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眠る

 何かピアノ曲が流れている。ゆったりした三拍子で、音楽に関して無学な神保(ジンボ)に曲名がわかるはずもないが、店にはよくかかっているのですっかり耳になじんでいる曲でもあった。店長の好みか、何も考えていないだけか。内装のひとつと考えれば過不足がない曲だな、とだけ思っていた。

「神保さん、お店なくなっちゃうの」

 張り紙を出してから一週間が経ち、そろそろそのせりふで耳にタコができそうになっている。ありがたいことなのだろうけれど、厨房の一店員に過ぎない自分にはコメントのバリエーションに限りがあるものだ。そうなんですよ、とちょっと弱ったように愛想よく笑い、厨房が忙しいふりをしてやり過ごした。

 神保さんは仕事どうするの?

 二番目によく言われたのはその言葉だった。さあ、どうしましょうか。と同じ笑顔に、さらに困ったような様子をちょっとのぼらせて答えていた。ごまかしであり、本心でもあった。居酒屋の求人なんて、他所に行ってもすぐに見つけることができるだろう。それだけに、きちんと考えようという気持ちが起こらない。何かと大変ではあるが、どこでも、誰でもできる仕事。そんな価値観がなんとなく世の中に見え透いていて、神保自身もまた、それを否定できないと思っているからだった。

 日曜の夜更け、客がひく頃になると、神保も少しはホールへ来いと呼びつけられることがある。今日はそう声をかけてきそうな常連客が見えないことが幸いだ。定休日前でほとんどやることもないが、厨房にこもってもくもくと掃除をし、備品を改めて時間をつぶした。

 後ろで若いアルバイトの男の腹が鳴ったのが聞こえた。別に揶揄するつもりもなく顔をそちらに向けたら、視線がかち合ったので少し驚く。彼の様子は偶然ではないことを物語っていた。

「神保さん。後で、相談したいことがあるんですけど」

「え? 今じゃなく?」

「……仕事じゃないから。だめですか」

「だめ……ではないけど」

 いつもほとんど無駄口をたたくこともなく静かに仕事をしている彼の名前を、一瞬つっかえつつ記憶から探す。

 シュウだ。

「とりあえず、腹減ってるならなんか食べる? 作るよ」

 日頃まかないに無関心なシュウは、きょとんとしていた。何が食べたいのかシュウが答えないうちに、最後の客を見送ったらしい店長が顔を出して、今日はもう終わっていいぞ、と言った。神保は営業用に近い笑みを浮かべて「お先にどうぞ。まだ片付けが終わってないので、最後俺が閉めていきますね」と彼を追い出した。


 客もほかの従業員もいなくなった店内で、シュウをカウンター席につかせて、豆腐と魚介のあんかけ丼を置いてやった。シュウは軽く頭を下げて「いただきます」と小さく言った。

「それで、何を相談したいの?」

 咀嚼に専念している彼が返事をする代わりに、静かな三拍子が漂ってくる。音楽を切るのを忘れていたと思いつつ、放置した。

「……えっと」エプロンのポケットをごそごそ探って、何か中身をカウンター越しに渡してくる。かわいらしい柄のミニレターだった。「それ……昨日、常連さんにもらったんですけど」

 見ていいの、と言うと、シュウは目を合わせて頷く。熱かったのか、ちょっと目を潤ませている様子が、なんとなく必死に見えた。彼がまた食事に戻って顔を伏せている間に、神保は丁寧な手つきで手紙を広げた。

 さほど多くの内容を書けるサイズもないだけに、文言はいたってシンプルだ。『好きです、付き合ってください』。

「なるほど」

 ほとんど感嘆のように言ってやると、シュウがつぶやきを足した。

「……閉店までにまた来るから、返事くれって」

「何があったのかはわかったけどそれで、シュウが相談したいことは? どう返事すればいいかって?」

「そうなんですけど、いや、ちょっと違って……」れんげを動かす手を止めた。「なんかよくわからないなって、そもそも。好きって、なんのことだろう、って思っちゃって」

 低い声色に、彼の悩みの深さがにじみ出ている。神保からしてみれば、若い男女の恋には不似合いなほどではないか、と思えた。相手のめどがついているわけでもないけれど、便箋のかわいらしい趣味に、若い女性のシルエットを連想する。

「深刻なんだな」

「そうです。だって考えようとしたことがない、学んだこともないことなんか、わかりますか」神保を見る視線は、懊悩が裏返って非難がましくなっている。意地が悪く聞こえたかな、と内心で苦笑した。

