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桜の死に神  作者: くまっち
第一話
7/36

7

「何だ? これは」

 それはまるで、今にも消え入りそうに弱々しく光を放ち、空気の対流と共に空中を舞い上がったかと思うと、ゆっくりと空から降ってきた。僕はその儚い光を手のひらで受け止めた。仄かに光る燃えかすを手に取った瞬間、それは雪のように溶けて消えた。

 燃えかすは僕に見たことのない情景を見せた。例えるならば自分が映画の世界に迷い込んでしまったかのような、そんな不思議な体験だった。ホログラムとも違う。白昼夢とも違う。自分の意識は確かに覚醒している。にも拘わらず自分の意思とは関係なく、それは一方的に僕の目の前に広がった。


『ねえママ。今日もお仕事なの?』

『ごめんね。今日は小梅の誕生日なのにね。でもパパがお休みしているから、ママが働かないと小梅にご飯を食べさせてあげられないの』

『パパ、どうしてお仕事に行かないの?』

 玄関で母親を見送る幼い頃の彼女は、開いているドアからリビングの中を覗き見た。無精髭を生やした父親が、外はまだ明るいというのに、琥珀色の液体が入ったロックグラスを勢いよく呷っている。

『パパはね、疲れているのよ。だから今はお休みしているの』

『パパきらい。いつもお酒臭いし、タバコ臭いし。パパのせいでママいつも忙しそう』

『そんなこと言わないのよ。パパはいままで、ママや小梅のために頑張ってきたのよ。だから少しの間お休みなの』

 彼女の母親は、膨れる娘の頭を優しく撫でた。

 母親の顔はやつれていた。無理をしているのが痛いほどに伝わってくる。それは幼い頃の彼女にも伝わっているのだろう。彼女はひどく悲しそうな顔をしていた。


「記憶の欠片よ」

 死に神は、空中に漂いながら仄かに光を放つ、煤を見つめながら言った。

「記憶の欠片?」

「そう。記憶の欠片と我々は呼んでいるわ。通常、記憶は魂に内包され魂と共に天上界に導かれ、転生と同時にリセットされる。だけど彼女のように悪霊に魂を食われた場合は、記憶を包むものがなくなり剥き出しになってしまう。その剥き出しの記憶は悪霊の体内に一定時間、留まるのだけれど、入れ物である悪霊が死に神によって存在をなきものにされた場合、記憶は保持されずに空中に飛散して、やがて消滅してしまうのよ」

「これが彼女の記憶……」

 彼女の記憶がゆっくりと消えて行く。

 僕は別の記憶の欠片を手に取った。


『誰のお陰でいままで裕福な暮らしができていたと思うんだ!』

 怒号と共に、彼女の母親がソファに倒れ込んだ。頬が赤く腫れ上がっている。彼女の父親は、母親のバッグから使い込まれた財布を取り出し、よれよれになったお札を数枚抜くと、大きく足を鳴らしながら玄関から出て行った。

『ママ大丈夫?』

『ごめんね小梅、恐かったでしょう? でもママは大丈夫、大丈夫だからね』

『パパきらい。ママのこと叩くもん』

『ママが悪かったの。だからパパのこと嫌いにならないで? ね?』

 幼い頃の彼女は、瞳に涙を湛えたまま憮然としていた。

『そうだ、これあげる』

 彼女の母親は、ポケットからおもちゃの指輪を取り出し、彼女の薬指に嵌めた。不思議そうに母親を見上げる彼女の頭を、彼女の母親は優しく撫でた。

『本物が買えなくてごめんね。でもいつか貴女が大好きな男の子から指輪を貰うまで、それがきっと小梅を守ってくれるから』

 幼い彼女は嬉しそうに薬指の指輪を見つめた。


 なんてことだ。彼女はこんな時間を過ごしてきたのか。

 自分に非がある訳ではない、さりとて回避することもできない。まだ小さな彼女にとってこの時の両親の関係は、どれだけ彼女の心を傷つけただろう。

 また別の記憶の欠片を手に取る。


 狭いアパート。物で溢れた狭い部屋の隅に、きれいに畳まれたふとんが積まれている。部屋の中央には、敷かれっぱなしの潰れたふとんに、煤けた顔の父親が頬杖でテレビ画面を見ている。周囲にはビールの空き缶や、空になった日本酒の瓶が転がっている。

