第16話 虚構の令嬢
赤や緑の鮮やかなアレコレを乗せたパン――ブルスケッタをふたつ皿に乗せて、少しずつ会場の隅を目指す。
見た目が華やかになろうと中身はそう簡単に変わらないのだ。アルベールは挨拶に忙しいようだし、エヴァは壁の花でいることが好きだった。庭には壁がないのが残念なほどに。
「はじめまして、美しいブロンドのお嬢さん」
耳当たりのいいテノールに顔を上げれば、エヴァでも知っているプレイボーイだった。
伯爵家の次男だが、兄は無能だから自分が爵位を継ぐんだとか嘘だか本当だかわからないような話をしながら、女性を口説くのだと聞く。
顔がそこそこいいせいなのか、女性の扱いがよほど上手いのか、巷で噂になってるよりもっと多くの女性がこの男と関係していると、エヴァはモノに教えてもらったことがある。
「はぁ……」
バイエの名であれば無視を決め込んでも良いのかもしれないと思いつつ、権力や威圧的な態度に強く出られないエヴァは、曖昧に返事をしてしまう。
それに彼がいかにプレイボーイであろうと、エヴァにその矛先を向けるとも限らないのだ。
「ラッツァリーニ卿はお忙しそうですな」
「ええ、皆さん彼とお話をしたいようで」
「僕もね、友人が好きな女性と二人きりで話がしたいんだと僕を置いていってしまって。良かったらお互いに友人が戻るまで話でもどうです」
プレイボーイが流した視線の先では、若い男が妙齢の女性と楽し気に話していた。
隙間時間の暇つぶしか。それくらいなら構わないだろうか。
「あ――ふぇぁっ」
返事をしようと顔をあげたエヴァの肩を、後ろから抱く人物。
「失礼。こちらは戻りましたよ」
立ち去るプレイボーイの背中を見ながら、アルベールがエヴァの腕を掴む。
「どこへ行くつもりだ」
「え……っと、あんまり真ん中にいるとバレちゃうかなーなんて……」
「堂々としてるほうがバレねぇんだよ」
それはそれは優しい笑顔で、確かに遠縁の娘さんとお話をするならそんな表情になるだろう、と誰もが納得する朗らかな表情のまま、アルベールは背筋の凍るような冷たい声を発した。
なるほどこれは演技派だ、とエヴァは肩を落として壁の花作戦を諦めることにした。
「ミレーナ様を騙してるような気がして胃が痛いんですけど」
会場に入ってすぐ、パーティーのホストである侯爵夫人のミレーナへ挨拶をした際には、絵に描いたような二度見を披露してもらった。
が、ミレーナはすぐに冷静さを取り戻して、エリザベト・バイエを手厚くもてなしてくれたのである。
「気がするんじゃなくて騙してんだけどな」
俺たちがやらせたことだからお前にはなんの責任もないぞ、くらい言ってくれればもう少し気も楽になるというのに。
アルベールはエヴァも同罪だと言わんばかりである。
権力者というのはいつもそうだ。下々の人間を巻き込んだり使い倒してから、立場が怪しくなるとすぐ逃げる。
けれどもそれくらいの不公平は飲み込んでいないと、弱者はこの世を生きていけない。ポールクレルはアルベールへ、アルベールはエヴァへ。より立場の弱い者に転嫁しながら世界は回るのだ。
エヴァが頬を膨らませながら周囲を見渡すと、思いのほか若い女性が多いことに気づく。
クラウディアの説明では、急遽パーティーの規模を小さくしたから年配の有力者ばかりになるのではないかという話だったのだが。
「あぁ。ポールクレル様、取り囲まれてますね。アルベ……アルは助けに向かわなくていいんです?」
二つくらいテーブルを挟んだ先で、年若いお嬢様方に囲まれているのは砂糖菓子王子だ。あの人だかりの中でも、砂糖菓子が群を抜いてキラキラしていることは誰の目にも明らかだった。
あの中にこのコーヒーみたいな苦い男を連れて行ったら、お嬢さんたちは逃げるだろうか、喜ぶだろうか。
「俺たちが動きやすくなるように気を遣ってんだろ」
「なるほど」
つまりコーヒーをお出しすれば喜んでしまうということだ。
では今日くらい、エヴァが独り占めしてもいいだろう。あのお嬢さんたちには地位も能力もあるはずで、少なくともエヴァよりも、堂々と想いを伝えることができるのだから。
「ついてるぞ」
