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少年期14

 彼女はアドルフとの間に三メーテルほど距離をとり、子分であるヨゼフに試合開始の合図とカウントを数える役目を押しつけた。そしてふたりの周囲を、他の孤児たちが取り囲む。


「こんなとこでいいな? そんじゃ始めろ!」


 アドルフの反対側に移動したディアナは、大声を張りあげながら指をポキポキ鳴らしだす。


 たいするアドルフは、対峙する自分たちを他の孤児たちの目線で眺めてみた。

 両者がぶつかり合う発端は、アドルフがディアナを激怒させたことらしい。しかしアドルフは自分の非を認めず、謝罪を拒み、喧嘩で決着をつけるよう申し出た。


 問題はふたりの力量差だろう。ディアナはだれもが一目置くような〈施設〉の悪ガキ。ドワーフで体力もある。人狼のアドルフはこれとは真逆の存在。普段から図書室に入り浸っているらしく、子供たちとの交流もほとんどない。脚にハンデがあること以外、得体の知れないやつ。


 ひょっとすると、自分から喧嘩を売ったからには自信があるのだろうか。それでもディアナに敵うとは到底思えない。


 そう、もしも孤児たちが賭けをできるなら、この場にいる孤児の全員がディアナに張っただろう。杖という武器はあるが、それがどれほど効果的か。


 しかしむろんのこと、アドルフには確かな勝算があった。その見込みと確信は、おそらく脚にハンデを負った彼以外には持ちえないだろう。


「――勝負開始!」


 ほどなくしてヨゼフが声高に叫んだ。はっきりと裏返った声だが、即座に応じたのはアドルフではなかった。


「貰ったぜ!」


 勢いよく飛び出しながら、上半身を左右に振ってディアナが直進する。アドルフの杖を警戒しつつ、その杖を防御に使わせ、すかさず懐に飛び込みながら奪い取る。そんな戦術が透けて見える攻撃だ。


 だがアドルフは、相手が杖の無力化を図ることは百も承知だった。したがってその場で一回転しながら突進をいなし、がら空きになっている額をしならせた杖で突く。


 これをすんでの所で躱したディアナだが、アドルフは意外にも接近戦を演じだした。杖の長さを利用しつつも、巧みに間合いを測り、狙い澄ましたひと突きをくり出す。そんな定石を破ったアドルフは、もう一度相手の頭部を狙った。片足を回転させながらバレエのような舞を踊り、人間の急所、眼の辺りに突きを入れる。


 そう、同じ接近戦でも、攻防は驚くことにアドルフの間合いとなった。


 しかしのっけから主導権を握られ、戦術を狭められるのは是が非でも避けたいだろう。自分の間合いを奪い返したいディアナは、ここでさらに足を進め、より近距離に迫る。


 するとアドルフは、回転しながら急いで後退し、今度は杖という長いリーチで彼女の下半身を突く。杖の先に埋め込まれた金属部分が膝上に突き刺さり、ディアナは激痛に顔をしかめた。筋肉のつなぎ目という、人間の弱点を的確に打ったのだ。


 戦いがはじまってまだ一〇秒足らずだが、ディアナ優勢と読んでいた孤児たちは息のをのみ、その劣勢な空気は当然ディアナにも伝わる。


 いったいなぜ、彼女が遅れをとることになったのか?


 大前提として、健康な人間は読み損なうのだ。脚に障害をもつ者が、どれほど杖に扱い慣れているかを。それはただの道具ではない。日々のくり返しで馴染んだいわば体の一部である。


 剣術の達人は刀剣を自分の一部として扱うというが、熟練した障害者は、そのような卓越した領域へと半ば必然的に到ってしまうのだ。


 それをおのれの強みと認識できたのは、長年ハンデを負い続けたアドルフ以外にいなかった。よって彼は、明らかな弱者であるにもかかわらず、自分に勝機があるという確信を戦前に持てたのだ。


 とはいえ彼は、絶好の優位に驕らない。自分が杖を使うかわり、ディアナに武器の使用を促したのも、彼女が強者のプライドの持ち主で、その申し出を断ることを織り込みつつ、戦後に卑怯者と呼ばれる余地をなくすためであった。


