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真夏の強い朝日が、目蓋の裏にまで突き刺さる。遮光機能のないカーテンが太陽光線をダイレクトに伝えてくる。カーテンの本分である「光を遮断する」という仕事を完全に放棄したこのカーテンは、むしろ必要なのかとさえ思う。
夏休み三日目、イコール補習三日目。
昨日の曇り空が嘘みたいに、今日は雲ひとつない快晴だった。こんな気持ちの良い朝から担任に叱られることが分かっていながら、「さあ叱られに学校へ行こう」などと考えるマゾい学生がいるだろうか。
締め切った部屋は、何かの罰ゲームのように蒸し暑かった。お陰で僕は全身が汗まみれで、Tシャツは汗で肌に貼り付き、パンツは濡れて色まで変わっていた。
「……無理だ」
こんな日に学校など行っていられるか。何が悲しくてこんなクソ暑い日にわざわざ外出しなくてはならないのだ。三秒で溶けてしまう自信があるぞ。僕は二日間の無断欠席を全く反省しない、前向きなところが長所なのだ。
「無理だ……じゃないわよ。早く準備して。遅刻するでしょ?」
ああそうか、居たのか。
僕はサービス精神が皆無な象のように気怠げに床から起き上がり、刺々しい声のした方に、いかにも面倒臭そうな態度で向き直った。
「りんご。年頃の女の子が男の部屋に勝手に上がり込むなんて感心しないな。お前は身の危険とか感じない種類の生物なのか?」
「別っつにぃー? クルに襲われたところで、返り討ちにする自信あるし。だいたいクルにそんな度胸なんてないし。それに、仮にもしものことがあっても、ちゃんとクルに責任を取って貰うから。だから平気」
まあ万が一にも「もしも」はないが、途中から話の論点がずれている。
姫小町林檎――。
幼馴染みであり、阿呆であり、僕が通うS市立青陵高等学校のクラスメイトでもある。何かと僕に絡んできては勝手に世話を焼くことから、校内では僕の世話焼き女房という、微妙かつ不名誉な称号を与えられている。
「それに昨晩は、しっかり玄関のチェーンキーを掛けたはずなんだがな。どうやって部屋に上がり込んだ?」
「どうやって、って……こうやって?」
りんごは窓を開ける仕草をした。
「いや、それ完全におかしいだろ」
「だってクル、いつも窓の鍵、掛けないじゃん。開いてる窓から入るの、当然じゃん」
「お前、いま泥棒を完全肯定したぞ。むしろお前自身が泥棒か?」
りんごは僕を「クル」と呼ぶ。
まだ僕らが幼稚園に通っていた頃の話だ。胡桃という女の子のような名前が原因で、僕は男友達から仲間外れにされた。「女なんかと遊べるか」などという、子供ながらに異性を強烈に意識した、どうでもいい理由からだった。
それから暫くの間、僕は胡桃という名前に嫌悪感を抱いていた。その話しを聞いたりんごは、それから僕のことをクルと呼び出した。
ちなみに現在は、この名前を女の子とお近づきになるためのネタとして、最大限利用させてもらっている。
さて、そんな僕でも一応、防犯意識くらいは持ち合わせているつもりだ。必ず就寝前に玄関の施錠を確認しているのだが。何故だかりんごはいつの間にか僕の部屋に上がり込んで、朝食の支度をして行くのだ。その手段をずっと疑問に思っていたのだが……。
なるほど長年の謎がいま氷解した。
「だからってお前、ここ二階だぞ。どうやって窓から侵入するんだよ」
「ふふふ……、この世には脚立という便利な道具があるのだよ、キミ」
りんごは顎を指でつまみ、したり顔をする。
「それを不法侵入と言うんだ」
部屋の中をぐるりと見廻し、りんごは小さな低い鼻をつまんだ。
「それにしても……男臭い部屋ね」
「汗だくで寝ていたからな。汗臭いのは仕方ない」
「それに殺風景。もっとこう、アイドルのポスターとか、ちょっとエッチい写真集とか、健全な男子高校生の部屋に普通はあると思うけどな」
「あいにく二次元には興味がないんだ。動かない写真を眺めるより、頭の中で動くものを想像する方が、よっぽど楽しめるだろ?」
「うわっ……最低。その豊かな想像力で、あたしの身体をいいようにしているのね」
りんごは露骨に不快感を露わにした。そんな顔をしたいのは僕も同じだよ。
「安心しろ。僕の暴走した妄想の世界に、お前は一切キャスティングされていない」
「それはそれで、乙女のプライドが傷付くわ」
「ところで、シャワーを浴びたいのだが。いいか?」
膨れっ面のりんごを横目に、僕は汗だくになったTシャツを脱ぎ捨てた。彼女は汗で重くなったTシャツをつまみ上げ、僕の上半身をまじまじと見つめた。
「相変わらず貧相な身体よね。ちょっとそれ、男子高校生の平均的体型から言っても相当痩せすぎだよ。まるで寝たきりの病人みたい」
りんごの表情がほんの僅かに、ハッとしたように見えた。
「言ってくれるな。プロテインもブルワーカーも試した結果がこれだ。まったく簡単なのだが、お前には分からんだろうな」
無視された。
「ところで今日はどうしたんだ? いつもは朝飯を作ったら黙って帰るのに、今日に限って寝室にまで入ってくるなんて」
