眺める
シュウは近頃、よく窓の外を眺めている。
以前は、レッスン中はよく集中していたものだった。それが最近は、水無月の話も上の空という様子であることが度々だった。鍵盤に指をつけたまま、ふと気づいたように外を眺め、木々の揺らぎをしばし見届ける。視線を戻す挙措には、水無月に取り繕っているのか、あるいは己を宥めているのか、掴みがたいような気まずさが宿る。
「それから、ここの親指はもっと丸めて。手首の動きで弾く」
水無月は特に、そんなシュウの態度を指摘するつもりはない。もう十年来の付き合いであるが、水無月とシュウの関係は、希薄で最低限の交流しかしないものとして維持されていた。
「はい」
つまり水無月とシュウには、ピアノの教師と生徒という結びつきだけがある。
同じ家に住み込んでいて、シュウの養育環境に共感を覚えるようになり、そしてシュウの今般の態度に感じ取るものがあるとしても――それを変えることは水無月にとって、あまりに困難なことであった。
*
「水無月様、あなたに子どもの教育を……いえ、全般的なことはわたくしたちが行っているのですが、ピアノの教育をお願いしたいのです。ここにいる者は音楽においては素人なものですから」
十年も前のことを、よく覚えている。
その家に着くとふたりの女がいた。ひとりは妙齢で、もうひとりは若かった。妙齢の女は表情を変えずに語るので、やりやすいなと思いながら聞いていた。
「辺鄙な場所な上、わたくしたちと同じく住み込みでございますが」
「かまいません。ただ断っておきますが、大したことはできませんよ、私は演奏家だったことは一度もなく、これまで誰かに教えた経験もありません」
水無月は、仕事の話を持ち込んだ男にした説明と同じものを繰り返す。女の言葉もそれを承知していた。
「わかっております。サクドウがそれでよいとお願いしたのですから」
水無月が聞いた男の名前に違いなかった。彼が雇用主にあたるのだろう。
「サクドウが条件として提示したのは、ピアノを教えるにあたり、調律含め他の者をここへ呼ぶ必要がないこと。その点は間違いございませんか」
水無月は頷く。
「ええ、それは……」サクドウは、世間から離れ己のことだけ考えて生きたいのであれば、ちょうどいい仕事があると説明した。「……確かに」
都市からずいぶん離れた山奥に衣食住と仕事が確保できて、関わる人間はたったの数人。ついでにこの家はどうやらなかなかに大量の本を蔵している。訊けば、自由に読んで良いとのことだった。ピアノは自ら触れていたいとは思わないが、それらの条件と秤にかけることが耐えられないほど忌避してもいない。ピアノに罪はなく、その英才教育にしか関心がなかった親に罪があるのだ。
そう、確かに悪くない。
「では。改めましてわたくしはヴェル、こちらがストラでございます」
ストラと呼ばれた若い女性は、楽天的な雰囲気の笑みを浮かべた。居住まいや口調に厳格さがにじんでいるヴェルとは対照的に見えた。
「では、シュウを……あなたの生徒となる子どもを紹介いたします」
そうして導かれた部屋には低い柵の囲いがあり、水無月は『領分』という言葉を思い出した。
クロード・ドビュッシーの作品に『子どもの領分』というものがある。いわく『領分』とは、子どもを安全に養育するためのスペースとして、柵で囲った空間のことらしい。作曲家はその領分の中にいる我が子にあてて六つの小さな曲を書いたのであろう。かの曲について学んだときにわずかに頭に引っ掛けただけの知識が、今頃よみがえるとは、とだけ水無月は思った。この辺りでは家庭教育自体は特に珍しいことではない。
『領分』の中で絵本を眺めている子どもが、それが必要なほど幼くは見えないことのほうが印象的だった。世界をこの柵の中だけで完結させているとしたら、自閉的過ぎると考えなければならない年頃だろう。
「彼はいくつですか?」
「ええ、挨拶させます。シュウ、今日からこの方があなたのピアノの先生ですよ」
ヴェルが「ご挨拶なさい」と子どもを呼ぶと、子どもは数秒置いて振り返る。
「……ピアノのせんせい?」
「そうです。ほら、名前と歳を言って」
「なんで? ……うたがいいのに」声色は無感情だが、言葉は不満を表出している。
