学ぶ
歌声とピアノの音が聞こえ、久礼は多目的ホールの予定を思い出す。竹川が、今日は音楽療法だと言っていたはずだった。知らないプログラムだったので覗いてみたかったけれど、今日はもう帰る時間だ。
「おつかれさまでした」
職員ステーションのカウンター越しに挨拶をする。
「あっ久礼さん、いつもありがとうね。ごめん竹川さん今いないんだけど」
「いえ全然、またあさって来ますし」
介護士のひとりが立ち上がって、カウンターまで来てくれる。介護士は数が多く交代制だ。そのため久礼はなかなか顔と名前が覚えられないが、介護士側はみな久礼の名前を知っているらしく、親しげに話しかけてくれる。老人ホームのボランティアという人材が貴重で囲いこみたいからなのか、この施設そのものの雰囲気によるものなのか、たぶん両方だろうなと思っていた。
介護士の名札をこっそり一瞥しつつ雑談を交わしていると、職員ステーションに向かってくる人影があった。若い男のようだった。
「あっシュウさん、洗濯室終わり? ありがとうね」介護士が声をかけた。
「はい。もう調理室に行けばいい時間ですか」
「えっとね、その前にベッドメイクしてほしくて。お部屋はね……」
いくつかの指示を介護士が出す。シュウと呼ばれた青年は頷いて踵を返した。
「……あの。あのひとは誰でしたっけ」
ユニフォームらしい服を着ていたけれど、介護士のものは濃い青色に統一されているはずだ。彼が着用しているものは淡い緑色だった。
「ああ、彼はシュウさんっていうの。介護助手よ」
「助手?」
「資格がなくてもできる雑務の部分をやってもらうんだよ。若いひとの雇用と介護職不足の対策として行政が訓練事業をやってるんだけど、それをうちで受託してるの。だから雇ってるんじゃなくて、実習生みたいな感じだね」
久礼が老人ホームにボランティアに来るようになってから三か月になる。最初は閉鎖的なイメージを持っていたが、実際には職員以外にも多様な人材が出入りしている場所だった。ボランティアその他のコーディネーターである竹川が非常に親切で、内外の関係者についてもよく説明してくれるが、それでもこうして知らないことがふっと生じるのがなかなか減らない。
「へえ……同い年くらいかな」
目の前の介護士が返事をしないことは承知していた。同じ場所に出入りしていても、他人の情報を勝手に教えてもらうことはできないということも竹川から学んでいたからだ。以前の久礼の職場では、久礼の履歴書が社内中で共有されていたので、最初は驚いたけれど。
ボランティアと仕事には太い線引きがあるにしても、ここに来ることで、あの職場はやっぱり変だった、と思えるようになったことはいくつもある。その収穫を、まだし尽くしてはいないと久礼は思っている。
「あっ、じゃあ今日はもう帰ります。ありがとうございました」
「ええ。またあさってよね」
「そうです」
「おばあさまには今日は会った?」
「会いましたよ、ちょっとだけど」
祖母は今頃音楽療法というのに参加しているのかな、と頭をよぎる。あさってには忘れているのかもしれないけれど、どうだったか聞いてみよう。
それと、シュウという名前とユニフォームの色も頭に叩きこんだ。老人ホームという休業日がないところでは、どのひとだって次はいつ会えるのか、はっきりとはわからない。
*
外の陽射しのぬくもりが、もうすっかり春がきていることを教えてくれる。冬の初め頃は、久礼は家でうずくまってばかりいた。まだ大したことのないはずの寒さが心の底まで凍りつかせてしまったように感じ、無力な自分をひたすら嫌悪しながら。
両親は無気力になっていた久礼に怒ることはなかったけれど、戸惑ってはいたようだった。
「少し元気が出たら、おばあちゃんに会いに行ってきたら。近いし、あの老人ホームの周りは気持ちいいわよ。ちょうどいい気分転換になるんじゃないの」
ある日母がそう言ったのを、すぐには実行できなかったけれど、何日後かに「もうすぐ春ですね」と何かのメディアが言っているのを聞いた時、行ってみようかなと思った。
初めて祖母に会いに老人ホームを訪れた日に出会ったのが、竹川だ。
「――久礼さんのお孫さん?」
面会を終えて帰ろうとしたとき、廊下でそう話しかけられた。
「あ、突然ごめんなさい。はじめまして、私は竹川と言います」
好意的な笑顔を浮かべて近づいてくる。久礼は質問への返事として、ぎこちなく首を縦に動かした。
「……はじめまして」
面会の手続きをしたときと同じ、萎縮したかすれた声を出すのがようやっとのことだった。声色を作るすべは、見失ったままだ。
「ご家族にお会いになれて、よかったですね。おばあさまも喜んでらっしゃったでしょう?」
竹川は隣までやってきて微笑んだ。
「……そうだといいんですけど。あの、すみません……わたし」
目が合わせられず、手を握りこんだまま脱力することもできない。不審な態度と思われる不安が湧いて、どうしてよいかいっそうわからなくなった。
竹川は微笑みも視線も揺るがすことはなかった。
「謝ることはありませんよ。私がいきなり現れて驚かれたのよね、ごめんなさいね」
温かい態度への安堵とともに怪訝さも覚え、反射的に目を合わせる。しまった、と思ったが、竹川が「ふふ」と笑った。
「実はご両親があなたのお話をなさってたことがあったから。来てくださって嬉しかったんですよ」
「そう……だったんですか」
親は何を話したのだろう、と少し暗晦な気持ちがさす。だがそれに没入していく前に、竹川の支持的な声が久礼を慰め、引きとめた。
「また来てくださいね」
では、と去った後もその温かさが残っている。その安心感に支えられ、その後も何度か訪れた。その何度目かのとき、「ボランティアをしませんか」と言われたのだった。
