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作る 二日目

 二日目は、終日ピアノを開放することになっていた。

 昨日ほどではないがそこそこピアノの前にはひとが訪れ、シュウは今日もそれをじっと聞きながら過ごしていた。触るのは子どもの頃以来なのだろう、という演奏をする大人が多かった。

 子どもの姿から着想され、童心とともに演奏するという曲について考えるには、まさに膨大な資料が目の前に絶えずあるということだ。

 クロエの講義は明日なので、その後の空いた時間にピアノを聴いてもらう約束をしていた。それまでに少しでもブラッシュアップしようと、楽譜も持ちこんでいた。改めてこの楽譜を見るのは、シュウこそ学生の頃ぶりだ。

 『子どもの領分』――ドビュッシーの著した、ささやかな性格の構成に深い親愛の宿る曲。シュウがそのかけらも捉えられないことを、クロエが見抜いてたとえた曲。

 あれから長く歩んできたと思う。

 家族のことなんてわからないまま。自分の心の中の、埋めがたいものもまだ消えていない。だが、わからなくても仕方がないと思うようになり、その埋めがたさを、幻影のように手に入らないものではなくて、現実の自分の手で埋めることを志向するようになった。

 そして、埋められなくてもピアノは弾ける。演奏には、自分が得られなかったことを自ら自分に与えるように、きっと子どもへのまなざしを込められる。

 シュウはひたすら、次々と流れてくる音楽の中の子どもの姿に聞き耽っていた。


「シュウ、久しぶりだな」

 そろそろ昼ご飯を食べなくては、と思った頃、神保が軽い調子で現れた。シュウは思わず固まる。

「えっ……神保さん、ほんとに来たんですか」

「おまえ昨日自分で言ったんだぞ、そのせりふはないだろ。相変わらずだな」

 数年ぶりとは思えない態度で述べて、片手に手提げを持っているのを、「ほら」と突きつけてくる。機材と一緒に置いてあった予備の折り畳み椅子を勝手に広げ、さっさとシュウの横に座った。

「……食べ物をくださいと頼んだわけじゃ……」この期に及んで言う言葉じゃない、とさすがに神保に言われずともわかっていたが、どうしても口を衝く。より険しくなった神保の顔に、急いで付け足した。「いえ、その。ありがとうございます、どうもすみません……」

 シンプルなギンガムチェック柄の手提げを受け取って中身を覗けば、いわゆるお弁当包みというものが神妙に鎮座している。包みは落ち着いたグレーの生地に水色の花の刺繍が施されていた。

「……なんかやたらかわいいですね。あとご家庭のお弁当ってこんな感じですよね」

「文句言うな。厨房に手頃な容器がなくてさ、うちのパートナーの借りたんだよ。ちょっと小さいのは悪いけど」

「パートナー?」

 眉を寄せて尋ねれば、神保は口元に弧を描いた。左手を掲げて見せつけてくる。

「あ」とシュウは察した。「おめでとうございます」

 神保は薬指の指輪を、回転させるような動作で撫でた。

「おまえがもっと早く連絡寄越してたら、リアルタイムに教えてやったものをなあ。子どももいるんだぜ」

「えっ!」

 シュウの反応に、神保は満足げな笑みを深める。

「ほら、いいから食え」

 背中を強めに叩かれて、シュウは驚きを持て余した。



 神保には、イベントのスタッフをやることが決まったときに連絡を取った。

 『あの店の近くで、短期の仕事をすることになりました』と文面を作り、神保がくれた「ラブレター」に書かれたメールアドレスは果たしてまだ有効なのか、とシュウはちょっと恐れながら送信したが、すぐに返事があり拍子抜けした。『今時メールはまだるっこしい、メッセージアプリに切り替えろ』と、アカウント名が書いてあった。

 かくして二通目のラブレターを受理してから、何度かやりとりをしていた。昨晩、何日か返信しそびれていたことにふと気づいて、『今日から開催でした、お昼を食べそびれたくらい混んでます』と送った。

