作る 四日目
四日目は、朝から雨だった。
終日ピアノを開放する予定になっているが、足元が悪くなるだろうし、少し肌寒そうだ。簡単な朝食をはみながら、客の入りは少ないかもしれないな、とシュウは予想した。
昨日はクロエにピアノを聞かせたことで、長く胸の中にあったつかえがとれた気持ちがした。入れ替わったように今日は、おとといの『女神』の会話が頭に絶えず浮かんでくる。
シュウはちょっと考えてから、手紙と五線譜ノートを鞄につっこんで家を出た。
案の定、ストリートピアノの周りには人影がない。
シュウは狭い机の上に、持ってきた五線譜ノートを開いた。学校の課題で使った以来のものを、よくもまあ後生大事に保管していたものだなあと自分に感心する。
次に手紙を出して、末尾に添えられた電話番号を確かめた。躊躇なく携帯端末に入力して、呼び出し音を左耳で聞く。
『――はい』
「あ! その、シュウです。水無月先生……ですよね?」
『……シュウ?』電話の先の低い声が、信じられないというふうに訝る。『シュウ? おまえが電話を?』
「手紙に書いてあったので」と言いつつ、無理のない反応だと思う。シュウから手紙を出して、そして返事として今手元にあるこの手紙がシュウのもとに来てからも、水無月とシュウは気軽な電話をかけるような関係じゃなかった。
「突然すみません」
『……いいよ、どうした』
驚きと戸惑いを滲ませたまま、水無月はとりあえず通話を継続してくれた。
「教えてほしいことがあって」
シュウは早口に語りつつ、二日前の夜を何度も反芻する。
*
「――シュウが生まれた家から消えた日のこと、断片だけどわたしは覚えてる」
『女神』は改まって語り始めた。奮い立たせるがごとく声にちからを込めているのがわかる。
「ある男が、あなたをさらったわ。そしてあの森の中の家へ連れ去った」
二の句からして『女神』の言葉は衝撃的だった。シュウは森の家にいたのは、せいぜい事情があって預けられたくらいの理由しかないと考えていた。
腹の底からこみ上げる震えが指先に至ることを止められないまま、必死に『女神』の声に意識を傾ける。
「なぜわたしのせいと言ったのかを語るには……わたしのことをきちんと説明をしなくてはいけないわね。ただ、わたしは人々の感情で生まれた神。彼らの感情の濃淡で、わたしの意識の明晰さも変わってきた。すべてを正しく語れるわけではないことを先に言っておくわ」
シュウはかろうじで頷いた。断りを受け入れたのではなく、聞いているという精一杯の表明だった。
「わたしのいた島……そしてあなたの祖父が生まれた島は、島流しに会った異教徒たちが着くまでは無人だった。その頃島は噴火や大波が激しく、とてもひとが安心して住めるような土地ではなかったわ。わたしは、異教徒として迫害された彼らの宗教歌、そこに宿ったやるせない悲しみと祈りから生まれた……のだと思う」
『女神』もまた自分の確かなルーツなど知らない。生まれた瞬間のことは、見守った他者にしかわからない。
「もっとも深い祈りの音色で歌う青年がいて、彼の『歌』とわたしは契った。青年は人々の代表としてわたしに歌を奉納する。わたしはそれで得たちからで、彼らが過ごしやすくなるよう島々の天候に干渉する。地震を少し弱め、風向きをわずかに変えて、あまりに水不足になったときには雪を降らせたこともあったわ」
鈍色の景色ばかりだったのが、しだいにまばゆいほどに美しい青色に輝くようになった。『女神』は、自分がもっとも強い自我を持っていたのはあの頃だろう、と回顧した。
「青年は、自分の実系の長男に代々その役目を継がせると言った。わたしは、実系の長男が生まれるごとに、意識の依り代を移し続けて生き延びた。生まれたばかりの赤子は、すごいちからがあるのよ。わたしも彼らとともに生まれ直しているようなものだったわ。だから今まで死なずに済んでいる」
もっとも、それは危険なことでもあった。子どもは生き延びるかわからず、種を残すかもわからない。一度離れたら元の宿主のもとには戻れないし、意思の疎通もできない。脆い奇跡を重ねながら生き延びてきたのだと『女神』はよく知っていた。
