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「クロエ、おめでとう」

 祝うための文字を選べば祝う気持ちが伝わると思っているのか、それとも単に情や抑揚を込めてしゃべるのが下手なだけなのか――シュウの言葉はいつも、そういう特に生産性のない問いを生じさせる。一応は後者だろうと、クロエは毎回思うことにしていた。

「おまえなあ……」

 そもそも言葉自体、過度に端的で不明瞭だ。シュウの言う「おめでとう」は、昨日終えたばかりの編入試験についての言葉で、要するにシュウによるただの結果予測としか言えない。どう考えたって言葉選びが不適切だった。

 とはいえ、シュウが親しげに自分から口を開くというだけでも、クロエは例外的な対応を受けているといえるし、クロエが毎回彼の意を汲んだ解釈をしようとし続けていることを考えれば、クロエもシュウに特別な配慮を返していた。

 気になる点はあまりに多いにしても、シュウはクロエの唯一無二の友人だ。

「シュウも、そろそろ進路を決める時期だろう。おまえはコンクールに出るか、決めたのか?」

「決めてない」

「どっち寄りなんだ」

「……えっと」完全なる中立らしい。「クロエはどう思う?」

「おれがそうしろと言ったほうを選ぶつもりか?」

 非難めいて聞こえたのだろう。返事によどんだ。

「クロエが……ずっといるんじゃないのは知ってるけど」

 昨日の結果次第では、当然遠いところへ行くことになる。編入試験を受けると伝えたとき、シュウはそのことでひとしきり動揺していた。それをまだ払拭していないらしい。

 シュウの距離感というものは極端だった。クロエの感情に対しても、ぴんと来ていないことが多かった。シュウに同学年の友達がいるのかクロエは今もよく知らない。

 ただ、シュウは懸命にクロエを好いて、彼なりにクロエの言葉に耳を傾ける。なので少しくらい嫌な気持ちになることはあるにしても、クロエはいつも直截にものを言うことで、彼とそこそこ良好な関係で居続けることができた。

「……嫌わないで」

 もう彼もほとんど大人と呼ばれる年になってきたのに、しゅんとした姿はまるで子どものままだった。語れるのはピアノのことばかりで、ひと相手には簡単な謝罪の言葉も未だ出せないらしい。そういう不器用さ、ぶしつけさも、もはや慣れているから今さら嫌悪感もない。でも苦笑はした。

「嫌いにはならないけどな。でもまずいと思ったなら『ごめん』と言うべきだし、おまえが『これが自分の考えです』って言うまで、おれは何も言わないぞ」

 柄でもないと思いながら、いちいち年長者ぶって述べてしまう。たった二歳しか変わらないのに。健全な友情なんたるやと語る訓練を何年もつまされてきたものだから、クロエはシュウに接していると自分がずいぶん丸くて穏やかな人間であるかのように錯覚する。

「それと、おれが試験に受かるかなんてわかるもんじゃない。そういう口先の言葉はよくないぞ」

 シュウにそんな器用な真似はできないので、そうじゃなく、本当にクロエが受かるのを信じているだけなのだと、知ってはいたけれど。

 このとても疲れる、けれど不思議と注意深く大切にしてしまっている関係の中に、おれ自身いつまでいるつもりなのかと、ぎこちなく指がささやく。



 ――不思議な友人。

 出会った頃から今に至るまでまったく変わらない、シュウへの印象だ。

 クロエは数年前、学園の外にじっと座りこんでいるシュウと出会った。それ以前のことなど何も存在しないかのような態度と、表情をしていた。

 こんなところで、だれだ。何をしているのか。と問うと。

「ピアノが聴けるからここにいた。弾けないかと思って。……名前は、シュウ」

 動揺のないまっすぐな返答と、それ以外には何ひとつ語ろうとしない態度はむしろ常識離れしていたけれど、ピアノを求めると言われてそれを否定できるつくりを、クロエの心はしていなかった。

「ピアノ?」

「そう、……シューマンの『夕べに』が、さっきまで聞こえてた。あの部屋から」

 しかも彼が指さした練習室でその曲を弾いていたのは、まさしく自分だった。交響曲の練習中らしく、勘弦楽器のもっと派手な音が今もそこかしこから聞こえてくるが、そちらは彼の興味には引っかからないらしい。わざわざあんなに静かな曲の音に注意を向けて、なぜだろうと思う。――いや、きっと彼が言った通りで、ピアノの音だったからだ。勝手にそう判断した。

「ピアノが好きなのか」

 毒気の生じようがなかったクロエは親しげに問いかけた。シュウは無言で頷く。

「ずっと……弾いてきたから」

 薄汚れた彼の外見は、まともな家に住んでいないことは明らかだった。この文化の――また、それは前提として人間らしい暮らしの――保護の都というべき音楽院の敷地内において、およそ考えられないことだった。シュウの見た目はクロエよりいくつか年下で、当然クロエと同じく教育義務によってまだ保護されている年頃のはずだ。ただ、先の言葉はもちろんのこと、骨の育ちや肉付きとか、汚れた服のもともとの生地もそれなりにしっかりして見えたので、ずっと路頭で生きてきたわけではないことも察せられた。