「そうだな、ごめん」そういうつもりではなかったのだけど、と弁明するのはやめた。

「たとえば神保さんは、料理の作り方のことならよくわかるだろうし、俺だってこの曲のことならわかりますよ」

「曲?」

「サティの『3つのジムノペディ』の一番だ」

 店長サティよくかけてますよね、とシュウが言い加えたが、神保にはよくわからない。

「音楽に詳しいんだ?」

 そう返せば、シュウはまじめな顔で頷いた。

「学校が音楽のできるところだったので。で、そうやって知識も経験もあることじゃないと、何がなんだかわかんないでしょう、神保さんも」

「うん。悪かったよ」彼がなぜそんなに怒るのかわからなかったが、こんな些細なことにまで自分の主張に拘泥するのは神保の趣味ではなかった。「それで、俺には知識や経験があると思ったの?」

 神保の謝罪で怒りを手放したシュウは、正気を取り戻したように見えたのもつかの間、一転して気まずそうにした。

「……だって神保さん、モテるんでしょう」

 神保はもともと何かと気がつくほうだし、シュウの含んだような態度はそれこそ、何度となく経験済みのことだった。だからシュウが言わなかった部分の言葉を掬うのは容易なことだった。

「ああ、――男にも、って思ってる?」

 誰が見ても不愉快にはなるまい、という笑みを浮かべてやって、確かに経験に学んだなと思う。タブーじゃないという態度をさっさとこちらから見せてやることを。

 シュウは上手く答えなかった。それはそれで雄弁で、今さら特に不快でもなかった。それに知っていた上で相談を持ちかけているのであれば、異性愛以外の指向が嫌で仕方ないということでもないのだろう。

いや、『考えようとしたことがない』だけかもしれないなと思いなおす。

「自分事として無関心なシュウにまで、伝わるものとはねえ」

「たまにホールに出ると、神保さんのこと話してるひと、よくいるよ」

「それはそれは……いい噂だといいけど。それに、噂は噂。シュウの言う知識と経験ってそんなんでいいの?」意趣返しとばかり笑ってやる。シュウはますます返事に困窮した。そういう態度のひとつひとつから、自分の身の処し方と、共存の仕方までも神保は学んできたのであった。

「シュウ、悪かったって。別に嫌とか怒ってるわけじゃないよ。俺の話をするつもりでもないし」

 長い沈黙の後にシュウは返事をした。

「……その、神保さんが嫌じゃないなら、そのへんも含めて参考になるかなって思うんですけど」

「おまえ、なかなかだなあ」

「すみません、嫌になりましたか」

「シュウが面白いから嫌じゃないけど、遠慮ねえなあ」

 萎縮はするくせに。ある意味嫌味な態度だった。それを笑ってやれるくらいには、シュウが若く無知で、自分は経験を積んできたのだろう、と思う。

「じゃあ正しい名前くらいは学んでもらおうか。俺の性指向だとバイセクシャルとか、両性愛というんだ。まあ、これだって大雑把な言葉だけど」

 性指向という言葉自体を解説してやらないとならなかったかな、と思った。講釈をしろというならそれこそ鬱憤含めていくらでもできる。何が蔑称にあたり、LGBTという言葉がどの範囲を網羅できて、その網の目が実際どれほど荒いものなのかも。

 だが彼の頷きを確かめるだけにとどめ、今後の自習に期待を託すことにした。

「それで話を戻せば……つまりは、告白されて、好きって何かと思ったんだな」

 改めてまじめに口に出してやるのは、あまりの青さにむしろ神保の羞恥心があおられる。だがシュウの返事はもっと、「真っ白」とでも言うべきものだった。

「そう……いや。どっちかというと恋愛以前のところな感じがしてて。その……愛情、みたいなものが全然理解できないっていうか。イメージわかなくて」

 シュウが息を吐く。食事を冷ますためではなく、ただのため息だった。

 神保は、シュウの年齢を思い出そうとして、たぶん明確に尋ねたことはないなと思い当たって諦めた。居酒屋で夜まで仕事ができるのだから成人はしているようだが、愛情の不可解を打ち明けて浮かべたよるべない表情は、ずいぶんと小さな子どものように見えた。神保が経てきたものを思い返すと愛情など、愛憎にも近しい複雑さをも含んで浮かべることができるけれど。自分とあまりに程遠い距離に辟易して、それだけにシュウが困り果てているということを神保は認めた。

