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呼吸する

 (アカシ)の目の前には、感嘆するほどの青空が広がっているはずだった。

 さすがに不摂生をしすぎているのでは、と頭の端をよぎる。朱にとってそれは自分の内側というより、自分の中に無作法に住み着いている誰かが吐く声のようなものだった。煩わしく、信頼に値しない。声だけであればまだしも、体の奥から脱をもたらし、不快さを伝え手足をわななかせ、視界をまだらに暗転させる。耳鳴りやめまいというかたちであることも多かった。

 曲がりなりにも、せっかくの旅行なのに。

 いや、そのくらいで退けられるものであれば、こんな苦労はなかったに違いない。

 反するふたつの気持ちが勝手にいがみあうのももはや他人事のようだ。、朱自身は辟易し尽くしていた。

 とにかく目下困るのは、空に感激できないことではなくて、視界が暗く立ち続けていられないことだ。息苦しさもひどかった。とりあえず座らなくてはならないだろう。

 幸いにもベンチはすぐ近くにあった。雑草の生える中に雨ざらしだが、不潔に朽ちているわけではないし、近くの木が陽をさえぎっているおかげで日陰になっている。もう秋口とはいえ、思っていたより高い気温が体に堪えていたし、眩しくないのもありがたいなと思った。

 ベンチに座り、腕組みの上に頭をつけるようにして腰を曲げた。視界をさえぎり頭の位置を下げれば少しは楽になる気がして、ようやく違和感なく呼吸ができる。蝉とひぐらしが同時に鳴いていることに気づいた。腹部を包むような姿勢でいるから、そこに当たるカメラの存在も意識に入る。

 大切な用事といえど、それで体調まですべて変えられるわけではない。いつもより小さいカメラを持ってきたのは、少しでも負担を減らすという意味では正解だったかもしれない。一番妥協したくないものだったけれど、それで写真を撮ることに支障をきたしては元も子もないのだ。

 しばらく顔を伏せたままにして、その体勢にも疲れた頃には症状は楽になっていた。ゆっくりと腰を伸ばして、もう一度息を吐く。外の世界と接していることを知らされて、今度はぎこちない。

「……確かに、きれいな空」

 朱は南の諸島に来ていた。今滞在している島は、六つの島の中で唯一本土との定期航路が存在する玄関口にして、五つの島を含んだ景勝を見渡せる小高い丘があることから、多少は観光地の趣もあるところだった。

 諸島は昔から、空がきれいに見えるところだと言われているらしい。

 こうして眺めてみれば、間違いではないだろうと思う。遠景まで見渡せて、そのほとんどを占めるのが空と海だ。明るいというよりは、くすみや変なムラがないというような美しさだなと思う。工夫を凝らしたような素振りもない、ただの一面の塗りつぶしなのに、純真な気持ちよさが感じられる。

 でも空なんてどこにでもあるものなのに、海も島もあるのを触れもせずに空とは、もったいないのか、わざとなのか。朱には少し滑稽で、皮肉にも思えた。

 空ばかり撮っている自分は目が曇っている、と言われているようで。


 島をぐるりと回って、どのように撮るか考える。めぼしいところにあたりを絞ってめぐれば、さして大きな島でもないので一日で十分に見ることができた。夕景が海に沈んでいくところなどを、試しにと何枚かカメラに収めてから、宿に向かう。

 ビジネスホテルが立つような土地ではない。金銭的にも気分的にも、旅館のような大層なところには泊まろうとは思わない。かといってドミトリーも気が乗らない。難航しながら条件に合いそうなところを見つけたつもりだけれど、どうだろうか。思案しながら教会の脇を抜けた。

 朱が宿にしたのは、島の端に立つ教会に隣接した建物だ。修道院というよりもっとこぢんまりとしていて、おそらく寄宿舎が元になっているのだろう。

「宿泊の予約をした者ですが」

 管理人に声をかけると、簡単な確認や説明をして部屋の鍵を渡してくれる。

 今いるところが共用スペースのようだ。素泊まりしかプランにはなかったが、炊事場もついているようであった。一通りの家の機能はあるのだろう。

 廊下に出ると、個室の扉がいくつか並んでいる。予約した部屋に入って確かめると、簡素で最低限の物しかないつくりながら、寝るには十分そうだったので安堵した。廊下の行き止まりの扉を開けると教会が目の前に見える。教会との渡り廊下に相当するようだった。

 教会は、本土でも見るものと大した差はないように見えた。朱にとっては特に身近なものではないので、本土でもそう頻繁に見かけるわけではないのに、こんなに小さな島にもあるものなのか、とだけ考えた。



 翌日は、昨日の晴天がうってかわって雨だった。

 連泊の予定になっているので、管理人室に鍵だけ預けに行く。ほかの島へ行くのかと訊かれ、隣の島に足を伸ばす予定だと朱が答えると、「終日しっかりと降ると思いますよ。風の状況によっては船が欠便する可能性もありますから気をつけて」との言葉が返ってきた。

 共有スペースの大きな窓の外では、確かに音を立てて雨が降り続いている。風はさして強いようには感じなかったが、木々がわずかに揺れてはいた。

「あ、おはようございます」

 外を眺めて思案していると、管理人の、別の宿泊客にも同じ案内をしている声が後ろから聞こえる。

 ふと振り向くと、その客と目が合う。同年代の男だ。

 その瞬間、朱は自分の意識の底に、大きな泡が生まれたのを感じた。その振動とくぐもった音はすぐに浮き上がってきて、朱の聴覚まで到達する。その形容しがたい感覚をよくよく探って、とりあえず違和感と名付けた。何かのひっかかり、忘れて思い出せないことでもあるかのような。