「……その仕組みは、あなたの祖父の時代までほころびなかった」
シュウは祖父の顔を想像しようとして、当然何も浮かばない。
「あの頃にはもう流刑地ではなくなっていて、本土の国家の離島として統治されていた。今と同じね」
異民族の話を聞いていたようであったのが少し近しくなったが、それで何が和らぐわけでもない。シュウは眉間が痛くなりそうなほど強く、怪訝な表情を浮かべながら聞き続けている。
「でもあの頃はまだ戦争があったわ。あなたの祖父は徴兵で島を離れ、重傷を負った。歌うこともできなくなったの。島には二度と帰れなくなった、わたしも。島では死んだと認識されたことでしょう」
シュウの両手は、ちからも入らないくせにずっと握りこぶしのかたちになろうとしている。言い知れぬものに耐える苦しみがその震えにあらわれていて、『女神』は見続けられなかった。
「あなたの祖父には弟がいた。儀式は彼が受け継いだらしいのだけれど、当然彼の中に移って生きるなんてことはわたしにはできなかった」
あるいは本当にシュウの祖父が亡くなっていれば、別だったのかもしれない。『女神』は、その考えは心中にとどめた。
「なんにしてもその頃から島は少しずつ荒れはじめ、わたしのちからもだんだんと弱まってきているわ。あなたの祖父は、わたしの命は次代へつないでくれたわけだけど……」
『女神』は、自分が戻れなくなった島がどうなったのか、力を振り絞ってなんとか探りだしたことがある。
島では、弟の家系に歌が継承されたと考えられていた。そして弟のもとには、偶然か必然か、男の子どもは生まれなかった。今どうなっているかは確かめる必要もない。道はひとつしかなかったということだ。
戦時のうやむやですべてが混迷する中、依然として信仰と神の力は島にある、という信心は、島の人々の支えだった。実際には神のちからの代わりに目覚ましく発展する文明のちからを用いて、島は着実に復興した。生き延びるための祈りはもはや必要なくなり、後継者もいない祈りは、自然と神性を薄めていった。
「わたしが帰れずとも――神をなくそうとも、島はもう生きていける。島の人々が生き延びられているのであれば、わたしはもう役目を終えたのだと、あなたの父親の中にいたときは思っていた。このままゆるやかに滅びて、契りを終わらせられると」
『女神』はささやかなものだが、もともと神のちからとは危険なものだ。世界のかたちを丸ごと作り変えることができる。ゆがんでしまった契りの中にありながら、穏やかな最期を迎えられることもあるのだろうか、と寂寞とも安堵ともつかぬ感情を覚えていた。
「――でも」
『女神』はシュウの双眸をねめつけるように、激しく見据えた。穏やかに見つめて語ってやれるほどの達観をついぞ自分は得られないのだろうと、シュウに伝わるはずのない悲しみを胸に去来させながら。
「その後、島の環境は確実に悪くなっている。あまりに激しい天気の変化や、刻一刻と迫る地震と噴火の気配を、わたしは奥深くでずっと感じ取っていたわ。どんなに文明が強固になっても、本当に激しい天災の前では、人間はあっけなく死ぬ。それを危惧していた」
シュウは必死に耳をそばだてている。内側にいれば、どんなささやき声だって、どれほど耳をふさいでも聞こえるのに。その異常さとシュウの必死さを、『女神』は噛みしめる。
「シュウ……生まれたばかりのあなたに移ったとき、『その日』がいつなのかはっきりとわかり、あなたの中にいる間に『その日』を迎えると確信した。『その日』がくれば島はひとが住めない土地になり、島の人間は全滅する。だからあなたには……島のために歌ってもらわなくてはならないと、わたしは考えを変えた」
だから、シュウが『女神』を感知できそうな年頃になったら、『女神』はすぐにでもシュウに宿命を教えなければならないと思った。「歌って」と話しかけて。
「シュウが親元で豊かに育ち、いずれシュウの口から親に説明した上で島に戻れる日がくることを、わたしは切望していたわ」
『女神』は言葉を切る。シュウの意識的な呼吸に連動して彼の腹部が動いているのを、じっと見つめた。
*
『――作曲の仕方が知りたい? なんでまた』