「……シュウは、どんな愛情ならイメージできるの? わからないなりでいいけど、たとえば好きなひとがいるとしたら。どんなことをしてやりたい? 逆に、どんなことをされたい?」

 してあげたいこと、されたいこと。と反芻して考えこむ様子がいっそうの幼さを感じさせる。神保はふと、その頑是ない態度を庇護してやりたい気持ちと、無性な耐えがたさの両方を抱いた。

「とりあえず愛情を表現する手段のひとつは、手料理を出されたら冷める前に食べてやることだ」と笑ってやった。シュウは「あ」と声を漏らして、はじかれたように食事を再開した。もうだいぶ冷めていたはずだった。

「口に合うか?」

 咀嚼をやめずに頷いて、飲みこんでから付け加えた。「豆腐好きなんです」またもくもくと勢いよく口に放りこんでいく。

「腹減ってたんだよな」

「そうみたいです」

 シュウの口ぶりと日頃の態度を思えば、空腹に疎いようだった。恬淡で鈍感ながら、いざ出てきたものはきちんと平らげていくのが、あきれながらも微笑ましかった。

 シュウがごちそうさま、と手を合わせるまで、神保はじっと音楽に耳を傾けていた。サティの――もう曲名が出ないが、シュウが述べたものとは別の曲が静かに流れつづけている。雑踏に溶けこんで、どんなところであっても漂いつづけられるような曲という印象は同じだった。

「全部食ったな。貰うよ」お茶を置いてやり、代わりに食器を要求する。シュウは渡しながら、余分なものがそぎ落ちた表情で述べた。

「神保さん。さっきの愛情の話ですけど、もし俺に好きな人がいたら。こうやって食べ物をくれて、食べるところを見守ってくれて、一緒に寝てほしい、って思いました」

 神保の返事を待たずに「きっとすごく安心する」と付け加える。

「そうか」

 愛のかたちをどうこう言われるのなんて嫌に決まっているので、そのまま受け取った言葉を返してやる。内心では、思いのほか家庭的というか、原始的な、幼稚とも執拗とも決めにくい愛の所感が出てきたなと、シュウへの興味がそそられた。

「シュウ」

 満腹の満足感と愛への悩みに没入しているのか、シュウの視線は思索の彼方に固定されている。その焦点に割り入って、無理やり目をかち合わせた。

「一緒に寝てみる?」

 神保の目が、シュウには怪しく底光りして見えたに違いない。意識を少し集中するだけで、家具のひとつとでも言わんばかりのサティは容易に遠ざかっていった。



 車の通りもまばらな深夜、とぼとぼとしたふたり分の足音を無秩序に鳴らして歩いた。風の音だけがたまに抜けていく。夜になっても夏の湿った熱気から逃れられない、この地らしい風だった。

「音楽ができる学校にいたってことは、シュウはもっと北寄りの育ちなの」

「そうです。この辺りにはそういう学校はないんですね」

 この地方は、基本的に北ほど栄えている。文化も価値観も先進的だ。

「ずっと北育ち?」

「俺の記憶にある限りでは」

「わざわざ、どうして南に来たの? 北のほうがよっぽど充実してるだろ」

 比べると南に寄るほどいわゆる田舎になる。自然が増えて、保守的だ。この辺りは本土の中では南端に近い。

 シュウは一拍置いた。

「……上手く言えない」しばらく悩んで、諦めたように疑問形で返してきた。「神保さんは? どこの出身なんですか」

「俺は実家がこっちだけど、育ったのはほぼ北側。親の仕事の都合でね。そのまま北で就職して、三年くらい前にこっちに引っ越してきたよ」

「神保さんは南にきたの、理由があるんですか」

 反射的に、鼻を鳴らすような笑みをこぼした。

「なんでかなあ……あっちのほうがよっぽど、生きやすかったんだけどな」

 特にセクシャルマイノリティの市民権なんざ、ずいぶん差がある、と内心で思う。

「成熟していて、配慮があって、それでもなんか疲れたんだよな。ひとが密集していて、活発な代わりにいつも何もかも混然としていて、あの場所では情報とかマナーとか、常に知って気を遣っていないと成り立たないことが多くて、『きちんとした社会人じゃなくちゃいけない』っていうような気持ちになってたような気がするな。こっちに戻ってそれがいらないとか、楽になったわけでもないけど……」

