップスピードに乗って駆けて行った。
それから一瞬だけ遅れて、エヴァは十字の交差点へ飛び出す。
東側から探索者たちが姿を現したのと、ほとんど同時だった。
「見つけたぞ!」
探索者の視線は、全てエヴァに注がれた。
誰も、その背後を駆け抜ける男がいたとは気づかない。
アルベールが南へ曲がるのと同時に、エヴァは北へ走る。
逃げ切れるとは思わない。けれども諦めない。突き当りまで北へ。さらに東へ行けば、数十分前に侵入に使った裏門がある。
もつれる足を必死に動かして走る。
背後を駆ける探索者の手をギリギリのところで躱しながら、北の突き当りまで到達したとき――。
「エヴァ。悲しいよ、お前がこんなネズミみたいなことをするなんて」
まるで土から湧き出たように現れたのは、ジャエル・マテュールだった。
これはスパイ! いや、泥棒!