 朱は己の内部に意識をとらわれている間、ずっと男を凝視していたことにはっと気づき、目を逸らした。男のほうは特に朱を訝しく思っている様子もなさそうだった。


 船は今のところ動いているらしかったので、朱はとりあえず外へ出て、船着き場を目指すことにした。ひんやりとした空気は昨日とずいぶん違う。

 視覚を灰色に染める曇天も、聴覚を支配する雨音も、嫌いではなかった。空にまつわるものはすべて、朱にとっては被写体であって、唯一のよるべであった。

 空しか持っていない。そういう寂寞が朱の内側には住んでいて、同時にいつも空を持っているということが支えになった。毎日同じ被写体を撮り続けても、まったく様子の違う写真ができ上がる。それは毎日を自分が生きているという実感であり、自分にも空がもたらすものだけは分け隔てなく降り注いでいるという、強固な証明でもあった。

 でもそれで寂しさも苦しさも消えてくれるわけではないから、その写真とともに日記のようなものを書いた。それを見てくれていた友人と上手く友情を維持できなくなって、そのまま潰えるのか少しは取り戻せるのか、きっと今まさに分岐にいる。

 船着き場が見えてきたなと思ったとき、頭の中にさまざまな刺激が去来した。

 あ、これはよくない、とすぐに思った。

 平衡感覚とともに現実感そのものが遠ざかり、指先にちりちりとしたしびれが生じる。

 しゃがみたい、と思ったけれど、地面は濡れていて傘も邪魔だ。道はあまり広くなく見通しが悪い。人も車もあまり通らないとはいえ、安静な気持ちになれる環境ではなかった。そうこうしているうちに呼吸が乱れてきて、結局立っていられない。仕方ないので膝を折り、震える左手を地面につけて転ぶことだけは免れた。

「どうしたんですか」

 何分か、呼吸を落ち着けようと取り組んでいるうち、突然頭上から雨音の合間をぬって声が降る。朱は不意を衝かれたことで数えていた息を失って、とたんに不安が増した。

「……っいい、放って、おいて……」

 どこに誰がいるのか見えないまま、がむしゃらな返事をする。傘は柄を肩に、全体は背に乗せるようにして支え、右手で胸元を弱々しくつかんだ。それを見たのか、人影がさらに声をかけてくる。

「何か発作とか」

 先ほどより近づいた声は、男のものに聞こえる。

「ちがう、へいき……。自分で、落ち着け……られ」

 呼吸の間隔が意図せず早くなっていく。話すこともできなくなりそうだった。

「過呼吸ですよね」

 男のぽつりとしたささやきが言い当てる。隣にしゃがんでいるらしい気配が、分厚く肥大した朱の膜の外側でわずかにする。頭はいっそうコントロールを手放した。

「失礼」という声とともに右手に何かが当たり、握らせてくる。ハンドタオルらしかった。「今日はまだ使ってないですから心配しないで。口元、少し何か当てておくほうがいいでしょう? ちょっと見えないので傘持ちますね」

 男の手が朱の手首をとって、口元に誘導した。頭上に張りついていた傘がふわと遠ざかって空気の層が生じる。傘はそのまま少し上で雨を受け止めてくれていた。

「大丈夫ですよ」

 何もかも正常に働かない頭に、男の声は比較的スムーズに入りこんだ。つまりは、朱の中にさまざまな言い分を生じさせず、膜と衝突することもなく、朱の呼吸を整えることに寄与した。何度かひくつく呼吸を繰り返しながら、徐々になだめていく。

「……少し……楽に」口に渇きを覚えている。声はしゃっくりのような抑揚が混ざったままだ。

「まだしゃべらないで。俺を気にするより、ゆっくりよく吐いて」

 わざと聞こえるようにしているのか、男がゆるやかに呼吸をしている音がする。規則的で深い、安定した音だ。楽器の管を通っていく一本の流れを連想した。

 朱は時間をかけて、なんとか呼吸の統制を取り戻した。真っ白に塗りつぶされていた頭に定常の景色が戻り始めるにつれ、ぐるぐると細切れになった思考は増殖していたけれど。

「……すみません」

「こちらこそ、変な世話を。俺も昔よくあったので、つい」

 立ち上がれるようになり、傘を受け取って男を見る。宿で目があった客だとわかり、全くの初対面でないことが重たく感じられた。

「あ……今朝の」

「そうですね」相手も朱より先に認識していたようだ。「慣れないところで大変ですね。疲れとか、寝てないとか食べすぎとかで、過呼吸はなりやすくなるそうですよ」

 表情と声に愛想が表出しない性質なのか、態度はずいぶん淡々としている。先の対応と言葉から察すれば、慮ってくれているらしいが。

「……寝た……と思います、少しは。食べるのは……昨日は食べましたけど」

 定期的に十分な睡眠をとっているとは言えないし、食に至ってはむしろほとんど食べません、というのが本当のところであったが、そんな打ち明け話などする場面でもない。だが統制の戻っていない頭は一言、漏らしていた。

