作る 三日目
処理しきれないような『女神』の話を聞き、それでもシュウはいくらか眠った。寝ている間、ずっと夢を見ていた。
夜が明けて、イベントは三日目になった。今日はほぼ一日ピアノを使うスケジュールが入っていて、夕方まで客には開放しない日になっている。午前中にクロエの講義があるのでそれを聴講して、その後は夕方までの間、気分転換に離れの会場を見に行こうと思った。
『女神』の話はシュウの中の広範囲に張りついている。だが、外の陽の下で過ごす間はいくらか気持ちが切り替わる気がした。
*
七年ほども見ていなかったクロエの姿は、意外にもあまり変わっていなかった。声も受話器越しだと変わったと思ったのに、対面だと記憶にまったくたがわない。
「みなさんは日頃音楽をしていますか? どちらの方もいると思います。でも音楽って何か。好みはあれど、音楽そのものが嫌いな人は多くないのではないか、と私は思っています。誰しもの身近にありますが、いざつっこんでやるのはなかなかに大変です。理論も歴史もある――もちろんなんだってそうなんですが」
簡単な自己紹介をしたのち、こんな滑り出しで、クロエはよどみなく話す。
「音楽の楽しさ、本質ってなんなのか。堪能するために何かポイントがあるのか……。今日はこのあたりがテーマなんですが、その補助線としてまず、苦しいやり方による心身ともの故障の可能性と、対極的な癒しについての話を先にします」
クロエはなかなかに突っこんだ話をしていて、それを少なくない聴講者が頷きながら聞いている。シュウはストリートピアノに触れる人々の表情を思い出し、聴講者たちもそれに似た充足を感じているのかもしれないな、と予想した。
疾患についての部分で、腱鞘炎、手根管症候群などピアノに限らない一般的なものをあげながら、ジストニアのことも語る。シュウは緊張でつばを飲みこんで聞いた。クロエの語り口は軽いままで、自分も罹患者で治療しています、とさらりと付け加えていた。
「ジストニアは筋肉や神経のような体の問題とは違って、脳の病気です。小説家の『書痙』、ゴルフの『イップス』という病気がありますよね、あれと関連があると指摘されています」
クロエはなめらかな美しい手つきで、五本の指を曲げ伸ばして見せた。基本の音階を弾いた指使いだな、とシュウは見定めて、頭の中の鍵盤が同時に鳴った。
「不思議なんですが、ピアノを弾こうとしたとき、つまりは自分の本分ことにしか症状が現れない傾向があります。日常場面とか、ピアノを弾く動きの真似はスムーズにできるんです。クラシックギターだと症状が出るのにエレキギターだと出ない、なんてことまであるらしいです。だから脳の病気です」
疾患の話を終えて、癒しについての話に変遷した。音楽療法についての引用が多い。いつの間にかそんなことを学んだのか、シュウは全く知らない話ばかりで興味深く聞いた。
短い講義時間はあっという間に折り返して、「本題に戻ります」とクロエは言った。
「さて……音楽の本質、そして楽しみについて。まずは有名な指揮者の引用なんですが――音楽とは基本的に音符の集まりです。でもわくわくしたり悲しかったりと伝わってくるものがあるのは、そういったことを表現しようと、作曲家が込めたものがあるからです。わざわざ素敵なタイトルをつけるのもその一部ですね。音楽家が込めるものとは言葉や物語ではなくて、もっと心そのものというか、その揺らぎ、情動的なものです」
クロエの声と言葉が耳に心地よく、聞き入った。
「音楽をきいて何か心に想起されるものがあるというのは、その音楽をわかったということです。わかったとは、その音楽からもたらされるものを豊かに感じ取ることができるということ。そしてそれは言葉では言い尽くせない、無限のものであって、しかもひとによって異なるところが素晴らしいんです――とその指揮者は講義しました」
クロエがにこりと微笑んだ。