 答えらしいことを口にしたところで、実際にはシュウの応答と大差ないなと思った。本心を言えたのかなんて自分でもわからない。

「あと、海は好きかな。沖にある群島は知ってる? あのへん昔行ったけど、空がきれいで、気持ちよかったよ。そもそも海見たことあるか?」

「たぶんない……と思いますけど」

「北だと自然なんかあんまりないよな、山くらいは残ってるか」

 遠くの山に目をやったつもりでも、一面暗くて稜線は見つからない。星空の様子はどこでもあまり変わらない。

 シュウは海のことでも考えているふうだった。



 家に着き明かりをつけると、眩しくて目がくらむ。どんな夜中も遠ざける光の白々しさがなんとなく気になって、少し悩んでから間接照明に切り替えた。後ろでシュウが小さく「おじゃまします」と言った。

「さてと。シュウ、眠いか?」

「まだそんなに」

「元気だな」苦笑した。一体こいつは何を思ってついてきたのだか、という今さらな問いを含めて。いや、彼の受け身が過ぎるとしても、ついてこさせたのは己だった。

「なあシュウ」だから、この場を受け持つべきなのも自分だ。

 車が過ぎていく遠い音や、冷房の控えめな稼働音に少し落ち着いて、家具のような環境音の効用を知る。

「わざわざついてきたんだから、さっきの相談……の直接の答えにはならないだろうが、俺の話でよければ少し聞かないか」

 シュウは無言で、まじめな目を向けた。座る場所に迷ったようで、椅子を示してやる。自分はベッドに腰かけた。

「最初に言っとくけど。俺はおまえが思うほどの知識と経験はないと思うよ。今は恋人がいるけど、そのひとがふたり目」ちょっと迷ってから付け足した。「前は男で、今は女」

 シュウはじっと聞くつもりらしい。

「……俺はというか、俺も悩んだよ。自分の指向のこともあるけどそれ以前に……誰かを好きになることを、ひときわいいもので、世界の見え方が変わるほど明確な固有の感情だと世の中に語られることが、どうにも馴染まなくて」

 納得できない。そう思っていたときの自分の目は今のシュウのように、恨みがましく暴れまわっている苛立ち越しに誰かを見ては、説明を求めていたはずだ。

「それでなんとなく思ったのは……。ふつうの人間関係は、感情と合理性のふたつの柱があると思った。合理性って、損得というとドライすぎて聞こえるだろうけど、『そのひとと関係を保つ理由』とか、筋が通っている、普遍的に説明がつくようなイメージなんだけど。伝わる?」

 シュウは、いまいち、という顔をしていた。

 たぶんシュウはそもそも、そういう「ふつうの人間関係」についてもあまり実感を持っていないだろうな、と神保は推察した。

「たとえば嫌われたくないって思うとするだろ。でもそれはおかしいと思わないか? 嫌ってくる相手から得られるものなんてそこまでなんだ。嫌われないなんてことが、関係を維持することで得られるもののための手段じゃなく目的そのものになってしまったら、それが本当に健全で建設的な関係だと思うか?」

 性交渉は非常に合理的だな、と考えた過去の自分を思い出す。本質は生殖であるという点だけでもそうだし、不信や恐怖があるものを除けば、一定の刺激でだれもが報酬を得られるのだから上手くできた仕組みだと感じていた。

 ただ、その持論は今でも胸のうちによぎるけれど、一応の距離を置くようになった。

「そう…‥そう思っているけど、その合理性で説明がつかない相手が俺にもいたよ。そういうひととの関係の置きどころに困ったあげく、気づけば恋人という場所に置くことにしてる。つまり俺は、その合理性っていうのを感情が超えたものを愛だと思った。前も、今もな。それだけなんだ」

 世の中に光が増えて見えたり、痛いほどの拍動に甘美な陶酔を覚えたりするのが恋や愛だと言われたら、己は今でもそれを知らない、と神保は思う。だがそれでいい、と思えるようになったのはようやくのことだと、振り返るごとに実感する。簡単ではなく、意図してできたことでもなかった。