「……いろいろめんどうで」

 ああいらなかったな、思いながら、「面倒」とはまさにその通りで、言わなかったことに訂正するのも、それを理由に放棄した。

 どこにいても違和感があって、何をしていても無性に不安で、ただ悶々と考えているから、それ以外すべて余事のように感じられる。余事であるから億劫にも思う。

 たとえば毎日、寝る時間と起きる時間を勘案に入れる。きちんと寝るには、今日はエアコンが必要かとか、水分は何時までにとか、そんな計算が必要になる。「起きている時間の中で何をするのか」という、ひとつ最初から枠を作った上での思考は、その枠を至極大切にするほどの価値がある生活をしようとしているのか、と思うと滑稽だし、その枠に必要のない荘重さを与えているような、嫌気が伴った。

 食べるためにも、いちいち何を食べるのか選び、お金を減らして手に入れる。どこで何が売っているのか、どれを食べれば自分にどんな影響を及ぼすか。そんなことを考えてようやく摂取したとしても、それはただ命をつなぐだけのささやかな作用しかなくて、その維持の先で自分は何もしていないとしか思えないから、やはり面倒で、億劫だった。

「俺はシュウといいます」

 男は唐突に名乗って、朱の耳から雨音が遠ざかった。その名は特段珍しいものではないけれど、迷宮に入りこんだ思考を引き戻す、むしろ迷宮を壊すような深いちからを持っている。朱は己の琴線が震えた音ばかり聞こえて、それに手招きされていると錯覚をした。その手は、一面に彼岸花の咲くような、この世のものならざる風景の中にある。此岸にいる自分を注意深く意識した。

「……わたしは、朱」

「――朱さん」頭に刻むような間を含んで、朱の名前を確認するように言う。「また困ることがあったら声かけてください。タオルは気にしないで。あと何か食べたくなったら、島の美味しいものも知ってます」

 初対面にしては距離感が近く、少しやりにくいなと思う。だが世話を焼いた手前かもしれない。律儀で親切なひとなのだと考えることにした。

「俺はもう十日くらいここで過ごしているので」

「そんなに?」

 観光にしては長い。どう見積もっても、名物が無尽蔵にあるようなところではない。

「なかば観光じゃないので。……実は家族がこの辺りに住んでいるかもしれないかな、と」

 シュウが不可解な発言とともに少し口の端をあげるので、朱は混乱した。

「――は?」

「小さい時から離れているので確かなことはわからないんですけど」

 シュウの語り口には、特別な重さも、憐憫を誘う哀れっぽさも、かといってことさら軽くしようとしているような虚勢もない。

 朱は言葉に詰まった。突然何を言っているのだ、という気持ちと、彼岸花がざわと妖しく揺れるイメージが、混ざり合う。

「なんて冗談。別にそんな無謀な家族探しのために滞在しているんじゃないです。ただ自分に縁あるところらしいと知ったので、諸島のことをきちんと味わってみたくて」

 シュウは、今それを成している、という充足を声色に乗せている。朱が返事に窮している間に、それを気にとめる様子もなく「じゃあ」と軽く会釈をして、別の方向へ消えた。

 どっと疲れたことを自覚して、船に乗ることを早々に諦める気持ちになった。手元に残った小さなタオルさえ、鉛のように感じられる。

 それと、今からでも何か食べよう、と思った。呆然として、いろいろな考えがとんでいっているからか、空腹であることを久しぶりに実感していた。指先が無意識に、カメラのかたちを確かめる。

 その日は結局、昨日歩いたのと同じルートを、全く異なる天気の中でたどりなおした。道中で何枚かの写真を撮る。天候の差はあまりに極端で、同じ景色を撮ったはずが全く違うものに見える。海もだんだんと波が立ち、色も動きも異国のそれにすり替わったかのように変化した。

 宿に帰ってから洗濯機を借りて、シュウのタオルを洗った。



 翌日はまたも天気が変わり、雲の多い晴れだった。秋らしいうろこ状の雲が、澄んだ青空の上で群れている。

 船が出るかを尋ねると、管理人は今日は大丈夫だろうと微笑みながら、突拍子もない二の句を継ぐ。

「朱さん、朝食どうですか」

「は?」

「今日は教会で朝食堂をしているんです。それのために作った残りがあるので、よければ。そこでどうぞ、今持ってきますから。あ、食器洗いだけセルフでお願いしちゃうんだけど。いいですか?」

「……はあ」

 気の抜けた返事をしていると、むしろ返事は必要なかったのではないかという具合に朝食が出てきた。据え膳どころか膳に待たれかねず、朱は異論を唱えるのは諦めて席に着いた。

 お盆に乗せられて出てきた朝食には、海苔の巻かれたおにぎりがふたつに、豆腐と油揚げの味噌汁、小鉢に入った漬け物が乗っている。目の前にあって拒む理由もないので、とりあえず手を合わせた。

「いただきます」

「どうぞ。美味しいよ」管理人は向かいに立ってにこにこ笑っている。

 おにぎりをほおばる。おかか味だった。少し気持ちがゆるんで口を開く。

「あの、ありがとうございます、美味しい。……あと、朝食堂ってなんですか」

「ちょっと前から地域の食堂ってはやってるでしょ? 非営利で子どもとか、誰でも来てみんなで食べようっていうようなやつ。近所のひとがね、それをやりたいって。ご飯食べて後は好きなようにだべって過ごす感じかな、お開きの時間も適当でね」

「それを教会で?」

「この島ってひとが集まれるところってあとは会館くらいしかなくて。会館よりはここのほうが炊事の勝手がいいから、たまにここでやってるの。ここの教会はけっこう本土とは事情が違うんじゃないかな、なんでもやるっていうか、ゆるいのもいいところってね。まあでも一応、本分の仕事から考えると朝が一番都合よくて、だから朝」