 家出だろうか、と頭によぎる。

 クロエもまだ成人とは呼ばれない年だったけれど、こういう姿の未成年を見つけたときに連れてゆくべきところは心得ていた。

 ただ、シュウは今、ピアノを弾きたいと言ったのだ。

「……わかった。おれはクロエ」

 目の前にいきなり選択を突きつけられていつも最適解を導けるほど、クロエはまだ成熟してはいない。だがとにかくピアノを弾きたいというのであれば、弾かせてやろうという気持ちだけは確信をもって抱けた。自分がシュウの立場であっても、それが一番の願いに違いないから。

 シュウの手を引きこっそりと練習棟に戻って、先ほどまで自分がいた部屋に連れて行った。途中で手を洗わせたときに観察すると、指がしなやかに長く、しっかりした関節と無駄のない筋肉で構成され、爪は短くなめらかにそろえられていて、小指がよく外へと開く。確かにピアニストの手として機能しそうだった。

「気が済んだら『ずっと弾いてきたピアノのある家』に帰ればいい」

 シュウを椅子に座らせつつ言う。するとシュウは感情の透けない瞳でクロエを見つめ、ぽつりと一言返事をした。

「帰れないよ」

 その言葉と、直後に披露したピアノが、その後の数年来続く付き合いを引き寄せたのだ。着実な努力で積み上げた技術と、人間的な過去があると思わせる、悲しみ深い演奏だった。


 クロエの親は音楽教育に関してだけはたいそう熱心で、うっとうしいと思うこともあったが、それを我が子に独占させようとしないところが救いだった。自分が少しでも関わって、音楽的に優れた人間をこの世に増やすということが生きがいで、どうやらそこから満足を覚えるようだった。

 そんな親であったので、シュウと出会った――そして拾った――ことと、ピアノが弾ける、弾きたがっている子どもだから学院に入れることができないかということを正直に打ち明けて頼んだところ、ずいぶんあっさりと協力してくれた。少しの間だけそのまま同じ家で過ごし、その後則るべき社会資源にアクセスし、未成年後見人を手に入れて学院の編入試験もパスし、彼は学園に隣接する寮に住むようになった。

 その後見人の手もそろそろ離れようという年頃だ。これまでは半ば義務の範囲で、与えられる中から道を選べたけれど、これからはシュウ自身が考えなくてはいけない。音楽を究めないとしても進学や訓練、就職を考えないといけないし、もし今後も音楽を学ぶのであれば、それは専門家を目指すということなのだ。そのことについて、シュウはどうにも考えている感じがしない。

 ここも音楽院といえど、しょせん地方の、未成年の教育に付随したものに過ぎない。専門高等教育機関である中央音楽院――と通称されている、首都にある名門の音楽大学――とは全く異なるものだ。ここでどれだけいい成績を修めていたって、中央音楽院には入学試験さえ受からないことはザラなのだから。そして、もっぱらこの圏域においてプロの音楽家とは、ほぼ中央音楽院を出ていることを指している。

 この学院でも希望者のより高度な研鑽のためと、二年前に大学相当まで課程ができた。でもそれで得られるものは、おそらくプロの音楽家というにはささやかなものだ。せいぜい一般家庭の講師とか、市民団体の手伝いとか、そんなものだろうとクロエは踏んでいた。

 やっぱり二年前に、中央音楽院を受けておくべきだった。

 卒業する年がちょうど大学相当の課程を開講したばかりで、奨学生として待遇をよくするから入学してほしいと誘われた。それを浅はかに諾したことを、今では後悔している。大学院の入試を待つほど悠長に構えていられず、編入試験を受けることにしたのだった。


 音楽のプロになるには、それがすべてではないにせよ、定石というものがある。自分では選べない生まれ方と育ち方というものが、それに深く関わっている。

 まず生まれ方。そのほとんどは、親の考えや財産のことだ。

 定石を抑えるのであれば学生のうちにデビューするのが当然で、そのためにはコンクールが重要となる。審査員の傾向や、課題曲や演奏スタイルの流行、それが自分の発達具合と相性がよいか。年齢別といえど発達の個人差が大きい子どもの頃に、本当に誰もが弾くべき曲が課題曲になることなんて稀だし、誰しもに無理のない凡庸な曲では力量差をはかるのは難しい。

 つまりは育ち方。性別、体と脳の成長の早さなどのことだ。教育はそれらの土台の上で効果を発揮する。

 そういう大人の作った仕組みに合わせられる才能まで含めて我が事と引き受けられないのであれば、音楽のプロになんてなれない。そのことに自覚的になったのは、ここ数年のことだった。同時に、定石に沿うためには、今が最後のチャンスなのだと知った。だから、優れているという定義や価値に、コンテスタントとして、一定のバイアスをかけることを受け入れようと思った。

 ぎりぎり未成年のシュウはともかく、クロエの年頃だともう、この地方にはめぼしいコンクールがなかった。ならば中央音楽院に編入して、向こうでコンクールも受ける――プロを目指す、と決めた。