「それと。俺は……覚悟を決めないとならないんだなと、思っているところなんだよ」

「覚悟?」いったい何の、と視線が促す。

「自分には、他人に受け入れられるだけの価値があると、認めること」

 それを聞いた瞬間、厭悪とそれを超える興味がシュウからあふれだしたのがわかった。隠すすべさえ持たない子どもなのだと、突きつけられる。

「そんなことは、それまでずっと思ったこともなかった。けれど、だんだん……愛に報いるには、覚悟がいると」

 表情がついていかないらしいシュウは今、たぶん涙も流せず泣いている。

 神保は、シュウへの引っかかりのすべてを途端に理解した。無口で、実際は子どもっぽく鈍感で、ひたむきな悩みにふける彼の、根本に何が巣食っているのか。彼が知らないものは、本当に「愛」としか呼べないものだった。その不在が、今ここに居るシュウをかたち作っているのだということを。

 自分をあわれむことしかできない、そういう場所に彼はまだいる。だから何をしても確信がない、不安と疑問を通してしかひとと、世と関わるすべがない。

 似たような場所にいたのかもしれない、何年か前までは。

「自分をぞんざいにしない意思、自分が傷つくとわかっていることをしない忍耐、過剰に尽くさない自制、自分の機嫌を他人にゆだねない決意……もう一度ひとりになる恐れを受け入れてでも、今ふたりでありたいと思うことを認めて、求めていくだけの……それは自分の道を自分で尊重するっていう、覚悟だよ」

「……わからない、何言ってるか」シュウからは無意識の声がこぼれていた。せり上げるようなものがあるのは神保も同じだった。言い切るまで終われない。言い切らずに諦めたら呪いが残る。そんなふうに大切で、自分の根幹にあるもので、ともすると致命的な言葉。シュウ越しに自分に言い聞かせているのだと、はたと気づいた。

「何より自分を大切にしてくれる他人がいてようやく得られることだけど、なのに究極的には、自分がやることだった。だれかが与えてくれるものじゃなかった。すべて自分のこと……道を作るのは、ぜんぶ自分のことだったんだ」

 時間と空間の感覚がゆるやかにほどけている。からだの深いところで息をして取り戻そうとした。

「……そういうことが、シュウにはネックになってるんじゃないかと思って」

 言いわけのように付け足した。微動だにしないシュウは、受け止めきれないことまで全部こぼすまいと佇んでいるようで、神保も息さえひそめて彼が反応を取り戻すときを待った。

 長い時間をかけたのち、シュウの体がうつしよに帰ってきたがごとく、ようやく困惑をおもてに浮かべる。

「神保さん……。上手く、言えないんだけど」どこか夢心地なままの視線をおろおろとさまよわせた。「……えっと、ありがとうございます。たぶんすごく大事なことを、言われたんだと思うんですけど、なんて言ったらいいか。今感動というか、すごく目が覚めたような気持ちで。同時にすごく怖いことに気づいてしまったような気分でもあって……」

 シュウは精一杯の言葉を、ほとほとと落としていく。神保は神保で熱を帯びた吐露をようやく自覚して、恥ずかしいような気持ちが追いついてくるのを仕方なく、黙って受け止めていた。

 シュウが大きく息を吸って、佇まいを直す。

「俺は前に……不安とか、苦しいとかっていう気持ちばかり持っているって言われたんです、友達に。それがどこから来るのか探さなきゃと思って、離れてみたんだけど、それだけでわかるようになるはずもなくて……。今神保さんの話を聞いて、自分が大切にされている、いやつまり……自分が大切だと自分で思えること。それを考えたことがないなって思った」

 声がときどきつっかえている。

「愛着の課題……というやつかな」

「愛着?」

「いや詳しくはないんだけど、ちょっと本で読んだことあって。心の安全基地とでもいうのかな。小さな子どもが、親に抱き着くことで不安を解消する。不安を解消したからまた外と接することができる。その繰り返しで社会的に生きていけるようになる。その安心感が、生きていく土台であり、自分を自分として正しく見つめるためにも必要なんだ。愛着とは、そういう安心感、生きていくための土壌のこととかって書いてた」

 シュウはまたじっと受け止めて、とりこぼした。

「……じゃあ、そんな途方のないことを解決しないと、俺はまた弾くことができないのかな……」

「え?」

「神保さん。寝ませんか」

 もうわけがわかんなくて、と言う。

「ああ……そうだな」これ以上起きていたら、そのうち深夜と呼ぶのも憚られる時間になってしまいそうだった。電池切れのような眠気も生じていた。

「ベッド、ゆずるよ」

 立ち上がって、シュウの背中を促す。

「え?」一緒にという言葉をシュウは覚えていたらしい。困惑した声を出した。

「おまえこの後に及んで俺を色情狂だとでも思ってるの? 同衾する気なんかないって、もともと」

 シュウもだいぶ心身が疲れで溶けつつあるらしく、ちょっと押してやると素直にベッドに転がされた。

「店でおまえの『愛情』について聞いた時、この話と、俺なりの『安全基地』を与えてやろうと思っただけだよ。他人の家で寝るのなんて、曲がりなりでも信頼がないとできないだろ」