「へえ」どうりで起きたときから騒がしかったな、と腑に落ちる。旅行中ではあまりやれることもないから、そういえば比較的きちんと寝て起きた、とも思う。

「朱さんも次の機会があったら大歓迎だからね。昨日、もうひとりの宿泊者さんに会ったでしょ? 珍しいのか、あのひとは今向こうに行ってるよ」

 不意に出た言葉に、柔いところを突かれた。一拍前に含んでいた味噌汁が胃を温めて、衝撃をわずかに和らげてくれる。

「……シュウさん、ですよね」

「あ、自己紹介したんだ? そう、シュウさん」

 管理人の言葉の調子は変わらず朗らかだ。シュウというひと自体が、朗らかであるかのように。妄想じみているとわかりながらもそう思い、アカシはつばを飲みこんだ。

「……あの、あのひとは島のひとじゃないんですよね」

「え? もちろん、普通に旅行者さんだよ」

 わかりきっていた返事に、得も言われぬ気持ちになる。

 管理人が去って、残りの朝食をその気持ちごと咀嚼した。食べ終えて食器を洗い、再び管理人に声をかけた。

「あの……その食堂っていうの、ちょっと撮ってきてもいいでしょうか」

「撮る?」

 鞄からカメラを出して見せた。

「カメラが趣味で。今回も写真を撮りに来たんです、空を撮るつもりで」

「ああ、空きれいだからね。でもぜひいろいろ撮ってってよ」

 カメラが趣味なんてすごいなあ、と管理人が送り出してくれる。二泊を経て少し砕けてきた態度が、意外にも不快ではなかった。


 一度外に出て、教会の正面へ回った。

 扉を開けようとした瞬間、光景より先に音楽が耳に飛びこんでくる。一拍遅れた視界には、十数人の影が映る。

 空間の中央に、大きなひとつのテーブルセットが作ってある。小さな教会の椅子は可動式らしく、端に寄せたり詰めたりして空間を作ったところに折り畳み式の机を並べてあるようだった。まばらにひとが座っている。

 奥がいわゆる祭壇だろう、音楽はその壁際に設置されたアップライトピアノから流れていた。それを囲むようにまた何人かの人影がある。

 その中心で演奏しているのが誰なのか、遠目にもすぐにわかった。

 あれはシュウだ。

 優しく穏やかな調子で、ゆったりとした曲を弾いている。およそ宗教曲らしい色もない、口ずさめそうな揺らぎのある旋律と包むような伴奏で構成されていた。朱は考えるより先にカメラを構えて、その光景を収めた。ファインダー越しに見た、教会らしい清純な光とそれを享受しながら芸術を慈しむ光景は、無性に尊く見えた。

 足音をひそめながら、端にある椅子に寄った。耳を演奏に傾けたままそっと腰かける。音は常に流動し、どこにも残らず次々に消えていく。そこから何か読み取れるような聴覚や教養を持ち合わせていないことが、なんだか惜しいなと思った。あまりに優しい音色に同化したくて、それができない代わりのようにまた何度かシャッターを切った。



 その後もシュウは何曲か弾いていたが、朱は終わる前にこっそり教会を出た。空を見上げながら、かたちは異なっても芸術を大切にしているシュウにこっそりと、だがはっきりと、昨日より断然打ち解けた気持ちを持つ。

 あさってには帰る予定なので、今日は下見や気が向くままの撮影を行って、綿密な撮影をしたいものが見つかったら明日はそれに充てようと計画した。船着き場に向かい、ほどなく来た巡回船に乗りこんだ。

 島と島の間は非常に近く、小さな船が六つの島をまめに巡回している。満足に見て回るならそのうちふたつほどが一日の限界だろう。三つの島を見れば半分は見たことになるのだから、そのうちのどこかでよい写真がとれれば十分だと考えることにした。

 滞在している島がもっとも観光地らしい趣があって、ほかのふたつの島は平和で娯楽の少ない漁村という印象だった。学校や医療施設などの生活インフラはひとつの島に一通りそろっているのではなく六つに散らばっていて、行き来しながら生活するようだ。船が出ないときはさぞ不便だろうなと思う。教会があったというのに、鳥居や小さな社がまたそれぞれあるところなど、不思議だった。

 一通り見終えて、すっかり夕方になっていたことに気づく。頭や足に疲れが張りついているのを感じ、宿に戻ることにした。最初の島に戻って夕焼けを眺める。

 水平線の向こうに滑り落ちていく太陽が眩しい。

 友人はこういう景色を好んでいたな、と思う。夕景の写真が好きだと褒めてくれることが多かった。

 陽が沈むまでの寄り道くらいの余力はあるなと、小高く開けたところを目指すことにする。おとといの散策で気に入った場所だった。空も海も、島々の様子もよく見える。一方はなだらかに上ってこれて、反対側のもう一方は少し切り立っているので柵が設置されている。そのぎりぎりまで近づいて見下ろすのが気持ちよかった。眺望スポットらしくベンチもある。

 ついてみると、柵の近くに先客がいた。

「――俺が選んだみたいに言うな! 俺がこれからどうするか、勝手に決めないでくれ!」

 背を向けていてもはっきりとわかるような怒鳴り声が聞こえて驚いた。喧嘩でもしているのかと目を凝らしたが、ひとの姿はひとつしかない。すぐに立ち去れば何も見なかったことにできると思いながら、体が動かなかった。