 そこまで計算高くありながら、現状に浮かれるわけがない。アドルフの考えでは、ディアナはいま、認識にミスが生じているだけなのだ。杖という獲物との距離、すなわち間合いを、彼女はまだ掴みきれていないが、喧嘩慣れした彼女がそれを掌握するのは時間の問題。


 アドルフはその時間を三〇秒から一分の間と読んだ。裏を返せば、攻防が一分を超えたら、自分の優位は消滅する。よって彼は、わずかな残り時間で痛恨の一撃を浴びせることに神経を集中する。


 むろん、両者を円形に取り巻く孤児たちは、そんなふたりの駆け引きを知る由もない。ディアナの子分は彼女の不利に驚き、それ以外の子らは大番狂わせの予兆にどよめく。


 だれも怒濤のように攻め立てるのがアドルフのほうだと予想もしていなかった。おかげで食堂はかつてない熱気に包まれるが、アドルフはそのだれよりも慎重に次の手を放った。


 ――急所で仕留めたいが、たぶん防御がまさる。となれば、あえて同じ手を打つ!


 戦闘の行方を瞬時に思いつき、手薄な箇所を杖で突いた。ディアナの防御が弱くなる、またしても膝上の部分だ。


「……てめぇ!」


 ついに痛みに耐えかねたのか、ディアナが苛立たしげな叫び声をあげた。それでいて、強引にアドルフの杖の向こう側に踏み込むような真似はしてこない。


 なぜか? 力で押し切ることもできたはずだ。


 ――ふむ。想像以上に脚を痛めたのが効いておるな。


 そう、踏み込みたくても踏み込めないのだ。もし全力で飛び込んだつもりでも、踏み込みが浅ければ逆に返り討ちに遭う。それを敏感な嗅覚で察すればこそ、ディアナは無茶をしてこない。彼女としても、いまはアドルフのミス待ちというのが本音だろう。


 ――さて、ここからの仕上げだが、やつは我の隙を狙う気でおる。だとすれば、ノーミスで決めたい。


 正直なところ、アドルフが戦況を優位に進めたのは杖の扱いが抜群に上手かったからだ。しかし勝負を決するのは体のぶつかり合い。杖だけで攻めれば単調になり、やがて見切られる。


 アドルフとしても、自分が苦手なことをするのはためらいがあった。ディアナを地面に叩き伏せたいが、そうするイメージがなかなか持てない。


 ――やむを得ん、誘い出すか。


 戦闘時間が三〇秒を過ぎ、タイムリミットが段々迫ってくる。これ以上悩んでいる余裕もないと判じたアドルフは、いったい何を思ったか、右手に握っていた杖を床に放り出した。


「これはもう要らん。最後はこの拳で決着をつけてやる」


 大して強くもないのに、口先だけは凄かった。食堂の観衆は、その大胆不敵な台詞にしびれあがった。その証拠に言葉にならない歓声が自然と沸きあがる。何しろこの場には、ディアナの子分ではない連中もたくさんいるのだ。


「やっちまえ、アドルフ!」


 だれかの声が聞こえた。名前はわからない。けれどそいつは、この瞬間アドルフの味方だった。


「行けっ! ぶっ飛ばせ!」


 またしても聞こえる。何人かの声が重なりあった叫び。そのどれもが、アドルフの背中を押している。


「クソ、てめぇら、ふざけやがって!」


 とうとうその声たちに、ディアナがぶちキレた。喧嘩を買っておきながら先手を打たれ、不慣れな攻防に耐えかねていただろう。その鬱憤がついに爆発したのだ。


「覚えてろ、お前ら。あとで全員ぶっ飛ばしてやる!」


 そう吠えた刹那、ディアナが猛然と前進をはじめた。

 前進といってもそのスピードは速く、アドルフは一瞬、意表を突かれてしまう。


 だがこのとき、いくつかの偶然が重なった。強烈な踏み込みで懐に飛び込むディアナだが、その出足がなぜか急激に鈍ったのだ。(続く

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