なぜ是の返事をしようと思ったのか言葉に落としこめないまま、簡単な説明と面接のようなものを受けた。
「一応訊くことになっているから、何か言いたければくらいのことでいいのだけど」という前置きとともに活動理由を尋ねられた時、久礼には不意にこみ上げてくる気持ちがあった。
――このひとにこれまでのことを話したい。
その衝動に突き動かされるまま久礼は語った。初めての就職先でひどく疲弊して辞めて以来、うつ的な無気力から脱することができずに過ごしていることや、どうして自分だけが頑張れなかったのかと考えてしまう苦しみ、逃れられない自己嫌悪について――。
火がついたように言葉を吐きだしていく久礼に対し、竹川はひとつずつ丁寧に相槌をうち、共感と支持を与えながら、じっと聞いていた。溜めていたものを語りつくして久礼が消沈した頃に、そっと口を開く。
「話してくださって、本当にありがとう。これまでひとりで抱えて苦しかったでしょう。でも今こうやって久礼さんが自ら打ち明けることができたというのが、ひとつの回復なんですよ」
それから「よかったらいくつか伝えさせてください」と続けて、まず久礼の思いこみを訂正した。学卒者のうち何割が、どのくらいの時期で初職を辞めていくのか。そしてその理由として、若年者の失業にはどのような社会的要因があるのか――雇用条件や労働環境の変化、人口体系、社会の価値観などをかいつまんで解説していく。つまりは、「自分だけが頑張れない」という認知への反証だった。
次には、自己嫌悪から逃れられないこと自体を症状ととらえ人格から切り離すこと、治療の必要性の見極めなど、精神疾患の対応について述べた。その合間に細やかに、久礼の理解や体調を確かめていた。
久礼はほとんど圧倒されながら、ひとつひとつに必死に耳を傾け、そうするうちに悩みが軽くなったことを自覚した。それを伝える久礼の表情の確かな変化を認めたのか、竹川がまた微笑む。
「こういうことが私の仕事でもあるのよ。あなたの悩みや目指したいことを聞いて受けとめ、知識や情報を提供し、あるいは資源と結びつけ、あなたが何を選択し決めてゆくかのサポートをする。この国では社会福祉職とか相談援助職……国際的な言葉では、ソーシャルワーカーと呼ぶの」
久礼はその名称を、大切なことを覚えておく領域に迎えいれる気持ちで聞いた。
竹川が並べた言葉はどれも久礼を救ったが、もっとも心の奥深くまで到達したのは最後に交わした会話だ。
「ところで傷病手当や失業給付の手続きはしたの?」
していませんと答えて、意欲が尽きていたこともあったが、親元にいて必要がないとも思ったと申し開いた。そもそも制度の理解についても限りなくあやふやだということは伏せて。
「そう。もちろん大変でもあったでしょうし、あなた個人のこととしてはそれもいいわね」
竹川が一拍置いて改めた表情には、支持的なのは変わらないながら、大切なことを言うための厳しさが浮かんでいた。
「でも。これは余計な物言いに聞こえるかもしれないけれど――それは権利の放棄でもある。必要なひとがきちんと権利を行使できなければ、誰にどれだけの資源が必要なのか、正しい実態をつかめなくなる。するとだんだん社会全体がやせ細っていくのよ。それはどこかで誰かは本当に、死んでしまうことかもしれない」
これまで久礼自身が知らなかった心の最奥を、穿つ言葉だった。
後になって、ただ衝撃的だったその言葉の内側に、苦言をあえて言ってくれる信頼や、職業的な責任、あるいは矜持のようなものがあったのだと思い至った。
竹川に学ぶことで自分はきっと回復していける。久礼はそう思って、せっせとボランティアに通うようになった。
以来、竹川は久礼の経過を見守り、助言を与え、活動を引き出してくれる。
最初は週に一回、たったの二時間。それを三か月かけて増やして、だんだんできることが増えていった。活力が湧き、頭の回転が以前のように戻ったと最近は実感できるようになっている。
老人ホームによって異なるらしいが、ボランティアができる活動は幅広い。雑務の手伝い、入居者の話し相手や見守り、日中活動の補助。特技を持っているボランティアであればそれを披露して楽しませるようなこともある。
久礼にとってボランティアでやりたいことや学びたいことは、まだ枯れない。それでも回復とともに、それを突き詰める以外の今後についても考えるべきだと、頭によぎるようになってきた。
*
次に施設に行った日、例の介護助手の青年・シュウをつかまえて自己紹介をした。「ああ、ボランティアの」と言われ、シュウにまで面が割れているとは思わなかったのでいささか驚く。シュウは口元に抑え気味な笑みを張りつけた。
「職員でも面会でもなさそうなのになんだかよく見かけるな、と思って、どなたなのか教えてもらいました。同じ年頃だし、実習生かと最初は思ったんですけど」
「あなたは訓練なんですよね」
「そう、あと一か月で終わりです」
黒髪黒目の控えめな顔立ちと、やせ型で小柄なのが久礼に似ている。親近感が湧いた。
「訓練の後って、ここで仕事をするんですか」
容姿や年齢が似ている職員は意外と少ない。シュウと親しくなれたら、久礼はよりボランティアが楽しみになるだろうなと思った。
「関係者が合意すればそういうこともできるらしいですけど、まだなんとも。久礼さんはずっとボランティアするつもりなんですか?」
「そう言われると弱いけど……確かに今来てるのはリハビリっていうか」
曖昧な押し出しではなく言葉の裏に、同じ属性同士の確かな紐帯が見えた、と思いたい。