「俺はあなたにしかすがってこなかったわけじゃない、……俺は現実のだれかを頼ることができる、あなたに言われるがままで、俺の中ですべて完結すればいいなんて思えない」

 低く力強く、見えない相手だけでなく自分にも言い聞かせるような、必死な声だ。

「……それともあなたはずっと、俺にただ歌わせるつもりしかない、そういうことなのか。それ以外何も説明してくれないのも、ただの道具だからなのか!」

 怒りではなく、強い悲しみがゆらりとおもてにあらわれる。

 人影が顔を逸らすようにして体の向きを変えたので、――あ、と思った。そしてそれは手遅れだと同時に悟った。

 互いに姿を認識する。

 声が怒号じみていたので確信がなかったが、人影が誰なのかは最初から見当がついていた。そしてそれの答え合わせをしただけだ。

 ――心から他人に親切な、優しいピアノを奏でるだけの存在だと思えればよかったのに。哀れみのような共感と、少しの落胆がこみ上げる。

「シュウさん」届くはずもない声量で、朱自身の覚悟のためにつぶやく。

 失敗したという表情で焦っているシュウを見ると、朱はむしろいくらか気持ちが据わった。それでも足は驚きと緊張で震えたままだ。奮い立たせて近づいた。

 シュウの隣にたどり着いてから、引き結んでいた呼吸を解放する。

 彼の盛大なる独り言を聞いた後であれば、朱も多少の妄言を放ったところで許されるはずだ――と、脳内でひとり、言いわけをした。

「……わたしは本土の生まれ育ちで、ここに来るのは初めて。写真を撮りに来たの」

 首から提げたカメラを掲げて見せる。反応をうかがうように目を見れば、シュウの瞳の中で混乱と怪訝さが混ざっている。

「友達がこの諸島の老人ホームで働いていて。そこで、地元のひとたちが撮った空の写真展をやるからって連絡をくれたの。島の空じゃなくてもいいから何か作品を出さないかっていう誘いだった」

 眼下の景色には五つの島が浮かんでいる。そのうちどこに友人がいるのかも知っていて、その気になれば会いに行ける。何でもできそうでいて、身動きがとれなくなるような、もどかしい距離だと思う。

「その子とは……ずいぶん前に上手くいかなくなって、連絡をとらなくなってた。今でもやり直せるとは思えない。けど、写真は送ろうと思った」

 唯一無二の友人の姿を脳裏に描く。恨みつらみに満ちた朱の言葉をいつも受け止めてくれた友人だった。それに過度に甘え、負担をかけすぎたのだろう。空の写真を撮ることだけが自分の世界そのもの、と過ごしてきた朱に友人がかけた、たった一言。

『いいかげんに、地に足をつけろって言ってるの!』

 朱もそれで友人が言いたいことのすべてを汲むことができてしまった。芸術にすがり傾倒して、現実を見ようとしないことへの非難だった。朱にとって空とは芸術そのもので、芸術はその他の一切を拒絶するためにあったということを、友人は正しく指摘した。

 友人はあまりに優しいから、身を切る思いをしただろうな、と思う。その痛みを抱えたままか、乗り越えたのかわからないけれど、こうしてまた便りをくれるのであれば、それには応えたかった。ほかにできることが、未だに一切見つからないとしても。

 混乱をひとまず脇に置いたのか、はたまた重大な弱みを晒したとでも感じているのか、シュウの態度は「聞けるところまで黙って聞く」と表明している。

「でも……わたしは何も変わってない。何を送ってもきっとそれを知らせるだけだと思うし、恥をさらしているみたいでつらい」

 朱は自分が何を言いたいのか徐々にわからなくなってきていた。相手に何の反応もないまま自分のことを語り続けることが、あまりに落ち着かない。友人は黙って受け止めたその果てに苦しみに呑まれていたのだと、胸に罪悪感が迫ってくる。

「あの子にたくさんのことを話してきたし、それは心底感謝している」

 もう上手い言葉は作れそうになかったので、いっとう大事なことを、とにかく述べておこうと思った。そしてそれに連なるすべてを、がむしゃらに打ち明けた。

「けどわたしはもう二度と、金輪際誰にも、期待したくない、頼らないし甘えたくない。怒りは伝えないし悲しみも打ち明けないでいたい。人間誰しも不確実なんだから、そんなものにすがって、また大きな傷を負ったら、もう今度こそは生きていけなくなるかもしれない。だからそんなことがないように……必死に注意して耐えてるの、生きていくために!」

 言葉はすべて紐づいていると、本当はシュウに歩み寄った瞬間からわかっていた。朱はそう急速に自覚した。朱はシュウの言葉に触発されていたのだった。

「誰にもすがらず、それって何か悪いことだと思いますか。シュウさんのようにひとにすがりたくはないと思うわたしを……誰かにそしる資格があると思いますか?」

 触発され、ただ問いたいと思った。

 シュウに主張をして、意見を知りたいと。

 だが口にしてから、シュウを否定したように聞こえたのではないかと気づいて焦る。同時に、内容と裏腹に勢いづいた言葉が迸ってしまっていたことを嫌悪した。その嫌悪がいつも張りついていることの悲しみが、裏側に寄り添っている。

