第19話 幻の幸せ
背に暖かさを感じて振り返ったエヴァは、窓から入る光に目を細める。真夏の刺すような日差しとは違う、柔らかな光だ。
中庭のプテレアーが、よくわからない歌をずっと歌っていたため窓は閉めてしまったが、風も少し温度を下げていたような気がした。
そうと思えばプテレアーの葉も黄色が混じっていたことに気づく。
8月の中旬を過ぎたころに夏休みが終わって、学生たちは後期の授業が始まっていた。
開催日を隔週土曜日へ変更された図書室での歴史授業は、この日がもう二度目の開講で、つまりエヴァにとって夢のようだったガーデンパーティーからひと月以上が経過している。
エヴァに依頼されたスパイもどきの仕事は週に一度のペースを維持しているが、アルベールが持ってくる古いモノたちは喋れない物も多く、目新しい情報は得られないままだ。
「で、【チコーニャ】は見つかったのか?」
エヴァの真上から声がした。
鳩尾を震わせ、心臓を鷲掴みにするような低音だが、最近ではそれらに加えてエヴァの胸の真ん中を温かくする効果も付与されている。
はっとして図書室の最も奥の棚に向き直る。頼まれた本を探すうちに、ポカポカの陽気に意識を奪われていたようだ。
慌てて、ついさっき棚から聞いた【チコーニャ】の居場所を暗唱する。
これは千年以上昔のチコーニャという家の日誌で、著者は不明。けれども古い時代の文化や風俗を知ることができる重要な資料だ。
「えっと北側の一番奥、真ん中の列、上から4段目の通路側から――」
「4段目って届くのかよ?」
「ギリギリ?」
アルベールは深い溜め息を吐いて、左手でエヴァの頭を2度ポンポンと叩いてから目的の本を探し当ててエヴァに差し出した。
「次は言えよ」
「……では4段目までは」
「5段目もだな」
「それはさすがに届きます」
「いーや、まだ危ないね」
【チコーニャ】を胸に抱いたエヴァとアルベールが横に並びながら、クラウディアとポールクレルの座るテーブルへ向かう。
どちらも不機嫌そうな表情でありながら、雰囲気は悪くない。不思議な光景であった。
「なんだか、仲いいわね」
「アルが女の子に優しくしているところを初めて見たよ」
エヴァから本を受け取ったクラウディアが目を真ん丸にしながら呟くと、ポールクレルもまた苦笑交じりに同意する。
一瞬、何を言われたのかわからなかったエヴァとアルベールは、ほとんど同時にそれを否定して、またふたりの格好のネタにされた。
「べ、別に――」
「初めてってなんだよ」
くすくすと楽しげに笑うそれぞれの主人に、エヴァもアルベールも強い否定は諦めて、定位置とも言うべき場所へ戻る。
エヴァはプテレアーのよく見える窓際の椅子へ掛け、アルベールは出入口とポールクレルの間へ。
黄色い葉を増やしたプテレアーは風に揺られてダンスでもしているようだ。きっとまだよくわからない歌を歌っているんだろう。
エヴァが異性との仲をからかわれたことは、今までに一度だってない。恥ずかしいやら申し訳ないやら気まずいやら、こんなにも複雑な感情になるのかと初めて知った。
それと同時に、ほんの少し嬉しい、とも。
日差しの温かさに心を惹かれて本棚から目を離したのは確かだが、依頼された本を取って戻るのが遅いとクレームをもらうほどだとは思わない。
それはつまり、アルベールがこちらの様子を注意深く気にかけてくれていたのだと考えられないだろうか。
届きそうもない本を自力でどうにか解決しようとするかもしれないと。もちろん、図書室にはいくつも脚立が用意されていて、自力での解決もなんら難しい話ではないのだけれども。
仲がいいかどうかの判断はつかないが、どういった理由であれアルベールがエヴァの動向に気を配っているのは確かで、その事実はエヴァの心臓を跳ねさせた。
「でも良かった。女性に優しくできなかったら、アルのフィアンセになる人が可哀想だと心配していたんだ」
「――おい」
ニコニコといつもの調子で話し続けるポールクレルに、底冷えするような冷たい声が飛ぶ。
クラウディアは驚いてアルベールを見つめ、エヴァは窓の外を眺めたまま呼吸を忘れ、プテレアーから色が消えた。
「ほら、先月だったかな。父君のラッツァリーニ卿から釣書が……」
「黙れ、ポール」
今度こそ、図書室は静寂に包まれた。
誰も動かなかった。