「歌はだめだと、前から言われているでしょう? でもシュウがどうしてもと言っているから、ピアノであればよいと、こうして先生を探してきてくれたのですよ」
子どもの動作は、あるいは感情の機微は、どうにも緩慢で冗長だった。じっとしばらく黙った後でようやく頷く。
「……シュウです、四さいです」
拙い舌の回転と、名前の後に年齢を言うところは相応に子どもっぽいし、敬語で自己紹介をするところには教育を感じる。彼の世界の広さについては、水無月は興味はなかった。どんな発達と生活をしていても、水無月には関係がない。
「水無月だ。シュウ、よろしく。四歳ならピアノを始めるには良い時期だ」
反応が遅く鈍く物静かで、必要のない『領分』からさえも、まったく出るような素振りがない子ども。
それが初対面のシュウの印象だった。
*
「シュウって、水無月さんに似てきましたよねえ」
「は?」
水無月が本を読んでいると、ストラがコーヒーを分けてくれつつ、そう述べた。
「昔からあんまりわがまま言いませんでしたけど、そういう無口なクールさとか、最近よく窓の外を眺めているポーズとかが、どんどんそっくりになるなあと思って」
「……そうですか」
シュウの「クールさ」が、ここでの生活の――つまりストラの態度の――賜物であることを、水無月はよく理解している。
「シュウを甘えさせないように教育したのはおふたりでしょう」
ストラは無邪気に頷く。「そうですね。でもわたしは、ほんとは小さいうちのシュウを、ぎゅってしたりしたかったんですよ?」ヴェルさんに怒られるからしなかったけれど、と笑顔のまま言った。
水無月は理解だけでなく、ストラとヴェル、そしてふたりにそうさせるサクドウの多分に不可思議な態度に、とっくに慣れてもいた。まっとうに育った人間であれば、たぶん異論を挟むべきなのだろうという部分を含めて。
シュウの養育にはいくつかおかしいことがあって、歌と外出を――もっともらしい理由の説明もなく――禁じられていることが特に大きな点であった。
水無月は、それらの不条理に制限的な生活がシュウの愛着を歪めたのだという事実には感心を払わないようにしていた。歌や外出は禁じられていなかったとしても、水無月とて自由や無条件の愛といったものとは、まったく縁のない子どもだったからだ。共感はあれど、それを表出して癒すすべを水無月は知らない。ましてや同情に浸ると、自分の内なる子どもが恨みがましく暴れだすのを感じる。そんな情を抱えていては、どうやって過ごしていいかわからなくなった。
それでも、十年という長きを経てほんの少しずつ深まった関係が、彼の心肝を同情的に汲んでいた。窓の外を眺めるまなざしがはらんでいた、懊悩と飢えを。
「……シュウは外へ出たがっているのだと思いますか」
「え?」
水無月は、すぐに言葉を訂正した。
「いえ、なんでも」
ストラは小首をかしげただけだった。
*
その日、シュウはやはり外を見ていた。水無月の入室に気づくと、焦ったような表情を浮かべながら視線を戻す。取り繕うように「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「こちらこそよろしく」水無月はまた何の詮索もしないことにして、出会った頃から変わらない応答を口にした。
シュウは徐々に大人らしい手の大きさになり、体つきも整ってきている。シュウにとってピアノはよるべとするに足るものであったのか、ほかの物事に対するような無関心さは、意外にもピアノにおいては一度も見せたことがなかった。まじめな取り組みを十年も積んでいるから、「子どものお稽古」という稚拙さはもう見当たらない。綿密な技巧をシュウはすでに手に入れていた。
「…‥これをやろうと思って」
シュウが指した曲は、ショパンのプレリュード第十五番――『雨だれ』だ。難易度も体の負担も、特に反対する理由がない選曲だった。
シュウが、真にピアノらしい楽しさを味わえる発展的な曲に取り組めるようになったことは、水無月にとっては悩みであった。これまでに無視してきた問題がこれ以上はそうできまいというほどに肥大することと、同一であったからだ。