 そう、いつだって正しいと思っているのに、だからこそどんな瞬間であっても、その矛盾をわかっている。

 シュウへの配慮と自分の本心のために、懸念への反証は、自ら述べなくてはならないと思った。

「誰にも頼らないなんて無茶なことだというのが、すごく苦しい……」

 呼吸は落ち着いているのに、泣きそうに喉が狭まっていて、言葉を絞り出すのはそれが限界だった。柵を握って息を吐く。

「……どうして何も話したくないの?」

 やがてシュウが同じ柵に指先を添えて、静かに問いを発した。

「相手への期待とか、甘えだから」

 期待も甘えも適切な重さがわからない。わからないから関係性を瓦解させてしまうという恐れが膨張する。恐ろしいから、そもそも一切しないと決めてしまう。それは朱なりの理由に基づいた合理的な手段で、生き方のひとつだと認められてほしかった。

 まして心を閉ざしているなんて責められたら、それは想像だけでもつらい。シュウは純粋な疑問として「どうして」と訊いた声色をしていたけれど、紙一重の差で非難の意味にもなるだろう。言う側でも言われた側でも、たやすく変えられてしまう。

「……こういう物の捉え方が、生きにくいってわかってる。でも、変えたくない」

「今は変えたいと思えないということ?」

 優しい言い換えだなと思う。それだけに、朱はきちんと首を横に振った。

「変えたくない、で合ってる。生きにくいにしても、わたしにとっては筋が通った、正しい生き方だと思っているから。生きやすいことが、正しいこととイコールというわけでもないでしょ? わたしがこのまま……苦しいまま生きていいということは、わたしにとっては希望なの」

 でも。友人は自分のようにならないで、上手く打ち明けながら生きてほしい――そんな気持ちは同時にあるのが、いつもあまりに矛盾に満ちて整然としない心のあり様というのを突きつけてくる。

 それもいつからか、そのままでいいと思いはじめていた。自分に対してと他人に対してで違う論理を持ってしまうこと自体を認められるようになれば、自分に対しての論理も本当に非の打ちどころがなくなるということだ。

 シュウはずっと考える素振りを見せていたが、長い時間をかけて処理したらしい言葉を、やがてつぶやいた。

「……そうか、きっとそういう生き方もあったんだな」

 朱の苦しみを増さない理解を選び取ってくれたことにほっとする。その理解は朱が思っているよりも深かった。

「考え方……何を正しいと思うかは、人それぞれ、変えなくていいんだろうね。でも無茶な考えだと思う苦しさが朱さんに及ぼしている影響が、少なくなればいい――と思うのは、周りにも許されるの?」

 まるで考えたことのなかったことを問う言葉に、朱は心の底から驚いた。

 けれど答えは、最初から一番目につきやすいところに用意していたみたいに、すぐに出てくる。

 ――あの子もそう思ってくれていたらいいな。

「うん」

 喉のどこにもつっかえずに出た言葉は、単純な肯定だった。

 朱が寄ってきた用件が終わったことを察したのか、シュウは改めて切り出した。

「……見苦しいところを目撃させて、すみません。それと、何も聞かないでくれてありがとう。さっきの俺の言葉については、ちょっと上手く説明ができません」

 朱も特に聞くつもりはなく、ただシュウは本当は話したいのかもしれないな、とだけ思った。

 シュウは気を取り直したような声色で言う。

「朱さんの苦しみはどこから来てるの? 俺は家族――いや、そればかり気になってしまう自分ということかも」

「……わたしも家族」

 だが突然の打ち明け話を経たとしても、こればかりはシュウに言えるはずがなかった。

 ――ある日忽然と、朱の兄は消えた。朱はまだ歩くこともできないような、記憶にない頃の話だ。年子であるらしい兄も、自分で失踪できるはずはなかった。その不可解なままの謎、喪失と追慕が、両親にあまりに深い影を落とした。朱もその影の影響から逃れられなかった。

 親に必要とされていたのは兄で、自分には価値がないのだと思う道しか、あの頃の自分にはなかった。今になれば、それは親の意図的な振る舞いだったのではなくて、不幸な影を払拭するための正しい手段を親も知らなかっただけなのだと、理性では考えられる。

 それでも、シュウに言えるはずがない。

 朱はまだ親を許せていないし、目の前の男は――兄と同じ名前なのだ。

「……シュウさんは、家族を探しにここに?」

 聞いてはならないと、心臓が早鐘をうつ。彼岸でいつも手を振っていた想像上の兄のかたちが、異形にゆがみ、シュウと重なってしまう。

「いや、それは本当に当てのない話で。本当は……一生手に入らないと自分をなだめにきた、というのが近いかな。この島で生まれたのかも本当かはわからないんだ」

「じゃあなんで島に……」

 兄はここで生まれてはいないはずなのに、と思うことを止めてくれるような理性は、すでに放棄していた。目の前の男が何者でも、本当はどうでもいい。シュウが今まさに言った通りだ。もし兄が帰っても、あの影を取り払った子ども時代を過ごし直すことは、もう絶対にできないのだ。

「昔の知り合いに聞いて推測したのもあるし、ここがルーツで、ここへ帰れっていう存在もいるから」

 妙な言い回しだった。それだけに、そんなふうにしか言えないことなのだという不思議な率直さを持った言葉のように聞こえた。

 それにあまりに大きく激しかった独り言が、実ではそうではなかったということかもしれない。あの言葉には相手があったのだろう、彼にだけは。

 シュウはその朱の想像を汲んだかごとく言葉を続けた。

「……でもやっぱり、誰かに言われたことで気持ちを決めるなんて不可能なことだって、来てみて思ったよ。何の記憶もないところなんだから当然だけど、親しみや懐かしさが湧くなんてことなくて、ありふれたひとつの島、旅先のひとつとしか思えないって確かめられた。だからそろそろ帰ろうと思っているところなんだ」