 そうして編入のための一次試験を終えたのが昨日のことだ。



 翌日、シュウがまた訪ねてきた。シュウはどこにいてもクロエを見つける。会わない日のほうが少なかった。

「シューマンか」

 取り組んでいるらしい曲集を抱えていて、あれこれとクロエに訊いてきた。

 抒情性に富み懐古的な響きのする、技術よりも表現を問うものが揃った曲集だ。シューマンにはやたら跳躍したりする技巧的なものもあるが、もっとゆったりとした中に確実な芯がある、こういう曲調のもののほうがクロエは好きだった。技巧的なものは、ロマン派の時代に生きて、リストやショパンと競って書かれたものに思えてならなかった。それに彼は技巧のための過度な練習で、ピアニストでいられなくなってしまったのだから。

 クロエ好みではあったけれど、牧歌的な選曲とのんきな表情のシュウを見て、やっぱりコンテスタントであろうとなどしていないのだろうな、とは思った。

「おまえは技巧は大丈夫だよ。けど、先生は認めてくれないんだろう?」

「そう。……クロエはいつもわかるね」

「まあ……得意じゃないだろうな、こういうの」

 楽譜を見つめ、指の腹に紙の手触りを感じるだけで、内面に音楽が流れだす。指も自然に和らいで連動する。これが鍵盤の上であれば、今自分は至上の演奏をしているのだろうな、というような動きで。少し嫌な気持ちがした。

「子どもみたいだと言われて、その余韻のままに書いたという曲集なんだ。遊び心とか、その曲ごとのモチーフになっている感情の表現みたいなものがないと、まったく別の曲に聞こえるだけだ」

「先生もそう言ってた」

 でもそれってどういう意味なの、と眉をしかめた。

「先生は、それ以上言わないのか? おまえの演奏がどう聞こえるのか」

 シュウは首肯する。クロエは少し思案した。

 シュウの演奏がはらむ致命的な特徴に、クロエは最初から気づいていた。だがそれを口にすべきなのか、今に至るまで一向にわからないままだ。シュウは本当に気づいていないのか、それともひょっとすると気づいていて隠したいことという可能性もあるのではないか。

 音楽的なアドバイス、という範囲にとどめられないかもしれない言葉を口にする責任、彼のために支出しなくてはならなくなる労力の量、そして口にしては今の関係を維持できないだろうという恐れ。それら特に根拠があるのかさっぱりわからない懸念が、いつもクロエを止める。

「すぐには難しい、今やるべきじゃないと思うけどな」コンクールに出るなら、と付け加えて、意味ありげな目線で問うた。シュウもさすがに気づいたようで、ばつの悪い顔をした。

「おまえ、コンクールのこと特に考えてないんだろう? こんな曲やって」

 しばし沈黙する。そうだと答えれば、クロエの気を害するとでも思っているかのようだった。

「そ……ういうわけじゃないんだけど。クロエはこの曲集が好きだって、前に言っていたから、弾いてみたかったんだ」

「え?」

 覚えがなかった。思わず目を丸めて問い返した。

「そんなこと……言ったことがあったか?」

「あった」と思う、とシュウは言う。「楽しそうに弾いてたし、弾きやすいんだって言ってた」

 シュウの弁は、好きという定義からは、まあ外れてはいないのだろうけれど。

「一体いつの話なんだ」自分がこの曲集を練習していたのがいつ頃だったのか、もはや見当もつかなかった。

「出会った頃」小さく、しかしはっきりと言った。そのシュウのまなざしは、体つきはずいぶん変わったはずなのに、数年前からろくに変わっていない。

「なあシュウ? おまえはあれも弾けないだろうな。『子どもの領分』、ドビュッシーの」

 このシューマンと似たような、でもこれよりも簡単な曲集だ。

「……そうかも」

 クロエがそういうなら。と、顔に書いてあった。

 なんでこんなにクロエのこと一辺倒、しかもシュウのとらえているクロエの思いとは表面的だったり思い込みだったりすることがたいがいなヤロウと、自分は飽きもせず数年来の付き合いを継続しているのだろうと、こういうときにふと思って、少し心が陰気さを帯びる。それは後ろめたさでもあった。

 いろいろな懸念があるにしても、音楽の奥深くを追おうとしている者として、彼にもっとも言ってやるべき言葉をクロエはずっと口にしていないのに。それを言うことで覗いてしまうかもしれないシュウの暗がりを、恐ろしいと忌避しているのに、と。



 夏に向かう湿った季節の、妙な涼しさが寮には張りついている。家から通えるクロエにとって寮は、通常なら来ない場所だった。

 この静かな冷たさが懐かしかった。寮監室も例外ではなかった。扉を叩く。

「おおクロエだ。どうしたの、久しぶり」

「アンナ先生。……報告に」

「ああ聞いてるよ、編入試験受けたって」

「いえ、それだけじゃなくて」

 寮監というクロエにはよくわからない仕事をしているアンナに、いつなら確実に会えるのか、昔から知っていた。クロエの表情が欲しているものを、すぐに与えてくれる人だということも。