「……わたしたちの歳でちゃんと仕事してないと、なんか肩身がせまいもんね」
なのでつぶやきじみた物言いは、本心でありつつシュウへの探りでもあった。返ってきた反応は久礼にとって当たりだった。
「まあ、そうですね。業界の性質なのか、ここは特段そういう雰囲気ないけど」
「そう! わたしもそう思った」
久礼は自分の表情と言葉が引き出されたのがわかった。そういう作用をもたらす態度は、何気ない万人ができる振る舞いでありながら、専門家の援助技術のひとつでもある、という知識の実感を伴いながら。
「わたしね、ここで職員さんと話すうち、いろんな自己責任って言われていることが、本当は筋が通っていないんじゃないかって思うように変わったの。介護は家族で全部やるだなんて、そのひと自身の労力としても全体の仕組みとしても本当は無理。介護以外のこともきっとそうだなって。ひとが育つ過程も、働きだしてからも。そのひとだけの責任なんておかしい、社会で支える仕組みこそ大事だと、みんなが信じられるようになるといいって」
シュウは言葉を挟まずじっと聞く。言い終えた久礼が反応をうかがっていることに気づいてようやく、少し表情を弛緩させた。
「うん……。身内を責めるより、どこでどんなふうに育っても、誰かが助けられるなら、それが……」
久礼への友好的ないらえでありながら、遠い国に転がっている深刻な事態を忍んでいるふうでもあった。久礼が見定められないうちに、「じゃあ作業の続きがあるので、また」とシュウはだしぬけに消える。
*
入居者が散歩して楽しめるように、老人ホームの外には季節ごとの花が植えられている。外は陽射しは暑くても、その景観とまだ涼しい風が気持ちよい。
久礼が花壇の縁の木陰で休んでいると、シュウと出くわした。腰かける久礼に気づいて声をかけてくる。
「久礼さん? どうしたんですか」
「あ、シュウさん。ちょっと暑くてくらくらしちゃって……」
大丈夫? と尋ねるシュウの表情は、心配より怪訝さが浮かんで見える。
「平気。でもいきなり暑くなったからびっくりしたのかな。まだ本調子じゃないのもあるかも……」
買ったばかりのペットボトルに口をつけて、中身を一気にあおった。
「リハビリ中って言ってたよね」
「へへ……そうなの」日向に立ったままのシュウの足元を見る。彼自身のかたちをした影が落ちている。「実は前の仕事、こっぴどく辞めたから。あれをうつって呼ぶんだろうなっていう感じに、参っちゃって。気力なくて全然動けなくて……」
「……そうだったんだ」シュウの視線がクレを観察している。「大学を卒業して最初の仕事、ですか?」
「そう。一年もたなかったなあ。でも……仕事に行けなくなりだした頃は、実はちょっと安心したの。『一抜けた』っていう感じで。一度休んだら、もう完璧は目指せないんだから。休まず勤められているひとと同じ土俵にはもう立たなくて良くなったな、みたいな」
実際に辞めた頃には、そんなささやかな安堵を感じられる余裕はなくなっていた。
頭を伏せて深呼吸をしていると、シュウの声が降ってくる。
「前に久礼さん、ここに来るようになって変わったようなこと言ってたけど、俺もそうかも。話の聞き方とか、共感して見えるような表情と相槌のやり方みたいなのを知ったかな」
久礼はゆっくり顔を上げ、「そうなんだ」と返す。シュウの視線はまた遠いどこかを見ている。
「俺はたぶん、不特定のひとへの上手い態度なんかまだわからないんだ、本当は。でも取り繕うすべは、ちょっとわかるようになった」
「ん、どういうこと?」
「自分のことでいっぱいってこと」
それ以上聞き出す間を与えないまま、シュウは「じゃあ」と去って行く。訓練がどの程度忙しいのかは知らないけれど、シュウはマイペースなのか回避的なのか、うわべでない話をしてくれているだろうわりに、いつもすぐいなくなってしまうな、と思った。
*
ある日、祖母が誤嚥性肺炎を起こして入院となった。老人ホームと同じグループの法人が運営している病院は、老人ホームからもすぐ近くだ。
ボランティアと家族の立場は違うと、最初に竹川に説明を受けて理解していたし、祖母がいるからボランティアをしているというわけでもなかった。そう思うこととは裏腹に心配や不安はこみ上げる。
久礼はそれらを割りきり、祖母の影が確実にない老人ホームへこれまで通りに行くことが、上手くできなくなった。数日を経てもどうにもならず竹川に相談すると、無理もないことだと支持を示してくれた。
落ち着いたらまた考えればいい、という竹川の言葉をいつまでも胸の内に落とせないまま家で過ごして、祖母の見舞いの帰りには現実感が瓦解した気持ちで老人ホームを眺める。楽しみと学びがある場所で、施設自体は何も変わりがないと思っているはずなのに、色あせて見えてしまう。雨が降っているからだと思おうとした。
老人ホームの変わりない毎日とは、定期的に誰かが退所――それはつまり、大抵は長期入院や死亡――して、別の誰かが新しく入所するということだ。誰かが転んで、むせて、容態を悪化させる。別の誰かは施設になじみ、リハビリの効果が表れる。
ああ、なんだか。知っていたはずのことが重い。
傘越しに聞く雨音は小さく弱いのに、ずぶずぶと濡れそぼっているかのような鈍重さをもたらした。
「久礼さん」
「うわっ!」
不意に降ってきた声に久礼は大仰な反応をする。声をかけたシュウも驚いた顔をした。いつの間にか近づいてきていたらしい。半透明に濁ったビニール傘と薄い緑のユニフォームが、灰色がかって見える。
「すみません。久しぶりに姿を見たのと……おばあさんのこと聞いたので。久礼さん、入所者さんのご家族だったんですね」
久礼さんの知らないところで勝手に聞いてすみません。