 朱はシュウ越しに見る兄の虚像に、言葉を浴びせたい衝動がこみ上げた。

 ――父が入院している、一緒に見舞いに行って。母と会って。親しみも懐かしさも、そこで確かめられるから――と。

 まったくもっておかしいのだとわかっている。名前と年頃が同じ人物など捨てるほどいる。記憶のないものに紐帯なんかない、戻ってくるものもないと朱だって心底思っている。

 友人の手紙はあらゆる意味で僥倖だった。朱が他人から与えられた恩恵を持っていると疑いなく思えるのは、あの友人が唯一だ。それが過去の遺物ではなく、今もまだ与えられ続けているという確信を持てたことは、形容できないほどのちからをもたらした。

 容態芳しいとはいえず、惑いや哀れみは湧くものの、近くにいればいるほど内心の和解できなさ、愛情への疑いを認識せずにはいられない父。あの手紙のおかげで、作品を撮るためと言ってつかの間そばを離れられたのは、久しぶりに深呼吸ができたことに等しかった。

 けれどわかっている。戻らなければならない。許したいのであれば、それこそ時間はいつまでもあるわけではない。

 そう、許したいと思い始めてから余計に、身動きがとれない。

 自分からすべてを奪ったと恨むばかりだった兄に対し、その心情と距離を置いて「もしここに彼が戻ったら」と考えるようになったのもその頃からだ。

 父も母も、兄を奪われてしまったのは同じだった。その穴の健全な修復の仕方を知らないままここまで来てしまった。それでもそれは永遠に続くと思っていたのだ。

 今度は父が奪われるかもしれない。朱から、母から、そして見知らぬ兄からも。

 ……いや、彼は最初から三人まとめて奪われていてしまっていたのだと、ようやく思う。

「朱さん」

「……なんですか?」思考に音声はない。不意な実声は喉が暫時抵抗する。

「泣いてるので」

「……そうですね」

 ひどく整っていない声なのは、不意な発声だからというだけではなかったようだ。けれど些細な不具合だな、と思う。

 いつも泣くたびに呼吸が苦しくなって、だから泣くこと自体が嫌いだった。今はただ涙が出るだけだ。目元の濡れた感覚に感じ入ることができるほど、落ち着いていた。それならば嫌いじゃなかった。

 苦しいのはいやだな、と素直に思う。苦しいから間違っているとは決して思わないけれど、それと同等の重みで。

「そうですねって」

 シュウは朱の反応が面白かったのか、ふっと息を吐いた。空気が少し軽くなり、朱も気と言葉を取り直す。

「……わたしの苦しみは……、父が病気になって。今まで持っていたものに気づかされたんです、いいものも悪いものも。それを失う予感に、どうしていいかと」

 でも、と言ってから息継ぎをした。

「そばに行って、言いたくて言えなかったこと、どんな風にでも伝えてみる。写真に添えるかたちであれば、わたしはきっと無限に言葉が湧くと思えるし」

 芸術の内側にいつも引きこもっていたと思っていたけれど、本当は外との接点であったと、言葉にしてから知った。芸術とはひとつの自己表現で、朱にとってはもっとも雄弁で頼れるものだ。

「写真か……そういう芸術もあるよね、俺はまったくの素人なんだけど。ここで撮った写真って、今は見れるの?」

「デジタルでいくつか試したぶんはありますけど、ただの練習です。わたしはフィルム派なので、本物は現像しないとだめですね」

「ああそうなんだ、残念」

 話題が和らいで、ようやく緊張や恐れを捨てきった。ほっとした気持ちになると自然とベンチに腰が落ち着いた。

「シュウさんの芸術は、ピアノですか」

「あ、ひょっとして聞いてました?」

 食堂の、と言うので、朱は頷いた。

「上手でした。それに優しい感じがした。あの曲、柔らかくて気持ちよかった」

「どれかな……あ、子守歌? ブラームスの」ハミングで冒頭の旋律を再現する。

「あ、そうそれ」

「ありがとう。ブラームスはみんな好きになるような作曲家だよね。なんていうか誠実な筋が通っていて、駄作がないんだ。安心できるよ。ずっと触れていたいけれど、軽々しく扱ってはいけないような気もして……いつも純真に音楽に向き合わせてくれる、そういうすごさがある。俺は最近になってようやくきちんと弾けるかなって思えるようになって、後ろめたくなく好きになれたんだ」

 シュウの表情と語り口は、生き生きとしていた。シュウの愛想は音楽に向けてならば発揮できる類のものなのかもしれない。

「そういえば朱さん、ブラームスみたいだなってちょっと思います。ブラームスって人生のすべて音楽にあてて、衣食住もお金も全然興味ないひとで。内心ロマンチストな面があって、酔わせるような旋律も豊かに持っているのに、作品にはほんの小さくしか出してくれないんだ。彼は生い立ちが苦労していて、だから悲観的なようなんだけど、そういう下層の暮らしや土着の文化から目を逸らさず作品に込めてた。作品に媚びたものはひとつもない」

 シュウは目をすがめ、島の眺望を味わっている。太陽はもうほとんど海に沈んで燃え尽きようとしていた。

「彼は孤独で、それは音楽に向き合うための静寂だったんだと思う。ブラームスの演奏をしようとする限り、音楽が他人事になることはない。そういう信頼があるよ。あと……きっとこれがものすごく大事なんだろうけど、ただひとり、女神がいたんだ」