 見開いた目を、やがてこみ上げるあくびで濡らす。睡魔に勝てないのは、むしろ好ましかった。

「一緒に寝るのは、好きって気持ちがわかってから、そのひととするまでとっとけよ。じゃあおやすみ」

 神保も無性な疲れに襲われて、隣のソファにさっさと体を投げ出した。明かりを消せば、もう何も起きなかった。



 翌日は、真夏に珍しく少し涼しい日だった。薄曇りの空と断続的な風は、昼まで寝て呆けた体にも優しかった。

 シュウをつれて、駅近くの広場へ行く。屋根のついた一角を指さして促した。

「ほんとにピアノだ」

「そう、期間限定だけど。ストリートピアノってこの辺りだと珍しいよな」

 一台のアップライトピアノが、鍵盤蓋をあけっぱなしにしたまま佇んでいる。屋根から上下の前板、親板、拍子木や妻土台の細かなところまで全面カラフルに塗装を施されている。唯一もとのままの鍵盤の白黒は、誇っているようでもあった。

「神保さん、弾けるの?」

「おまえのが聞きたいんだって。弾けるんだろ?」

「弾けるけど……」わかっていて付いてきているはずなのに、シュウは渋る。「卒業してから弾いてないし、ろくなもんじゃない」

「いいんだよ」

 思わず、というように不安そうな目をしたものの、さしたる抵抗もせず椅子に掛ける。位置と高さと少し直してから、壊れ物に触れるがごとく繊細に、いくつか鍵盤を試すように叩いた。離鍵してから数舜、動作に間を要した。

 それから、おもむろに左腕をしならせる。重みのある打鍵から、存外に静かな低音が鳴った。不思議で不器用な低音の単旋律が、ゆらめくような音色を放って進行する。ぴんと張ったような倍音を何度も挿入しながら、ぎこちない不協和音が夢心地に、繰り返し、鳴る。

 くたりと絶えたと思えば、足踏みのような伴奏の中に、右手で単旋律を再生する。シュウの右足が動いたときに気だるい響きが伸びて、退屈なふうの、穏やかにゆるい音の調和を生み出した。

 だんだんと音が展開されるごと、その緩急に引きこまれた。とつとつとした粒を置く遊びと、残響だけになって眠るようにそれを消していくことの繰り返し。

 その切れてゆく音楽の中に、得も言われぬ物悲しさを聞いた。

 最後の音を置いた左手と右足がゆっくりと離れると、変わらぬ駅の広場に戻る。シュウが深く息を吐いた。

「……緊張した」

「いや、上手いなあ」

「ぜんぜんだ。びっくりするほど弾けない」

「いいんだって。でも、なんか不思議な曲だったな」

 ピアノの曲はもっとかしこまっているか、きらびやかなものばかりだとイメージをしていた。シュウが弾いた曲は、わざと不格好にしているような朴訥さがあった。

「子守歌なんだ。子どもが、象のぬいぐるみを抱きしめて眠ってしまうような曲って解説があったかな。優しくちょっと不器用に、って指示がついてて」

「この曲が好きなの?」

 椅子に掛けたままのシュウの上目遣いが、困ったように苦笑した。

「逆に苦手なんだ。おまえには向いてないって友達にも言われた。でも、避けて通れない曲なんだ。やっぱり……まだまだ弾けないみたい」

 そう言いながら鍵盤を撫でた。ひとのまばらな広場で、演奏を代われとせがむ者はない。

「もう一曲聞きたいな、苦手じゃないやつ」

「いっそ弾くの自体が苦手なんだよ」毒づきながらも離れず笑うのは、そこに譲りがたいものがあるからだろう、と神保には感じられる。

「じゃあ……そうだなあ。サティなら」

 言い終わる前に鍵盤に向きなおり、息を整えた。

 シリアスで少し洒落たような四拍子。店で聞いてきたものと同じように、聞き逃そうとすれば風と一体になって吹いているだけのものになりそうだったが、その実耳を傾ければ、繊細な単音から力強く主張のある不協和音に変化していく旋律や、重みと節度ある伴奏にピアノらしい情緒を感じた。