「そうそう、どうしたじゃないわよ。クル、昨日も一昨日も補習、サボったでしょ。担任から、本人と連絡が取れないって、あたしの携帯にまで電話が来たわよ。このままじゃ進級できなくなっちゃうって」
押しかけ女房の称号は、どうやら職員室でも健在のようだ。本人と連絡が取れないからといって、りんごに電話してくる担任もどうかしている。
「電話か……」
僕は昨日の惨劇を思い出した。気が狂いそうなほど衝撃的な惨劇だった。しかしそれ故にどこか現実感に乏しく、僕の中では夢と区別が付かなくなっている。そうでもしないと、感情が壊れてしまいそうだった。そう、夢であって欲しい。そう思わずにはいられない。
「誰にでも、どこにでもつながる公衆電話」の噂――。
記憶の欠片から得た情報。それは一部のネット掲示板の中で語られている噂だった。そして、その掲示板の場所を知らせるメールの存在。
あの後、竜峡の鞄から見つかった携帯電話には、件のメールの履歴は残っていなかった。掲示板のURLも同様に、携帯電話には何の痕跡も残ってはいなかった。記憶の欠片で見たものは、僕の白昼夢だったのか。それとも竜峡によってねじ曲げられた記憶だったのか。
それに、あの不可思議な、自称「桜の死に神」の存在。
僕は今度こそ悪い夢を見たのかもしれない。
「クル、どしたの? 顔色が悪いよ?」
心配そうにりんごが僕の顔を覗き込んでくる。黒目の大きな彼女の瞳に、魚眼レンズで覗いたような、歪んだ僕の顔が映り込んでいた。
「心配させて悪いな。どうやら暑さでボーッとしていたみたいだ。目覚ましにシャワーでも浴びてくるよ」
僕はパンツのゴムに手を掛けた。
「うぎゃー。ちょちょっ、ちょっと待った。何でここで脱ぐのよ!」
およそ女の子らしくない悲鳴を上げて、りんごは両手で顔を覆った。しかし指の間から零れた視線は、しっかりと僕の下半身に向かっている。
「何で脱ぐかって、いつもこうしているからだが何か? それに今更何だよ。僕はこの通りさっきから服を脱いでいただろう? 上半身は既に裸だ」
「下、下はまだダメ。こ、心の準備とか、そう言うのまだできてないし、お嫁に行くまでは清い身体でいたいし」
「勝手に部屋に上がり込むお前が悪い」
「訴えてやる! 訴訟を起こしてクルの人生をメチャクチャにしてやる。そして法廷の陪審員と裁判官の前で、泣いて土下座すればいいのよ。りんごサマ、どうか僕のお嫁さんになって下さいってね」
「言っていることの大半は意味が分からないが、とにかくここから出て行け。僕はこれからシャワーを浴びて着替えるのだ」
「何よ、せっかく起こしにきてあげたのに。のんびりしていたら遅刻だよ」
そう言って、腰に手を当てて、怒っていることをアピールするりんごは制服姿だった。紺襟に白い一本線の半袖の白いセーラー服に、紺色のプリーツスカート。そのスカートと同色の膝下までのソックス。彼女の言葉を借りると、同年代の女子高生の平均的体型から言ってあまりに残念な胸の発育状況。本当に残念だ。
「ちょっとクル、どこ見てんのよ。いやらしいわね」
僕の視線に気付いたのか、りんごは自分の胸を両腕で庇うようにして隠した。
「まさかクル。あたしのバストに欲情した訳じゃないでしょうね。サイズはちょっとアレだけど……形とか感度とか……あたし結構アレだし」
「アレとかアレとか、全然意味分かんねぇ。そうじゃなくて。お前、何で今日も制服なんだよ。夏期講習ってそんなに長いことやってるものなのか? それともお前も補習か?」
「知らないの、クル? 一週間みっちりとやるのよ。夏期講習は塾とか予備校とかでもやってるけど、結構お金掛かるし、家もそんなに裕福じゃないし、タダでやってもらえるものは最大限利用しないと。クルも大学どこに行くか決めた? 今から準備しておかないと受験に間に合わないよ」
「高校を卒業できるかさえ怪しい人間に、大学なんか行けるはずがないだろう? それに僕は、親が残した遺産で細々と暮らしている身だ。大学なんて……経済的にそんな余裕はないよ」
「そうか……。じゃあ高校卒業したら、バラバラになっちゃうんだね」
りんごは神妙な顔で俯いた。
「でもクル、ずっとこの街にいるよね? ここを出ちゃうってことないよね? ね?」
縋るような、懇願するような、そんなりんごの表情。
「そんなの分かんね。この街の外がどうなっているのかもよく知らないし、先の人生のことなんか、もっと考えられないよ。とにかく今は、二日間補習をさぼったことを担任にどう誤魔化すかの方が、よっぽど重大な問題だ」
「クル……」
僕はタオルとパンツを手に風呂場へと向かった。
建て付けの悪い引き戸の取っ手に手を掛け、軽く力を加えると、引き戸は氷の上を滑るように、まるで抵抗なくスパーンと勢いよく開いた。
薄っぺらな障子戸の向こう側には、胸からバスタオルを巻いた、桜色の髪からぽたぽたと水滴を落とした、西洋人形のように美しい小さな神サマが、ポンプボトルを片手に持ったまま立っていた。
「ちょっとアンタ、シャンプー入ってないわよ」
人間って驚くと口をパクパクするのだな――。後の神サマの台詞だ。
後頭部に殺気を感じて振り返った僕に、にこやかな笑顔でりんごは言った。
「ねえクル。牛刀と柳刃、どっちがよく切れるのかな?」




