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コーヒーの香りで目が覚めた。
謎の少女との遭遇から僕は、這々の体で家までたどり着き、制服のまま布団の中へと逃げ込んだ。恐怖から、ガチガチと歯を鳴らしながら震えていたが、どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。目を覚ました今でも、あの不可解な少女のことが、遠い記憶として思い出される。
そうだ。
あれは現実なんかではない。悪い夢を見たのだ。そうでなければ説明がつかない。
「……最悪だ。最悪の夢だ」
熱いシャワーでも浴びて、全て忘れてしまおう。重い身体を引き摺るようにして、僕は風呂場へと向かった。
途中、ダイニングテーブルに、ラップが掛けられた朝食が用意されていた。ベーコンとスクランブルエッグ、そしてポテトサラダ。用意されてから、まだそう時間は経っていないのだろう。掛けられたラップが湯気で白く曇っていた。
朝食を摂り終えると僕は、制服に着替えて学校へと向かった。
昨日、補習をサボった僕に担任からどんな罰を与えられるか、それを考えると学校へと向かう足が、自然と重くなる。足に重りが付いているかのような重さだった。
夏休み二日目の朝は、そんな僕の心情を写し取ったかのような、どんよりと暗い曇天模様だった。雨が近いのだろうか、湿った空気が、肌にねっとり纏わり付く。
駅までの道中、昨日までと何ら変わらない街並みを眺めながら、ゆっくりと歩いた。
空きテナントの告知ポスターが貼られたオフィス。一年も前からある雑貨店の閉店セールの看板。何もかもがいつも通りだ。夏休みに入ってから変化したものは、学生の姿が極端に減ったことだけだ。
バス停の前には、地下鉄「N駅」行きのバスを待っている女子生徒の姿があった。紺色のプリーツスカートに、紺襟に白い一本線の白いセーラー服。僕が通っている青陵高校の制服だった。
一年生だろうか。背の低い見かけない生徒だった。見慣れた制服の、見慣れない女子生徒を横目に、僕は駅までの道のりを急いだ。
きっと部活動のためなのだろう。しかし夏休みにまで登校とは、難儀なことだ。
そんなことを思いながら、彼女の背中を通り過ぎた直後――。
不意に、僕の喉元に冷たい感触が触れた。
「声は出さないことだ。生身の人間に桜の花弁を視認する事はできない。お前、気が触れたと思われるぞ。もしくは、私に対する新手の痴漢行為ね」
「背中から触るって、どんだけ高度な痴漢技術だよ」
見覚えのある桜色の刃先が、喉元に触れていた。どうやら今朝見た気分の悪い悪夢は、残念ながら夢ではなかったようだ。僕は通り魔の少女に向けて、精一杯強がって見せた。
身長と貧相な胸で気付くべきだったのだ。それにN駅まではバスで一駅。健康な高校生なら、この距離をわざわざバスで移動などしない。彼女は僕を、ここで待ち伏せしていたのだ。
しかし何故? 何故、僕だけを襲う?
「何が目的だ? 殺したければ殺せばいい。但し、僕には金を取れるような両親も親戚もいない。誘拐なら他の人間をお勧めするよ」
「何を言っている? 昨日、説明したはずだ。私は桜の死に神。神である私には俗世間の通貨になど、興味もなければ、搾取する必要もない」
「くそう誰だ? 精神病院からこんな患者を脱走させたのは」
「信じられないのも無理はなかろう。しかし実際にもう『事』は起こっているのだ。黙って私に付いてくることだ。そうすれば、私の言うことを嫌でも理解することになるだろう」
僕は貧乳少女によって、駅前通りを人の流れに逆らって歩かされている。喉元には、さっきから冷たい刃先が当てられたままだ。僕の命はいま、この少女の掌の中にある。刃物のひんやりとした感触が、恐怖をより一層煽った。
途中ですれ違ったサラリーマンが、僕を汚いものを見るような目で一瞥した。色々と弁解をしたいが、果たして見ず知らずの人間に、この状況をどう説明したらよいものか。
「生身の人間に大鎌は見えないって、じゃあこの状況を、さっきのサラリーマンには、どう見えたんだろうな。まさか恋人同士のじゃれあいには見えないだろう?」
「そんなことは知らない。大方、電車ごっこをしているようにでも見えたのでしょうよ」
「運転手が死に神の電車なんて、絶対に乗りたくねぇよ。どこに連れて行かれるんだよ、その電車」
「……ここよ」
果たして死に神電車の終着駅は、見慣れた近所の公園だった。
蛸の滑り台に、人のいないブランコ。刈ったばかりの青臭い芝生の匂いが鼻先を掠める。夏の匂いだ。平和そのものの真夏の匂い。その平和な公園に悲しいかな、僕は刃物で脅され連行させられたのだ。
「何だよ、こんな所に連れてきて。ブランコに揺られながら、別れ話でもしようってのか?」
「ふん。あながち間違えてはいない。何の特技もない調子に乗った平凡な高校生が、神の怒りを買って首と胴体がサヨナラする話なんて、なかなかシュールで笑えそうよ」