シュウは抑揚のない声で言い、軽く頭を下げる。
共感して見えるような態度を知ったと言っていたものの、シュウの表情や声のトーンは、竹川のように「自分の痛みがこのひとには伝わっている」と思えるようなものには別段感じられないな、と久礼は思った。たぶん彼なりの進歩や理解はあるのだろうし、特に不快とも思わなかったけれど。
そもそも老人ホーム内で側聞したシュウの態度は、「淡々と作業はできるけれどあまりおしゃべりをしないのでつかみどころがない」とか、「無表情で無感動」とか、そんな評価が多かった。それと比べればたぶん、いくらか気を許してくれているはずだ。無関心であったら久礼の祖母のことだって聞かないだろう。
共感されている、とは思えない。けれどシュウの声かけは、久礼にわずかに息を吐くことができるくらいの康寧はもたらしてくれる。その吐息に、思っていた以上の弱音が乗った。
「ううん、こっちこそ……いきなりボランティア行かなくなって、その。いろいろごめんなさい。祖母のために来てたわけじゃない、つもりだったのに……」
知っていたはずだった。かたちあるもののすべてが変わっていくこと。それが重くて苦しい。それにしがみついて生きていくということが、ひどく疲れる、途方もないことであるという圧力があまりに強くて、立ち向かえない。
「なんか、仕事がしんどかったときに戻ったみたいで……」
シュウは身じろぎひとつしなかった。久礼の吐息がどこに行ったのかわからない。シュウが聞き拾ったのか、通り抜けて消えたのか。
「不安でつらい気持ちばっかりになっちゃうの。誰かに会うのが億劫で、でもひとりでいるのも寂しくて怖い」
「……それは、おばあさんが入院したのがショックだから」
「そうだけど」
久礼は是認しながらも、筋が通っているのかわからなかった。祖母はきちんと治療を受けて回復に向かっている。ボランティアにまったく行けなくなってしまうほど気をふさがせているのが、果たしてその出来事ひとつだと片付けていいのか、納得のいく答えにたどりつけていなかった。
長い時間を沈黙が通り抜けていくうちに、だんだんと雨足が強くなってきた。ぼたぼたと、大粒の滴が落ちる音がする。
不意にシュウが口を開く。
「――何事もなく家族がいるから、前向きでいられた?」
雨音よりもずっと低い声だった。
「どんな気持ちなんだ、誰かを当たり前に支えにしていられる、それに疑問も不安も持たずに過ごせるのなんて」
驚いて姿を見ると、彼は固くこぶしを握り、嫌悪と批判を苦々しい表情に浮かべている。久礼の存在など雨の向こうに隔ててしまったかのような、ただ自分自身に聞かせているだけのつぶやきは、まるで呪詛のようだった。
「やっぱり原始的な愛着は個人がつくるほかない。社会の責任ってなんなんだ」
「シュウさん!」
久礼の呼びかけに静止したが、我に返るという様子ではなかった。遠いところも見ておらず、彼はまったくの正気だったと知った。
「……すみません。雨が強くなってきたし、久礼さんも早く帰ったほうが」
感情の乗らない言葉だけ置いて、彼はやはり足早に去ってしまう。久礼は緊張してのむばかりだった息を、ゆっくりと吐ききることを意識した。それも竹川が教えてくれたな、と頭をよぎった。
シュウは淡々として無感動な態度の裏に、何か言い知れぬ懊悩を抱えているのかもしれない。
「さっきの言葉で考えれば……家族とか愛着っていうものについて、なのかな」
それが彼に呪詛を吐かせているのだろうか。
それにしたって、シュウはたびたび意味深長なことを言っては話を切り上げて去っていく。久礼に対して何か隠したり拒んだりしているのではなさそうだけれど、その態度は不思議で落ち着かない。コミュニケーションが不器用なひと、と片付けるのもあまりに乱暴に思える。
だるい体が「今考えるのはやめよう」と諭してくる。けれどその実、我が事だけでいっぱいになっていた頭の中にシュウが割りこんで、少し冷静さを取り戻したような感じもしていた。仕事を辞めたばかりの頃だったら、他人の煩悶なんて到底関わる余裕はなく、拒否することしかできなかったはずだ。
苦しく重い。けれどもしかするとそれは全面的に深刻なものではなくて、自分は前よりずっと冷静で、余裕を持てている部分もあるのかもしれない。
久礼はそう思いながら帰路につく。傘の上に雨音を聞いて、その下では自分の閉塞感や祖母の姿ではなく、シュウの言葉を広げる。
*
久礼はそれから一週間後、ボランティアに復帰した。シュウにも伝えようとすぐに姿を探したもののなかなか見当たらない。聞いたところによると、そろそろ訓練期間が終わるので徐々に通常通りの作業が少なくなって、振り返りとして面接を受けたりレポートを書いたりしていることが多いらしい。
ところが今日は会えなかったなと久礼が諦めた夕方頃になって、シュウのほうからやにわに現れ、普段通りの様子で声をかけてきた。
「久礼さん、久しぶりです」
「シュウさん! はい、あの……心配かけました」
「元気になったならよかった。突然ですけど、ちょっと付き合ってもらえますか」
「はい?」
久礼の質疑にシュウは応えないまま、後を追うように促した。
シュウについていくと多目的ホールへ着く。レクリエーションに移動売店、季節の催し物、はたまた地域住民の会議にまで使われるこの場所も、今日はたまたま何の予定もないのか、静黙している。天井が高めで、窓辺には一段高さを設けたスペースがあり、ステージその他として使えるつくりになっている。窓から射しこむ夕陽が床に落ちているのを久礼が見ていると、その染め抜きの及ばない奥のほうへとシュウは寄っていった。振り返らずにこぼす言葉も、静かなホールでは明瞭に聞こえる。
