第1話 平和の終わり
誰にだって、ひとつやふたつは心に残る出会いのシーンというものがある。
去年のあの日。初夏というには爽やかさに欠け、盛夏というにはまだ本調子ではない時期。マテュール侯爵の元にワインを届けたエヴァは、美しい庭が見たくて屋敷の裏へ回った。
呼びつけた本人が他の客人の相手をしている旨を告げた侯爵夫人が、お詫びにお茶でもどうかと声をかけるのを断り、庭へ立ち入る許可を得たのだ。
マテュール家のタウンハウス――貴族の王都における仮の住まいだ――は、タウンハウスと思えないほどの広さを誇っている。初めて訪れた人物がもしひとりで散策したなら、きっと迷子になるだろう。
だからエヴァは声を掛けた。スラリと背の高い男が、屋敷へ戻る方向を見失ってしまったのではないかと思って。
振り向いた相手は、ダークグリーンの目を見開いて息を呑んだ。その驚いた表情に、何か邪魔をしてしまっただろうかとエヴァが立ち竦む。
コミュニケーションが上手でないこともあるが、その男から一瞬殺気が放たれたような気がして次の言葉が出なかったのだ。
いや、それだけではなかったはずだと後から振り返って思う。
瞳をふちどる長い睫毛、高く通った鼻筋に大きくて薄い唇。新進気鋭の画家ガーフィーの描く美女もかくやというほど整った造形と、鋭い視線とのアンバランスさにエヴァは見惚れた。
ふたりの間を、ひんやりした風が通り抜ける。
夏だというのに、そのときばかりは身震いをした。ひんやりしたと思ったのは、体の震えを風のせいにしただけかもしれない。
ただ吹き抜ける風が運んだ薔薇の香りも、サラサラと流れるダークブラウンの彼の髪も、きっと生涯忘れないだろうとエヴァは思う。
相手がふっと小さく息を吐くと、エヴァもまた、まるで金縛りから解けたように体から力が抜けた。
そのまま頽れてしまいそうなのをどうにかこらえていると、男が口を開いた。小さな声なのに、まるで耳元で囁かれているみたいによく通る低音だ。
「この家に娘はいないと聞いていたが。アンタ……クラウディア?」
「いえ、ただの幼馴染です」
思いのほか優しい声音にホッとすると同時に、目の前の男が学校で話題の人物アルベール・ラッツァリーニであることを認めた。
隣国メリリアからやって来た王子ポールクレル・アボンディオの、護衛の騎士だ。
エヴァも校内で何度かその姿を見かけたことがあったが、それはいつも黄色い歓声に眉根を寄せて迷惑そうにする姿ばかりだったため、こんな風に柔らかな表情をするのは意外だった。
「幼馴染ね……。なぁ、この庭の奥に何があるか知ってるか?」
「奥様、ええと、侯爵夫人のミレーナ様のお気に入りの温室でございます。薔薇がお好きで、冬にも楽しみたいと。だから今の時期は――」
『アル、もう耐えられないよぉ』
話しながら、エヴァの耳はモノの声を聞きつけてしまった。
耳を傾けてみればそれは彼の愛用の剣の声で、アルベールの装備が万全な状態ではないことを訴えているようだ。
「……どうかしたのか」
「あ、その……私、装備とか詳しくないので間違えていたらごめんなさい、もしかしたら、剣帯というんでしょうか、切れかけている、かも、です」
「は?」
アルベールの問うような視線に耐えきれず、わかりやすく落ち着きを失ったエヴァは「ごめんなさい」と叫びながらその場を走って逃げだしたのだった。
◇ ◇ ◇
エヴァ=リタ・ノヴェッリが、屋敷で5本の指に数えるほど高価な食器を磨きながら顔を上げると、戸棚のガラスに映る世にもつまらなそうな顔をした女と目が合った。
なぜあの日のことを思い出したのかはわからない。日頃から思い出さないよう心の奥にしまってあるはずなのに、ふとしたときに顔を出してエヴァを困らせる。
「あんなに怖いお顔をして、でもほんとは優しいなんて卑怯」
あの日、薔薇の中にいたあの男は、日々の訓練を思わせる所作で葉の1枚も落とさずにいた。
足元の小さな虫にも気づいていた。
気づいていたということは、尊重したということだ。1枚の葉を。小さな虫を。
家に帰り、強面の男との邂逅を思い返したとき、エヴァは護衛騎士という肩書や普段の険しい目つきに、アルベールという男を誤解していたのではないかと思い至った。
そのギャップは間違いなくエヴァの心をときめかせたが、それと同時に彼我の立場の差を思い出して、結局、無かったことにしたのだ。
国が違う、家格が違う、能力が違う。どこをとっても、まず知人にだってなれやしないほどの高い壁が存在しているのだから。