 白縁の眼鏡の奥で、アンナの瞳が丸く膨らんだ。その中に自分の姿が映っている。哀れっぽい表情で。

「……中、入る?」

 クロエは頷いた。


「先生の部屋、変わんない」

「そうだよ。クロエのように日ごと、激動の中で生きてるような時期はもう過ぎちゃったからねえ」

 椅子と机じゃなく、直に床に座るのがアンナの好みだ。このあたりではちょっとマイナーなスタイルに、そういえばこのひとの出身はどこなのだろう、と思う。

 教育はあらゆる子どもの依り代だ。特に芸術やスポーツのように万人ができるわけではないものに才覚をあらわせば、それが生きる道をまるごと与えてくれることだってある。

 クロエもシュウも、別段の才覚はない。音楽が自ら道を敷いて招くことはない。だが音楽はよるべで、その道をほんのわずかでも歩いている。

 アンナもそうだろうか。アンナは教員ではないが、音楽的なアドバイスもたびたびしてくれた。たぶん音大相当くらいまで学んでいるはずだ。

「クロエ」アンナの声にはっとした。「何を話したくて来たの?」

 言葉がすぐに出なかった。

「言えないことなら、無理に言わなくてもいいけれどね」

 湯を沸かしている音がする。

 いつもそうやって、ちょっと熱すぎて苦いお茶を出してくれるのが好きだ。それを飲んで満足するまで、一言も話さず待っていてくれることも。自分が取るに立たない存在じゃないと、いつもその時間が教えてくれて。

 お茶は温度の調節が必要だなんてあまり考えない、たぶんちょっとずぼらなひとで、たぶん――そういうところが好きだった。

 シュウに出会うまで、たびたびここで、そう思いながら過ごしていたのだということを、なぜ遠ざけられていられたのだろう。シュウに出会う前、いろんなことに悩んで切羽詰まって、授業にほとんど出ず、打ち明ける友もいなくて、幾度もここへ駈けこんでいたのに。

「……先生。おれ、話があってきました」

 ロベルト・シューマンを語るとき、クララ・シューマンとヨハネス・ブラームスを欠くことはできない。ピアニストの道を絶たれたシューマンの曲を演奏し続けた妻と、シューマンを尊敬し、彼亡き後もクララを支え続け、彼女を愛しながらも生涯独身であった男。

 その話がなぜ胸をうがったのだろう。

 どうして今思い出すのだろう。

「おれは、実は……」

 答えは見えない。



 アンナと過ごしている間に、雨が降り出していた。

 寮から学院までの廊下をたどると、雨粒が屋根をたたく音がする。最近雨が多いな、と思った。このように湿気ると、ピアノは打鍵の感触が変わるし音もこもって仕方がなくなるが、その生き物じみたさまを突きつけられながらピアノに向き合うのが嫌だと思ったためしは一度もなかった。

「あいつ、どこにいるんだ」

 曜日と時間を確かめると、よくシュウが現れる頃に違いなかった。つまりは空き時間のはずなので、適当なところを覗けば見つかると思ったのに。一向に見つからないまま練習棟までたどり着いていた。

 これまでもクロエからシュウを探すことなんてめったになかった。それはいつも、シュウが自ずから近づいてくるからだ。

 ――不思議な友人。

 その印象は四年が経過してなお、最初に会ったときから変わらない。ピアノが好きで、クロエに懐いている、はっきりわかるのは正直それだけだった。別段何かを隠しているという振る舞いをするわけではないけれど、本心がそれとして伝わるような態度でもなかった。不器用、という一言で片付く気もしたけれど、それでは言い尽くせているわけがない、と一拍遅れていつも思いなおす。

 それはいつも、シュウのピアノが示している。

 ふと耳に旋律が流れ入る。シューマンだった。

 練習棟といえど防音になっているのは各部屋の内側だけで、外では雑多な音がまじりあって好き勝手に喚くように聞こえる。そこから確かな曲のかたちを掬いとる瞬間が好きだ。輪郭なんて形成する前に流動しかたちを変え続ける「音楽」の実存を知る。文化的なようでいて原始的な快感だった。

 あまり上手くないシューマンは、たぶん探し人の演奏だろうと、確信していた。

 音源の部屋を見つけて扉をたたくとシューマンが消え、嵌め窓越しにシュウが目を丸く見開いてこちらを見た。すぐに扉を開けてくれる。

「探したぞ」

「……俺を探してたの? クロエが?」

 あんまり驚いたような顔をするので、「なんでそんなに驚くんだ」と口をとがらせる。シュウは恐る恐るつぶやいた。

「いつものとこにいるかと思って行ったけど……いなかったから、今日は迷惑なのかなと思ったんだけど」

「会いたかったなら連絡寄越せばよかったんだ」つい、自分のことは棚に上げて言ってしまう。幸いにもシュウはそのあたりに穿った追及をすることはなかった。

 練習室内に談話スペースなどあるわけもないので、シュウはピアノの前に、クロエは隣に補助椅子を持ってきて腰かけた。譜面板に置かれた楽譜が目に入る。

「まあそんなのはよくって、話があってきた」

 知らず声を固くさせてくる、内側からの訴えを無視した。シュウはその無視したものを敏感に手に取って、まるでクロエの分まで含めて怯えているかのような態度を見せた。それにかかずらって言えなくなる前にと、堰いたように言葉を並べる。