突飛なシュウの発言に、水無月は驚きをあらわにした。
「……えっと、書いてみたいな、と」
『俺がなんでも教えられると思うなよ』と言いつつ、電話口の向こうで水無月が何やら動いている音がした。
『理論が知りたいのか? ピアノ曲でいいのか』
「軽い感じの、糸口でいいです。先生ならどう指導しますかって本当は聞きたいんですけど……」
『いきなり馬鹿を言うな』
毒づくような言葉が割りこんでくるのに、「ですよね」と相槌をうってから言い足す。「ピアノ曲です」
呻くような声を漏らしてから水無月は言う。
『いくつか本とか、ウェブサイトは見繕ってやる。それ以上要求するなら会いに来い』
水無月がくれた手紙は丁寧で誠実な上に、情報としても情緒としてもシュウを深く支えたが、水無月が日頃何をして過ごしているのか、またシュウのことをどう考えているのかというような個人的なことは書いていなかった。住所は当然知っているにしても、本当に会いにいくのはあまりに高いハードルを感じるな、とシュウは胸をよぎるのを、そっと見逃した。
「ありがとうございます。いつかきちんとお礼をします」
シュウが水無月に話したいこと、教わりたいことは今もたくさんあるけれど、こうしているだけで十分なものを受け取っているとも思う。と、言い聞かせた。
『いいさ、それより……島には行ったのか?』
「行きました。そのこともありがとうございました」
『どうだった』
「まあ、行って良かったです」
水無月は受話器越しの声から、シュウの心情を推測したようだ。
『それだけだ、っていう意味でいいのか? 妹の名前まで念押ししていたのに』
「うーん」
島に行ったときは、確かにそれだけだったと言って間違いなかった。何の偶然なのか妹と同じ名前の女性に出会ってさえ、一瞬の動揺をしただけで、ただの旅行者だと自然に思いなおしていた。
だが『女神』の話を聞いてからは、多分な付け足しが生じている。
「それはそうなんですけど、でもやっぱり、それだけじゃないです」
水無月が、マイペースな生徒にあきれたようなため息をついて通話を切った。
赴くままに言葉や旋律を書き連ねていると、ほどなくして水無月からメールがきた。
「はや……って、多いな」
長い本文と、添付ファイルも複数あった。家に帰ったらパソコンで見なければ、と添付ファイルはひとまず無視することに決めて、本文に目を通す。
水無月のメールは、要点をかいつまんで並べるところから始まり、次にそれらの説明が書かれている。その後は具体例や参考になりそうな資料の情報が列挙されていた。
一通り確認してから、視線をまた五線譜に戻す。それを見計らったように電話が鳴った。
水無月からだった。すぐに応答して礼を述べる。
「資料見ました、ありがとうございました」
「ああ。それと……」
水無月が一瞬、呼吸を整えたのが伝わる。
「シュウのように言葉にできなくて悪いと思っている。シュウがあの頃欲しかっただろうものを、何ひとつ与えなかったことも」
「――先生」
それだけだ、と抑揚のない声が付け足した。
シュウはその言葉に、ひどく報われたと思った。シュウが返事をするまで受話器越しの沈黙を共有してくれることにも。
だから思う存分に噛みしめてから、シュウは返答した。
「……その言葉だけで十分……いや、その言葉が本当に嬉しいです。少なくとも今、ひとつもらいました」
電話を切ると、誰かがピアノを奏でていた。雨の日に似合う曲だな、と思いながら、そのおたまじゃくしの並びを拝借する。そのまま作業に没頭した。
昼になると神保が弁当を持って訪れ、感心したように激励してくれる。
午後もずっと、絶えず聞こえる雨音と、まれにあらわれる旋律に耳を傾けた。その合間に『女神』の声が何度となくよみがえり、そのたび音楽を五線譜上に模索した。
家に帰ると、朱から封筒が届いていた。開封すると、空や花の写真のほか、シュウの姿が映った写真が入っている。それから真新しいハンドタオル。タオルは返しそびれたかららしいが、わざわざ新品を送ってくれていた。
挨拶や写真の説明が書かれたメモの最後には、丁寧な字で『父を看取りました』と書かれていた。