シュウのピアノの響きは、あまりに自己憐憫的なのだ。
彼の演奏は昔から、さみしい、かまってほしいと言葉にすることの代わりに等しかった。ヴェルとストラにそれとなく感想を聞いた際には、特にそのような情は感じ取っていないようだったけれど。
芸術という自己表現の手段を手に入れてからずっと、彼はその懇願をいつも無意識にこだまさせている。こんな子どもが、ろくに外に出ることもなく、同じ年頃の友も持たず、ピアノにばかり向き合って暮らしているのだから道理ではあった。彼には明らかに、ひととのつながりが欠けているのだ。自分を肯定し、自分が自分として生きていると感じさせてくれるための安定的な『土台』が。
そういう主張を全面に出す演奏が必ずしも悪いものとは言えないにしても、それしかできないのであれば、それはクラシックピアノという音楽を真に豊かに楽しむという点においては明らかに阻害されている。
それをわかっていながら水無月がその指摘や矯正を試みてこなかったという、この十年来の罪を突きつけられるのだ。
「ああ、いい選曲だと思う」
いくつか注意すべきテクニックを説明すると、シュウは頷きながら聞く。その集中のほつれ目に、また外を眺めた。
これまでと違ったのは、戻したシュウの視線が水無月に据えられたことだ。
その視線ひとつで、言葉と、思考までもが詰まった。水無月は時間を縛られたかのように、あらゆる言動を行使できなかった。
やがてシュウが緊張した面持ちで口を開く。
「……先生。俺は……」
シュウはそれ以上の言葉を発さない。呼吸を乱し、声を震わせていた。
どうしたと聞いてやればよいのだ――と、頭の端にささやきが聞こえる。その声は理性的で正しいものだと理解できた。
だが、彼の『土台』を引き受けようと、水無月はどうしても思うことができない。
水無月が時とともに拾ったつぎはぎな情報で断ずるなら、彼は「家族から引き離された子ども」であり、彼が培えなかった『土台』とは、家族への愛着だ。
シュウは水無月が来る二年ほど前にこの家へ来たらしい。
つまり四歳当時、彼の人生には、二年間という短すぎる――他方、彼の人生のうちの丸ごと半分に相当する――期間を過ごした過去の居場所というのがあり、それ以降の居場所がこの家ということであった。
この家にいるふたりの世話人は、どちらもシュウの母親という年齢には見えなかったし、事実そうではなかった。またサクドウも聞く限りでは父親ではなかった。その上、「シュウの妹は特に問題ないようだ」という意味深な言葉を聞いた覚えがあった。その妹の名前までも、また別の場面で聞いた。
つまりは、サクドウとふたりの世話人はシュウの家族のことを多少なりとも知っていて、特に話すこともないし、彼に親がいないままの――そこから得られるはずの適切な庇護や愛情とも無縁な――生活を続けている。
過去の居場所がどのようなものであったかはわからないが、幼い子どものよるべというのは生まれたときから胸に抱きかかえてくれる存在、平たく言えばだいたいの場合は親だ。
怖くなったらくっつく、そして安心したら離れる。それを繰り返し、やがてその親の姿かたちがなくなっても子どもが健全に他人と過ごせるだけの能力を身に着ける年頃は、二歳ではとても足りない。愛着の本によれば決定的な臨界期は一歳半頃らしいが、それでも五歳頃までは非常に繊細で、特定のひとりから交替することはその子どもの情操に傷を負わせるのだというから、シュウの心には土台となるものが、「さみしい、かまってほしい」と本当に言いたい相手が宿りそびれてしまっているのだ。
本には、その『土台』は親でなくとも、親しい他者が代わって培えると書いてあった。その他者は、共倒れのリスクはあるにせよ、同じように愛着の課題を抱える者であっては不可能だと排されてはいなかったし、同じ「根源的な苦悩」――ひとの世話をして、労り、愛情をかけることにおけるつまずき――を感じる者のために力を発揮できることもあり得ると書かれていた。
つまりは水無月も代わることができると、その本から知った。だからこそいっそう、そのようなことは到底できないと実感したのだった。