学校を卒業した今、有力貴族の屋敷で働くただの無能な侍女と、隣国から来た王族の護衛騎士との間に接点など逆立ちしたって生まれようはずもない。
青い薔薇が咲いたり、犬が逆立ちをして王都を一周したりするほうがまだありそうな話だ、と肩をすくめる。
「平和だ……」
平凡な日常をこよなく愛するエヴァですら、この屋敷における侍女としての日々は退屈だというネガティブな思いが優勢だった。
厳しいけれど真面目な当主に仕える侍従たちは、やはり厳しくも実直で、働き始めて日の浅いエヴァを手厚くサポートする。
エヴァが専属で付いている末女のクラウディアも、子猫のように気まぐれではあるものの、侍従たちにも思いやりを持って接する人物だ。
彼女のドジが度を過ぎることがしばしばあるのが、エヴァの平和な日常に彩りを添えているといえばそうかもしれないが。
平和すぎるほどに平和な日々が、余計なことを思い出させるのかもしれないと溜め息を吐く。
けれども、人生の転機というのはこんなありふれた朝にこそ、訪れるのだ。
「エヴァッ!」
「ひゃーっ!」
立派なお屋敷の分厚い絨毯と重厚な扉は、小柄なお嬢様の走る足音などほとんどエヴァの耳に届けてはくれなかったし、誰もお嬢様がエヴァを探して回っているよとは教えてくれなかった。
突如大きな音をたてて開けられた扉と、ほとんど時を置かずに叫ばれた自身の名に、驚いたエヴァは慎重に慎重を重ねながら拭き上げた食器を取り落としかけた。
ガチャガチャと嫌な悲鳴をあげさせつつも、どうにか手の中の食器を粉々にして生涯ただ働きという不名誉な状況にならずに済むと、エヴァは高鳴る心臓を押さえながら諸悪の根源を睨みつける。
「こっ、今度はなんだって言うんです? またなぜか枕が破けて羽毛が飛び散った? それとも肘に当たったインクボトルが飛んで行ってガーフィーの絵を塗りつぶしたとか?」
ピンクとオレンジを混ぜ合わせたようなベゴニア色の髪は、起き抜けのままブラシのひとつも入った様子がない。夜着に素足という出で立ちは、お嬢様が目覚めた瞬間走り出したことを物語っていた。
「ガーフィーの絵はお父様に取り上げられてしまったから大丈夫。って、そういうことじゃないのよ! エヴァ、お願い、すぐに部屋に来て」
すぐよ! と叫んでまた走り去っていく後ろ姿に、エヴァは大きく溜め息を吐きながら食器の拭き上げを完了したことにした。
エヴァは田舎貴族の長女で、王都の高等学校を卒業してすぐにこのサルトリオ邸で奉公することになった。
サルトリオ家は、ロシュタル王国においてはそれなりの発言力を持つ王領伯家――王の側近として政務を担当する――で、伯爵夫妻と嫡子のトビア、そして年の離れた娘のクラウディアという家族構成だ。
クラウディアはエヴァよりもひとつだけ若く、ポヤポヤした性格で……たびたび、本当に度々、事件を起こす。
そのほとんどが奇跡とも言えるほど運の悪いアレコレが重なって起こり、本人に悪意は皆無なのが逆に周囲の人間の頭を痛めさせていた。
ワゴンに紅茶のセットと朝食用のサンドイッチを用意して、クラウディアの部屋をノックする。
クラウディアは決して朝寝をする人物ではないが、伯爵のドナテロやトビアは早朝に起きてさっさと城へ出仕してしまうので、太陽が体の全てを家々の屋根の上に乗せるころには、屋敷の中は落ち着きを取り戻していた。
「エヴァ、心して聞いて」
「どうぞ」
クラウディアに半ば押し倒されるようにして椅子に座らされたエヴァは、先輩侍女が間違えてノックもせずに扉を開けてしまわないことを祈りながら、クラウディアの言葉に被せるように促した。
ベッドは、クラウディアが物凄い勢いで飛び起きたことを如実に表しているし、カーテンは半開き。
夜着の上にかろうじてガウンは羽織っているものの、どうやったらそうなるのか裏表が逆だし、テーブルの上にはサンドイッチだって並べ終えていないのだ。
こんな状況のまま、お嬢様の前でのんびり椅子に腰かけているところを先輩に見られたら、大目玉だけでは絶対に済まされない。
「わたくし、悪役令嬢なの」
「へぁ?」
「わたくし、前世の記憶を思い出したの!」
瞳を閉じて深呼吸をする。部屋の中はとても静かだ。
聞き違いということは考えられない。
「なんですか?」
「だから、わたくしは前世の記憶を思い出したのだけど、どうやら悪役令嬢のようなの」
そう語る琥珀色の瞳はよく見れば潤んでいて、いつも朗らかなクラウディアの表情が今朝は珍しく憂いを含んでいた。
明日から数日は1日2話ずつ更新予定ですー。
どうぞ今後ともよろしくお願いいたします!