「シュウに言ってなかったことがある。……上手く弾けないんだ、この頃」詰まらせるつもりのなかったところで言葉が途切れ、屈辱に似た気持ちを覚えたのを、またなかったことにする。「院内医は、たぶんフォーカルジストニアだと……」

 シュウは生きていることさえ忘れたかのような様子を見せた。つくづく自分が置き去りにしたものをすべて拾って後をつけてくるかのようで、内心が煮えたぎった。なんでもないかのように振る舞うことを許さないという態度のシュウがいるせいで、クロエが淡々と語って済ませようとすることがどんなに滑稽で空虚なことか、残酷なまでに突きつけられる。

「その様子だとちゃんと勉強はしたんだな」感心だ、と虚勢を述べる。

「……なんでクロエが」

「なんでって」我が事のようなシュウが、心底哀れに見えた。「演奏家の五十人にひとりもがなる病気だ、かかることもあるよ」

 哀れなのは自分だと思い知らされるようだった。

「いつから? 医者に相談してるなんて、ここ数日の話じゃないんだろ、試験は……」

 シュウは不器用だが直截だ、そしていつも、怯えながら必死だ。だからここぞというとき、一番大切なことの真ん中を当てることがある。

 出会ったその瞬間、ピアノが弾きたいと述べたことと同じだった。

 シュウの青ざめた様子を見て、何度も思い浮かべ噛み砕いても一向に腑に落ちてこなかった出来事の、正しい反応をようやく知った気持ちになる。シュウがずいぶん長く黙りこんでいたので、クロエもその間に存分に身にしみ込ませた。実感のなかった衝撃が、ようやく自分の内に響いてくる。その振動数を知ろうとした。

「……俺、無神経なこと言ってた、どうしたら」

「いいよ、こっちが言ってなかったんだから仕方ない」

「でも……でも、クロエにストレスをかけたこと、多かっただろうし」

「思い込みだ」

 シュウはほとんどクロエの言葉が聞こえていないに等しい様子だった。

「……俺が、コンクール出るってはやく言ってれば……」

「は? 出るのか、おまえが?」

「……出る」

「おまえな、思い込みだって今言っただろ。おまえのせいでなったとおれが言っているわけでもないのに、勝手な思い上がりで簡単に物を言うのはやめろ。ましてコンクールだぞ」

 シュウの言葉が自発的な決意によるものではないことは自明だった。シュウの、過大な範囲で自責する傾向も。

「……じゃあどうして、クロエがジストニアになんかなったの」

 そのくせ、と言わんばかりの肝心なところでの不躾さを、いつも嫌いになれない。言葉が不意につまった、答えられないならせめてなじればよかったのに。

 嫌いにはなれない。だけど、耐えがたいと思うことはある。

「そんなの……わかるわけがない」

「それなら出る」

「馬鹿にするな!」

 立ち上がりしな、思わず鍵盤をたたきつけてしまう。甲高い裂帛のごとき音が鳴り、驚いてシュウが黙った。

 指先ではなく、心の奥が震えていた。

 振動はこらえがたい衝動の波を作り、声帯を勝手に操る。

「いい加減にしろ、何もかも……! おれなんかの言うことをなぜ、そうやすやすと聞く? どうしてそんなに自分ってものがないんだ、なんでもかんでもおれを基準にして……! おれがどれほど、お前がおれを基準にしないようにって気をつけても、おまえは結局そんな大事な部分のことは露ほどもわかろうとしないまま……」