 すると、『明日弁当持って会いに行ってやるよ』と返ってきたのだった。シュウが、しまったと思って弁明に送ったメッセージは、既読になることはなかった。

 そして、今に至る。

 弁当箱の蓋を開けると、レシピ本の表紙を飾れそうなおかずが行儀よく納まっていた。色とりどりのおかずに、腹の底から食欲が喚起されたことを自覚する。

「おお……すごい、美味そう。いただきます」

 どうぞ、と神保が言い添える。

 食べるのがもったいないかもと思いながら、これまたかわいい箸箱から出てきた組み立て式の箸を動かす。一口含めばそんな思考は露と消え、箸も咀嚼も止まらなかった。

「弁当に豆腐は無理だけど、いい感じだろ」

 無心で食べている姿にシュウの満足を感じ取ったのか、神保がつぶやく。

「ありがとうございます、すごい美味しい」鶏の照り焼きを噛みしめて、シュウもごちる。「神保さん、今日仕事ですよね? 全然居酒屋メニューって感じじゃないですけど」

 これから戻って仕込みだろう。弁当も仕事ついでに作ったのだろうと想像していた。なので蓋を開けたとき、家庭のお弁当という趣のメニューが詰めこまれていたことに、シュウは内心で驚いた。

 ん、と神保は喉を鳴らした。

「おまえ、こういう弁当持たされたことなさそうだなあと思って」

 神保は落ち着いた声でつぶやく。その目も口も笑っていたので、シュウも一瞬箸を止めた以外は、何気ない会話のひとつとして受け止め、そして深く感謝した。

「――そうですね」ブロッコリーを口に放りこむ。照り焼きのたれの味が染みていて美味しい。

 その味わいで、シュウの中の子どもが、またひとつ豊かになる。

 水の膜がそのたび、減っていく。


 店に戻る神保に礼を述べると、神保は「来れそうな日は昼飯持ってきてやるよ」とさらりと付け足した。

「それはさすがに」とすかさず抗議をしたものの、神保を言いくるめる弁舌などシュウは当然持ち合わせていない。

「でも悪いです、ほんと……普通にそんなのおかしいし、子どもじゃないんだから」

「子どもだろ」

 シュウは動揺して口を結んだ。神保はさあらぬ様子で二の句を継ぐ。

「お前の愛情の定義、まだ変わってなさそうだからな。それに忘れたか? 俺はおまえに飯を食わせると満たされるんだよ。だから別に子どもの面倒見てやろうっていうんじゃなくて、俺の楽しみのためだ。黙って食わされてろ」

 明日は何を食べたい、なんてたたみかけてくるので、シュウはみじめな気持ちはさっさと捨てるほかなかった。

 親が子どもに与えるような弁当は確かに、シュウのこれまでに満たされたことのなかった部分にぴたりと収まる心地よさを持っていて、たまらない嬉しさがあった。

 けれど何がいいかと問われるなら、豆腐の入ったあんかけ丼が一番食べたいな、と思う。それは口にせず、会期が終わったら店に行こう、とシュウは決意した。

 じゃあまた明日、と神保が念を押してくるのに負け、シュウは改まって礼を述べた。

「でもまあ、ちょっとは大人っぽくなったか。じゃあな、俺の愛でよく寝ろ」

 神保は楽しそうな表情でそう言い残して、帰っていく。

 シュウは、神保の子どもの話が聞きたい、と言いそびれたなと思う。結局、すっかり待望する気持ちになっていた。



 つつがなく午後が過ぎ、家に帰ると、『女神』がずいぶん久しぶりに口を開いた。

『シュウ、なんだか楽しそう……』

「わっ」

 わかりやすいほどにいじけた声のままだ。誰の姿もない空間で突然声がするのは、何度目であっても一瞬たじろぐ。話しかけてこない間ずっとふさいだ気持ちでいたのか、ということに、若干の罪悪感も覚えた。

