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作る 一日目

 イベントの開催日を迎えた。

 ピアノはメインスペースから少し脇に抜けたところに設置されている。メインスペースでやっているイベントの邪魔にならず、ピアノを弾くにも聞くにも問題なく楽しめそうな位置取りだ。シュウはピアノの鍵を開け、胸ポケットにしまった。

 改めて一日の予定を確認する。午前はピアノを開放して、午後は三時過ぎまでイベントに使う。午前と、夕方に詰めていればよさそうだった。

 屋外にいても屋根がついているし、秋空の気温は快適だ。期間中の週間天気予報は、ほぼ安定した秋晴れと示していた。これならばきっと客の入りも見込めるし、ピアノも狂いにくいだろうとほっとした。

 ピアノから付かず離れずの、機材などで少し影になっているところがシュウの詰め所だ。簡易的な椅子と机を設置してくれていた。演奏者や聴衆からは目にとまりにくく、シュウからはピアノの様子が確認できる位置になっている。

 見ていると、開始直後からストリートピアノの前を何人もの人影が過ぎていく。少しもしないうちに演奏をする者が現れた。まばらに演奏者が入れ替わり、時に聴衆が離合集散しながらも、盛況だった。

 シュウが演奏を聞いていると、通りすがった人影に声をかけられた。

「……ひょっとして、シュウさん?」

 突然すぎて、「え」という声が出なかった。顔を上げると、中年の女性が目を丸くして立っている。

 あ、知人だ、と思った。

「えっと……」名前の検索に時間を要したが、なんとか探り当てる。「竹川さん」

「やっぱりシュウさんね? あんなちょっとの訓練だったのに、覚えててくれて嬉しいわ」

 竹川はぱっと人好きのする笑みを浮かべた。シュウもつられるような魅力的な笑みは、竹川の強力な長所だろうなと思う。

「こちらこそ。お世話になりました」

 職業訓練をした数か月は、シュウにとって豊かで貴重な思い出だし、そう思えるのは竹川のサポートが大きかったと素直に思う。親身になってくれる大勢の目上ばかりに囲まれて過ごしたのは、あれが最初で最後だ。その間竹川と幾度となく話し、どれほどのことを整理して、積み上げたか。

「ありがとう。ほんとに久しぶり、びっくりだわ。ここで働いているの?」

「ここというか、このイベントの。かたちだけですけどピアノの管理で」

 そうなのね、と竹川が優しい目でピアノを眺めた。シュウに向き直ると、快活に述べる。

「私は午後からの出張相談で来たのよ。シュウさん、時間があったら来てね」

 頷いて、「じゃあ今から準備なの」と去って行く姿を見送った。



 午後に入り、一旦の自由時間となった。

 午前中は結局、ピアノの周りに誰もいないという瞬間はほとんどなかった。

 シュウは盛況ぶりに驚きつつ、これはなかなか楽しいな、と思って眺めていた。技量はそれぞれだが、ピアノを奏でることができる人間が世の中にこれほどいて、ただそこにピアノがあるという理由だけで、何かしら演奏していく。

 その音楽にはさまざまなものが込められていた。恥ずかしさや緊張が透けている演奏もあったし、聞かせたくてたまらないという気持ちが伝わってくるものもあった。曲への愛情、特定の音へのこだわりなど、演奏者の心の注がれている先が手に取るようにわかる。

 曲のつくりや意図から逸脱しすぎた演奏はなだめたくなったし、自ら枷をつけたような内省的な演奏には、もっと聴衆に心を向けてみてほしいと思った。

 混んでいたので食事は後にして、どうせだからとイベントを見て回ることにした。イベントで使っているのは一階の屋外と最上階だけなので、一階をぐるりと見てから最上階に向かう。

 最上階はずいぶん雰囲気が変わり、商業施設らしさはなかった。行政の出張所やカルチャーセンターが設置されている。廊下は幅広なつくりになっていて、ときどきソファが置いてある。壁には小さな絵が等間隔で展示されていた。イベントの一部なのか常設物なのかわからないまま廊下を渡っていくと、屋上庭園と書かれた、外につながる扉が見えてくる。一部ガラス張りになっている廊下側から外を覗くと、芝生が敷かれてベンチや遊具が置いてあるのが見え、子ども連れや高齢者が多くいた。

 居酒屋で働いていたときや職業訓練を受けていた頃に住んでいた場所はここからそう遠くない。駅数にして両手の指で数えられるくらいだ。だがシュウは特に土地へのこだわりがなかった、というよりはどこに住もうと根を下ろせるような感覚は得られないだろうと感じていたので、この辺りがこんなに栄えていることをしみじみと思い知るのも初めてだった。

 離れの会場はさして遠くないが、その周辺はずいぶん閑静らしいので、わざと駅前に機能を集中させているのだろうな、と思った。先日眺めてきた島の暮らしなんかとは、たぶん根本からつくりが違うのだろう。