 配慮などより、その理由をもっとはやく聞いてやればよかったのかもしれない、と心の裏側でひやりとよぎったが、熱はおさまらなかった。

 踊らされている。

「おれの足をつかむな――指をつぶそうとするな!」

 衝撃に穿たれたシュウは、表情をゆがめたまま時を止めている。クロエが過呼吸のごまかしのような荒っぽい深呼吸をする間、シュウは瞬きさえ躊躇した調子で固まっていた。

「……シュウ」

 息を整えて、気を取り直したような声をかければ、シュウはなんとか視線を合わせるが、焦点が定まっていない。

 子どものような怯えを隠せないシュウに、ごめんと言いそうになるのをぐっとこらえた。そんなことをしては、シュウの指をつぶそうとしているのは自分だ。

「いいから聞け、余計な口出しだと思って言ってこなかったけど……おまえはコンクールなんか出なくていい、プロになるのだって向いちゃあいない」

 脅しやごまかしのためでない言葉を吐くには、どう振る舞えばいいのか。そんな歩みを本当に自分は重ねてきたか? 内側で何かが笑って、嘲るように踊っている。

 その焦りに背中を貫かれながら、ずっと言いがたかった言葉を口にする。今さら責任も恐れも用をなさない。

「シュウ……、おまえのピアノはあまりに雄弁だ。だから痛々しく、売り物にすべきとは到底思えない」

 シュウの目の焦点が合った。言葉の意味を尋ねている。

「初めて会ったとき」その目を見て、クロエは歩む先を知る。「おまえが弾いた『雨だれ』、覚えているか」

「……おぼえてる」クロエに合わせたゆえの返事ではなかった。シュウの瞳の奥に、クロエが想起しているものと同じショパンの響きが確かによみがえっている。

「あのときからずっと同じだ」

 雨のけだるい憂いや、情緒的な物悲しさ、という性質ではなかった。

 あの演奏は、そのようなものとははるかに異なっていて。

「おまえのピアノはずっと、どんな曲であっても……自分の不安とか、苦しみそのものという感じで……演奏に込められた表現というものを超えている」

 たとえどんなにそのつらさが似合うような曲を選んでも、それは彼の肉声そのものにしか聞こえなくて、芸術の本質を知った演奏とは言えなかった。

 彼に個人的な親愛を抱く者でなければ、ピアノからそんな衝動を浴びたいとは考えないだろう。いや、彼を大切に思っていればなおさら、彼の情動がピアノ越しであることが望ましいだなんて思えるはずがなかった。

「……そう……なんだ」

 長く時間をかけてようやく一歩踏みだすように、シュウは返事をした。

「……これまでそんなこと言われたことなかったし、あの曲は、唯一先生に褒められたから弾いたんだけどな……」

「先生?」

「……ここへ来る前の」

 シュウの、見たことのない部分が見えた。はっと気を取り直して、クロエはようやく椅子に掛け直した。

「シュウ、ここへ来る前の話、したことないよな」

「……聞かれなかったし」

 シュウはばつが悪そうな調子をこめていたものの、まったくもってシュウの言い分は正しいとクロエは考えた。悪意なく、だが言葉を尽くさなかったのは、彼ばかりではなかったことを思い知った。

「それに、クロエが俺に気を遣ってくれているのも、まったくわかってないわけじゃなかった……つもり。でもこうやって問いただされなかったんだからそれは、そういう依存は迷惑だって意味なんだっていう線引きなんだと、思ってたんだ……」

 たどたどしい言葉に、にわかな返事ができなかった。

 視線を、言葉を交わさないまま踊り続けているのでは、人形のそれと変わらない。

 指を制御しない演奏も。

 統合した動きで、洗練し尽くせる旋律を、あえてぎこちなく崩すから、滑稽さがどこかに愛おしいような物悲しさを持ち合わせて踊る。

 子どもの人形遊びではなく、大人が思い出し、浸りながら行う人形遊びの――その音に浮かぶ、安心と親愛の温度、確たる足跡。

 むざむざ踊らされたままでいてやるものか、取り戻してやる、と誓う。

「でも……あくまでおれの意見だ、この先のこと、ちゃんと自分で決めろ」

 クロエもシュウも、踊らされ続けていた足を、ようやく止めたところだった。自分の道に歩みを進めるために。



 クロエは演奏しながら、舌打ちしたい気持ちになる。

 三拍子の均整さも、踊りの軽快さも、まるでなかった。跳ねるべきところで平たくつぶれた音を叩き、滋味深い音にまったく伸びやかさがない。

 ――フォーカルジストニア。ピアノを弾こうとすると意図せず筋に力が入り、思い通りに動かせなくなる脳の病気。根治のための治療法は確立されていない。

 何年も前に授業で聞き流していただけだった言葉のことを、不具合を起こしているくせに脳は律儀に覚えていた。

 正確な運動の反復、精神的ストレスや完璧主義的性格が発症の引き金の大きな要因と認められている――。

「クロエ!」

 アンナの声で我に返って、演奏をやめた。

「無理に弾くな」

「――あ。夢中で……」

「……悪夢の、というところだな」苦虫を嚙み潰したようなアンナの顔が、状況のひどさを物語っていた。前衛的な変拍子によって狂い、不格好に転んでばかりの踊り、という演奏の。

 アンナの存在も忘れるくらい結局呑まれて弾くなんて、とクロエも顔をしかめた。院内医の診断を受けた報告をし、どうしても演奏を見てほしいと懇願して練習室までついてきてもらったのに。

「専門医は?」

「先生が診断と同時に予約入れてくれたので、来週行きます」

 そうか、と腕を組む。クロエが失態にひととおり恥じ入るのを終えるくらいの間を置いた後、アンナは口を開いた。

「クロエ。上手い演奏の条件は何だと考える?」

「――は? いや、そうですね。表現に根拠や理由が感じられること、『その音楽をもっとも上手く表現できるのは自分』っていう、自信を持った演奏であることとか……あとは、曲の構造を踏まえていること。その曲が建物だとしたら、どのフレーズがメインの部屋で、どこが階段や廊下なのか、曲の大事な音がどこで、どこからきてどこへ行く和音進行をしているのか、守るべき制約の範囲と、その中でどこまで自由に歌うのか、真実なのか、裏返しなのか……あとは」