 少しだけ幼さの取れた彼女は、煙草を咥え酒に溺れる父親の背中を、抱えた膝の間から刺すように睨んだ。その顔に僕の知っている快活な彼女の面影はどこにもない。

『死ねばいいのに』

 彼女は低く呟く。

 石油ストーブに載せた薬缶が、蒸気を激しく吐き出す。どろりと濁った空気が、父子のいる六畳半の部屋を気怠く覆っていた。

 酒のせいだろうか。テレビを見ながらうとうとしていた父親は、やがて完全に眠り込んでしまった。指に挟んでいた煙草が、力の抜けた指の間からするりと落ち、父親の寝る布団の上に落ちた。煙草がふとんに焦げ目をつけ、やがてそこから小さな炎が上がる。

 彼女が異変に気付いたのは、部屋のほぼ半分が炎に包まれた頃だった。

『――火事だ』

 彼女は飛び起きた。

 父親の元へ駆け寄ろうと踏み出した足を、彼女は止めた。

 相当深く酔っているのだろうか、父親は部屋の異変に気付かずに眠り込んだままだ。そんな父親を、彼女は汚いものでも見るような目で一瞥する。

 彼女は父親に背を向けた。そのまま躊躇う足を一歩踏み出した。しかし後ろ髪を引かれるように立ち止まると、一度振り返り、父親の背中を見る。悪い考えを振り払うように首を振ると、躊躇う足を一歩踏み出し、また立ち止まり父親を振り返る。彼女はそれを繰り返す。何度も。何度も。葛藤するように。

 彼女は薬指の指輪をじっと見つめた。

『お前が悪いんだ。恨むなら自堕落な自分を恨むがいいわ』

 絞り出すように呟くと、彼女は燃えさかる部屋を飛び出した。

 再び、彼女の記憶の欠片がゆっくりと消えて行く。


 既に記憶の欠片は、そのほとんどが消滅していた。

 涙で霞む視界の中で、仄かに光る残りの欠片を、僕は逃すまいと必死に掴み取った。


『パパね、深夜の警備の仕事をしていたのよ』

 病床に伏せる彼女の母親は、高校の制服を着た彼女にそう告げた。

 その話題に触れて欲しくなかったのだろう。彼女は眉間に不快感を浮かべ、母親から視線を逸らした。

『あの人が真面目だったころの話は聞き飽きたってば』

 父親を「あの人」と呼ぶ彼女が、父親にどのような感情を抱いていたかは、想像に難くない。

『あら、パパは最期まで真面目な人だったわよ。火事であんなことになった前の日も、あんたへの服を買うために朝まで残業してね。破れた服を着ていたら、あんたが苛められるからって』

 彼女の表情が固まる。

『嘘! だって、いつも酒ばかり飲んで、そんな素振りなんて……』

『あんたはいつも寝ている時間だったからね。それにパパ、無口な人だったから。あんたのために必死に働いていたよ。でも相当疲れていたんだろうね。いつもなら食器が倒れる音でも目を覚ますくらい敏感な人だったのに、最期は寝タバコで……』

『嘘よ! どうして。どうして教えてくれなかったの? どうして……だって私……』

 彼女は病室を飛び出した。

『小梅! どうしたの! 待ちなさい、小梅!』

 病院の玄関を出た彼女のもとに、携帯電話のメールが着信する。涙でぐちゃぐちゃになった顔で、彼女は携帯電話の画面を凝視した。

 表題は無題、本文には不明なサイトのURLだけが表示されていた。そのURLに接続すると『噂を語り合うスレ』と表示された掲示板に接続された。

 その中の一文に彼女は目が止める。

『どこにでも、誰にでもつながる公衆電話がS市にあるらしい』

 彼女はA駅へと足を向けた。

『きっと許しては貰えないと思うけど、私、謝りたい』

 風景がゆっくりと消えて行く。


 最後の記憶の欠片がその役目を終えた。

 炎に包まれてゆく部屋の中で、もし彼女が父親を見捨てずにいたならば、悲劇は回避できたのだろうか。もし違う選択肢を選んでいたなら、彼女は父親を救うことができたのだろうか。

何が正解だったのか。全てが終わった今となっては、それを知る術はない。

 やり切れない気持ちが、僕の胸を締め付ける。

「ああああああああああああああああああああああああッ!」

 慟哭する僕の顔に、涙雨が落ちてきた。


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