クラウディアが視線だけで他の3人の様子を伺ったが、アルベールはポールクレルを睨みつけ、ポールクレルはにこやかに笑い、エヴァは……。
ガタリと椅子が乱雑に動く音がして、止まっていた図書室の中の空気がエヴァを中心に俄かに動き出す。
「わ、私、お茶をご用意して来ますね」
「ありがとう。お願いね、エヴァ」
眉を下げた優しい笑顔のクラウディアの脇をすり抜けて、図書室を出る。日の当たらない廊下はひんやりとして、エヴァの心を幾分か落ち着けた。
◇ ◇ ◇
学校のカフェは、部活動や補習で訪れる学生および寮に住む学生の憩いの場として、土曜日も通常通り営業している。
カフェの商品を別の場所で飲食することは基本的に許されていないが、相手がメリリアの王子とあっては学校も強く出ることができず、こうしてエヴァがお茶とお茶請けをテイクアウトすることは暗黙の了解となっていた。
「とっても美味しいわ」
戻ってみればエヴァがカフェへ向かう前のピリリとした空気はすでになく、クラウディアが自身の失敗談を語って聞かせていた。
クラウディアはホットチョコレート、ポールクレルとアルベールがコーヒー、エヴァが紅茶。
この日は希望を取り忘れたが、大体いつもこのオーダーであるため特に文句が出ることもなく、誰もがティータイムを楽しむことができた。
「お嬢様、先ほどカフェで小耳に挟んだのですが……」
「ええっ!? もう噂になっているの?」
エヴァの小声にいつもより少し高いトーンで声をあげたクラウディアは、ホットチョコレートをテーブルに置くと両手で顔を覆うようにして「嘘でしょ」と呟く。
「おや、どんな噂が?」
「えっと、いえ、私も正確なところはわかりかねますので」
侍女であるエヴァはクラウディアへ視線を投げる。話していいか否かは、主人が決めることだ。もちろん、王子であるポールクレルが命令するならばその限りではないが。
ただ、あくまで噂を聞きかじっただけであることは間違いない。それを話して聞かせることは、誤解を与えかねないのだ。
結局十数秒ほど「うー」と唸ったクラウディアが、真っ赤な顔と潤んだ瞳で自白することになった。
「昨日のことなんですけれど、ホットチョコレートの乗ったトレーを持ってカフェで席を探してましたの。どなたかの椅子の足につまずいてしまって、目の前に座っている方にチョコレートが。
ええ、もちろん、その方にチョコレートが及ばないようにガードはしたんですのよ? ただ、彼女が広げていたノートまでは気が回らなくて……」
「あれ。そのお相手の女性はプリメラ・バリオーソ男爵令嬢?」
どうやら昨日の事件はすでにポールクレルの耳にも入っているようだ。
クラウディアは泣きそうな顔で小さく頷き、エヴァは溜め息を我慢して細く長く息を吐いた。凝りもせずドジを量産しているばかりか、よりにもよってプリメラに危害を加えるとは。
「でもでも、ダメにしてしまったノートはわたくしの昨年のノートを差し上げることで許していただきましたのよ? プリメラ様は学年がひとつ小さいですから」
エヴァは、以前にも似たような会話をしたことを思い出した。
プリメラはいつだって怒らないし、クラウディアの謝罪を受け入れてくれるのだと。
けれどもそれを許さないのは周囲の人間だ。エヴァがカフェで聞いてきた噂も、クラウディアがわざとプリメラにホットチョコレートを頭からかけたことになっていた。
「当人同士で話がついているなら問題ないでしょう。あまり気になさらないほうがいいですよ」
ふわりと広がったポールクレルの笑顔は、エヴァが何万語を尽くして慰めるよりもずっと効果的だ。
クラウディアの表情にもうっすらと安堵が見え、それはまるで道に迷ってあてもなく歩き回った先で、見知った大きな通りに出たときのようだった。
「噂話と言えば、最近どうも血気盛んな奴がいるらしいな?」
聞き慣れた、胸を温めてくれるはずのアルベールの声が、今のエヴァにはなぜか痛い。
視線を落としてカップの底をひたすら見つめていると、クラウディアが「そうなの!」と姿勢を正して最近の校内の情勢について細かに語り始めた。
いつだったかクラウディアが預言した通り、ルシアンがマテュール領の瘴気沼に対応すべく、有志を集めたいと声高に叫んでいるというのだ。
一通り話し終えたとき、ポールクレルとアルベールは顔を見合わせて、小さく頷き合った。
ポールクレルくんはアルベールくんをいじるのが大好きなのです。