 止まる様子のない答えにアンナは、勉強したなあ、と目尻を下げて笑う。

「じゃあ――ピアノを弾くのに一番大事なことは? クロエ、なんだと思ってる?」

 ぴたりと声が止まった。

「……それは」続きを述べられない、というほどに深く沈んでいく。「望ましい答えではないと思うんですが……こんなふうにならないこと」指を見つめて、誰に言うでもなく言葉を落とした。

「教師にうける言葉なんか求めてないよ。悪くない答えだとは思うけどね。――ちょっとそこ、ゆずって」

 ピアノ椅子からクロエを追い出して、アンナが代わりに座る。

「生徒の前ではめったに弾かないんだけど。特別な」

 挑発的に口の端を上げる。

 軽快な五度の和音が流れ出す。クロエが弾いたのと同じ『人形へのセレナード』だ。テンポは指示より落とされて、粒の揃いもまばらだが、非常に優美だった。「弾かされている」ところ、無意識に弾いているところがまったく見当たらない。すべての音に神経がいきわたっていて、それをアンナ自身が味わっているのが伝わってくる。

 連続するスタッカートを叩いている右手は、しなやかに脱力している。迫力のあるアクセントは背筋から伝えているのがわかる。軽快な場面ではアンナも小刻みに動いていた。

 少し陰りを帯びた旋律になったあたりで、黄昏の光を浴びて踊る、力強い美しさが見える。この部分でアンナが思い浮かべているのは人形ではなくて人間の踊りだ、とクロエは思った。それがまた遊び心のある調性に戻って、愛らしい気まぐれに満ちながら、ほどなく子どもは人形遊びを終える。

 鍵盤から離れた指先が、気持ちよく弛緩している。

 持ち上げられた頬から生じるゆがんだ皴に、無性に惹かれた。表情が少し皮肉っぽく、懐深い。

「クロエ」

 瞳の光がまばゆく、引きこまれるのに、直視しがたかった。

「一番大事なこと。わたしの言葉でいうなら、『自分のために弾くこと』だよ」

 このひとの浴びる光を、このひとの踊る姿を、見たい。

 このひとのそばにいたい。

「クロエ?」

「わ! ……すみません」

 病気も何もかも忘れたように脳裏によぎったことが無性に恥ずかしく、急いで思考から振り払った。アンナの言葉を反芻する。

「……自分のためにといっても、こんな指じゃできませんよ」自分が弾きたいように指は動いてくれない。

「理解が違うな。自分のために弾くっていうのは、思うように体が動くことじゃない。病気じゃなくたってすぐにはできないよ」

 にやっと笑う目の奥に、凄みというべき光があった。深くて、ひょっとすると昏さまでも呑んだ光。

 アンナはそれをさっと消して、表情を引き締めた。

「病気もそうだし、心理的な葛藤とか、あらゆる未解決の課題。ピアノを真に豊かに弾くことに支障をきたすものは、いろんなひとの前にある。生まれたときから高い壁があるひともいれば、あるとき突然目の前に生じるひともいるよ」

 シュウの姿が去来した。クロエが何も知らないシュウの生まれ育ちには、どんな壁があっただろう。彼に大きな不安と悲しみをもたらしたのは、一体なんだろう。

「クロエ。今の時代において音楽の高みは、生まれや育ちなんて単純なものだけでは構成できないんだ。自分の人生にあらわれる統合的な課題に向き合って得られる、複雑な深さ。それを味わいつくして、ひとを勇気づける音楽をできるようになれ」

 アンナが前のめりな姿勢になり、クロエの瞳を覗きこんでいる。気づいて、クロエもまたアンナの瞳の奥底まで見ようとすると、アンナは再び笑った。無敵の笑みだと感じる。

「わたしたちには音楽があるから、それだけで、すべての課題に意味を得られるんだ」

 表情が無限のことを伝えてくるので、その声もまるで視神経を通って脳に達したような気がした。アンナが姿勢を戻す。

「とりあえず病気については、罹患者も多いし音楽教育にとっては大切なテーマのひとつでもある。クロエ自身のためと、周りのためにも、ここに居続けるんだ。治療と研究の過程で、自分のために弾くとはどういうことなのか……その奥深さに触れ、得られるものがあるはずだ」

 一拍置いた後で付け足す。

「クロエ、弾くのをやめるなよ」

 シューマンにはあまりない独特の終わり方を思い浮かべて、ドビュッシーの楽曲のようだなと思った。



 あの後、シュウがクロエの元にくる頻度がずいぶん減った。それでもたまに会うと話をしたが、雑多な日常の話題に終始することがほとんどだった。少しの喪失感を持て余しながらではあったが、クロエ自身も考える時間が必要だったし、きっとシュウもそうなのだろうと考えていた。

 クロエがそうして治療と研究をして過ごすうちに、気づけば未成年者向けのコンクール申し込みは締め切られ、大学相当の願書届け出も締め切りが近づいている。だがシュウがどうすることに決めたのか、一向に知らないままだ。

