作る 前奏
音は、たとえ聞こえても聞こえなくても、そこにある。
長く過ごした家ではいつも、水の中で聞くように、外界音は幾重のもの波越しにくぐもっている気がした。かたちが杳として知れず、遠い音楽。つかみがたい世界は、現代音楽のように均整がなく、あらゆるものを内包しているのだろうと予感をさせた。
家を出た冬は、雪がすべての音を吸い尽くして、何も聞こえなかった。
浅い春は静かだった。生き物がうごめくのは気配だけ。花弁は音もなく開き、舞い散るときも静粛だった。
夏の薄暗い室内では、通奏低音のように断続する空調音と虫の声を聞いていた。
秋の終わりの枯れ葉は、気まぐれでささやかな音を立てていた。
冬になってまた、音を雪が吸い尽くす。
外の世界に出ても存外音楽は静かなままで、それはまだ、自分が水の中で暮らしているからなのだと、あるとき思った。
ようやく水面近くへ浮かんできたかなと、シュウは思っている。
水の中のシュウを生かし続けた『女神』は、じっとシュウを見つめている。
水に満ちた星の外に、『女神』の居場所はあるだろうか。
*
「どのくらいぶりだ?」
クロエの声が、これまでにまるで聞いたことのない音のように思える。受話器越しだからか、自分の聞こえ方が変わったからか。シュウは内心でそわそわした。
「えっと、七年……?」
「よく連絡先わかったな」
連絡先調べのコツをすっかり身に着けてしまったと、なんとなく後ろめたい思いになった。実際クロエと連絡をとるのは、水無月の住所をつきとめることよりはるかに楽だった。彼は今でも大学院に紐づいているし、様々な演奏会にも出ている――という情報は、連絡先探しの副産物だ。
シュウが言葉をのみ込んでいるので、クロエは朗らかに続けた。
「まあいいや。嬉しいよ。おれの近況は知っているか?」
「ネットで見れるくらいは」
「そっか。おまえはどうしてたんだ。ずっと気配もなかったな」
気の利いた一言を選んでまとめられるような、上手い返事がシュウにはできそうにない。端的で、一番大切なことだけを口にした。
「クロエに、『子どもの領分』を聴いてもらいたくて」
受話器の向こう側で反応が一瞬、消えた。遅れて返事が来る。
「ああ、なるほど」
「もう弾けると思う、……たぶん」
「たぶん、か。当てになるかな」
クロエがふっと息を漏らした気配がする。
「――そういえば、シュウ。おまえきっとふらふらしてるんだろう? 手伝いをしてくれないか」
「手伝い?」
「おれの……というより知り合いが、今度イベントをするんだけど人手が足りなくて」
クロエの急な話題に、話を反故にされたのかとシュウは訝しむ。「たぶん」なんてついていてはだめということだろうか、と思っていると。
「ピアノも設置するから。そこで聴かせて」
付け足されたクロエの声は、笑っているような気がした。
シュウがクロエに連絡をとったのは、故郷なのかわからない南の諸島への旅から帰ってきた直後のことだ。
島には行ってよかった、と思っている。
いろいろなことを悟ったような気がしていた。あの島で、外界と隔てる水の膜が減った感覚を鮮やかに体感した。自己が自己であるという感覚を作るのはもっと現実的な軌跡だとわかって、「すっきりした」とも「ほっとした」とも違うが、それこそ本物の水を浴びたがごとく、目が覚めたような感覚を味わった。
シュウと対照的に、『女神』はふさぎ込んでいた。帰りの船で『女神』は、シュウに思いつく限りの非難と困惑の言葉を、シャワーのごとく浴びせた。
『どうして戻っちゃうの信じられないわ、シュウがいるべきところはあの島なのに。あなたを帰すためにわたし頑張ってきたのよ、あなたも帰りたいって言ってたでしょ、一体何が気に入らなかったの? ねえ帰られたら困るの、あっシュウまさかわたしが間違っているとでも思って……!』
ふさぎ込むうちに、島でシュウに言われた言葉が正しくわからなくなってきたのか、『女神』の非難はだんだんと方向性がずれていっている。
幼かった頃のシュウは『女神』と名乗った彼女のことを、それこそ自分を導く全知の存在なのだと感じていた。成長した後は、存外子どもっぽい存在なのかもしれないと思うようになった。普段はそれらしく尊大に振る舞うけれど、彼女がシュウと相容れないときにとる言動は、シュウへの罵声というより、ひとりでおろおろしているのを持て余している、というほうが正しかった。
周りに客の姿がないので、船中でつい「子どもみたいに騒ぐね」と話しかけたところ、むきになったような声色で抗議してきた。
『シュウがわたしを少しも敬ってくれないから! 何度も言ったじゃない、信仰されない神はちからを失ってしまうのよ、シュウが頼って、歌ってくれなきゃ、わたしはどんどん誰も助けられなくなっちゃう……』
『女神』の語気がひとりでに消沈していくのは、もはや知ったパターンだ。