水無月がこれまで、かりそめであっても『土台』と思えたものは本だけだ。ひとにすがって生きる不確定さが受け入れられず、なるべく関わる人間が少ない環境にいたいとずっと願い続けてきた。住み込みの教師なんか倒錯していると知っていても、不特定多数が相手でないのならば、その限られた相手にだけ自分の恨みも無関心もわからせてしまえばよいと心のどこかで感じていた。
かりそめであっても分け与えることで本物の『土台』を生み出せる。それを知っていてなお、そうしてこなかった月日が――シュウの視線が、水無月を激しく苛む。
シュウの視線にすべてが手遅れであることを知り、シュウの次の言葉には断罪があると思った。
この日、彼が続きを言うことはなかった。
*
朝から雨が落ち続けている。シュウはいつになく考えこんだ音で『雨だれ』を弾いていた。いつもの慟哭のような欠乏の表出も、なりを潜めていた。
導入は甘く柔らかい始まりであり、再現部的な終盤もまた、穏やかな雨上がりの陽射しの中を、滴が電線や屋根から伝って落ちてくるような終わりで、その合間には雨がつんざくように深く激しくなる中間部分がある。
外の雨は、その導入のように控えめで、とうぶん上がる気配はない。
シュウの意識は、その雨音に相当する音の連続に注がれていた。外の規則的な音に合わせるがごとく生まじめに、滴のひとつひとつを追いかけて。
枝葉だけを気にした、まるで本末転倒な演奏だ。だがそれは初めて聞く、彼の悲しみから独立した演奏だった。何かを考えこんでいて、それを雨音の単純な反復に乗せているようだった。
中間部分にさしかかり、穏やかだった音が、次第に夜の深いそれに変体していく。旋律と雨音の役割を、両手で交換しながら様子は変わっていき、暗い懊悩を潜ませそうな低音が、いやに純潔に響く。
外の雨は穏やかに降り続くままだ。演奏が夜明けと雨上がりを迎えて、ダンパーペダルを離して音の余韻まですっかり消えた後でも。
「……シュウ?」
シュウはまるで聴かれていたことに気づいていなかったらしく、はっとした様子で振り返った。それほどの集中のこもった演奏であることも確かだった。
「――先生」かすれてどもった声に、苦しげなほどの狼狽が浮いている。
「あ、いや。今の『雨だれ』、これまでとまったくちがって聞こえたよ。……いい演奏だった」
水無月が訝しげに声をかけてしまったことを取り繕うと、シュウは落ち着かぬ様子でこうべを垂れた。やがて小さくつぶやく。
「……その……。先生、俺。どうしよう、どうしたら……」
シュウのおもてにありありと浮かぶ混乱が、彼をいつになく雄弁にしていた。それにつられて、先日は言えなかった言葉を口にする。
「――どうした」と。
水無月の声を泣きそうな顔で受け止めて、逡巡の果てにシュウは述べた。
「……雨……を、もっと上手く、弾くにはどうすれば……」
それが本心でないのは明らかだ。だが常にない様子の彼の、ようやっと振り絞った言葉をそのまま受け止めてやるべきなのだと、水無月の内なる子どもが教えた。
その子どもの言葉に耳を傾けることは恐ろしい。だが、もはや止めることはできなかった。「どうした」と言った瞬間から、先日とはちがう分岐へ進んでいた。その先に待つ破滅を予感しながら。
「シュウ、たとえば……今の演奏は雨の部分だけ考えられていた。もっと全体のバランスや、旋律の部分に注意して。どんな旋律だと思う?」
シュウに旋律だけ取り出して弾かせ、表現の指示や音の変化に注意を向けさせる。おぼろながら、優しい情緒を込めようとしているのが感じられた。
「それから雨の部分も今は一本調子だから、ほかの表現を考えて。そうだな、雨じゃないけれど……雪ならこんな曲とか」
シュウに鍵盤をゆずってもらい、軽く奏でてやる。右手の柔らかく寂しい古代旋法からはじまって、同じ動きをわずかにずらしながら左手でも刻む。繊細なスタッカートによる規則的な音の流れの中に、旋律とも背景とも言い難い長音を加える。
絶えず降り続く雪の中、ぼやけた声が、徐々にはっきりとどこからか聞こえてくるような曲だ。
「この曲は、子どもが雪の降る外を窓越しに眺める様子を書いた曲と言われてる。外、見てみな。どんな気持ちになる? 曲に、どんなことを感じられる?」