 そんな頃、久しぶりにシュウが現れた。まっすぐ近づいてくると、あいさつもそこそこにシュウは切り出した。

「クロエ。……俺、クロエが初めてだった。初めて会った、同い年くらいのひとだったんだ」

「――え?」

 突拍子もない登場以上に、シュウの発言内容に目を剥いた。

 同世代の人間に会ったことがなかったなんて、ありえるのか。その驚きをあけすけに放っているクロエの表情を知ってなお、シュウはそれを整然と受け止めることが未だできないという風情だった。

「クロエがいなくなるかもっていうこと、ずっと考えようとしてた。シューマンもそのために弾いてたんだ。けどたぶんあの時クロエの言った通りなんだ。俺はたぶんクロエのことじゃなくて、自分のことを考えなくちゃいけなかった……。この気持ちは、不安だとわかった。けど……どこからくるのか、自分でわからないんだ」

 消耗がシュウの全身から放出されていて、あれからずっと考えていたのだろうと察した。シュウはその果てで「不安の出どころを知る」ということがシュウに必要なことだと思い至ったらしい。

 頑張ったな、と声をかけてやる代わりに、クロエも突拍子のない打ち明け話をすることにした。たぶんあの日は決定的な転換点だった。もうクロエもシュウも、密に身を寄せるのではなくて、重要なことだけ共有したら各々のすべきことに取り組むのが、自分たちには必要なことなのだとわかっていた。

「……おれもそうだ。考えてなかった、自分のこと。――コンクールが嫌いだって気持ち」

 シュウは驚く素振りもなく、じっと耳を傾けていた。

「コンテスタントのことは尊敬してる、優勝者が優れた演奏家として世に出ていくことも、有益だと思っている。けどそれは他人事の範囲だけで……自分が出ることを思うと、疑問なところだっていっぱいある」

 そういう逆境とか理不尽な制限さえも、自らの希望と推進力に変換できる者だけが演奏家の道をたどるべきで、それが正しいのか? と問う自分に、見ないふりを続けていた。

 なんにしても――クロエは、正しいと答えられないのだ。

 本当は疑問だった。納得していないものを引き受けたくなかった。本心から満足できる道を自ら探りたかった。そういうかたちで――音楽家になりたいと思っているのだった。

「そのことを、ちゃんと受け止めて先のことを考えるよ。在籍も問題ないみたいだ、大事なテーマのひとつだからってさ」

 クロエが言い終えたのを知って、シュウがようやく、ぎこちなく微笑んだ。

 不器用でぶしつけで、怯えがちな、不安に苛まれている友人。

 だけど、彼と友でいようと振る舞っているとクロエは、奮い立つことができた。

「クロエのこと応援してる。……俺は、進学はやめた。ピアノのことしか知らないから、それ以外のことがわかるように、ここを離れてみる」

「じゃあ、もうすぐ別れだな」

 シュウは弱ったように眉を下げながらも、確かに頷く。その後、改まった調子で口を開いた。

「……ねえクロエ、これだけはずっと聞きたかったんだけど。クロエは、ピアノで一番だいじなことって何だと思う」

「おれ自身の答えはまだ出てないよ。この間先生には、自分のために弾くことって言われた」

「……俺、できてるのかな」

 シュウはクロエの意見を求めて言ったのではない様子だった。なのでクロエ、はシュウにかけてやる言葉の持ち合わせがあったけれど、胸中で述べるにとどめた。

 ――おまえは、一番大事なことは、できていたんじゃないか。不安で苦しい気持ちの宿ったピアノは、その表明や緩和という、シュウ自身のためのピアノだったんじゃないか?

 クロエもシュウに問うた。

「おれも一番聞きたいこと。シュウはピアノをやめるのか?」

 返答までに長い間があった。ただ事実を述べる口調で、シュウは答えた。

「……わからない」

「おれはもう一度聞きたいと思ってる。シュウが不安や苦しみを昇華して、自分の満足のために弾いたらどんな音なのか、聞いてみたい」

 シュウは困惑をあらわにして、くちびるを噛む。その態度は、クロエの一番大切な本音、伝えるべきすべてを、きちんと汲んだという反応だと思った。

 シュウやがて、はっきりと頷いた。


 長い別れを告げた日、彼の前途と過去を思う。もしくは再開する日のことを。

 それからこの震える指先が、これから迎える幾度の夕方に優しく奏でるための音楽のことを。

実はこの話、うっかりしてて大きな誤りがひとつあります。

「翌日、シュウがまた訪ねてきた。」からはじまる場面でシュウが取り組んでいる曲集はシューマン『子どもの情景』というものです。一方、「クロエが出会った頃に楽しそう弾いていた」曲は文中にあるとおり「夕べに」という曲です。

小説内では『子どもの情景』のなかに「夕べに」という曲があるかのような書きっぷりになっているんですがこれが見事に誤りで、「夕べに」は『幻想小曲集』というまた別のシューマンの曲集に収録されている曲なのです……。

この注釈を本文の訂正に代えさせていただきます。

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