 単純な構成の繰り返しは、ずっとこのまま続けることができそうだ。だが、あっさりと途切れるように終わる。

「店では流れてないけど、こっちは『グノシェンヌ』の第一番。サティのピアノ曲って言ったら『ジムノペディ』か『グノシェンヌ』って感じかな」

 先ほどより幾分表情が和らいだシュウが解説する。

「サティって面白いんだ。変な名前の曲をいくつも残してるし、演奏できない楽器のことを空想したり。楽譜に拍子記号や小節線も書かなかったりとか、無意味とか自由さを徹底したんだって。それとカフェピアニストで、こういうBGMみたいな音楽を初めて作ったひとなんだ。『家具の音楽』って呼んで」

 へえ、と相槌を挟むと微笑んだ。

「昔勉強したときに『ジムノペディ』を動画サイトで見たら、コメントにいろんなひとのイメージが書いてあったんだよね。誰もが肩ひじ張らずになんとなく聞いて、思い思いのものを託せる音楽なんだ。その時は、サティって面白いって思ったな」

 未練のない態度で椅子を立つ。

「ドビュッシーよりほっとした気持ちで弾けて良かった、ありがとう。本当は、俺はもう弾けないんだろうと思ってたんだ……」

 風と一緒に聞いた音楽は、シュウにも何かのイメージを託したらしい。万人のためにただそこにあることができる音楽と、それを懊悩しながらも確かに享受するシュウに、神保も感化されていた。

「俺もなんだかすっきりしたな。シュウ、実は俺は恋人のことや、居酒屋の料理人っていううだつの上がらなさとか、いろいろ悩んでたんだよ。それが一本につながった」

 何をとつぜん、とシュウの驚き顔に書いてあるが構わなかった。吐露するだけ、ということのちからを知っていた。

「女性の恋人ができてから、女の世界が男とは違うと知ることが多くて驚いてた。あいつは、男に後ろに立たれるだけで警戒と自衛が必要なのは当たり前だという。道を譲って会釈を返されることが、女と男でまったく比率が違うことも馴染みだと」

 諦めが浮かんでいればまだ憤りを共有することができた。けれど神保の恋人の顔には、そこに疑問を挟むことさえ誰かの特権だと示されているようだった。

「男と付き合っていたらマイノリティだった俺が、女と付き合うだけで、自分がマジョリティで、しかもそれは意識してそうしたわけでもないのに、何もしないだけで簡単に宿命づけられ再生産に組みこまれていく、その傲慢な一員なのだと知って愕然とした」

 シュウの手は拍子木に触れたままだ。滑稽な立ち話だと意識の端で思った。

「あと女性には、結婚が人生の逆転のチャンスみたいな社会の価値観があるらしくて、いろんな意味でそれをかなえられない自分にいらいらしたりとかな。居酒屋の料理人なんかしがないって、無性に腹が立ったりした」

 職業の貴賤に加えて、性指向のこともよぎった。そしてそのとき、たぶん当事者の神保よりも、「そんな性指向の男を選んだ」と恋人のほうが強くそしられるのではないか、と暗い予感に行き当たって、また愕然としたことを忘れられない。

「だから……社会的な疑問や、自分の仕事の在り方とかに、ちゃんと思考と行動を示せないのであったら、俺の人生の満足とは一体なんなんだと思っていたんだよ」

 そんな搾取の上に充足を見いだすのか、と恋人の後ろで誰かの影法師があざ笑う。それを感じるたび悩みのるつぼが深くなり耐えがたかった。だんだんと恋人に会う頻度が減っていることに背を焦がされながらも。

 神保がシュウから目も外さぬまま沈黙したので、シュウは困惑しつつ尋ねた。

「えーっと……それで、一本につながって、続きがあるの?」

 それはシュウがするには奇跡的なほど稀有で完璧な相槌だった――もっとも彼にとっては望まぬ浪費だったかもしれないが、神保は今さら変な尻込みなどする気はなかった。

「ある。おまえに飯を食わせて、寝かせて、ピアノを弾かせたら、そんな悩みはすべてじゃないって思った。俺はあいつに対してそういう、合理性を超えた原始的な充足を見たからこそ恋人になったんだと思い出して、腑に落ちたんだ」