「女神?」

 朱の問いに、燃える海を眺めたまま答えた。

「クララ・シューマンという女性だよ。ブラームスが尊敬した作曲家の妻で、ピアニスト。彼女に曲を見せ、捧げてたし、生活全般も献身的に支えた。クララが逝ってから翌年にはブラームスも死んでしまった」

 シュウは陽が没するともに、ぽつりと付け足す。

「生きるちからの源泉になる存在は、誰しもにいるのかも。たとえ生身で認識できるような邂逅を、していないにしても」

 朱も陽の入りを見送る。自然と、宿に戻ろうと思った。シュウも同じことを思ったのか、隣でさっと立ち上がる。かと思うとまだ座ったままの朱に告げた。

「――戻って、よかったらもう一曲聞いてくれませんか」



 管理人に許可をとって、シュウがピアノの前に座る。

「もう夜だから、一曲だけ」

 右の薬指から始まる、寂しく静かな単音。ゆるやかに手首と肘がしなり、音は旋回しながら伸びていく。ひとりで管楽器を吹いているさまが思い浮かぶ旋律だ。大きく息を吸い直すように合間を挟む。その後ひそやかな伴奏を伴って、同じ旋律を繰り返す。同じモチーフが少しずつ色を変えていく。静謐な朝が、昼を経て夕景に変わっていくかのようだった。遠くに海の揺らぎが漂い、新緑の下生えが香る。

 つかみどころなく、風に吹かれればすぐに解体していきそうな、しかし非常に深い叙述性をはらんだ音楽だった。特に最後の切なく染み入るような和音は、無感動で退屈な内側から見いだす報いの音のように聞こえた。

 開いた両手がそっと押さえた最終音はあまりに小さい。夢と現実の混ざり目を閉じた、ささやかな効果音だと思った。

「……不思議な曲……」

「そうだよね。『小さな羊飼い』ってタイトルがついてるんだ。俺はなんとなく、草原の箱庭が思い浮かぶな。ノスタルジックな色遣いの、人形劇かセルアニメみたいなものでできてて……それを子どもが憧れるように眺め、浸っている様子を、見守っているみたいな」

 シュウはそのイメージを込めて奏でたのだと、朱は悟った。

 芸術に込めたものを自覚しながら、それをひとに開示し続けることに、朱は憧憬を注いだ。

「あの、写真送ります」

「え?」

「空の写真と……実はピアノを弾いてるシュウさんも撮っちゃったので。現像したら送りますから、もしよかったら送り先教えてくれませんか」

 シュウはしばし面食らってから、「楽しみです」と諾した。

「自分の写真ってまったく持ってないから。見たらもう少し、抜け出せるかも」

 何が? と朱は表情で問う。

「愛着の対象がない子どもだった自分はみじめだ、という気持ちから」

 シュウは、その認識からすでに一歩引いているという表情を浮かべている。

「親や妹、似た年頃の友達がいなくて、日がなピアノだけを弾いていた。そこから何か取り戻すことは永遠にできない――それでいいと認めたいんだ」

 買いかぶりだ、と一瞬思ったが改めた。シュウは言葉を偽っているようには聞こえなかった。シュウは自らそうなっていこうと志向しているから、たぶんどんなものも、役立てていくのだろう。そのひとつに朱の写真も含まれるのであれば、それはそれでいいと思った。



 翌朝、朱がシュウに出会うことはなかった。船は一日のうち朝と夜の二便しかないので、朝便に間に合うよう、すでに宿を出たのだろうと推測する。朱の滞在予定は明日までだ。本番用、と決めているフィルムカメラで何枚か撮ってはいたが、何か足りないとも思う。

 その上今朝は管理人が開口一番、「昼から天気が荒れそうだから、今日は船はやめたほうがいいですよ」と告げていった。つまり、あまり悠長な外出はできないだろう。

 まあいいか、と息を吐いた。

 食事をして、疲れたらまどろんで、あとは未整理になっている膨大な感情のために時間を使ってもいいかもしれない。どんな写真を撮るかは考えているつもりでも、それで友人に何を伝えたいのか、考えられていないのだから。

 友人への言葉、家族への心情、自分の考え方と生活のゆくさき。いつも目の前は翳っていて、自分の先に道があると信じることができなかったから、先のことを考えるのもできなかった。

 けれどその先を、ひょっとしたらカメラは写してくれるかもしれないと、ふと思うことができたのだった。


 思索を巡らせた一日はあっという間に明けて、帰る日が訪れた。

「じゃあ元気で」

「はい、お世話になりました」

「また来てね」

 管理人の嫌味のない言葉に、内心で肯定の返事をした。

 昨日の昼過ぎから降った土砂降りの雨を、今日の晴天は早くも乾かそうとしている。水のたまったところと乾いたところが交互に視界に現れるのを眺めつつ、船着き場に向かって歩いた。

 その道の脇で、いくつかの花が揺れている。咲き誇るという言葉がふさわしい、生命力にあふれた色鮮やかな花だ。大きな露をいくつも浮かべている。

 朱がじっと眺め続けていると風が吹き、露がしたたる。

 それは妙にゆっくりと、網膜に焼き付くほどの印象でもって、朱の心へと落ちた。

「……あ」

 自分の表現の源泉を見つけた。

 朱は深呼吸をして、カメラを構えた。

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