シュウは外を眺めた。ひたむきな視線が、音楽の本質に初めて触れているのかもしれない。外への憧憬に満ちている可能性は、今ばかりは思い当たらないふりをした。
一通りのレッスンを終えて、彼は少しばかり落ち着きを取り戻したようだった。それでも、ピアノの音でできた張りぼての安全基地に、何年経ってもかたくなに閉じこもったままだった彼が、どうしようもなくそこから追われ、ぼろぼろの身なりで這い出してきた姿であることは変わりなかった。
シュウは、今度は自分から述べた。
「……こんなこと、だれにも言っちゃいけない、けど先生、俺……」
怯えなのか、両手で耳をふさぐような動作さえ見せる。水無月はえずくようにこみ上げる抵抗の中から、彼に対してできる限りの支持的な言葉を選んだ。
「シュウが言いたいなら、何を言ってもいいんじゃないか」
恐れながらすがりつくような瞳で、シュウは「ほんとう?」と小さくつぶやく。それからずいぶん迷ってから、聞き取れないほどの小さな声をこぼした。雨だれの一滴のような音だった。
「……むかし、言ったかわからないんだけど……ピアノじゃなく歌がよかったって。その理由」
そういえば、小さい頃はずっとそんなことを言っていた。すっかり聞かなくなってから、かなりの年が経っている。
「昔? 悪い、なんて言ってた」
「たぶん、俺……」非常に言いにくそうに、さらに消え入りそうな声で言う。「歌えって、声が聞こえるからって、言った……」
「――ああ」記憶の中から真偽は確かめられなかったが、相槌をうった。
「言ったら、ヴェルに怖い顔で、何を言ってるんだって怒られたから、言わないようにって思ってた。けど本当に聞こえるんだ」
「声が?」
「そう――」弱々しかったシュウの声はだんだんと確信を帯びる。「今もしてる」
二の句が継げない水無月に、シュウはたたみかけた。
「ここ数年はなかったけど、最近また、昔よりはっきり、たくさんの言葉が聞こえる。女の子の声なんだ。――かわいそうな思いをさせてきた、でも俺には歌がある、歌えばここから出られて、生まれたところへと帰ることができる。家族のように俺を求めるひとのそばにずっといられるようになる、不安もさみしさもきっとすべて埋まっていく――って、言うんだ……!」
徐々に興奮の混じる、叫びのような声になってゆく。
「こわくて、どうしていいかわからない。ねえ先生」
「怖い? 何が」
「だって」
シュウの両手がとうとう、水無月の両腕をつかんだ。水無月の内心も恐ろしい気持ちに支配されていた。彼のために真摯であろうという気持ちと、他人に情を注いでろくなことが起きるわけがない、という気持ちの相克がもたらす恐ろしさだった。そんな自分は哀れでならなかった。
「そもそも、どうして当たり前に外へ出られないの。普通は家族のそばで不安もさみしさもなく生きられるもの? ――俺がここにいるのは、そんなにかわいそうなことなの?」
本だけがよるべで、他者のことは眺めているだけの、そんないつもの自分は哀れではない――はずだった。
その認識がもはや戻れぬ過去のものだと、水無月は認めていた。返せる言葉がないままに、頂点を穿ったシュウの慟哭が引いてゆくさまを眺める、やがて何事もなかったかのように静かな雨音だけが聞こえる。
シュウはその長い沈黙にきっと答えを得て、最後の決意をしたはずだ。両腕にすがりつかれていた重みがぱっと離れた。
その離別で、水無月は続くシュウの言葉を悟っていた。
「でも、ここでは誰も教えてくれないから。……だから、俺は行く」
ああやはり、とだけ思った。止める言葉は自分にはないと、自然に感じていた。
シュウが腹の底から息を吸いこみ、両の目で水無月を見る。森の色を映したかのように、わずかに緑をはらんでいる気がした。それは彼に話しかけるという女の子が、彼のからだをとうとう思うがままにしたという、占領の色なのかもしれなかった。
乗っ取られたはずの緑の瞳から、涙がこぼれているのが見えた。
「……せめて聞いて、先生だけは」
彼はやおら立ち上がると、聞いたこともない音色で歌いはじめた。日頃声がれを起こすこともあるような声変わり中の、しかも泣きながらとは到底思えない、強くて深い声がシュウの喉から滔々と流れ出している。