「いきなりと思うでしょうけど、一曲聞いてほしいんです」
「え? シュウさん、ピアノが弾けるんですか」
そこにはグランドピアノが一台設置されている。催しで使う際だけ移動して、普段は日陰で誰に気にされることもなく眠っているその楽器にシュウが触れる。手早くカバーを外し、鍵盤蓋を開けた。
「話は後で」
迷いなく椅子に掛ける。粛然とした言い方に強いちからが込められている。まっすぐ引き結んでいた唇が、開く間も見せずにふっと短く息を吐き、直後に鼻から吸った。
久礼は、その空気の流れはシュウだけもののように思えて、息をのむ。
左手の親指から、長く放物状に伸びる清らかな音が飛び出した。その上を繊細な変化を伴う連符が転がっていく。波のうねりのようになめらかに上下する音階を、手を交差しながら弾いている。
聞いたことのある曲だ、と久礼は思った。
生まじめに連なっていた音階がだんだんと、いたずら心に満ちて飛び跳ねるようなものに変わる。実際にシュウの両手がくっついたり飛び越えたりと入り乱れて弾くさまが、なんだか楽しい。久礼はシュウの手元を追うのに夢中だった。
最初の旋律に戻ったと思えば、すぐに物悲しいような変奏に遷移する。ゆったりとした、寂しく愛おしいような低音の揺らぎ。大切なものを腕に抱いて揺らす合間に、またも交差する左手が鳴らす夢心地な和音を、胸が締めつけられるような思いで聴いた。
旋律は三度最初のものに戻り、今度はフィナーレに向かいどんどん勢いづいていく。それを追いかけるうちにあっという間に崩れ去って、最後に念押しのようにオクターブを跳ねさせて消える。
気持ちよく心を弾ませ、時に少し切なくさせて、それらすべて――残滓を希求する感傷のひとかけらまでも空の彼方へ解き放つような、爽快さのある曲だった。
シュウが長い息を吐く。現実に帰る儀式のようで、久礼もはじかれたように戻ってくる。
「すごい……シュウさん、すっごく上手い! 素敵だった……」
興奮した高い声で久礼が礼賛すると、シュウは静穏に微笑んだ。
「ありがとう」
その笑みも声も、これまでで一番飾り気のない、自然なもののように感じる。久礼はシュウの本地に初めて接しているような気分になった。
「すごい、とてもわくわくする曲だし、シュウさんを見てたらなんだかいろんな感動があって……! あの、どうして聞かせてくれたの?」
シュウは微笑んだまま、少し弱ったような色を見せた。
「長いと思うんだけど」
「いいよ、聴きたい」
むしろ訓練を放り出していそうなシュウが大丈夫なのか、と野暮な考えがよぎったのを、高揚感ですぐに放棄した。
「……まず今の曲。ドビュッシーっていう作曲家の曲集に『子どもの領分』というのがあって、その最初の曲なんだ。『グラドゥス・アド・パルナッスム博士』っていう曲名で。まあ曲名はいいんだけど」
シュウの指先が柔らかく鍵盤をなぞる。
「子どもの姿なんだ、この曲は。練習とか勉強みたいなことを……まじめくさって取り組んで、かと思えばころっと飽きてすぐ別のことに気が散ってく。また気を取り直して学んで、そのうちちょっと退屈したり……、最後に解放されるようにぱっと駆けていくんだ」
久礼も同じイメージを抱くことができた。
いつの間にか遊び始めて、飛び石を跳ね、躍りあがる。風を吹かせて光の波紋を作っていく。軽やかで純真な振る舞い。そんな描写が浮かぶような曲だった。
「昔、俺にはこの曲集は到底弾けないって言われて。なんでかっていうと、これは作曲家が自分の子どもに贈った曲なんだ。そこに込められた慈愛や詩情、ユーモアなんかが理解できないのと、そもそも俺の演奏には自分の悩みばかりが出てしまっていたから」
シュウの指先はずっと鍵盤と遊んでいる。ゆっくりと静かに鍵盤を沈めれば、内部機構が動く独特の振動音だけがして、楽器としての音は鳴らないらしいことを久礼は初めて知った。
「でも最近……自分の悩みとピアノを弾くことって、切り離せることなんじゃないかと思った。昔は自分の悩みに自覚がなかったし、ピアノが生きることのすべてみたいに頼っていたけれど、今は多少違うはずだから」
「悩み?」
「それはちょっと置いときたいんだけど」シュウが軽やかに苦笑する。「それで、自分のことは置いてその曲のことや、その場で表現したいことだけ考えた演奏をしてみようと思って。――久礼さんはこの曲の感じが合うかなと思ったんだ」
「わたしが?」
「そう。あの六曲の中で」先ほど弾いた曲集を構成する数を指しているのだろうと推測した。
「……わざわざ自分が弾けないって言われた曲集から選んだの?」
シュウは一瞬虚を突かれたようにした。少しの間を経てから、これまで知らなかったことを自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「確かに心の中にずっとある曲だけど、それは弾けないって言われたからじゃないと思う。たぶん――好きだから弾いたんだ」
シュウの表情が穏やかなので、彼にとってはあの曲、そしてこの楽器にそれほどのちからがあるのだと思わされる。久礼は思わずそばにある鍵盤に己の指を沈めて、ぶしつけな雑音が鳴ったので驚いた。シュウは小さく破顔する。
「俺の昔の生活はピアノだけだった。たぶん今でも本当は、すごくピアノが好きなんだ」
自分の気持ちにさえ「たぶん」をつけるような自信を失った心情と、それを弱々しく笑いながら打ち明ける心境も、久礼にはなんだかよく理解できる気がした。
「でも、自分の悩みを解決しなきゃまともにピアノも弾けないと思って……それからほとんど触りもしてない。もう五年くらい経ってるな」