 つまりどういうことなのだ、とシュウが眉を捻じ曲げている。

「安らげる相手とともに食べて寝る、それをすべての根幹として、そこでいったん満たされることは罪悪じゃないし、その個人的な満足が得られないのはむしろ、社会的にどこまで何ができたとしても、ある部分では不幸だ――ということだ」

 シュウの頭上の疑問符は全く減らなかった。当然だしかわいそうでもあったが、仕方ないとこっそり見捨てた。

 代わりに、「そういう懺悔が信頼だって、わかっているか?」と、内心でだけつぶやいた。それだって子どもにエゴを押しつけるようなことだと思いながら。本当に言うべき相手が誰なのか知っている。シュウのためであれば、勝手な予行練習相手に仕立てた詫びとフォローこそ考えるべきだった。

「神保さん、なんか意外なひとなんだなあ。店だと人当たりのいい軽いお兄さんって感じだったけど」

 理解できないなりの感想を吐くシュウが、無性に好ましく見える。

「俺は元来理屈っぽいんだよ」居酒屋で働くには面倒くさい人物に見えるだろうなと隠していただけだった。それだって己の気持ちひとつで改めていいことなはずだ、と思う。

 ようやくピアノから離れて、シュウの家との分かれ道まで取り留めもなく歩いた。

「じゃあ、いろいろありがとうございました」

「いやこっちこそ。……そういえば結局どうすんの」

「そうなんですよね」当初の相談を、はるかな彼方に遠ざけていた。「でもまあ、断りますよ、ふつうに」

 別れ際にあっさりと、好青年風な佇まいでつぶやいた。

 シュウの背中を見送ってから、「普通に断る」の作法さえ知らないだろうになあ。と神保はうそぶいた。

 でもそもそもちゃんと返事をしようと思ったのが、無感動そうなシュウの、傍目にはちょっとわかりにくい良心を証明している、と神保は思った。まだ認識できない紐帯――情や絆、そして愛を、シュウは自分なりに追い求めているのだろう。



 休み明けに店で見たシュウは、普段通りの口数少ない青年だった。あと数日で、二度と彼に会うこともなくなるのかな、とぼんやり思う。特に愛想がよいわけでもないキッチンの青年がこれからどうするのかなど、たぶん誰も尋ねていないだろう。

 神保自身はあの後、速やかに新しい仕事先を探しはじめ、そしてあっさりと終えた。ほとんど仕事内容は変わらないが、今度は休みが恋人と同じになるものにした。人手不足なのはどこも似たものらしく、シュウひとりくらい連れていけるような気もしたが、そんな間柄じゃないなと思う。

 一夜限りの共寝、のようなものだった。あまりに多くのことを交わしたし、そこを転換点にしたことが数多あるとは思うけれど。それでもずるずる関係を続けようとしたら、それは傍目には、ゆがんだものにしか認識されないかもしれない。

 ――けど、どうだっていいんだよな、そんなことは。

 頭の端が、そうやって開き直っている。

「なあシュウ」

「はい?」もくもくと野菜を切り続けている。神保から見れば不ぞろいだが、会話しながら調理ができるくらいになったんだよなあと、今までは関心がなかったシュウの成長に思い当たった。

「お前、最後の出勤日はいつなの」

「今日ですけど」

「は? ほんとに」

「はい」

 件の相手には、いつの間に返事を済ませたらしい。最後までいつも通り、という様子だった。

「あっそう……。じゃあせっかくだからなんか食べる? 作るよ」

「え、いいですよ。別に腹……」

「おまえの減ってないはあてにならない。いいだろ、俺が作りたいんだ」

 ちょっと不服そうな顔をしたが、「じゃあ、お願いします」と従った。

 少しちょっかいをかけるだけで彼の「普段」は崩れていくことが、あの夜と地続きの、ふつうの青年なんだよなと実感させる。

 ぼんやりと考え事をしている間に手元は料理を完成させていた。

「……神保さん、あんかけ丼が好きなんですか?」

「熱々っていいだろ? 夏でも」

 メニューは、魚介が肉に変わった以外は前回と同じだ。目の前に置いてやれば、シュウは返事を放棄して手を合わせた。

「――ん? なんですか、これ」

 丼ぶりの下に挟まれた紙切れを見る。シュウが先日貰ったミニレターと似たサイズで、ずいぶん可愛げは失った、ただのメモ用紙だ。

「ラブレターだよ」

 神保はにやりと笑ってやった。

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