「私はその言葉に非常に感銘を受けました。だから音楽、それに限らず芸術は、わかるわからないなんてよく言いますが、言葉をより適切に組み替えれば、『感じる』『考える』というものかと思います。ひとつの答えや言葉に収斂できない、永遠に解けない『なにか』……。それを芸術は内包しています。聞くだけでわかる浅い層のものもあれば、自ら演奏者として真剣に対峙することでしか触れられない深層のものもありますが、その『なにか』について感じ、考える。それが音楽を楽しむということではないでしょうか」
講義はそろそろ終わりの時間だ。
それから最後に付け足しみたいなんですが、とクロエは言う。
「音楽は体験であり、情動です。自分の内側をうつします。だから自己表現や自分との対話、研鑽という要素を持ちます。時に作曲家の意図を丸ごと放棄したような演奏をさせるほど、演奏者の心理、情動は演奏に張りついて現れるものです」
シュウは、目が合わないクロエが、心は自分に傾けているに違いない、と思った。
「上達を目指す心理は当然のことです。ただそれとまったく並列に、どれほど拙い技術であれ、『その音楽をもっとも上手く表現できるのは自分』とか、『どんな演奏であっても自分は大丈夫なんだ』という気持ちが不可欠だと思います。前提というほうがいいかもしれません。その上に、変化や上達、幸福という、音楽の果実があります。それだけでもぜひ覚えて帰っていただければとても嬉しいです」
ありがとうございました、と括ってクロエは軽くお辞儀をする。ささやかな拍手を浴びて、それがやんだ頃、ようやくシュウと目が合った。
*
夕方になって、クロエが詰め所に現れた。
「おつかれ」
クロエはペットボトルのジュースを二本、手に持っている。そのうちの一本を、水滴を拭ってシュウに渡した。
「ありがとう。クロエこそ、講義すごいよかった」
「そうか? 市民向けには親しみにくい話かなとけっこう迷ったんだよ」
音楽がひとにもたらすもの。シュウは様々な恩恵を受け取って、そのちからにいつも頼って生きているけれど、まったく言葉にできない。そのとらえがたいかたちの断片を、クロエは間違いなく声に乗せていた。
「まあよく聞いてくれてるひとが何人かいる感じだったし、ほっとしたよ。普段こんなことしないから緊張したけどな」
クロエの積み上げた学びには、別れてからの長い月日を感じる。音楽とともに生きるために、クロエはたくさんの手段を試みているのだろう。
「緊張してたとは思わなかったなあ。堂々としてて格好良かった」
クロエはすっきりとした解放感をにじませて、「まあな」と応じた。「ああいう、言葉で改めて言う機会っていうのは良かったかもな」
その視線がふいと動き、ピアノを一瞥してからシュウのところへ戻ってくる。
「おまえの番だな」
楽しみだったんだ、とクロエは言った。
ちょうど誰も弾いていない。若い女性がひとり、遠巻きに見つめているだけだ。弾きますか、と一応ジェスチャーしてみたが、女性は焦ったように手と首を振って否定した。
シュウはなんとなく急いで椅子の高さを調整した。隣に立ったクロエが、柔らかい視線でシュウの表情を見つめている。
緊張で、つい吸いすぎてしまう息を吐くために、クロエに宣言した。
「ぜんぶ弾くから」
「うん、ぜんぶ弾けよ」
深く吐けば、深く吸える。鼻腔から入って尻の底まで、呼気が体に一本の筋をつくったことが感じられた。
ああこれは弾ける、という確信が、左手の第一音から駆けのぼってくる。
一曲目――長く放物状に伸びる清らかな音に乗せて、繊細な変化を伴う連符を転がす。変化の中に、それぞれの表情をはっきりと見ることができる。学ぶことの退屈さと、疾風のような反発力にまなざしを寄せる。
二曲目――左腕を体の重みのままにしならせる。静かな低音は「優しくちょっと不器用に」。象のぬいぐるみの長い鼻の動きが、指先越しに優しい憧憬をもって浮かんでくる。眠りに落ちる瞬間を優しく見守るイメージをする。
三曲目――均整で軽快な和音が、自由な気まぐれに満ちている。この跳ねるさまや滋味深い中の伸びやかさを、クロエならどう表現するのだろうと思った。それを追いかけてシュウの演奏が少し、ほかの誰かの手で軌跡を作ったような不思議なぶれを生じたのを、クロエも味わった。