「そんなに……。きっと深い悩みなんだね」
その深度に応えるだけの学びを、シュウはまだ探らないといけないのだろう。それでも今のシュウの内面にある陰陽の両面に、久礼は愛おしく敬服する気持ちだった。先日の苛立ちと、そこから一歩を探り当てた今日の姿は、万人がそれぞれ歩む自分の道に向き合う態度だ、そこから学んでいるさまが久礼にも勇気をくれる。
「ここで音楽療法ってたまにやってるでしょう、俺は内容は全然知らないんですけど。あれをやってる日はピアノの音が聞こえて、音楽って癒しになるのかと思ったし、やっぱり聞いているとまた弾きたいという気持ちも強くなった。あと人格と病理は同一じゃないっていうこととか、助手なのでまあ間接的になんだろうだけど……俺もいろいろ学んだと思う、ここで。そういういろいろがあったから、今の演奏は自分でも少し、悩みと分かつものだったと思う」
ほっとした表情に、ぎこちない慈愛がにじむ。それはたぶん、シュウの内面にあてられている。
「そういう演奏ができるかどうか……さっきのは賭けみたいなもので不安だったんだけど、よかった」
その言葉に久礼は、シュウは自らを抱きしめることができたのだと思った。少なくとも、彼の指から放つことができる音楽のことは。
*
その日の夜更け、シュウのことを考える。
雨の日に彼が吐きだした呪詛と、今日彼自身が呼び寄せてみせた晴れへの祈り。
あと数日で終わるという訓練期間。
不確定な生活と、長い今後の道と、その入り口で共有しているもの。
自分が彼からもらったもの、彼へと返せるもの。
彼がまだ答えを出せていないこと。
彼がまだ話すことができないこと。
ベッドの上で何度か寝がえりをうち、フレームの軋みとシーツの擦過音に耳をそばだてる。体を伸ばすと耳の内側でくぐもって聞こえてくる、名状しがたい生存の音に。それからぱっと起き上がり、ノートパソコンを起動した。
動画サイトを開き、彼が述べた曲集の名前を打ちこむ。やはり六曲の構成らしい。順番にすべて再生した。
彼が弾いたものと同じはずの一曲目は、演奏によって同じ曲がこうも異なって聞こえるものなのだと驚いた。だが、学ぶ意味を問うでもなく取り組む純真な響き、すぐやめてはまた戻っていく、その倦怠感と爽快さのあわいのすべて。調和を重んじすぎた憂鬱、枠から出られない葛藤のようなものさえも、明るく光に満ちていると思うのは同じだ。
そこから連なる五曲には、踊るように活発なものも、優しい悲しみに浸ったものもあった。それらも変わらず、いとけなく淡い光をはらんでいる。
――ああ、この曲集がこんなに光るのは、この曲を与えた大人の慈しむ視線が、柔らかく温めているからなのだろう。
久礼はその直感をシュウに重ねて考える。久礼が読み取ることのできるその視線を、シュウは手に入れられず、渇望しているイメージがよぎった。
想像上のシュウは、親を追う子どものように、無垢で不安げな姿を久礼に晒している。
*
昼過ぎになって、朝から不在だった竹川が施設に戻った。すかさず久礼はつかまえて、相談、もとい噛みつくような懇願を吐きだした。竹川は一瞬面食らった顔をしたのち、こみ上げるものをこらえるような笑みを漏らしながら、久礼の問いに答えた。
「そうねえ。たぶん隣のリハビリ施設でよければ大丈夫だけど……」
「ほんとですか! あの、ぜひお願いします、三日じっくり考えましたから、本気だし迷いもありません」
「わかったわ、でも心境のほどは聞かなくてはね。一体どういうことを考えたの?」
久礼は頷いて、急いで頭を回転させる。
「はい。でもその前に教えてほしいことがあるんです。最後にシュウさんに話をしに行きたくて、その前に知っておきたいから」
自分本位が過ぎると承知しながらも、取り繕う余裕はない。竹川に会えなかったり、久礼が結論をまとめられずに悩んだりしているうちに間に三日も過ぎた。そして今日でシュウの訓練期間は終わるのだ。
「シュウさんに?」
竹川は何事かを考える様子で、ちょっと間を含んだ。
「そういえば彼、何日か前にピアノを弾きたいって許可を取りに来たのよね」
「あ、そのとき……」
「あなたがそのピアノを聴いたの?」
竹川でも言葉をさえぎることがあるのだな、と的外れな感想を頭にかすめつつ、久礼は竹川を見た。竹川の視線には、優しい厳しさがにじんでいる。目を逸らさぬように意識した。
「そうです」
「……訓練って別に介護技術的な部分でなくてね、働いたり学んだりするための全般的なことについてなのよ。彼には彼の課題があって、その取り組みの場だったの。私は彼に、そういう指導もしていたんだけど……」
竹川がすべてを説明する前に、久礼は半ば勘のような根拠のないものであったけれど、その意図を察することができた。
「勝手な巻き込みや未熟な介入は、ソーシャルワークには良くないことですか?」
だから反駁や異論ではなく、ただ明確に訊くべきことを返す。
「いいえ、もちろんそんなことない。そうやっていつも自覚を持とうとすればいいの。完璧なことなんてないし、求める必要もないのよ」
竹川も久礼の胸懐を正確につかみ取り、先を促した。
「じゃあ急がなくてはね。何が聞きたいのかしら?」
訓練の最終日はほとんど面接予定になっているらしく、シュウは何人かの職員と代わる代わる話しているようだった。久礼はその合間になんとかシュウを捕まえた。
「あんまり時間ないですよ」
そう話すシュウの表情は相変わらず機微が読めないが、友好的でさっぱりとした雰囲気も見て取れた。シュウにとってはあのピアノを弾くことができたことが、今の学びのすべてを統括し終えたことに等しかったのかもしれない、と思考がよぎって消える。