「あ……」
不意に伸びた長く節くれだった指が、エヴァの口の端を拭った。一瞬視界に入った指先の赤は、すぐにアルベールの口元へ運ばれて消える。
周囲がざわめく。どこかで悲鳴が走った。
「ちょ」
「リズ、一曲お願いできますか」
「――ッ!!」
頭の先から指の先まで、アップルローズタルトなど目じゃないほど真っ赤になったエヴァは、息をするのも忘れて鯉のように口をパクパクさせた。
好きな相手が、口元のトマトソースを拭きとった指を舐め、腰に手をまわして体を引き付けるなどした挙句に、ダンスに誘ったのだ。
それは十分、呼吸を忘れる理由になり得るというのに、呼ばれた名が偽名であるという事実は、浮かれた心をひっくり返すだけの攻撃力があった。
「ええ、是非」
どれだけ喜んでも、それはエヴァ=リタがしてもらったことではない。どこかの伯爵令嬢エリザベト・バイエだから、優しくしてもらえたのだ。
悲しい、嬉しい、悲しい。自分でもコントロールできなくなった胸の鼓動を、大きく深呼吸して無理やり落ち着けてから微笑んだ。
「ダンスの練習が足りないようだな」
「すいませんね、へたくそで」
アルベールのリードは、エヴァが今まで踊った誰よりも上手かった。まるで自分のダンスが上達したかと勘違いするほどに。
けれどもそれはやはり勘違いで、しっかり落第という評定が返って来る。社会に出てしまえば、ダンスを練習するような時間などないのだから仕方ないのだ。仕方ない。
へたくそついでに足でも踏んでやろうかと思いながらも、結局実行には移せない自身の小者ぶりを恨んでいると、アルベールがエヴァの耳に口を寄せた。
「アンタってさ、従順というか、自分がないよな。やれと言われたことは全部やってる」
「そっすね」
言われずとも、エヴァが最も自己分析のできている部分だ。
すべては、受け入れられづらい能力を持ってしまったことに起因する、無能思考。
「もっとくっつけって言えば、くっつくのか?」
「ふぁ!?」
エヴァが驚いて顔を上げるのと、アルベールがエヴァの腰を寄せたのは同時だった。これはくっつけと言われてくっついたというより、ほとんど不可抗力だ。
アルベールは言葉を続ける。
「アンタに声を掛けたがった男はさっきの一人だけじゃない。見えるか? もう少し自己防衛も覚えといたほうがいいぞ」
さりげなく顎で指し示してから、エヴァにも見えるようにターンをした先には、確かに複数の男性がエヴァを見ている、ように見えた。
「ええ、気をつけます。ただ――ご心配いただかなくても、いつもの私なら声を掛けられることなんてありませんから。リズでいるときには、守ってくださるのでしょう?」
心臓の音が、いや、早鐘を打つその動きが、相手に伝わってしまうのではないかと気が気でないエヴァは、ほんの少しでも体を離そうと身じろぎした。
ご心配いただかなくても、貴方以外の誰に声を掛けられようとその手をとることはありませんからと、言える立場だったなら、何か違っただろうか。
本当にエリザベトだったなら。
アルベールの返事はないまま、ただステップを踏む。この時間がいつまでも続いてほしいような、すぐにも終わってほしいような、複雑な心境のままで。
「遊びは終わりだ。仕事すんぞ」
「はい」
曲の終わりと同時に発せられたアルベールの言葉は、エヴァをほっとさせた。
幸せが虚構であるとわかっていても、長く続けば抜け出しがたくなる。いつまでもその手に触れていたくなる。
どうせ手に入らないなら知りたくない温もりがある。
『エヴァじゃないか、エヴァだろ? なんだかいつもと雰囲気が違うなぁー』
意識を切り替えてモノたちの声に耳を傾けたとき、早速飛んで来た誰かの声を、エヴァは東の四阿だと当たりをつけて歩き出した。
「おい」
「アル、あちらで休憩させてくださいませ」
扇をパタパタと振って四阿を指せば、アルベールも頷いてエヴァの腰をとる。
あくまでも近しい間柄を演じるつもりでいるらしいアルベールに、閉じた扇を握り締めながら深く息を吸って平静を装うのだった。
伯爵家次男君に口説く隙を与えない敏腕護衛アルベール様でした。