 行政の出張所前のスペースにたどり着くと、竹川に見つかった。ちょうど手すきらしい。

「あら、来てくれたのね」

 「はい」とも「いいえ」とも選べず、でもたぶん「はい」に近いのだろうな、と会釈をしながら気持ちを省みる。

「シュウさん、ちょっと座って。どうしてたのか知りたいわ」

 促されるまま座ってから、対面で向き合うのは思いのほか緊張すると思った。大したエピソードも持ち合わせていないな、と思いながら、職業訓練後のことをかいつまんで話す。竹川は楽しそうに相槌をうった。

「落ち着いて話してて、いいわね」

「え?」

「訓練中、何度も過呼吸みたいになってたでしょ?」

「ああ……そうでしたね」

 訓練指導者の仕事に入っていたのかわからないが、シュウは竹川には、これまでにないほど話をした。竹川は話すたびに呼吸を荒げるシュウをなだめ、家族を知らないよるべなさ、ピアノが弾けない苦しみを聞き、方向性を示した。

「負荷って体の弱いところに現れるのよ。呼吸にくるタイプなのねって、あの頃心配だったのよね」

「――それは」昔から、自分は歌うことが宿命なのかと心の奥底に張りついていたから、のような気がした。

「でも真剣に悩み、学んで、こうやって静かに言葉にできるようになったのね。あの頃、引き出してあげられなかった言葉や、整理しきれなかった感情、きっとシュウさんはいっぱい感じていたでしょう? 若いひとの苦しみに、できるだけのことはやりたいと思っていろんな話を聞かせてもらったのだけど、関われる期限が決まっているのに無責任な振る舞いをしたという意味では、悪いと思っていたのよ」

 仕事には入らなかったらしい。どちらでもよかったが、いっそう親切さが身に染みる。そういえば、言い切れなかった問いをボランティアの女性につい話したら、それにさえ竹川から返事をもらったな、と思い出す。

「そういえばね、久礼さんっていたでしょう? ボランティアの」

 思い浮かべた直後に名前が出るので、内心で少し驚いた。

「わかります、就職したって」

「そうそう、隣の施設なんだけどまだいるの。今日も実はここ、彼女に任せようと思ってたんだけど予定がだめになっちゃってね。彼女、たまにシュウさんのこと話すのよ。あなたが行きそびれたところでシュウさんに会ったわよって言ったら、彼女どんな顔するかしら?」

「――そうなんだ」

 シュウのことを覚えていて、シュウの知らないところでその名を出す人間がいる、という事実を知って、シュウはつかみがたい感情が心に浮かぶのを感じた。

「あ、それと」

 竹川は自分の鞄を探って一冊の本を出すと、挟んであったしおりをシュウの目の前に掲げる。押し花をラミネートした、手作りらしいしおりだ。

「じゃん。これは何でしょうか?」

 ふざけたような言い方に、シュウは首を傾ける。

「これはねえ……シュウさんが久礼さんにあげちゃった花束なのよねえ」

「え、……あ」

 苦い顔になったシュウを見て、竹川は愉快そうだ。

「ひどいわねえ。でも久礼さん、嬉しかったみたいね。こうやって保存できるようにして、あと悪かったからってわざわざ分けてくれたのよ」

 久礼さんが悪いんじゃないのにねえ、といたずらっぽい声色で続ける。シュウは返す言葉がなかった。ひとしきりそれを見つめてから、竹川は優しい表情に戻った。

「なんて冗談。……ねえシュウさん? 久礼さんはわざわざ加工して、たぶん一番あなたに渡したかったはず、じゃないかしら」

「……そうですか?」

 花を渡したとき、どんな意味や感情があったか、今も昔もつまびらかにできない。受け取った久礼がどう思ったのかも。感謝はあったし、自分の行動で、別段悪い意味でなく感極まるような人間がいるんだな、という感慨のようなものもあった。覚えているのはそれだけだ。

「よくわからない? 別にいいの、久礼さんにはきっとシュウさんからもらったものは、大きく感じ取れるものだった。シュウさんにはシュウさんの関心事がある。お互いにそれでいいのよ。……今でもピアノは好き?」

「もちろん」

 考えずに言葉が出た。

「じゃあいろいろ感じているでしょう、今日の午前中だってそうだったんじゃない?」

「そう……」あまりに多くのことがせめぎあって、一の句を選べない。視界をいっぱいに覆うほどの量があって、むせかえるほどの匂いがする。

 大きな花束を抱えた自分のイメージが、脳裏に一瞬現れて、すぐに去る。

「いろいろ感じました。ああでも一番感動したのは……午前の最後にきた子どもの演奏が、あまりに『子どもっぽい』ものだったこと」

 あのとき、水の膜がまたひとつ消えたと思った。小さかった花束が、大きく見えるような変化も、それはもたらすのかもしれない。

 竹川は眩しいものを見るかのように目を細め、手に持ったままのしおりを差しだす。

「これ、持って帰ってね」

「はい?」

「あなたに渡るべき花束だったのだから、当然でしょう?」

 ああそうか、という納得と、そうなのだろうか、という疑問が同時に浮かんだ。シュウがどちらを選ぶか迷っているうちに、竹川は力強くシュウの手にしおりを握らせ、微笑んだ。

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