それはシュウが自らつかんだことで、彼の学びの濃密さに比べたらきっと、久礼にもたらされたものはおまけに過ぎないものだっただろう。
同じことを返したかった。久礼自身がつかんで、シュウにも分けたいものがあった。
「わかってます、だから一気に話すけど聞いてね? まず、わたし……隣のリハビリ施設に就職するつもり。すぐにフルタイムはきついだろうしきっと少しずつだけど、相談援助職を目指すことにした。それとわたしが前を向けるのは、家族がいてくれるからなのはその通りだと思うけど、ここで会ったひとたちとか、家族以外のあらゆるひとの影響だってすごく大きいよ、シュウさんもそのひとりなの」
あの雨の日の言葉に対する答えを語っているのだと、シュウは察したようだった。
「わたしじゃまだ、シュウさんの疑問に返事ができないから、竹川さんに聞いてきた」
――「原始的な愛着は個人がつくるほかない。社会の責任ってなんなんだ」。シュウの震えた声が頭の中でリピートする。
目の前のシュウは、敬虔に声を待っていた。
「竹川さん、特定のひとにしかできないことはあるって言ってた。だからそのひとが十分に取り組めるための手伝いをする、障害になることを解決することが、ソーシャルワークのできること……社会の責任だって」
シュウは冷静で、苦しげだ。
「そうまで言うなら大体予想はついてるんでしょう。俺には、家族が」
言葉の裏側は、その答えでは救われないのだと吐露している。
「ちゃんと続きがあったよ。もしその特定のひとがいなくても。愛着をつくることは、友達でも恋人でも、ほかの誰でも……自分自身で、代わることができるって」
シュウの悲しみは、簡単には昇華されることはないのだろうと遠く思う。久礼には知ることのできない、共感どころのない断絶された道で、彼は今後も長く家族の――そこからもたらされるはずだったものの影を、きっと追う。
シュウはその道のりのことを、葛藤しながらも決して目を離さず、心の中心にずっと据えている。きっともう、指先を鍵盤に触れて、それだけは離すまいとひたすら思いながら。
「そして……もしそのすべてもかなわないとしても、どれだけ不安なままであっても、生き抜いているだけで十分に肯定される。何も間違っていない、疑うこともない。今ここでシュウさんが生きているっていう、このままで完全なの」
竹川の言葉を注意深く引用しながら、彼の指が絶えず清らかであることを願う。どんな荒野にいても、いつだって弾き続けられるように。
シュウは言葉が心の内側にしみ込んでいくまで、じっと立っていた。十分な時間を置いて、ひそめた呼吸を解放し、喉を一度上下させる。それを見計らい、久礼はどうしても聞かなくてはならないと思っていたことを声に乗せた。
「シュウさん、これからどうするの」
「時間がないので、後でまた」
冷淡なようでいても、去り際にふとやわらげたシュウの口元は、久礼が分けたかったもののすべてを飲みくだしたように見える。
――ここで働かせてください。わたしはソーシャルワーカーになりたいです。
竹川の姿を見つけて久礼は、開口一番に言った。
それに応じ、シュウに分けたかった答えを久礼に与えて、竹川は告げた。
「私ね、思っていたのよ。若くて疾患や障害の枠に当てはまることもないひとの姿は見えにくいと。失職すると特にね。若者の雇用状況の劣悪さという社会的な構造と課題を私は知っているのに、細切れにされてしまった社会福祉制度が彼らに対してできることは驚くほど少なくて。具体的な姿をつかめず、まるで透けているみたいに感じていたわ。家族という資源に未だ委ねたままなのだと悩みながら」
「え? そう……なんですか」
久礼に何かを求める様子のない語り、というふうだった。竹川はよどみなく言葉を流していく。
「障害者雇用とフルタイムの正規雇用の間には労働時間も内容も深すぎる断絶があるし、その谷間を埋めているものはあまりに貧しい。その上どの領域に対しても福祉は、質の担保のための働きを十分にはできていない」
謎かけかと思うほどに竹川の言葉がわからない。いつも噛み砕いて整理したものだけを並べられていた、つまりはクライエントのようなものとして接せられていたのだと知る。困惑している久礼の様子を読み取って竹川は言う。
「いろんな悩み、挫折、それから目標や希望を持っていて、これから長い道を歩む、豊かな職業生活という意味では狭い椅子とりをさせられがちな若いひとの姿に……私は何をすべきなのか、学んでいるということよ」
これからもよろしくね、新人さん。
竹川はそう付け加えてから久礼を送り出した。久礼はそのとき、竹川の悩みや考えを対等な同僚として聞ける日がいつかは来るだろうか、と考えた。
*
少しずつ陽が落ちて、花壇に腰かける久礼の影がゆるやかに伸びていく。
外にいてもまったく肌寒くないし、夜を迎えるのがずいぶん遅くなった。夏が近づいていると実感した。
影が突然、ふたつに増えた。
「久礼さん」
シュウはいくつもの荷物と小さな花束を手にして現れた。その姿に、ああもうここには来ないんだな、と久礼は悟った。
「後でって言ったのに待たせてすみません。意外と声をかけてくれる方がいて」
「そりゃそうですよ。……だって最後なんだから」
意図しないものを含んでしまった声色に、シュウは気づいただろうか。シュウは並ぶように同じ花壇のふちに腰かけて、そうですね、と小さく言う。
「今後のことですけど。いや自分のことの前に……久礼さんにおめでとうって言うの忘れてたな、さっきは」
すみません、と単調な声が言う。
「おめでとう」