四曲目――優しくメランコリックな心象風景を、均質さを帯びて降る外の雪がつくる。外を眺めることをよく知っていた。水無月が弾いたこの曲には、暖かい室内で、子どもを見守るまなざしがきっとあった。思い出せない演奏の中から、しかし表現を確実に拾いだそうと追い求めた。
五曲目――寂しく静かな単音の旋回と、それを支える景色に聞き入る。深い呼吸の合間に、音楽の息吹がする、と思った。つい最近も弾いた曲に、あの日よりも切ない願いを込める。朱の前途と『女神』の決意に思いを馳せた。沈むことの定められた夕景に、ひとつの星を見つけるように。
そして六曲目。陽気な笑いの音楽はこの作曲家には珍しいが、この曲集ではもっとも有名であろう曲だ。切分されたリズムで始まる滑稽な人形遊戯は、これまでの曲より少しジャズ風に大人びている。明るい楽しさを喚起して、気の向くままのどんな揺らぎも受け入れるようなつくりの音楽だ。
中間ではゆったりと歌いだす。そこには「崇高な愛のあこがれの動機」さえも含まれていながら、観客のくすくす笑いを誘うばかり。シュウはこの、セデとア・テンポ――ゆるやかになっては最初のテンポに戻ることの繰り返しと、それが最初の旋律に戻っていくあたりが好きだった。
曲想が最初に戻り、曲の終わりに向けてまた陽気におどけた躍りを指先で描く。
笑いや、滑稽さや皮肉の中に、音楽のちから強さも難しさも含んでいる、と思った。奏でる人間をいつも楽しませ、すべてを知った大人だと、不思議な全能感を与えてしまうようなちからを、シュウはこの曲から初めて感じ取った。そして、最後の「オチ」と言わんばかりの音は、それを自ら消させて、ひとりの人間にすっかり戻って終わることができる。
最終音を叩いたシュウの両手が跳ね上がり、からだのつくりのままにゆるやかに降りる。シュウとクロエは楽器内の震えが消えるのを聞き遂げてから、ぱっと目を合わせた。
クロエは賞賛のために口を開こうとして、シュウの表情に、言葉を変えた。
「――自己評価をどうぞ、シュウ」
「ええ? なんでだよ」拍子抜けしたような声は高揚で上ずっている。「よかったでしょ?」
一連の演奏とこの声を忘れまい、とクロエは思った。
「うん、よかったよ。ちゃんとドビュッシーらしさもあったし、『子どもの領分』を弾いた、っていう演奏だったな」
嬉しいという気持ちを全身から放出する様子は、クロエが初めて見るシュウの姿だ。
「……おまえ、あの言葉をずいぶん気にしてたんだな」
「そりゃもう気にしたよ、ずっと。あのとき俺にはピアノとクロエしか、頼るものがなかったんだ」
『子どもの領分』を弾けないだろう、という言葉はクロエにとってはありふれたたとえのひとつだった。だがシュウには、ほとんど呪いに等しい重みを持って感じられたのだろうと推察する。
「でもクロエが悪いんじゃなかったし、そもそも悪いことを言われたんじゃなかったと、今は思えてる」
シュウの晴れやかな顔に、クロエは安心した。不安を隔てることを知り、呪いではなく祝福を受け取れるようになったことを。
これならもう何を慮ることもないだろうと、クロエはもう一歩踏みこむことに決めた。
「シュウ、何か悩んでる?」
「え?」
「不安や悲しみがそのまま張りついているのとは違う。ただそれを昇華させる願いとか、いろんなことを考えて、そっと託してるものがある……そんな演奏だなとは思ったよ」
シュウの演奏には、ひたむきな音楽への感謝があった。
困難や悩みのさなかでも、音楽があるから生きていける――というような。
「……そんなの、わかるの?」
「わかるんじゃないよ。感じることも人それぞれだ」
クロエは、講義をもう忘れたか、とからかってやる。
「だからお前の考えたこととおれの感じたことがもし一致していたら、やっぱりそれは奇跡的な、音楽のちからだよな」
そう思わないか、と念押しすると、シュウはクロエの言葉を全身で受け止めているところだった。そしてやがて「うん」と、万感をにじませた声で肯定した。
クロエはそれを見届けて、「おれもそんな、感謝と愛を告白するみたいなピアノを弾いてみたいな」と言った。