『わたしにすがってきた島の人々、みんなずっと助けてあげたいのに、このままじゃ……』
ここ数年、いつも彼女のかんしゃくの最後はこのせりふだった。沈痛な言葉と表情が何かと重なって、それがいつも思考を邪魔してくるので、シュウはかけるべき言葉をまだ見つけられていない。
島の『女神』と、そのよるべ。
それが『女神』とシュウの関係らしかった。
その役割に沿うのであれば、島はシュウの帰るべき場所なのだろう、と思った。異国では宿り木には神聖な力があると考えられてきたらしいが、彼女もまさしくひとならざるちからを持っている。その宿主として生まれたからには、シュウは根っこから彼女に支配されている――と、明確に彼女から説明されたわけでもないが、二十代も折り返しという歳まで生きているうちに、なんとなくそのような理解を持つようになっていた。
『女神』は、いつでも感知できてきたわけではない。小さい頃はぼんやりと声を聞いていたはずだったが、育った家を出る少し前の時期まで、十年近く存在に触れていなかった。だがいざ再会したとき、シュウは人間の感覚がこんなにも鋭敏なのかと驚いた。内側なのか限りなく近い傍らなのか、たとえようのない場所に感知できて、自分の声そのもののように聞き逃すことがない。彼女の振る舞いに比べればほかのあらゆる情景は、水の膜の外でおぼろに揺らぐ虚像のように見えた。『歌って』というささやきだけが鼓膜、あるいはもっと内側の部分に直接届く。
いざ『女神』の導きの通りに歌った日のことをシュウはあまり鮮明に記憶していない。あのとき自分の中に、自我は保たれていたのだろうか。雪の感覚を未だ知らないと思う。
結局育った家を出てからシュウは、しばらくまた『女神』の声を忘れた。二回目の再会をしたのが、職業訓練をしていた頃だ。
以後数年、今に至るまでずっとそばに居続けている。
『女神』がシュウにかける声は要約すればほとんど、「島に帰って。島のために歌って」ということだけだ。『女神』はその言葉の背景や理由を語ったことはないが、説明してほしいと尋ねたら、「あまり多くを言うと、余計な因果がシュウに絡みついてしまうから」云々と断られた記憶はあった。
そんなふうに『女神』の言葉はあまりに端的なので、お願いなのか命令なのかさえも未だによくわからない。
ただ、子どものような悲しみや不安が『女神』の声に宿っていることに触れると、シュウはむしろ、罪なき孤独な子どもを助けるために自分は何ができるのかと、問われているような気持ちになる。
*
クロエが「イベント」の説明をメールで送ってきた。
会期は六日間。基幹駅近くにある商業施設の屋外スペースをメインのスポットに据え、駅から離れた閑静な地区にある古いつくりの空き家を離れの会場として使う。
プログラムは雑多で、何についてのイベントなのか一読ではわからなかった。
商業施設で行うミニライブや音楽鑑賞・演奏についての市民講座は音楽のイベントのようであったし、空き家で行うインスタレーションやアーティスト・イン・レジデンスなどは美術のイベントだと言えそうだった。
芸術以外では、生活相談がある。もともと商業施設内に行政の出張所があるらしく、それをイベント支援として臨時に機能を拡大する。つまりは行政の事業らしい。簡易ブースを用意して、法律家や保健師、社会福祉職による臨時相談を開催するようだ。イベントに合わせることで困窮者の捕捉率向上を狙うということだろう。
プログラムを一通り見て、シュウは情報過多で目がくらんだ。
題目を改めてみると、都市型フェスとか、カルチャーイベントと題されている。費用はクラウドファンディングをしただとか、枠組みや背景についても説明が付されていたが、流し見するにとどめた。そのあたりの理解はどうせ深められないだろう。シュウは、世の中の仕組みやイベント事というものに疎いことには自覚があった。
クロエは市民講座で講義をすると言っていたので、その詳細を見る。『音楽がもたらす疾患と癒し、そして音楽の楽しみ方について』とテーマが書かれていて、ああぜひ聞きたいな、と考えた。
それからストリートピアノについての概要を読む。屋根のある屋外スペースに期間中常設して、イベントの邪魔にならない時間は参加者に開放する。ライブや講座で使うこともあるらしい。それをわかりやすくストリートピアノと呼ぶことにしているようだ。
シュウの仕事は、クロエの説明を借りれば「かたちだけの管理者」ということだった。一日の初めと終わりに鍵管理とコンディションのチェックをして、開放中は一応の窓口になる。混雑するようなら整理して、もし誰もいなければデモストレーション的に演奏していてもいいらしい。イベントでピアノを使用する間は自由時間だ。
クロエの講義を聞けること、ピアノを聞かせる時間があることを確認して、シュウは承諾の返事をした。
『女神』は島から帰ってきて以来、口をきかない。