ごめんなさい。調子に乗りました。
「最初に言っておくけど。いくら私がスレンダー美人だからって、邪な気持ちを抱かないことね。それは思い上がりというものよ。何せ私は下等種族である貴様ごときには、決して手の届かない高貴な存在なのだから」
「お前の寝言は聞こえたが、あいにく貧乳には興味はない」
「おっと手が滑った」
殺気の籠もった刀身が僅かに引かれ、喉元にできた傷口が朱に滲んだ。虫けら如き命など、私の意思ひとつで簡単に殺してしまえるのよ。そう言われているみたいだった。
「次にその単語を口にしたら、貴様の首が牡丹餅のように、地面に転がることになる」
「ごめんなさい。また調子に乗りました」
「身のほどを知れ、下等種族め。……まあいい」
死に神は、桜色の大鎌を地面に下ろした。刀身が地面に落ちると同時に、まるでボウリングの玉でも落としたかのような、重量感のある音と振動が足の裏に伝わった。地面には大鎌の刀身が半分くらい埋まっている。首から刃先が離れたことで、実質的に僕は解放された形になった。
「拘束しておかなくていいのかよ」
「別にお前を拘束するのが一義的な目的ではない。この公園に連れてきた時点で、既に私の目的の半分は達成されたと言っていい」
「どういうことだ?」
「うーん、そうだな……」
桜の死に神は腕を組んだまま、宙を見つめた。
「時に貴様、悪霊という存在を信じるか?」
「ごーすとぉ?」
僕は曖昧な返事をしながら、目の前の曖昧な存在を指さした。
桜色した神サマは、チッと舌打ちした。
「何度も言うが私は神だ。悪霊じゃない。悪霊と言うのは、例えるならこの世に生きたものの廃棄物、つまりはゴミなのだ。生き物がこの世界で言うところの『死』を迎えると、存在そのもの、つまり『魂』が肉体から離れる。魂は私たち『死に神』によって導かれ、次の物質へと転生する」
死に神は公園内の花壇に近づくと、蕾のままのチューリップに、大鎌の刃先を向けた。
「それは草木や、鉄などでできた構造物なんかも同じだ」
ふむ。言っていることの大半が理解できない。
「この世の全てのものは生きている。たとえ呼吸や光合成をしなくても、時間の経過と共に姿形を変えるものは、全て生きていると定義される。そして極稀に、この世への執着があまりに強いが故に、我々死に神による転生を拒否する魂がいるのだ。それはやがて腐敗し、形を変え、新鮮な魂を喰らうようになる。それを私たちは悪霊と呼んでいる」
「魂を喰らう……悪霊?」
「悪霊にとって新鮮な魂は、食料であり栄養源なのよ。そして悪霊は、嫉妬や怨嗟などの想いの強さと特性に応じて、種々の能力を身に付ける。そのひとつに自分の姿を任意に変えることのできる能力、『擬態』がある」
「なるほどな。つまり悪霊と呼ばれる化け物がいる、と。信じる、信じないは置いといて、とりあえずは飲み込んだ。それで? その悪霊と僕がここに連れてこられたことと、どういう関係があるんだ?」
「どうやらお前は呼び寄せるのだよ」
「呼び寄せる? 何を?」
桜の死に神は腕組みしたまま、指先を小さな顎に当て思案顔をしている。
「時にお前、最近妙な噂を聞いたことはないか?」
何かに思い当たったらしく、彼女は首だけを僕に向けて脈絡のない質問をした。
「妙な噂? どんな?」
「公衆電話が云々って内容なんだが……」
「あぁ、それなら聞いたことがあるぞ。誰にでもどこにでも繋がるっていう公衆電話。聞くからにデタラメっぽい噂な。都市伝説だろ」
何に納得したのか、彼女はうん、うん、と何度か顎を深く引いた。
「そうか。じゃあ、お前。あそこにあるものが見えるか?」
桜の死に神の指先は、公園の中央、蛸の滑り台の脇に立っている鉄塔を指していた。その鉄塔から水平に伸びる防犯灯の下に、最近までは無かったはずの、電話ボックスが設置されている。既に太陽が昇り切って周囲が明るいにもかかわらず、未だに防犯灯の灯りがチカチカと明滅を繰り返している。
「見えるも何も、全くもって話が見えないんだが」
「見えないのか?」
「何も見えない。ただ電話ボックスがあるだけだ」
電話ボックスの中には人の姿があった。誰かと通話をしているらしく、口元が細かく動いて見える。どこか見覚えのあるシルエットだった。
膝上一〇センチの赤地に黒いチェックのスカート。白いブラウスのボタンが、はち切れんばかりのバスト(Fカップ)。
「なぜ彼女がこんな場所に?」
「そうか。やはりお前には見えるのだな、あの電話ボックスが」
「あん? あの電話ボックスが何だって――」
擬態能力を持った悪霊。
公衆電話の噂。
無かったはずの電話ボックス。
「まさか……」
「そう、あれこそが噂の元凶。指名手配中の悪霊、『公衆電話の悪霊』だ」
刹那――。
電話ボックスが上部から溶け出し、中にいる彼女(竜峡小梅)を飲み込んだ。それはまるで、アメーバが餌である繊毛虫を補食するかのようだった。