異国のものじみた歌詞と旋律に、強い悲しみと祈りが見えた。
シュウの周りからやがて、この世のこととは思えない景色が生み出されていく。
まず風が吹き、光が舞う。小さな異変は徐々に膨らんだ。電飾は明滅し、大きく地面が揺れた。ひとひとりの声とは思えないような重音が聞こえ出す。水無月は座りこんだまま手足を動かせず、声も出ない。目線を動かすことだけがせいぜいだった。
洋々とした歌はみるみるうちに怪異を深めていく。その最たるものが外の様子だ。
雨が雪に変わっていた。後から後から降り積もっていくのを、ただ眺めた。
歌が終わると、呼応して一通りの怪異が収まった。だが外の雪は降り続けており、水無月の内にはまともな五感も運動機能も戻らない。
シュウが最後にこちらを見たことを、かろうじで認識した。もう緑の影を帯びていない瞳は、変わらず涙を湛えている。
何事も口にしない態度は、だが明確に別れを伝えていた。
それを理解した瞬間、水無月は急激なめまいに襲われて、意識を手放す。
*
視界がふと明転したとき、ストラの姿があった。
「水無月さん! 目が覚めましたか」
おぼつかない意識でその声を聞いた。少し離れたところから足音が近づいてきて、ヴェルの姿が視界に入る。
「起き上がれますか?」
促されて、頭の下に枕が差しこまれていたことに気づく。徐々に意識がはっきりしてきて、同時に記憶も紐づく。
「何があったのですか」ヴェルの声の沈痛さは、返事をするまでもないのではないか、と思わずにはいられない。
「シュウがいないんです! 水無月さん、知ってますか」ストラもたたみかけてくる。だがそれがもっとも肝要な部分で、それ以外に語れることは水無月にもほとんどない。回転の鈍い頭では、そこから適当な言葉を選びだすような余力もなかった。
「……シュウが歌って。外に、雪が。私は……動けず。あれはなんだったんだ……」
水無月は頭を押さえた。痛みはないが、依然として半ば眠っているような感覚があり、どうにも気持ち悪い。
ヴェルが動揺し、ストラは驚いて抗議する。
「歌った?」
「わ、わたしには何も聞こえなかったですけど……」
「そうね。私もよ」
ふたりの反応に、水無月も真似をしたように怪訝な表情になった。
「……そんなはずない。あんなに通る声で歌ってたのに」
三人して黙りこむ。やがて水無月は恐る恐る、口を開いた。
「……あなたたちは、シュウが歌うとこうなると知っていたんですか」
それはヴェルの逆鱗、いやもっと脆いところへ触れ、ヴェルは激昂した。
「――そんなわけないじゃないですか! むしろひとならざるちからが彼に宿らずに済むようにと思ったから、私は引き受けたのですよ!」
「ヴェルさん……!」
ストラがおろおろと、制止なのかさえ判然としない声色で語りかけた。水無月の視線に問いを重ねられていることを察し、困り果てる。
「わたしは……すみません、よく知らなくて、わかりません。でもヴェルさんひとりきりではヴェルさんもシュウもたいへんだろうってサクドウさんに言われたので、役に立てるのなら、と……」
水無月も、他人事のように責めることができる立場にいるなどと思えるわけがない。ふたりの返事が尽きてしまえば、特にかけられる言葉もなかった。
ヴェルはしばらくの間を含んでから、つぶやいた。
「……でも私は……そのことしか考えていなかったのであれば、彼を尊重していなかったということでは、同じ罪を犯したのだわ……」
頽れて背を丸める。全身からうらぶれた悲しみをあふれさせ、弱々しく泣いていた。
外の雪に弱まる気配はない。追いかけようのない吹雪になっていた。
「こんな雪が降るなんて、初めてですね……」
ストラが窓の外を見た。
「シュウ……シュウはこんな雪の中……」
「ヴェルさん」ストラはヴェルに近寄ると、肩に手をあてた。ちからを込めて、ヴェルに言い聞かせるように言う。「大丈夫、きっとシュウは無事です……」
子どもが領分を自ら超えたその先はただただ白く、一面何も見通せない。
生徒がいなくなった水無月は、クビを言い渡される前に、辞職を願った。