改まった響きの言葉は、彼なりに真剣な祝福を含んでいたのがわかった。温かくて胸が締めつけられる。シュウの声はいつも静かに平坦で、余分なものを何も含まないようにと抑えられているようでありながら、久礼には特別に響くものだった。
「……ありがとう。ねえ、わたしたちくらいの年頃って、ようやくスタートだなって思いませんか。学校を出て仕事をしてみて、ようやく周りの広さが見えはじめるっていうか、実は生き方って多様なのかなとか。これまで教えられたルールは、親の常識とか限られたものに過ぎなくて、そういうことをわかりはじめるところから、根拠のない規範も義理も脇に置いて、自分でこれからの道を、ひとりで、本当に考えて選んでいくことができる気がする」
今にも上手くしゃべることができなくなりそうだった。出せるものから放り投げるように、つぎはぎの言葉をシュウに向けていく。
「俺は、ひとりで、とかの部分は到底言えないけど……そうかもね」
シュウの指先が、柔らかい風に遊ばれた花束を支える。久礼はそれを注視して、言葉よりきっと雄弁な熱が、彼の中でもっとも繊細で敏感であろうところへ伝わればいいと、意識の下で思っていた。
「それで今後のこと。どんな仕事をするかとか、俺はそんな段階じゃないんだ。ただこれまでのことを振り返りたい気持ちで、次のことはそれからって思ってる。どこに居たいのか、どんな気持ちにたどり着きたいのか。ピアノをどう弾き続けるのか……。だからどこで何をするか、全然決まっていないよ」
整った言葉とよどみない口調は、ゆるぎない意思の表れのようだ。
「これまで、振り返ろうって思えたことはなかった。違う気持ちにたどり着けたのは、ピアノをまた弾けると知ったからだ。また弾けると知ったのは、人格や悩みと、ピアノを弾くことは別なんだとわかったから。それがわからなかったからこれまで、何も自覚がないままピアノを弾いてた過去に学ぶようなこと残っていないって思ってた。けど、俺は新しい答えに行き着くために、やっぱり昔のことを考えないといけない」
右手の親指と人差し指が、薄くなめらかそうな白い花弁を挟んで撫でている。白のほかに黄色やピンクと、小さいながらもさわやかな色合いが春らしい花束だ。それを愛でる視線と指先は、彼にも等しく訪れていた春を、この夏の間際にようやく喜んでいるかのようで、切なく眩しい。
前途を見つめるシュウにすがすがしい気持ちを感じているはずなのに、先ほどからずっとそれを上回って痛惜の念がこみ上げてくるので、久礼は内心で白旗を振っていた。
「それに……ずっと忘れていたこと、最近思い出した」
少し脆いような声になった。久礼はちょっと心が揺れ、遅れて返事をする。
「……どんなこと?」
シュウは、名状しがたい表情をのぼらせた。真摯で、困惑していて、疑っているのに信じている、というような。やがて決したように言う。
「――久礼さんは、声が聞こえたことはある?」
「え?」
「自分を導こうとする声。自分の内側から聞こえるような声……」
シュウの声色は真剣だった。誤解なく述べようとする慎重さも漂っていた。それでもあまりに拍子外れで、久礼は最低限の返事しかできなかった。
「……ない」
「だよね。じゃあこれは家族の声じゃない」わかっていて用意していた、と言わんばかりの言葉でシュウは返事をする。
それで幕引きという気配があって、久礼はもどかしく焦った。理解できず、何も返事ができないにしても、もう少し聞きたかった。シュウはそれをいっとう大事なことを扱う声色で言ったのだ。
「……お、おばあちゃんが」
シュウが下がった暗幕越しに聞いている。
久礼が必死に言葉を構築するのと、古い記憶のひだをたどっていくのは同時だ。
「昔……言ってた。声を聞くひとがいる。島には、祈りを届けて、導きを聞くべきひとがいるって」
「――島?」
「そう……おばあちゃん、昔は南の諸島に住んでたの。わたしは生まれた頃から本土にいて、小さいうちに何度か遊びに行ったことしかないけど」
古い、自分自身ではいつのものか確認することもできない記憶は、いくつかのおぼろな映像をまなうらに映し出す。
灰色の水平線、道を覆う大雨。別の日は、快晴の青空と輝くような海。それ以上の断片を追いかけることができない。だが久礼は客席ではなく、シュウの手を握ることができる場所にいる。
「だから……声が聞こえるひとは、いる!」
顔が熱かった。心臓は重大なことに備えるような重圧にきしむ。心だけが迷わない。シュウは久礼を呆然と見つめていた。見開いた目の虹彩に久礼の記憶の底が映ればよいと願った。そうすれば、彼ならそこから音を聞き遂げるのではないかと思った。
「――そっか」
シュウの漏らした声を、聞こえたよ、という意味に久礼は解釈することにした。
「そうだよ」
久礼はほとんど泣きそうな心地で返事をして、彼に言うべきたくさんの言葉を伝える機会を永遠に逸したことと、代わりに彼の奥底に根付く種を一粒、きっと差しだすことができたのだということだけを、噛みしめた。
「……ありがとう、よかったらこれ」
久礼の心情を知る由もないシュウが、鮮やかな花束を差しだす。
「みなさんには悪いのかもしれないけれど、俺にはたぶんいらないし、久礼さんに感謝してるから。……久礼さん?」
その芳香が鼻腔に達した瞬間、涙腺が限界だと言った。
彼のくれた花は種を落とさない。悲しみひとつに括れない涙が土にしみても、次の花の糧になることは一生ない。
それでも。
久礼は、その花の色を、かたちを、心の深くに根付かせ、たぶん忘れることはないと思った。
久礼が泣き止むのを、隣に座ったまま穏やかに待ち続けるシュウの姿を、ずっと。
シュウの視線はこれから来る夏、彼のたどってきた夏に向けられている。