「そりゃそうだよ、好きなもののそばに一日いられるんだから」

 『女神』の応答はない。取り繕っていることが透けた返事は失敗だったと、シュウ自身言いながら悟っていた。『女神』は、しばらくしてからぽつりと言う。

『……シュウがこのまま楽しく過ごせるんだったら、島に帰ってなんて言うのは、ひどいことなのかしら……』

 悲しげな声に、シュウは身動きを失った。

「えっと……何?」

『島から帰ってきて、シュウはいきいきしてるわ。これまでずっと会ってなかったひとにわざわざ連絡を入れたりするし、わたし、本当にびっくりしたの……』

「ああ、それは……」

 神保からも同じ旨のメッセージが送られていた。

「上手くいえないけど……クロエに連絡をしたら、神保さんにもしたくなったんだ。これまで、先のことだけ考えてきたような気がする。けど昔のこと大事にするって、案外普通にできることなんじゃないかと思った……ような感じがして」

 声しか聞こえない『女神』が、しょげている様子が目に浮かぶ。『女神』が過去にここまで弱気だったことがないので、シュウは内心落ち着かなかった。

『わたし、島のみんなの神様だけれど、実際にはずっとシュウのそばにいた。なのにシュウを苦しめるのであったら、神様失格になってしまうわよね……』

「あの、ちょっと」

『ねえシュウ、あなたは……ここにいたい? わたしなんかと一緒にいるの、やっぱりいやかしら。わたしのせいでシュウは普通の人生が歩めなかったということ、ちゃんとわかっているわ。どうせ島のみんなももう、全然助けてくれない神様なんて忘れてきてるし、このまま……いなくなっていいのかも』

「――待って!」

 どんなに弱った語りであっても、彼女の言葉はもっともクリアに届く。聞き捨てならない言葉を、シュウの内側はきちんと捉えていた。

 時計の針をはるか昔に戻してしまったように、シュウは不安な気持ちがこみ上げてくる。

「あなたのせいでって、どういうこと」

 声がどれだけ震えても『女神』には明瞭に届いているはずだ。なのに『女神』は黙ったままだ。

「黙ってないで教えて!」

 たまらなくなって声を荒げる。すると目の前に一瞬、閃光が瞬いた。シュウは反射的に目を閉じた。

 目を開けた瞬間、シュウは己に降る時間を手放した。

 呼吸もまばたきも忘れて固まるシュウの目の前には、少女の姿がある。

 あ、人間じゃない――とだけ、頭の本能的な部分が働いて感知した。

「シュウ」

 少女の声に、はっとして時間を取り戻す。内側で聞き続けていた声が、外にある。

「……あなたが」

 聞くまでもなく『女神』だとわかっていた。

 人間であれば小学校を卒業するくらいの年頃の見た目だが、人間離れして見える。人間にはおよそなさそうな、緑色の目と髪のせいか。それとも厳しく引き結んだ表情がまとう、﨟たけた雰囲気のせいか。そもそも白い服をまとっているような姿は淡く光っていて、無風なのに輪郭の端のほうはうねるように揺らぎ、空気と同化している。まるで不完全な立体映像のようだった。

「シュウ……今までごめんなさい。わたしも頼るばかりじゃなく、あなたのように自分で自分のことを決めなくてはならなかったわね」

 『女神』は苦しげに口を開き、重たい様子で言葉をつないでいく。険しい表情に、何か悲壮な覚悟をにじませていた。

「姿をとるのもたくさんのことを話すのも、すごく難しくて疲れるし、きっとよくないこともあるのだろうけど……それでもやっぱり必要だし、今を置いては二度とできないって思うわ。わたしもなるべく頑張って話すから、シュウもよく聞いて」

 憂いに満ちた『女神』の翠玉は星の瞬きのようだ。

 星空の下に、眠りがたい夜が訪れる。

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