そして――シュウから手紙が届いたのはそれから十年以上も経てからのことだ。
*
『先生、本当にご無沙汰しています、そして突然の便りをお許しください。先生のもとを去った日から十年以上経っています。俺は今になって、あの場所での生活を振り返りたいと切に思っています。なぜあの場所で過ごすようになったのか、なぜ人並みに外に出られなかったのか。世話をしてくれたふたり、それから指示を出していた男は、俺とどのような縁がある人物なのか。自分に本当に家族と呼べるひとはいるのか、今どこで何をしているのか。
あの家の場所はなんとか探して、最近行ってみました。でももう長く誰も住んでいないみたいだった。壊れているところがあったので中にもこっそり入ったけれど、懐かしさや新しい発見のような、俺が期待していたものは全然残っていなかったです。
先生に知っていることがあれば、どうか教えてください。今の俺には、そのほかに打てる手がありません。』
一体どうやって水無月の居場所を突き止めたのか、と訝しんだのは封筒を見た瞬間だけで、本文を読み始めればすぐに頭の中から消え去った。経った月日の長さと、なお変わらないシュウという実体をその手に取っている気分になる。
さみしくて、不安で、口にできないさまざまな疑問と一緒に閉じこもりながら、自分の足元を確かめようとする視線を外せないままでいる――という実体だ。
ただ、今の彼はそれを自覚して、歩みだそうとしている。水無月も、シュウと過ごした十年をさらに上回る月日を経た今であれば、歩みだせると思った。
シュウの言う通り、過去の家によるべを求めることはできない。あの頃は水無月もシュウも、欠いたものだらけだったのだ。シュウの十年がどんなものであったか計り知れないが、少なくとも水無月の過ごした懲役じみた十年は、今となっては水無月にそれなりの許しをもたらした。
今であれば少しは彼の助けになれるし、そして彼が作り上げたよるべを見れば、たぶんようやく、水無月も和らぐのだろう。
シュウの手紙には、続きがあった。
『ここからは余談なのですが、先生自身のことも俺は何も知りませんね。あなたは一定の距離のあるひとでした。でもあの場所で十年もの月日をともにいてピアノを教えてくれたこと、それがなければ今の俺のかたちというものは、まったくの別物だろうと思います。俺は今もピアノを、もっとも自分のそばにある、土台のように大切なものだと思っていますし、教えてくれた先生に多大な感謝をしています。
家族というものとはきっと違うのだろうと思いますが、先生がもっとずっと俺のそばに居続けてくれるひとであればよかった、というような気持ちを、たぶん今も昔も持っています。
一方で先生にとってはただの仕事であったんじゃないかとずっと考えていましたし、それでいっそう、自分はみじめなんだと思いこむことはこれまでに多くありました。
この手紙は非常識なんだろうと思います。けれどこれを書けたこと、それ自体が俺の成長で、昔より少し、自分が楽になれる道を信じるということが、できるようになったということです。その証明……というか実感のためにひとを巻きこんでしまうのは申し訳ない部分なのでしょうが、きちんと別れも言えなかった生徒からの、そのリベンジのようなものとして、どうかお許しください。』
一枚目は字を整えて書こうとしたことがわかるものだったが、それに比べてこの二枚目は、心のままに書き連ねたという風情が強く出ていた。余談と言っておきながら、きっとそんなことは毛頭思っていないのだろう。もっと切実で深層的な言葉だった。それだけに、水無月にとってもあの突然の別れをありありと目の前に映し出されたような気がする。
あの別れの後に残っていた諦めと悟りのような心情は、愛着の喪失だったのだ。シュウの手紙は、そのことを教えてくれた。
連絡をとらなければと、末尾に付された情報を見る。電話番号とメール、住所が書かれていた。
同じ痛みを抱えたシュウがそれを癒そうとしているのであれば、彼と同じかたちで、歩みの証明とリベンジをしなくては、それに応えることができないだろう。
封筒と便箋を買いに行こうと、水無月は身支度を始めた。